私がこれから言おうとすることは「許容限界」を超えたもの
だと感じるかもしれない。まずはっきりしているのは、信じら
れるかどうかの限界だが、たぶん、礼儀作法の限界もある
だろう。
というのも、私は、進歩とは幻想であると言おうとしている。
未来の進歩が幻想だというだけでなく、過去の進歩も幻想
だと主張しようとしている。この過去の進歩の部分には条件
をつけねばならないだろうが、本質的には正しいと思って
いる。ユートピアとは夢である。進化とは神話である。
もし、西洋の人間が、この進歩と進化という神は偽者の神
であることを見れば、言いかえればフィクションであり、一度
も起こったことはなかったし、これから起こることもないと
理解するなら、そのときに近代という時代は終わりを告げる。
というのも、この考えは近代にとって最重要の土台をなす
ものなので、これが崩れてしまえば、新しい建物に建て
替えるしかないからだ。同じ理由で、この考えに異議申し
立てをすることも難しい。ある時代全体の土台となっている
考え方を解体するというのは容易なことではないからだ。
生態系の危機やエネルギーの枯渇、システムを分析する
人々は、コンピュータのデータを総合して、私たちは破滅
へのコースをたどっていると言う。ダーウィンを哲学化した
ベルクソンでさえ、最終的には、人間は「自らの巨大な進歩
に押しつぶされている」という見方に至ったのだ。サルトルは
深みのある思想家ではないが、現象を見る目は鋭いもの
がある。そして、彼の仕事である実存のレベルにおいて、
「希望なしに生きることを学ばねばならない」と忠告してくれる。
だが、未来が悲惨なものであっても、過去はよかったので
はないか。現在までの進歩、泥の中の生命体から、知性に
いたるまでの進歩は、やはり大した記録なのではないか。
それを見てみよう。
私は近い過去から始めよう。ホモ・サピエンス自身の経歴
である。進化論の信奉者は、人間は大きなデザインにそって
来ていると言う。人間という種は猿人に始まり、未開の原始人
となり、ついには今のような知的生物となった。こういう見方
はあまりにも当然のこととされている。
そこで、一流の博物館の館長が「石器時代から現在に至る
歴史は、退歩の歴史ですね」と言ったとしたら、警句をひね
っているのだろうと思うか、あるいは考古学の研究には自信
のあるその博物館を自慢したいと考えるだろう。たぶん、
ネアンデルタール人の脳が現代人よりも大きいということが
発見されたので、そういう考えはもっとまじめに受け取られ
るようになっていくだろう。
また、レヴィ=ストロースの評価では、人間と自然とのバラ
ンスという点でいえば、それが結局は最も大切な問題に
なるのだが、人間の黄金時代は、新石器時代のあたりに
あるということだ。もし、エコロジーという観点から知性という
観点に変えてみたとしても、人間は特に進歩はしていない、
とレヴィ=ストロースは言うのである。ある意味では、彼の
研究のすべては、「野生の精神」は現代人と同じくらい複雑
であり合理的であることを明らかにするためのものであった。
そして、彼は最後までついていき、理性にとどまらず、その
理性の使い方を決める動機というところまで見ていくと、
そこには退歩が見られるという。その分析的思考(人間が
やっているような種類の)は、その中に見えざる暴力性を
秘めているのであろうか?と彼は問う。
あるいは、人間はエデンの楽園に対して、わけのわから
ない怒りにとりつかれているのだろうか。人間はかすかに
エデンの楽園を記憶しており、それを喪失したことを無意識
では知っているのではないか。その理由は何であれ、人間
はその失われた無垢の世界を思い出させるような風景とか
社会に出くわすと、襲い掛かり、それを滅ぼしてしまう。
レヴィ=ストロースは自分自身とその学問も例外とはして
いない。西洋人のもつ知への欲求、底の底まで分析的で
客観的である知を追い求めるということは、そこに暴力性
を秘めているのだ。というのは、ものごとを分析的に知る
ということは、知ろうとしているものがどんなに重要かつ
複雑なものであっても、「対象」に還元するということである。
人間の過去だけではなく、それを超えて生命の歴史全体
にまで目を向けてみよう。すると、古典的、ダーウィン的な
意味での進化の問題に至る。これが核心の問題なのだ。
というのも、進歩と進化は、生物の進化を前提としている
からだ。その基盤であり、最も重要な基礎なのである。
生物学者のルイス・トーマスが言っているように、「進化
とは、現在もっとも影響力のある物語であり、普遍的な
神話ともいえるものになっている」。
人間の過去だけではなく、それを超えて生命の歴史全体
にまで目を向けてみよう。すると、古典的、ダーウィン的な
意味での進化の問題に至る。これが核心の問題なのだ。
というのも、進歩と進化は、生物の進化を前提としている
からだ。その基盤であり、最も重要な基礎なのである。
生物学者のルイス・トーマスが言っているように、「進化
とは、現在もっとも影響力のある物語であり、普遍的な
神話ともいえるものになっている」。
マイケル・ポランニーの『個人的知識』は、ノーム・チョム
スキーがかつて、科学哲学について書かれた最良の本
だと推薦していた本である。その中でポランニーは、ネオ
・ダーウィン主義への批判を、次のようなはっとする言葉で
始めている。「私は進化論に反しているひじょうに初歩的
な事実を述べようとしている。こうした事実が曖昧になって
いるのは、ほかでもなく、天才的な偏見によるのである」。
ここで、ポランニーの議論を詳しく再現する紙幅はない。
要約するだけでよしとしよう。自然の歴史は、「高度な
組織化のレベルへ向かって、累積的に変化が積み重なっ
ていく傾向をもっている。その中でも、知覚や意識の能力
の深まり、思考能力の誕生は、最も歴然としたものである」
「この壮大なプロセスの各段階において、前の段階では
考えられない、ある新しい働きが生まれている」たとえば、
「原則的には、量子力学は化学反応をすべて説明する
ことができるはずだが、それでも、化学の知識にとって
かわることはできない」。もちろん同じことは生物学と化学
との関係にもいえるし、心理学と生物学の関係などその他
もろもろについて当てはまる。さらに、
長期にわたる進化のそれぞれの段階は、意識が誕生した
ことと同じように、単に、適応のため有利だったことだけで
決まっているのではない。どういう方向に対して有利だった
のかということが問題だ。つまり、進化のプロセスにはある
一定の方向性があり、その方向にとって有利であったと
いうことなのだ。こうした、全体の秩序を決めているような
ものが、次々と新しいものを創造していくプロセスの背後で
働いている。このことは、自然淘汰の理論では見過ごされ、
否定されている。こうした全体を統御しているものを認め
るとすれば、突然変異と淘汰は、その本来の姿で理解でき
ることになる。つまり、それは単に、進化していく力を解き
放ち、支えていくだけなのだ。こうした進化を推進する力
によって、進化における大きな達成が成し遂げられてきた
のである。
人間が誕生したことは、現在、物理学と化学で知られてい
る原理だけでは理解することができない。そのほかに何
かがある。これは生命力なのだろうか。生命力とは我々
にとって当たり前の考え方である。それを無視するのは、
頭が固く時代遅れの機械論者だけだろう。
物質的なシステムからどのようにして、意識と責任感をも
つ人間というものができあがったのか、それについて何
もわかっていないというなら、人間の起源について説明
できていると考えたがるのはどうかしていることになる。
ダーウィン主義は、百年もの間、人間の起源という問題
から目をそらさせて、進化の「条件」を研究してきた。そし
て、進化が実際に何をやっているのかを見過ごしてきた。
進化は、一挙に何かが出現することだと理解するほかな
いはずである。
この最後の言葉、「出現(エマージェンス)」は、ポランニーが
ダーウィン主義に代わるものとして提示しているものをよく
表している。それは、ポランニーも認めている彼の先駆者、
ロイド・モーガンとサミュエル・アレクサンダーにつながって
いくものである。
ポランニーの哲学に関する仕事はすべて、還元主義に対抗
することに向けられている。還元主義とは、高次のものを
すべて低次のもので、全体を部分によって説明しようという
試みである。こういう還元主義を否定することについては、
ポランニーは確実な議論を進めている。
問題は、ポランニーが出している代替案である。出現という
のはいい。しかしどこから出現するのだろう?どこから、彼が
繰り返し言っている「全体を支配する創発的な原理」は
やってくるのだろうか。もし、より単純な、先行するものが
それを説明できないというなら、「無」、何もない空間、という
ほうが、その源としてもっとありそうになるのだろうか。源
として「無」や「何もない空間」があるからこそ出現という
こともあるわけだ。「ただいえることは、ある時点では何も
なく、そして次に何かがあるということだ」と、ホイルは、
彼の定常状態理論では水素はどこから来たのかという問題
について、述べている。語源からいえば、出現とはそれ
以上のことを言ってはいないのである。
無から何かが生まれることがあるのだろうか。小川はその
水源より高い場所を流れるのだろうか。ここで話は、つねに
存在してきた、思考不可能の問題にぶつかる。ここまで
根源的な問題、その根本そして本質において存在論的な
感性に近づいてくる問題については、どんな議論を持って
きても決定的な答えとはなりえない。というわけで、私も
そういう議論には入らない。その代わり、この状況をその
まま描くにとどめる。
もし、出現ということが、小川はその水源よりも高い方へ
流れることはないことを示すのならば、より単純なものを
創造する原理は、より複雑なものを説明することはでき
ない、という意味だが、こういう考え方は、根源的なもの
の見方と一致しているのである。そして、始原的な見方は
さらに、何ものかが無から出てくることはない、ということも
示している。何事も無より創造されることなし。
このことは、進化とどういう関係があるのか。それは、時間
的な順序において、単純なものは複雑なものに先立つと
いう事実を否定するわけではない。最初、ウィルスのような
微小な生物が生まれた。それから、生存に役立つ身体的
機能をそなえたバクテリアが誕生した。それから、自分で
動くことができ、目的にそった行動ができる原生生物。
そして、多細胞生物ができ、性的な生殖システムをもち、
神経組織はどんどん複雑化し、感覚器官の発達は、その
環境世界とさらに深く関われるようにしていった。意識という
ものがどこでこの進化系列に入ってきたのか、よくわかって
いない。だが、思考そのものは言語とともに誕生したので
あり、それは人間に限られている。炭素測定法が徐々に
明らかにしてきたものごとの順番について、何も否定する
必要はないだろう。「創世記」はすでに、その創造の原理
について語っている。聖典やその注釈は、みなそのことを
語ってきたのだ。グレゴリオ・パラマスはこう言っている。
人間とは、より小さな世界の中に入っている大きな世界
であり、あらゆるすべてである一つの全体として集中した
ものであり、神が創造したすべてのものの縮図である。
だから、人間は最後に創られたのである。だからこそ
我々も最後の結論としてこれを語るのである。
生命の進歩を否定するどころではなく、伝統は生命の進歩
の理由を示している(もちろん、それ独特の説明のしかた
ではあるが)。小宇宙(ミクロコスモス)は大宇宙(マクロ
コスモス)を鏡のように映す。だが、その鏡は逆さまの鏡
である。ここでの結論として言えば、存在論的順序において
最初のものは、時間的順序においては最後であるように
見えるのである。
伝統が否定しているのは、より高いものが、より低いものの
後に現われるということではなく、より高いものは、より低い
ものによって生みだされるということである。そう否定する
ことにより、伝統は現代の支配的な気分に反対する。
革命から秩序が生まれる(マルクス)、イドからエゴが(フロ
イト)、原初の泥水から生命が生まれる(ダーウィン)。いた
るところで、反射的衝動のように、より大なるものが、より
小なるものから導かれている。だが伝統はこれと反対方向
に物事を見ている。
どちらの方向であれ、どんな違いがあるのか、説明のため
に、上を見るのか、下を見るのかでどこが変わってくるのか。
こういう問いをはっきりと立てる必要がある。そうでなけれ
ば、ここで失望させてしまうだろう。
私はこれまで、生命の起源という問題について人の度肝を
抜くようなことを言おうとしているぞ、とたびたび示唆してき
た。こうしたもったいぶった前置きがどんな期待を引き起こ
すものか、想像に難しくはない。塵から直接に形づくられた
のか?こうした期待がふくらんだあとの、驚きの答えという
のは、実はちっとも驚きではないのである。
進化の順序というものは否定されない。最初はまちがいな
くアメーバから始まった。生命はたしかに進歩している。
唯一の違いとは、一見すると二次的な問題のように思える
ことにかかわっている。つまり、そうした進化が実現される、
その方法である。ほかの全ての点については、いま支配的
な見方を承認する。そうすると、衝撃波とされていたものは、
実はさざ波にすぎないことになる。生命はたしかに進化する。
いや、そうではないのだ。ここで問題になっているのは、
枝葉の部分ではなく、またどういう意味でも二次的な問題
なのではない。なぜなら、進化論とは単なる年代記、年表
ではなく、学芸員が化石を年代順に並べていくことを意味
しているのではないのだ。進化論は、説明原理となろうと
しているものだる。進化論とは、人間にかかわるすべて、
人間の能力や潜在能力のあらゆるものが、一つのプロセス、
つまり自然淘汰によって説明できる、という主張なのである。
自然淘汰は、突然変異に対して機械的に働くものだ。これ
について、最近では最も著名なスポークスマンに語って
いただくことにしよう。「進化とは、自然淘汰が裁量してい
る巨大な『くじ』によるものである。それは、まったくでたら
めに引いた数字のなかから、わずかな勝者をめくらめっぽ
うに選び出す、こうした考え方はそれだけでも事実と適合
している。奇跡は『説明』されているのだ」。
この最後の「説明」という言葉につけられた括弧は興味深い
ものだ。それは、モノー自身が、ここで「説明」という言葉を
一般的ではない意味で使っていることを認めていることを
示す。モノーは、自分の心にあるその特殊な意味について
書いてはいない。だが、私から見れば、それは著しく普通の
用法から逸脱しているといえる。最初から進化論に対して
好意的な見方に傾いている人でない限り、モノーのいう
「説明」とは、まったく説明にはなっていないと思えるのだ。
彼の本を読み、進化論についていろいろと知ったとしても、
なお謎は残されたままである。
ここで、私がやろうとしていることをはっきりさせておこう。
なぜ、進化論についてこれほどのスペースを割いている
のであろうか。それは、進化論はまさにこのテーマに決定
的にかかわってくるからである。希望は人間の幸福にとって
重要だからという理由ばかりではない。希望こそが、現代
の思想が最も混乱し、誤っているテーマであるからだ。
その誤りとは、希望を集合的な未来、人生の質を高めて
いく未来の上におこうというところにある。こういう誤りが
生じた原因は二つある。一番目は、科学と技術がまざり
あったことであり、もう一つの問題が残っている。それが
進化論である。
私は進化論を、現代精神の本丸と呼ぶ。それは、現代精神
の観点からすれば、あまりに多くのものがそこに基礎をおく
ようになっており、希望そのものでさえも、これほどまでに
多くがつぎこまれている理論はほかにないからだ。このこと
だけでも、進化論について警戒する必要があるだろう。
欲望は、その浴する方へと証拠を都合よく解釈するという
ことを、私たちは知っているからだ。
平たく言えば、自然の中に働いている原理があり、自然淘汰、
それはより低いものからより高いものを生み出すように働く
と信じることができる限りは、私たちは希望をもつことができ
るのだ。神は復権したのだ。たしかに前とは違う神ではある。
だが「彼」もまた、ものごとがすべてうまくいくよう気をつけて
いるという点では、似てもいる。その神は、昔の神と同様、
スタートのフライングも妨げることはない。だが、最終的な
勝利は約束されている。私たちは、よき手によって守られ
ているのだ。
事実、最後の文は本当のことである。これまでの「希望」と
いうテーマが暗に示している。だが、この「よき手」は、
幸いにも、自然淘汰の手ではない。「幸いにも」というのは、
自然淘汰説のもろさを考えれば、そう言わざるを得ない
だろう。
ここでは、進化論についての本格的な論評に入っていく
つもりはない。私の個人的な評価とはこうである。現代精神
がこれほど少ない証拠の上に、これほど多くの信頼をよせて
いる科学理論はほかにないだろう。少ない証拠とは、その
理論を信仰しようという意志がないところで、その理論を
定立するために必要な証拠の量としては、あまりに些少
であるということだ。進化論の仮説は、その標準的な形に
おいては、現代の西洋人にとっては受け入れられた信仰
に近く、その仮説を信仰しようとする意志によってどれだけ
支えられているのか、見えにくくなっている。だが、ここで
その仮説を拡大してみるならば、そういう「意志」が、はっ
きり浮かび上がってくるのだ。
進化論支持者である生物学者の判断を見てみることに
しよう。ジャン・ロスタンはこう書いている。
私は、哺乳類は爬虫類から由来し、そして爬虫類は魚類
から生まれたと、かたく信じている。そうしたことを考えた
とき、私はそれが理解できないほど法外なものであること
から目をそらさないようにしている。とてもありそうにはない
ということに加えて、くだらない解釈をつけ加えてしまう
よりは、このわけのわからない変態がどこから始まって
いるのか、謎のままに残しておくほうがましだと思う。
これはプロの発言としての価値はあるが、これもまた眉に
つばをつける余地はある。ロスタンはたくさんいる生物学者
の一人に過ぎないのだ。彼は生物学者という組合のどの
くらいの部分を代弁しているのだろうか。
というわけで、この問題の締めとして一つの予測を書くこと
にしよう。これから百年後には、多分それよりも早く、進化
論という仮説の運命は、トマス・クーンが『科学革命の構造』
で提唱したテーゼの、最も興味深い実例となっていること
であろう。
そのテーゼとはこうだ。科学者は、そのデータを理解する
ために、その時支配的な枠組(パラダイム)にその事実を
注ぎ込みつづける。それは、それに代わる枠組が作られ、
そのデータをもっとなめらかに説明できるようになる時まで
つづくのである。
その変化が起こる時は、かなり急激に変わる。ある視覚的
なゲシュタルトがほかのものに変わる時のように、「ぱっ」
と変わるのである。
こうした予測をしておいた上で、進化論問題の実証的な面
は終わりとしておこう。ふるいにかけられるべきデータは、
ここで論ずるにはあまりに膨大すぎる。
だが、形式という面からすると、もう一つのポイントがここで
注意される。もし、進化論仮説にその見せかけの信憑性を
与えているのが完全に証拠ではないというなら、そういう
見せかけの信憑性はどこから来ているのだろうか。すでに、
一つの説明として、人間は希望を必要としているということ
に触れた。これについて、もう一つの説明として、科学という
営み自体に関わることをつけ加えておかねばならない。
あるケンブリッジ大学の教授がそれを指摘している。20世
紀半ば頃に出た自然淘汰についての本を論評して、サー・
ジェームズ・グレイがこう書いている。「どんなに議論を積み
重ねても、気の利いた警句をひねっても、この正統的な
進化論がありえないものだということは、隠しようがない。
だが、ほとんどの生物学者は、まったく考えないよりは、
ありえないことを考えるほうがましだと思っている」。
「考えない」ための一番良い方法のひとつは、論点となって
いることを真理と仮定すること(論点先取)だ、というのが
科学においては公理である。つまり、あることを証明できて
いるという主張のなかに、その証明すべきことがあらかじめ
前提されているということだ。
生命の起源を科学的に説明するための最初のテストは、
その説明においては、そこに働く力はそれ自体としては
生命という特徴を持っていないということである。この最初
のテストには、ダーウィン説は見事にパスする。「偶然」に
も、「適者生存」にも、まったく意志や目的論は前提とされ
ていない。そして、自然淘汰というものが、このテストに合格
しているただ唯一の、生命の起源についての仮説である
ため、たとえ、それに続くテストであちこち失敗したとしても
(それを支持する実証的な証拠はあるのか?それと相反
している事実を説明できているのか?)、お山の大将として
の地位を失わないでいられるわけだ。生物学者といっても
普通の人と変わらない。ジェームズ卿が言っているように、
まったく何も考えない(彼らの基準において)くらいなら、
ありえないことの肩を持つほうを選ぶのである。
D・C・デネットは、心理哲学学会の創立大会(マサチュー
セッツ工科大学、1974年10月26日)にすばらしい論文
を発表した。「なぜ効果の法則は消え去らないのか」と題
されたその論文では、特に認知心理学に焦点を当てている。
だがここで重要なのは、その論文が効果の法則とダーウ
ィン主義との関連を明示しているところである。
ソーンダイクが紹介しているように、一般的に言えば、
効果の法則とは、成功した行動は繰り返される、という
主張である。それは、特に素晴らしい法則とはいえない。
デネットが言うように、その法則は、「十分な成果を収める
ことに繰り返し失敗しつづけ、その失敗の仕方がだんだん
精緻になっている」という歴史をたどってきているのだ。
それにもかかわらず、そのしぶとさは老将軍以上のものが
ある。引退するどころか、その影響力をまだまだ手放して
いない。折りに触れて新しい称号があたえられる、一次的
強化の法則(ハル)、オペラント条件付けの原理(スキナー)。
だが、その仕事ぶりがよくなっているというよりは、むしろ
この敬称は、いわば階段を転げ落ちてくるのを足で蹴飛
ばして上に戻しているようなものだろう。
では、その異常なまでの先取特権はどこから来ているの
だろうか。
デネットは言う、「行動主義がほかの、もっと力のある基本
原理を探そうとしないのは、単にラバのような強情さや、
既得権への特権意識からだけではない。それはむしろ、
効果の法則は一つのよい考えだというのではなく、(知性に
ついて説明するための)唯一のありうべき考え方だという、
強い確信のようなものがそこにある」。
デネットは続ける、「こういう確信には、正しいところもある」。
その正しいところというのは、それは、提案されている説の
中では、論点先取を犯していない唯一の説だということだ。
だが、この説にはまた、間違っているところもある。
その間違いは、皮肉な結果をもたらしてきた。行動主義や
末梢論(心理現象を身体の末梢的器官の機能や変化に
よって客観的に説明しようとする考え方)によっている
「効果の法則」が論点先取を犯さないようにするために、
心理学者たちは、そこここで「小さな論点先取」を犯さざる
をえなかった。理論に矛盾する事例が出てくるたびに、
その場しのぎの強化刺激やら、刺激の経歴やらの説を
持ち出して、効果の法則を「救おう」とする。だが、こうした
ものには、理論的にそれが要求されるという以外、何の
根拠もないのである。
このように心理学の例を参照したのは、繰り返して言うが、
「効果の法則は、自然淘汰説の原理に非常によく似ている」
という理由からだ。実際のところ、効果の法則は、意識的に
自然淘汰説をモデルにして考え出されたものである。刺激
-反応というペアの「母集団」から、偶然にある刺激に対する
反応が生まれ、神経組織はそのうち最も適応性のある刺激
-反応のペアを強化する、というわけだ。神経組織は、それ
が再現される確率を増やすことによって、それを「選ぶ」。
そして、「その一方で、適応性のない、あるいは単にどちら
でもない刺激-反応は『絶滅』してしまう。それは、『殺される』
からではなく(すべての刺激・反応のペアは、すぐに終わって
しまう)、『再現されない』ためである。(ダーウィン主義との)
類似は非常にはっきりしているもので、彼らはそれに満足
し、親しんでいる」。
こうした類似は、学習や知性についての生物学的、あるいは
「ウェット」なアプローチだけでなく、いわば「ドライ」なアプ
ローチにも当てはまる。つまり、人工知能の研究であり、
「思考機械」を扱うものである。これもまた、ハーバート・
サイモンが指摘するように、自然淘汰である。人工知能と
認知心理学は、両極端の場所からスタートしている。
人工知能はあきらかに知性をもっていないメカニズムから
出発し、そこから知性を組み立てようとする。その一方、
認知心理学は、明らかに知性を持っている生物からスタート
し、それをニューロンの点火、神経の反射、そしてコンピュー
タの作用と同じような選択メカニズムにまで還元しようと
する。だが、前に進むのであれ、後ろに進むのであれ、
その目的は同じなのだ。知性というものを、それをまったく
もっていないものから導き出そうとするわけだ。
というのも、心理学はもちろん論点先取であってはなら
ないからだ。知性を説明するために、知性を持ち出しては
ならない。たとえば、知性が存在しているのは、知性ある
創造主が気前良くも生物に分け与えてくれたためだ、とか、
神経組織のコントロールパネルに賢いホムンクルスが
入っているなどと言ってはいけない、ということである。
もし、心理学がその程度のことしかできないとするなら、
心理学はその義務を果たしていないことになるだろう。
同じことは生物学にもいえる。こうした試みが、全体として
どこまで成功するのか、生物を無生物から、知性を知性の
ないところから説明すること、説明されるべきものがその
説明の中にまったく入っていないような説明を考えること、
この問題は、根源的なものである。ある意味で、伝統社会
から近代社会への転換すべてが、この問題に集約されて
いるともいえる。
そして、私の目的は、レバーを昔の、もっと自然な(と私は
主張するが)ポジションに戻そうということなのである。
ここで、論点先取だという批判は何の解決ももたらさない。
というのも、あることを前提とするのは、議論の形式として
は誤りであるとはいえないのだ。その議論の事実として
前提していることや、はっきり言葉にされていない仮定が
真理かどうかが問題になっているときに、論点先取という
非難を持ち出すことは、まさにその論点先取そのものを
犯していることになる。事実かどうかの吟味は別としても、
そもそもの論点先取の誤りとは何なのか、それをはっきり
述べることができるかどうかも疑わしい。私は論理学専門
の同僚に、論点先取の誤りはどう定義されるかをたずねて
みた。「もし学生が来て、その誤りとはいったいどういう
ものか、単刀直入に質問したら、どう答えますか」と聞いて
みた。彼はこう答えた、「それについては、はっきりとした
定式は存在していない、と答えますね」。
私は、進化論仮説がなぜ肥大した地位を保っているのか、
それを説明しようとしてきた。そしてこれまで、それが希望
の基礎になっているということ以外に、方法論にかかわる
理由を見出した。つまり、進化論は、科学的であると認め
られるような形式を備えている唯一の候補であるので、
本当はそこに要求されるはずの量のデータをもっていない
のに、理論として通用してしまっているのだ。それに対応
する存在論的な理由としては、科学が研究をしている世界
では、ほかのどこにも、生命の起源を探す場所はないという
ことがある。前に引用したジェームズ卿の言葉をわかりや
すく言い換えれば、科学者はまったくなにも考えないよりは、
ありえないことを考えるほうを好む。だとするなら、帽子から
ウサギが出てきたほうが、何もないところ、文字通り「無」
から出てくるよりはましだと思うだろう、というわけだ。
進化論の力は、近代科学に特有な、純粋に物質的次元
以外に、いかなるリアリティの『次元性』も考えることが
できないということに由来する。近代科学は、種が『垂直に』
生成するということを理解することができない。
この、種が垂直に生成するというのはどういうことか。もし
「神」だと答えるなら、それは不正確だというわけではない
だろう。だが、「特別に創造された」という説はあまりに
擬人的なイメージがつきまとっているので、もっと非人格論
的に言いかえるなら、それはエマネーション(流出論)で
ある。
天上の領域においても、種は決して存在していないのでは
ない。種の本質的な形、その原型は、限りなき始原の時
からそこに存在し続けている。大地がそれを受け入れる
ほどに成熟したとき、それぞれの種は順番に地上に降下
してきて、世界に彩りを与え、新しい生命の形を生み出す
のだ。種の起源とは、形而上学的なものである。
初めに、生存が可能である環境が準備されねばならない。
そこで、無機的な宇宙が成熟し、生命を支えられるほど
までくる。そして生命体が到着するとき、比較的に未分化
な有機体から、複雑なものへというおおよその順序がある。
未分化といっても、決して単純ではない。電子顕微鏡で
見れば、単細胞生物は、驚くほど複雑なものだ。だが、
化石の資料からは、単線的な、連続したラインを思い描く
ことはできない。無理にそうすることもない。たとえ、飛躍
が生ずる、それとわかるような生命の形、たとえば昆虫、
魚、爬虫類、鳥類、哺乳類などをつなげる一本の糸を想定
して、仮説の数を増やす必要はないのである。ある種の
魚が陸に上がって進むときに、ひれを使うとしても、その
ひれに手や足になっていくような原始的な形を見たりする
必要は無い。鳥と爬虫類とが似ている点を誇大に考えて、
鳥は爬虫類から生まれたことを証明しようとする必要も
ない。鳥と爬虫類は、骨格がまぎれもなく違っているし、
聴覚器官が作られている機構も全然違うものなのだ。もし、
クモがその獲物となるものと同時に出現し、その巣作りの
能力が完全に発達した状態であったとしても、そういう
事実にとまどう必要はなく、笑って受け入れることができる
だろう。
ダーウィン主義は、種から種への変異についての仮説を
組み立てるために、突然変異種を使うわけだが、これに
ついてはどうか。形而上学的な観点から言えば、こうした
突然変異は、その種が許容した変異だということになる。
それはあたかも、自然はこれまで考えていたよりもずっと
多産的で、生命を愛しており、まずはっきりと、ほかと区別
できる形の種を作り出し、そしてそれから、そこに変化を
つけようとするかのようだ。自然は、その種の本質的な
限界を踏み越えない範囲で、ほかの種の形をそこに映し
出そうとしている。こうしてみると、突然変異とは、新しい
種を作り出すものではない。たとえば、イルカは何から
何の種になろうとしているのか、まだ証明されていない。
それはむしろものまねなのだ。ある種は、それとは本質的
に異なる種のやり方や姿を模倣しているのである。それは、
単に適応や生存のための、功利的な理由からだけでは
ない。部分的には、多くの部分だが、それは「遊び」なのだ。
純粋な形を変えること自体の喜びなのだ。存在はそれ自体
とても良きものなり、ということで、神はその存在の可能性
を試してみる誘惑に勝てない。イルカやクジラは、もし魚
であったらどういう感じだろうかと思っている、原型的な
哺乳類なのだ。アルマジロは、「もしウロコをつけて、哺乳
類を演じたら面白いのじゃないか」と考えた結果、ああな
っている。こういうイメージをさらにすすめれば、エサをつい
ばみ飛び回っている虹色のハチドリは、自分が蝶であると
想像している鳥である。それはインドラの網のようでもある。
すべての宝石はほかの宝石と、互いを映しあっている。
それは「万物照応(コレスポンデンス)」である。
私はここでコンピュータの生成ユニットのようなことをして
おり、テストユニットではないということは認めよう。だが、
ここでさらに踏み込んでいうならば、進化論者が人間の
前段階だと考えている骨は、もしかすると人間ができた
以後のものかもしれない。それは退化した派生種の残した
ものかもしれない。初期の人類のサイクルが終息に迎え
た、その一番最後の姿だということもありうる。実際、神話
が語るのは進化ではなく退化である。そして、後代の人間
の姿は、必ずしも進んでいるわけではないことも周知の
事実だ。シュタインハイム人はネアンデルタール人より前
にいたが、もっと「進化」している。
これはあまりに幻想的だと思うかもしれない。だが私は、
人間の起源という問題に入るにあたって、衝撃的なことを
言うと約束したはずだ。もしこれはいきすぎだとするなら、
それも考えがあってのことである。弁護のためには、こう
言えば十分だろう。私は何事も無責任に述べてきたわけ
ではないが、最も確信をもって言えることは、次のことで
ある。
現代の生物学モデルは、抗生物質を発見するなど、役に
立つところはあるが、生命の「理解」ということに関しては、
こうしたモデルはほとんど役に立たない。もっと言えば、
有害ですらある。諸科学において、物理学は存在論的に
は最も低次のものである。物理学は、その最も原始的な
姿において物質を扱っている。それとともに、物理学は
その世界を「見通して」、その輝ける彼方の世界を見ること
において、経験科学のうち第一のものである。物理学は、
時間や空間が、二次的なものであることを「知っている」。
リアルであることの、想像を超えた、超越的な性質を
「知っている」。
もし、私がここで論じたことの細かい点が間違っていたと
仮定したとしても、これだけは確かだと思う、もし近代科学
が存続していくなら、ダーウィン主義を含め、今の生物学
における理論は、そのうちに(たぶん短い間に)、ニュート
ン物理学と同様、不適切なものであることが明らかになる
だろう。
生命科学は、音速の壁のように、その壁を突破していく
だろう。その喜ばしい日に、生物学者たちは物理学者の
ように語り始めるだろう。リチャード・ファインマンのように、
こう言うだろう、「私たちは、新しい世界観を見出さねば
ならない」。あるいはフリーマン・ダイソンのように、「一見
したところ気が狂ったように見えないような考えには、
望みはない」。
にゃははは。
ここでようやく進化論についての議論を終えることができ
たようである。進歩という考えは科学と技術に支えられて
いるが、その最も主要な支えは進化論だったのである。
こういう支えに文句をつけることには気が進まないという
人もいるだろう。というのも、それ以外に希望を見出すべき
場所をすべて封印してしまった時代にあっては、進化を
攻撃すること、進歩のため残された最後の支えを無力化
しようとすることは、希望そのものを無力化することになる。
近代世界では、進歩とは、希望に許された唯一の形に
なっているからだ。希望は人間の幸福にとってなくては
ならないものである。
だが真理を取るのか、それともその結果が意味することを
考えて、真理から目をそらすのか、そのどちらかを選ばな
ければならないとき、少なくとも、知識(グノーシス)の道に
よって、神(リアリティ)に近づこうとする人々は、真理を
選ばざるを得ないことがわかるだろう。