日本の西洋科学への賞賛やその結果は、しばしば西洋の
それらを超えたものを生み出しており、またそれと同じように、
多くの西洋人が日本人以上に日本やアジアの文化のなかに
ある深い哲学や瞑想実践などに尊敬の念を示しているの
です。
科学に熱い視線を寄せる日本の人々は、しばしば科学と
瞑想は相容れないものと考えますが、それは誤った姿勢の
ように思えます。現代、非常に数多くの西洋人が日本そして
アジアのもっとも重要な世界への貢献として瞑想やそれに
関連したさまざまな哲学的理解に注目しているのです。
たとえば、禅は、他の瞑想実践と並んで、西洋の人々や
西洋の文化、学問に深い影響を与えており、熱心に研究
する価値のある対象とみなされてきました。ここ20年間の
間に、1000を超えるほどの科学的文献が公にされ、その
心理学的、身体的効果とともに、多くの心理学的、身体的、
生化学的作用が探求されてきました。
そして、トランスパーソナル精神医学やトランスパーソナル
心理学のような新しい研究分野が現れ、瞑想的な諸実践
から生じる重要な体験の意味についての研究が盛んに
なされるようになってきています。
しかし、驚くべきことには、こうした研究は日本ではほとんど
なされておらず、いままでの有意義な成果も日本の学者
たちにはほとんど知られないままになっているのが現状
です。それゆえ、瞑想研究の豊かな成果を日本の学者たち
の手元に届けることで、必ずや重要な貢献をなすにちがい
ありません。
この領域においては、科学者でありながら、実践家でも
あることが大変に重要なのであり、西洋にもたらされた
瞑想というすばらしい贈り物のために、日本からの計り知れ
ない恩恵に、西洋の科学、文化が少しでも報いることが
できればと願っています。
ロジャー・ウォルシュ
(カリフォルニア大学・精神医学・哲学・人類学)
率直に、自分としては、心理学はあくまで外側から学ぶに
とどめたい。これはまだまだ思想でしか扱いにくい。本来の
心理学らしい心理学ほど、心理学では「心理学じゃない」
というが排除がつよいという、皮肉な逆転がある。
縦割りがあるので、なかなか互いに相容れていないし、
逆にいえば、その構造があるために、ウィルバーみたいな
統合的志向性は扱いにくい、という現実的な状況がある。
これは10年やそこらでどうこう変わるものでもないだろう。
臨床や、発達なら、結び付けやすいといえる。現在のオー
ソドックスな心理学というのは、行動の予測と統御という、
きわめて機械論的なパラダイムに立っており、なまじ自然
科学よりも無駄とも思える科学主義にこだわっており、
それが大したこととも思えないが、どういうわけかそうある
ことに過剰な自信と自負をもっているらしいので、そっと
しておくことが無難である。狭量で硬直したものがある。
いずれにせよ、<こころ>というのは構成概念であり、
素朴心理学、と考えられている。外面として共通するとされる
表層しか扱わないのであり、方法論上のこだわりもあるのか、
それ以上の考察に積極的なわけではない。内面は扱わない。
内面というのは、イメージや夢や無意識、心的エネルギー、
コンプレックス、魂的なリアリティだが、学問としては、ユング
の系統において、一番あからさまに顕著に語られている。
あとは、意外なところで、気のコミュニティ、その周辺の東洋
医学すべてが、実は心的エネルギーを扱っているのであり、
臨床とも接点がある。これは、ノンローカルな心を扱ってる。
それ以上の、ものすごいディープな領域もある。それは、
仏教学や神学やトランスパーソナルの思想になる。
いずれにせよ、考えれば考えるほど、オーソドックスな
心理学ほど、本来の心を排除しているという、皮肉がある。
心ではなく行動を扱ってる。生態学に近い。そこを勘違い
して心理学に妙な期待を抱かなければ、不幸になることは
ない。
鍼灸というのも、刺激による生理的活性化とか、科学的な
裏づけで説明するものもあるが、あれも気の次元にアクセス
している。微細身体(サトルボディ)というものがあり、これは
誰でも簡単に気感として感じられるようになるもので、それ
からやればわかるものだ。経絡やツボというのも、気の次元
のネットワークやチャネルで、西洋医学とは対応してない。
鍼灸というのは、肩こりなどの不定愁訴とされるもののほか、
精神的な意外なものにも、かなり劇的な効果がでる。つまり、
心的エネルギーなのだ。
このツボを指でたたく簡易的なものとして、精神療法に応用
したのが、「TFT(思考場)療法」と呼ばれるものだ。ほかにも
イメージ点を操作するものもある。
こういうものも、生物フォトンの変化を計測していけば、その
相関関係から間接的に、作用メカニズムが同時追跡して
いけるものだ。ウィルバーも分かってると思う。
とにかく、実体的であることは、体験すればわかる。
それはそれで、特に鍼灸は効果があると実感したわけだが。
瞑想というのは、無意識を緩めていく。そうして拡張していく
もののようだ。といってもこういうものは、そこまで体験しない
と、これまでの経験上、言葉だけではどういう感じのものが、
まさにそれにあたるのかはわからない。
やぱり、瞑想が基本だということだ。
「無境界」というセラピー論も、ずいぶん面白いことが書いて
ある。ああいうのも、現代人には有効なはず。
やっぱり、
心理学板に立てたのが無理があったよな、と思う。
いってみればこれは、
ドイツ文学、ロマン主義みたいな要素もあるわけで、
それと科学なんて、相性が悪すぎる。
ウィルバーは、もっと現代的に努めてると思うが・・・。
それでもそういうヴィジョンはあるわけだ。
水と油みたいなところは、やっぱりあるのだ。
それくらいの相性、価値観の違いなんて、
世界にはいくらでもある。現代の日本がそれだけ
単一的なだけなのではないだろうか。
ここの文脈に、無理してあわせようということが、
土台無理な話だったということだ。
意識が、あるかないか、とか言っているんだから。
イマージュを深めていくようなものじゃない。
あまりこういうことに固執するのはやめたい。
いい加減、病的だと思われるからだ。
唯物論的な世界観で説明できないことはなんでも
脳内の妄想だとしか受け取れない人がほとんどだ。
そういう二元論でしか考えたりできない限界がある。
とくに心理学では人間がいかに自身の心理に自覚
できてないかを疑うことを義務付けられている。
そのわりに自身の寄って立つ基盤だけは疑わない
というパラダイム的限界がある。であるから、その
基盤から変則的事例と表現されるものについては、
ほかの説明原理も担保していく必要があり、トランス
パーソナルのように専門化せざるをえない。そういう
ものは、それだけ珍しいことには間違いない。
私から言わせれば、脳内の妄想のほうが珍しいもの
であり、実感も興味もわかないわけだが。そういうもの
の一部も、超心理学でわかった特性や、トランスパー
ソナルでわかった変性意識の世界を知れば、より高次
の説明原理で統合的に理解できるところはあるかも
しれない。トランスパーソナル以外は、次元性の違いが
なく、基本的には平坦に捉える説明原理しか持って
いない。そういう高次の統合は、最初からあきらめて
いるので、そういう説明に積極的ではないところがある。
ニュートン的世界観ですべてを考えようとするか、
それを包括した上でアインシュタイン的世界観にふみ
こんで考えることもするか、その違いといえる。もっとも、
質的にこえているところはあるため、その例えが妥当
だとは思えない。
そういう結論が見えてる議論はらちがあかないので、
素直に思想として自分でやることだとおもう。はっきり
いって、トランスパーソナルだけでも、それをちゃんと
究めようと思ったら大変な、そういうものにはなって
きてる。
もう数十年の蓄積があるので、海外には文献もたく
さんあるようだ。それを歴史的に追跡するだけでも、
もはや専門的にやらなくてはならない段階にはきて
いるようだ。
深めようと思えばキリがないところはある。
自分としてもとんだ時間の無駄をしてしまったという
ことだ。ほかに見るべきところはたくさんある。気分
転換に興味あるほかを読んでいたら、だいぶ気分が
変わった。やっぱり、同じ興味を共有する人と探求
することだ。みんな熱心に興味持ってるし、それが
有意義といえる。
興味のある同好者が、理科系と文科系をこえ、あから
さまに超心理学などを、熱心に議論できる場が次々に
生まれている。そういう時代になっている。インターネット
もある。それだけでもありがたいと考えるべきだった。
「新しい科学的真理が勝利を収めるのは、
反対者を説得して新しい光が見えるように転向させること
によってではない。ゆくゆくは反対者が死に、
新しい考え方に馴れた若い世代が育ってくるからである」
マックス・プランク
きっと、ここは自分が興味をもつべきものに他人も興味
をもってくれなく、ほかの興味にひかれていく人が、気に
なってしかたがないのだろう。他人の興味に干渉しない
と自分の興味が維持できない(またはそう思い込んで
いる)不健全な構造になっていると思われる。それを
一言で言えば、嫉妬感情、ということになる。
ほんとに自分に熱中している人は、他人なんて気になら
ない。大体、ネットでうんぬんウォッチしている習慣がある
時点で、その人というのはどこかおかしいところがあると、
それに気づくことだったといえる。井戸端会議と本質的な
大差はない。
世界はもっと豊穣だ。
自分をどこか無理している人は、他人におなじ無理をさせ
ないとそれが正当化できないのではないかと不安になる。
そうして自分の正当性をあちこちに探し、あちこちに必要
以上に他人へと発露させようとする。そういう過剰な滑稽さ
の矛盾に、本人は気づいていないところがある。
自分もここの特殊性に洗脳されかけ染まりかけていた。
真に受けてると息が詰まるだけだ。トランスパーソナルの
先駆者たちと、新しいジェネレーションを見ていればいい。
自然や、芸術や、思想など、新しい空気を取り入れることだ。
こうやるべき、と思ってやるとろくなことがない。
人にはタイプがあり、人それぞれ違う。
肩の力を抜いて、自分の本来のことをやることだ。
自分の興味を抱いたその直観を信じることだ。
相性を見抜かないと、どうしようもない。
心理学だけが唯一の心の説明ができるという錯覚から
抜け出すことだ。心を取り扱わないといっておきながら、
心は行動であると意図的にミスリードしているところがある。
精神世界への科学的探求を、妨げているところがある。
その「平坦な世界(フラットランド)」からなんとしてでも
抜け出さないと、精神世界は見えてこない。
なにごともトライアンドエラーはある。
だからといって、探求できないわけではない。
そういうフロンティアを目指すチャレンジャーも
一定の割合ではいる。
「考古学」のようなタイプの役に立たない純粋研究に
ロマンを抱けない人は、こういうことには共感できない。
そういうフロンティアの知見に感銘を受けるかどうかだ。
これは現代考古学の特徴と似ている。そう考えれば、
なにをやろうとしているかが俄然、わかりやすくなる。
エジプト古代文明において、ピラミッドが高度に数学的な
設計をもっており、それは大地のエネルギーを増幅し、
魂を天界へと運び上げる、史上最大のモニュメントだった、
と聞かれてそこに想像力を働かせ、ピンとくるかどうかだ。
それがピンとこないと、ただの未開人の不可解な徒労
としか思えなくなる。エジプト考古学は、不可侵な計測
技術によって、旧来のイメージを刷新していった。
生物フォトンの研究で、電荷の場所が中国医学の場所
と一致していたと聞いて、驚きを感じるかだ。現代におい
て、新しく発見される未知のものも出てくるはずだ。
いくらでも既存の常識的な固定観念が刷新される可能
性は眠ってる。そういう可能性に心をオープンでいられ
るかだ。
ユングだって、「意識の考古学」の側面はある。意識の
スペクトルとは、「発掘しうる地層」に他ならないのだ。
そういうイマジネーションがその原動力になる。考古学
のように、それは現在形でありうるのだ。
「ディスカバリーチャンネル」を見れば、前世記憶や古代
シャーマンをテーマにしたものだってある。日本と違い、
アメリカの番組は、それに真正面から真剣に取り組む。
前世問題では、アイスランド大学超心理学教授のハラ
ルドソン、シャーマンでは、超心理学者クリップナー、
トランスパーソナル精神医学者グロフ、一線の研究者
ばかりだ。体外離脱の実験もある。
たまに批判的な意見も入るが、全体としてはこうした
「意識のフロンティア」の探求に対し、かなり好意的な
製作態度をしている。
日本ではここまで真面目な体裁の番組はなかなかない。
例外的に、森達也のテレビ作品があると思っている。
こうしたテーマを専門的に語れる、日本の専門家がまだ
あまりいないということだ。
*
1905年、「トランスパーソナル」という用語が登場したのは、
哲学者・心理学者ウィリアム・ジェイムズの講演記録だそうだ。
1942年、ユングの翻訳家たちが、ユングのドイツ語の
訳語に、この「トランスパーソナル」を使用し、これに追随
するものとなったそうだ。
1960年代半ば、人間性心理学の非公式の集会にて、
グロフは、マズローやフランクルとともに、「トランスパーソ
ナル」という用語を提案したという。
1968年、人間性心理学同好グループは、「第四勢力」
としてこれを宣言したという。
1977年、ボストンで「トランスパーソナル心理学会」が
初めて国際会議として開かれ、回を重ねるごとにその関心
領域を拡げていったという。
1978年、第4回国際会議の際に、心理学の枠組みを超え、
「国際トランスパーソナル学会」(ITA)が発足したという。
この中には、フリッチョフ・カプラ、フランシスコ・ヴァレラ、
カール・プリブラム、デヴィット・ボーム、エリザベス・キュプラ
ー・ロスなど、さまざまな専門家が集まり、その中心人物が、
自ら禅を体験したケン・ウイルバーだったという。
1979年、コルドバ・シンポジウム「科学と意識」を受けて、
1984年、筑波大学で「科学・技術と精神世界」と題された
日仏協力シンポジウムが開催され、デヴィッド・ボーム、
ライアル・ワトソン、カール・プリブラムなど、が集まったという。
その頃、日本では吉福伸逸氏を中心に、菅靖彦氏、岡野
守也氏が、共同でトランスパーソナルの翻訳本を精力的に
出していった。彼らの多大な貢献がなければ、今ほど浸透
しなかったということだ。
1985年、国立京都国際会議場で、「第9回、国際トランス
パーソナル学会」が「伝統と科学の融和」と題されて開催
されたという。当時まだ日本では「トランスパーソナル」という
言葉はあまり知られていなかったにもかかわらず、ユング派
の河合隼雄氏が中心になったおかげで多くの関心を集め、
日本における本格的な紹介への足がかりとなったという。
この会議には、ヴァレラ、キュブラー・ロス、グロフなど、
多数が参加したという。
『宇宙意識への接近―伝統と科学の融和』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393366042/ 河合隼雄・編、吉福伸逸・編
これを機に、しばらくはまだまだ時期早尚という困難な面が
続いたが、日本でも主要な理論書の翻訳によって、その実践
も行われてきたという。
1991年、筑波大学で日中友好の「気のシンポジウム」が
行われ、その流れで「人体科学会」や「気の科学」が始ま
ったという。
1990年、第9回「日本心理臨床学会」で、日本のアカデ
ミズムでの、初めてのトランスパーソナルの発表があった。
満員になり、手応えは十分だったという。
1992年、「アメリカ心理学会」において、第32部門の人間
性心理学会の活動のなかに、トランスパーソナルの分野が
組み入れられている。
1994年、アメリカのトランスパーソナル関係者が提出した、
「心理宗教的」ならびに「心理的霊的」の項目が、「アメリカ
精神医学会」の、「DSM-IV」に収録されている。
1996年、「日本トランスパーソナル学会」の第1回創立
会議が、南伊豆で開催されたという。
*
ここまで発掘するのが大変だった。なかなか情報がまとま
ってない。微妙な年代としては、間違っているところがある
かもしれない。
アメリカのトランスパーソナル心理学会の会員数は、1990
年代初めに、約3000人になっている。すでに、四半世紀に
およぶ歴史や発展があるということだ。
注目されるべき、数々の知見が積み重ねられており、
わが国でも、本格的に取り組む必要性がますます高く
なってきた、ということだ。
一応、100年前から、ちゃんとした流れがあるわけだ。
アメリカでも、まだまだ「ものすごくマイナー」なことは
確かだろうが、アメリカ心理学会にも、組み入れられて
いるし、アメリカ精神医学会のDSMにも組み入れられ
ている。その意味では、「公式」ではある。
こういうことを日本の心理学の人では、「まったく知らな
かったらしい」あるいは「知っててもあえて言っていない」
というのは、どこか不自然というか、信じられない話だ。
とくに、1985年に、日本でかなり大きなイベントがあっ
たらしい、というのは驚きだ。
河合隼雄氏が中心だったとは。これを日本の心理学者
で知らないひとはいないはず。
日本のトランスパーソナルは、アメリカにこんなにも遅れ、
やっと上陸してきたという状況なんだから。
これほどあまりにも免疫がなさすぎるのは問題がある。
それもこれも、言っていないことが問題だといえる。もっ
とも、最近になっては、言われてくる傾向にあるようだ。
これからは、超心理学すら、中村先生や、石川先生が、
メディアに登場して、顔を出していくということもあるんだ
ろうが。
意識に限らず、アメリカの「ディスカバリーチャンネル」で
取り上げるものにはみな、「フロンティアへの探検」に
対する、大きな興味というものがある。これはアメリカの
文化の懐の大きさ、長所にもなりうるところだ。奥地を探検
するのと、意識のフロンティアを探検するのを、同じ目線
でとらえているわけだ。この点、「未知」に対する感性が、
日本より健康なところもある。
日本は「北海道」などを除いて、未知が少ない。そういう
国土に住んでいれば、そうした想像力が沸きにくいのも
無理はない。
探検もせずに、「・・など大したことない」「・・などあるはず
ない」などと、最初から決めつける人々ばかりだと、フロン
ティア・スピリットは完全に失われてしまう。
きっと、考古学とか人類学の人とかなら、
こういう価値観は素直に共感しやすいんだろうが。
そういうものに似ているとはいえる。
そういう研究では、もっと役に立たないものはいくらでもある。
それに比べたら、臨床的効果もみとめられるものだ。
まああまり説得するつもりはない。
やりたいひとがやればいいものだ。
ロマン主義だ、などと批判されがちだが、
そういう意味では、遠くを想像することは大切だといえる。
それは宇宙であり、古代であり、同時に今でもある。
永遠、ということかもしれない。
そういうまなざしを、一方では忘れないことだろう。
永遠の空間、永遠の時間、永遠の今、
それがトランスパーソナルということかもしれない。
古いものが、新しくよみがえることもある。
あまり他人の狭量な考えに左右されると、
精神の余裕がなくなってしまうものだ。
はあ、自分も免疫がなかっただけということだ。
調べれば調べるほど、
昔からあって、それなりにうまくいっているものだったとは。
これを取り越し苦労といわずしてなんといおうか。
ありもしない不安に取り付かれていただけといえる。
結局、人間というのは、思い込みの産物ということだ。
勝手に妄信的に思い込むから、おかしくなる。
思考が入りすぎるから、おかしくなる。
そういう意味では、宗教というのは、おすすめできない。
もっと静謐(せいひつ)にとりおこなうべきものだ。
神社の、奥深い静かな森の、砂利のなかの足音だけが鳴る、
肌寒い朝もやを想像すればいい。
そういう感性こそ、日本的なエッセンスの良いところだと思う。
そういうものを見過ごしがちだったといえる。
大きな神社の気場というのは、非常に清々しいものがある。
鹿島神宮であり、熱田神宮であり、出雲大社でもある。
出雲大社は行っていないが・・・。
雰囲気というのもあるものの、こまかい気感として、
ここにはなにかある、というのが明瞭にわかるようになる。
ものすごく浄化されるようなこともある。
神社で、森で儀式を執り行うということは、
そこに細かい存在作用が降りてきて介在するものだ。
それが本物かは感覚としてわかるものなのだ。
最初に居合わせたときに感じたときは、驚いた。
今まで、そういうものは形式がすべて、と思っていたからだ。
まさか現代にまで、そういうものがライブなものとしてあるとは。
それを感じてか、執り行っている人はいるということだ。
本物の神社というのは、そのまま開かれているにも関わらず、
ものすごく浄化された場だと感じるわけだ。
そのよさが、ひとたび、わかってしまえば、
宇宙のほんとうの奥行きというものは実感として
得られるものなのだ。
そうしたら言葉だけの思い込みが全然、
ピンとこないものになる。
そういうものを一度も感じたことがない人というのは、
それはいくらなんでも思い込みだと疑ったほうがいい
のではないだろうか。
自殺しようと川に飛び込んで奇跡が起こって助かった、
とか、聞いたこともある。それで宗教に結びつくのは、
どうもピンとこなかったが、たぶん本当の話なのだろう。
そういう体験に裏付けられていない、条件付けだけの
独善的な信仰というのは、どこか本物でないように
思えてしまう。宇宙中心でなければならない。
人間の道理をこえているところもある。
そういう奇跡、臨死体験というのも、酸素の欠乏とか、
なんらかの脳内機序もその過程にはあるものなのかも
しれない。ただ、その体験の内容によっては、あきらか
にそれ以上の次元の、創造的な、価値あるものもある。
それは特定の宗教に寄らず、起こることもある。それを
病理化するしかなくて、進化の副産物のような色物扱い
して、はたしてそれでいいのか。そういうものはそういう
もので、次元が違うものとしてあるのではないか。
ま、臨死体験なんて、下手すれば戻ってこれないわけで、
そういうものを万人が体験できるわけではないのは確か。
そういうものを興味本位で読んでも仕方ないところはある。
やっぱり純粋に、大きな神社の、本物の清浄なる気場を
感じとるということが、一番、間違いがないところがある。
神道というのは清浄なるものがある、と、直接的には
感じるものがある。あまりそこに余計な宗教的背景なりを
付着させているつもりはない。さしあたってはオープンに、
気場を浴びてみるという、直接的な味わい方もあるという
ことを言いたかっただけだ。気功をやって気感がわかる
ようになってから、そういうことに詳しい人に案内して
もらえば、それなりにわかるものだと思う。
まあ、ほんとのところ、トランスパーソナルがどうこうという
より、それを知るよりまえから、霊的なるものとの接点は
あったわけで、ほかにこれというものがなかったという以外、
これに肩入れする理由があるわけでもないのだ、が。
一番、中立的で緩やかに感じたから、というのもある。
そういう体験をしない限り、これに関わって、あまり得する
ことがあるわけではない。トランスパーソナルというのは、
そういう体験に痛切なるものがある人が、なんらかの
ボランティアとして、宗教を超えて、やっているという面も
あるような気がする。体験的のない人が、これに関わって、
なにかその意義がつかめるとは思えない。
はっきりいってほかにこれといったものがなかっただけで、
これがすべてと思っているわけじゃない。こういうものは、
とかく学問的にやれば遠回り的な印象を受けるのはしかた
ない。ただ、それだけ、学問的にやるものがほかにない
ような気がするのだ。それだけでも貴重なものはある。