『思想史のなかの臨床心理学』について語ろう!

このエントリーをはてなブックマークに追加
64没個性化されたレス↓

私がこれから言おうとすることは「許容限界」を超えたもの
だと感じるかもしれない。まずはっきりしているのは、信じら
れるかどうかの限界だが、たぶん、礼儀作法の限界もある
だろう。

というのも、私は、進歩とは幻想であると言おうとしている。
未来の進歩が幻想だというだけでなく、過去の進歩も幻想
だと主張しようとしている。この過去の進歩の部分には条件
をつけねばならないだろうが、本質的には正しいと思って
いる。ユートピアとは夢である。進化とは神話である。

もし、西洋の人間が、この進歩と進化という神は偽者の神
であることを見れば、言いかえればフィクションであり、一度
も起こったことはなかったし、これから起こることもないと
理解するなら、そのときに近代という時代は終わりを告げる。
というのも、この考えは近代にとって最重要の土台をなす
ものなので、これが崩れてしまえば、新しい建物に建て
替えるしかないからだ。同じ理由で、この考えに異議申し
立てをすることも難しい。ある時代全体の土台となっている
考え方を解体するというのは容易なことではないからだ。

生態系の危機やエネルギーの枯渇、システムを分析する
人々は、コンピュータのデータを総合して、私たちは破滅
へのコースをたどっていると言う。ダーウィンを哲学化した
ベルクソンでさえ、最終的には、人間は「自らの巨大な進歩
に押しつぶされている」という見方に至ったのだ。サルトルは
深みのある思想家ではないが、現象を見る目は鋭いもの
がある。そして、彼の仕事である実存のレベルにおいて、
「希望なしに生きることを学ばねばならない」と忠告してくれる。
65没個性化されたレス↓:04/11/06 21:02:20

だが、未来が悲惨なものであっても、過去はよかったので
はないか。現在までの進歩、泥の中の生命体から、知性に
いたるまでの進歩は、やはり大した記録なのではないか。

それを見てみよう。

私は近い過去から始めよう。ホモ・サピエンス自身の経歴
である。進化論の信奉者は、人間は大きなデザインにそって
来ていると言う。人間という種は猿人に始まり、未開の原始人
となり、ついには今のような知的生物となった。こういう見方
はあまりにも当然のこととされている。

そこで、一流の博物館の館長が「石器時代から現在に至る
歴史は、退歩の歴史ですね」と言ったとしたら、警句をひね
っているのだろうと思うか、あるいは考古学の研究には自信
のあるその博物館を自慢したいと考えるだろう。たぶん、
ネアンデルタール人の脳が現代人よりも大きいということが
発見されたので、そういう考えはもっとまじめに受け取られ
るようになっていくだろう。
66没個性化されたレス↓:04/11/06 21:03:03

また、レヴィ=ストロースの評価では、人間と自然とのバラ
ンスという点でいえば、それが結局は最も大切な問題に
なるのだが、人間の黄金時代は、新石器時代のあたりに
あるということだ。もし、エコロジーという観点から知性という
観点に変えてみたとしても、人間は特に進歩はしていない、
とレヴィ=ストロースは言うのである。ある意味では、彼の
研究のすべては、「野生の精神」は現代人と同じくらい複雑
であり合理的であることを明らかにするためのものであった。
そして、彼は最後までついていき、理性にとどまらず、その
理性の使い方を決める動機というところまで見ていくと、
そこには退歩が見られるという。その分析的思考(人間が
やっているような種類の)は、その中に見えざる暴力性を
秘めているのであろうか?と彼は問う。

あるいは、人間はエデンの楽園に対して、わけのわから
ない怒りにとりつかれているのだろうか。人間はかすかに
エデンの楽園を記憶しており、それを喪失したことを無意識
では知っているのではないか。その理由は何であれ、人間
はその失われた無垢の世界を思い出させるような風景とか
社会に出くわすと、襲い掛かり、それを滅ぼしてしまう。
レヴィ=ストロースは自分自身とその学問も例外とはして
いない。西洋人のもつ知への欲求、底の底まで分析的で
客観的である知を追い求めるということは、そこに暴力性
を秘めているのだ。というのは、ものごとを分析的に知る
ということは、知ろうとしているものがどんなに重要かつ
複雑なものであっても、「対象」に還元するということである。
67没個性化されたレス↓:04/11/06 21:03:59

人間の過去だけではなく、それを超えて生命の歴史全体
にまで目を向けてみよう。すると、古典的、ダーウィン的な
意味での進化の問題に至る。これが核心の問題なのだ。
というのも、進歩と進化は、生物の進化を前提としている
からだ。その基盤であり、最も重要な基礎なのである。
生物学者のルイス・トーマスが言っているように、「進化
とは、現在もっとも影響力のある物語であり、普遍的な
神話ともいえるものになっている」。

人間の過去だけではなく、それを超えて生命の歴史全体
にまで目を向けてみよう。すると、古典的、ダーウィン的な
意味での進化の問題に至る。これが核心の問題なのだ。
というのも、進歩と進化は、生物の進化を前提としている
からだ。その基盤であり、最も重要な基礎なのである。
生物学者のルイス・トーマスが言っているように、「進化
とは、現在もっとも影響力のある物語であり、普遍的な
神話ともいえるものになっている」。
68没個性化されたレス↓:04/11/06 21:04:55

マイケル・ポランニーの『個人的知識』は、ノーム・チョム
スキーがかつて、科学哲学について書かれた最良の本
だと推薦していた本である。その中でポランニーは、ネオ
・ダーウィン主義への批判を、次のようなはっとする言葉で
始めている。「私は進化論に反しているひじょうに初歩的
な事実を述べようとしている。こうした事実が曖昧になって
いるのは、ほかでもなく、天才的な偏見によるのである」。

ここで、ポランニーの議論を詳しく再現する紙幅はない。
要約するだけでよしとしよう。自然の歴史は、「高度な
組織化のレベルへ向かって、累積的に変化が積み重なっ
ていく傾向をもっている。その中でも、知覚や意識の能力
の深まり、思考能力の誕生は、最も歴然としたものである」
「この壮大なプロセスの各段階において、前の段階では
考えられない、ある新しい働きが生まれている」たとえば、
「原則的には、量子力学は化学反応をすべて説明する
ことができるはずだが、それでも、化学の知識にとって
かわることはできない」。もちろん同じことは生物学と化学
との関係にもいえるし、心理学と生物学の関係などその他
もろもろについて当てはまる。さらに、
69没個性化されたレス↓:04/11/06 21:05:33

 長期にわたる進化のそれぞれの段階は、意識が誕生した
 ことと同じように、単に、適応のため有利だったことだけで
 決まっているのではない。どういう方向に対して有利だった
 のかということが問題だ。つまり、進化のプロセスにはある
 一定の方向性があり、その方向にとって有利であったと
 いうことなのだ。こうした、全体の秩序を決めているような
 ものが、次々と新しいものを創造していくプロセスの背後で
 働いている。このことは、自然淘汰の理論では見過ごされ、
 否定されている。こうした全体を統御しているものを認め
 るとすれば、突然変異と淘汰は、その本来の姿で理解でき
 ることになる。つまり、それは単に、進化していく力を解き
 放ち、支えていくだけなのだ。こうした進化を推進する力
 によって、進化における大きな達成が成し遂げられてきた
 のである。

 人間が誕生したことは、現在、物理学と化学で知られてい
 る原理だけでは理解することができない。そのほかに何
 かがある。これは生命力なのだろうか。生命力とは我々
 にとって当たり前の考え方である。それを無視するのは、
 頭が固く時代遅れの機械論者だけだろう。

 物質的なシステムからどのようにして、意識と責任感をも
 つ人間というものができあがったのか、それについて何
 もわかっていないというなら、人間の起源について説明
 できていると考えたがるのはどうかしていることになる。
70没個性化されたレス↓:04/11/06 21:06:20

 ダーウィン主義は、百年もの間、人間の起源という問題
 から目をそらさせて、進化の「条件」を研究してきた。そし
 て、進化が実際に何をやっているのかを見過ごしてきた。
 進化は、一挙に何かが出現することだと理解するほかな
 いはずである。

この最後の言葉、「出現(エマージェンス)」は、ポランニーが
ダーウィン主義に代わるものとして提示しているものをよく
表している。それは、ポランニーも認めている彼の先駆者、
ロイド・モーガンとサミュエル・アレクサンダーにつながって
いくものである。

ポランニーの哲学に関する仕事はすべて、還元主義に対抗
することに向けられている。還元主義とは、高次のものを
すべて低次のもので、全体を部分によって説明しようという
試みである。こういう還元主義を否定することについては、
ポランニーは確実な議論を進めている。
71没個性化されたレス↓:04/11/06 21:07:14

問題は、ポランニーが出している代替案である。出現という
のはいい。しかしどこから出現するのだろう?どこから、彼が
繰り返し言っている「全体を支配する創発的な原理」は
やってくるのだろうか。もし、より単純な、先行するものが
それを説明できないというなら、「無」、何もない空間、という
ほうが、その源としてもっとありそうになるのだろうか。源
として「無」や「何もない空間」があるからこそ出現という
こともあるわけだ。「ただいえることは、ある時点では何も
なく、そして次に何かがあるということだ」と、ホイルは、
彼の定常状態理論では水素はどこから来たのかという問題
について、述べている。語源からいえば、出現とはそれ
以上のことを言ってはいないのである。

無から何かが生まれることがあるのだろうか。小川はその
水源より高い場所を流れるのだろうか。ここで話は、つねに
存在してきた、思考不可能の問題にぶつかる。ここまで
根源的な問題、その根本そして本質において存在論的な
感性に近づいてくる問題については、どんな議論を持って
きても決定的な答えとはなりえない。というわけで、私も
そういう議論には入らない。その代わり、この状況をその
まま描くにとどめる。
72没個性化されたレス↓:04/11/06 21:07:53

もし、出現ということが、小川はその水源よりも高い方へ
流れることはないことを示すのならば、より単純なものを
創造する原理は、より複雑なものを説明することはでき
ない、という意味だが、こういう考え方は、根源的なもの
の見方と一致しているのである。そして、始原的な見方は
さらに、何ものかが無から出てくることはない、ということも
示している。何事も無より創造されることなし。

このことは、進化とどういう関係があるのか。それは、時間
的な順序において、単純なものは複雑なものに先立つと
いう事実を否定するわけではない。最初、ウィルスのような
微小な生物が生まれた。それから、生存に役立つ身体的
機能をそなえたバクテリアが誕生した。それから、自分で
動くことができ、目的にそった行動ができる原生生物。
そして、多細胞生物ができ、性的な生殖システムをもち、
神経組織はどんどん複雑化し、感覚器官の発達は、その
環境世界とさらに深く関われるようにしていった。意識という
ものがどこでこの進化系列に入ってきたのか、よくわかって
いない。だが、思考そのものは言語とともに誕生したので
あり、それは人間に限られている。炭素測定法が徐々に
明らかにしてきたものごとの順番について、何も否定する
必要はないだろう。「創世記」はすでに、その創造の原理
について語っている。聖典やその注釈は、みなそのことを
語ってきたのだ。グレゴリオ・パラマスはこう言っている。
73没個性化されたレス↓:04/11/06 21:09:10

 人間とは、より小さな世界の中に入っている大きな世界
 であり、あらゆるすべてである一つの全体として集中した
 ものであり、神が創造したすべてのものの縮図である。
 だから、人間は最後に創られたのである。だからこそ
 我々も最後の結論としてこれを語るのである。

生命の進歩を否定するどころではなく、伝統は生命の進歩
の理由を示している(もちろん、それ独特の説明のしかた
ではあるが)。小宇宙(ミクロコスモス)は大宇宙(マクロ
コスモス)を鏡のように映す。だが、その鏡は逆さまの鏡
である。ここでの結論として言えば、存在論的順序において
最初のものは、時間的順序においては最後であるように
見えるのである。

伝統が否定しているのは、より高いものが、より低いものの
後に現われるということではなく、より高いものは、より低い
ものによって生みだされるということである。そう否定する
ことにより、伝統は現代の支配的な気分に反対する。

革命から秩序が生まれる(マルクス)、イドからエゴが(フロ
イト)、原初の泥水から生命が生まれる(ダーウィン)。いた
るところで、反射的衝動のように、より大なるものが、より
小なるものから導かれている。だが伝統はこれと反対方向
に物事を見ている。

どちらの方向であれ、どんな違いがあるのか、説明のため
に、上を見るのか、下を見るのかでどこが変わってくるのか。
こういう問いをはっきりと立てる必要がある。そうでなけれ
ば、ここで失望させてしまうだろう。
74没個性化されたレス↓:04/11/06 21:10:50

私はこれまで、生命の起源という問題について人の度肝を
抜くようなことを言おうとしているぞ、とたびたび示唆してき
た。こうしたもったいぶった前置きがどんな期待を引き起こ
すものか、想像に難しくはない。塵から直接に形づくられた
のか?こうした期待がふくらんだあとの、驚きの答えという
のは、実はちっとも驚きではないのである。

進化の順序というものは否定されない。最初はまちがいな
くアメーバから始まった。生命はたしかに進歩している。
唯一の違いとは、一見すると二次的な問題のように思える
ことにかかわっている。つまり、そうした進化が実現される、
その方法である。ほかの全ての点については、いま支配的
な見方を承認する。そうすると、衝撃波とされていたものは、
実はさざ波にすぎないことになる。生命はたしかに進化する。

いや、そうではないのだ。ここで問題になっているのは、
枝葉の部分ではなく、またどういう意味でも二次的な問題
なのではない。なぜなら、進化論とは単なる年代記、年表
ではなく、学芸員が化石を年代順に並べていくことを意味
しているのではないのだ。進化論は、説明原理となろうと
しているものだる。進化論とは、人間にかかわるすべて、
人間の能力や潜在能力のあらゆるものが、一つのプロセス、
つまり自然淘汰によって説明できる、という主張なのである。
75没個性化されたレス↓:04/11/06 21:11:35

自然淘汰は、突然変異に対して機械的に働くものだ。これ
について、最近では最も著名なスポークスマンに語って
いただくことにしよう。「進化とは、自然淘汰が裁量してい
る巨大な『くじ』によるものである。それは、まったくでたら
めに引いた数字のなかから、わずかな勝者をめくらめっぽ
うに選び出す、こうした考え方はそれだけでも事実と適合
している。奇跡は『説明』されているのだ」。

この最後の「説明」という言葉につけられた括弧は興味深い
ものだ。それは、モノー自身が、ここで「説明」という言葉を
一般的ではない意味で使っていることを認めていることを
示す。モノーは、自分の心にあるその特殊な意味について
書いてはいない。だが、私から見れば、それは著しく普通の
用法から逸脱しているといえる。最初から進化論に対して
好意的な見方に傾いている人でない限り、モノーのいう
「説明」とは、まったく説明にはなっていないと思えるのだ。
彼の本を読み、進化論についていろいろと知ったとしても、
なお謎は残されたままである。
76没個性化されたレス↓:04/11/06 21:12:11

ここで、私がやろうとしていることをはっきりさせておこう。
なぜ、進化論についてこれほどのスペースを割いている
のであろうか。それは、進化論はまさにこのテーマに決定
的にかかわってくるからである。希望は人間の幸福にとって
重要だからという理由ばかりではない。希望こそが、現代
の思想が最も混乱し、誤っているテーマであるからだ。
その誤りとは、希望を集合的な未来、人生の質を高めて
いく未来の上におこうというところにある。こういう誤りが
生じた原因は二つある。一番目は、科学と技術がまざり
あったことであり、もう一つの問題が残っている。それが
進化論である。

私は進化論を、現代精神の本丸と呼ぶ。それは、現代精神
の観点からすれば、あまりに多くのものがそこに基礎をおく
ようになっており、希望そのものでさえも、これほどまでに
多くがつぎこまれている理論はほかにないからだ。このこと
だけでも、進化論について警戒する必要があるだろう。
欲望は、その浴する方へと証拠を都合よく解釈するという
ことを、私たちは知っているからだ。

平たく言えば、自然の中に働いている原理があり、自然淘汰、
それはより低いものからより高いものを生み出すように働く
と信じることができる限りは、私たちは希望をもつことができ
るのだ。神は復権したのだ。たしかに前とは違う神ではある。
だが「彼」もまた、ものごとがすべてうまくいくよう気をつけて
いるという点では、似てもいる。その神は、昔の神と同様、
スタートのフライングも妨げることはない。だが、最終的な
勝利は約束されている。私たちは、よき手によって守られ
ているのだ。
77没個性化されたレス↓:04/11/06 21:13:34

事実、最後の文は本当のことである。これまでの「希望」と
いうテーマが暗に示している。だが、この「よき手」は、
幸いにも、自然淘汰の手ではない。「幸いにも」というのは、
自然淘汰説のもろさを考えれば、そう言わざるを得ない
だろう。

ここでは、進化論についての本格的な論評に入っていく
つもりはない。私の個人的な評価とはこうである。現代精神
がこれほど少ない証拠の上に、これほど多くの信頼をよせて
いる科学理論はほかにないだろう。少ない証拠とは、その
理論を信仰しようという意志がないところで、その理論を
定立するために必要な証拠の量としては、あまりに些少
であるということだ。進化論の仮説は、その標準的な形に
おいては、現代の西洋人にとっては受け入れられた信仰
に近く、その仮説を信仰しようとする意志によってどれだけ
支えられているのか、見えにくくなっている。だが、ここで
その仮説を拡大してみるならば、そういう「意志」が、はっ
きり浮かび上がってくるのだ。

進化論支持者である生物学者の判断を見てみることに
しよう。ジャン・ロスタンはこう書いている。

 私は、哺乳類は爬虫類から由来し、そして爬虫類は魚類
 から生まれたと、かたく信じている。そうしたことを考えた
 とき、私はそれが理解できないほど法外なものであること
 から目をそらさないようにしている。とてもありそうにはない
 ということに加えて、くだらない解釈をつけ加えてしまう
 よりは、このわけのわからない変態がどこから始まって
 いるのか、謎のままに残しておくほうがましだと思う。
78没個性化されたレス↓:04/11/06 21:14:33

これはプロの発言としての価値はあるが、これもまた眉に
つばをつける余地はある。ロスタンはたくさんいる生物学者
の一人に過ぎないのだ。彼は生物学者という組合のどの
くらいの部分を代弁しているのだろうか。

というわけで、この問題の締めとして一つの予測を書くこと
にしよう。これから百年後には、多分それよりも早く、進化
論という仮説の運命は、トマス・クーンが『科学革命の構造』
で提唱したテーゼの、最も興味深い実例となっていること
であろう。

そのテーゼとはこうだ。科学者は、そのデータを理解する
ために、その時支配的な枠組(パラダイム)にその事実を
注ぎ込みつづける。それは、それに代わる枠組が作られ、
そのデータをもっとなめらかに説明できるようになる時まで
つづくのである。

その変化が起こる時は、かなり急激に変わる。ある視覚的
なゲシュタルトがほかのものに変わる時のように、「ぱっ」
と変わるのである。

こうした予測をしておいた上で、進化論問題の実証的な面
は終わりとしておこう。ふるいにかけられるべきデータは、
ここで論ずるにはあまりに膨大すぎる。
79没個性化されたレス↓:04/11/06 21:15:23

だが、形式という面からすると、もう一つのポイントがここで
注意される。もし、進化論仮説にその見せかけの信憑性を
与えているのが完全に証拠ではないというなら、そういう
見せかけの信憑性はどこから来ているのだろうか。すでに、
一つの説明として、人間は希望を必要としているということ
に触れた。これについて、もう一つの説明として、科学という
営み自体に関わることをつけ加えておかねばならない。

あるケンブリッジ大学の教授がそれを指摘している。20世
紀半ば頃に出た自然淘汰についての本を論評して、サー・
ジェームズ・グレイがこう書いている。「どんなに議論を積み
重ねても、気の利いた警句をひねっても、この正統的な
進化論がありえないものだということは、隠しようがない。
だが、ほとんどの生物学者は、まったく考えないよりは、
ありえないことを考えるほうがましだと思っている」。

「考えない」ための一番良い方法のひとつは、論点となって
いることを真理と仮定すること(論点先取)だ、というのが
科学においては公理である。つまり、あることを証明できて
いるという主張のなかに、その証明すべきことがあらかじめ
前提されているということだ。
80没個性化されたレス↓:04/11/06 21:16:41

生命の起源を科学的に説明するための最初のテストは、
その説明においては、そこに働く力はそれ自体としては
生命という特徴を持っていないということである。この最初
のテストには、ダーウィン説は見事にパスする。「偶然」に
も、「適者生存」にも、まったく意志や目的論は前提とされ
ていない。そして、自然淘汰というものが、このテストに合格
しているただ唯一の、生命の起源についての仮説である
ため、たとえ、それに続くテストであちこち失敗したとしても
(それを支持する実証的な証拠はあるのか?それと相反
している事実を説明できているのか?)、お山の大将として
の地位を失わないでいられるわけだ。生物学者といっても
普通の人と変わらない。ジェームズ卿が言っているように、
まったく何も考えない(彼らの基準において)くらいなら、
ありえないことの肩を持つほうを選ぶのである。
81没個性化されたレス↓:04/11/06 21:17:23

D・C・デネットは、心理哲学学会の創立大会(マサチュー
セッツ工科大学、1974年10月26日)にすばらしい論文
を発表した。「なぜ効果の法則は消え去らないのか」と題
されたその論文では、特に認知心理学に焦点を当てている。
だがここで重要なのは、その論文が効果の法則とダーウ
ィン主義との関連を明示しているところである。

ソーンダイクが紹介しているように、一般的に言えば、
効果の法則とは、成功した行動は繰り返される、という
主張である。それは、特に素晴らしい法則とはいえない。
デネットが言うように、その法則は、「十分な成果を収める
ことに繰り返し失敗しつづけ、その失敗の仕方がだんだん
精緻になっている」という歴史をたどってきているのだ。

それにもかかわらず、そのしぶとさは老将軍以上のものが
ある。引退するどころか、その影響力をまだまだ手放して
いない。折りに触れて新しい称号があたえられる、一次的
強化の法則(ハル)、オペラント条件付けの原理(スキナー)。
だが、その仕事ぶりがよくなっているというよりは、むしろ
この敬称は、いわば階段を転げ落ちてくるのを足で蹴飛
ばして上に戻しているようなものだろう。

では、その異常なまでの先取特権はどこから来ているの
だろうか。
82没個性化されたレス↓:04/11/06 21:18:11

デネットは言う、「行動主義がほかの、もっと力のある基本
原理を探そうとしないのは、単にラバのような強情さや、
既得権への特権意識からだけではない。それはむしろ、
効果の法則は一つのよい考えだというのではなく、(知性に
ついて説明するための)唯一のありうべき考え方だという、
強い確信のようなものがそこにある」。

デネットは続ける、「こういう確信には、正しいところもある」。
その正しいところというのは、それは、提案されている説の
中では、論点先取を犯していない唯一の説だということだ。
だが、この説にはまた、間違っているところもある。

 その間違いは、皮肉な結果をもたらしてきた。行動主義や
 末梢論(心理現象を身体の末梢的器官の機能や変化に
 よって客観的に説明しようとする考え方)によっている
 「効果の法則」が論点先取を犯さないようにするために、
 心理学者たちは、そこここで「小さな論点先取」を犯さざる
 をえなかった。理論に矛盾する事例が出てくるたびに、
 その場しのぎの強化刺激やら、刺激の経歴やらの説を
 持ち出して、効果の法則を「救おう」とする。だが、こうした
 ものには、理論的にそれが要求されるという以外、何の
 根拠もないのである。
83没個性化されたレス↓:04/11/06 21:19:07

このように心理学の例を参照したのは、繰り返して言うが、
「効果の法則は、自然淘汰説の原理に非常によく似ている」
という理由からだ。実際のところ、効果の法則は、意識的に
自然淘汰説をモデルにして考え出されたものである。刺激
-反応というペアの「母集団」から、偶然にある刺激に対する
反応が生まれ、神経組織はそのうち最も適応性のある刺激
-反応のペアを強化する、というわけだ。神経組織は、それ
が再現される確率を増やすことによって、それを「選ぶ」。
そして、「その一方で、適応性のない、あるいは単にどちら
でもない刺激-反応は『絶滅』してしまう。それは、『殺される』
からではなく(すべての刺激・反応のペアは、すぐに終わって
しまう)、『再現されない』ためである。(ダーウィン主義との)
類似は非常にはっきりしているもので、彼らはそれに満足
し、親しんでいる」。

こうした類似は、学習や知性についての生物学的、あるいは
「ウェット」なアプローチだけでなく、いわば「ドライ」なアプ
ローチにも当てはまる。つまり、人工知能の研究であり、
「思考機械」を扱うものである。これもまた、ハーバート・
サイモンが指摘するように、自然淘汰である。人工知能と
認知心理学は、両極端の場所からスタートしている。
人工知能はあきらかに知性をもっていないメカニズムから
出発し、そこから知性を組み立てようとする。その一方、
認知心理学は、明らかに知性を持っている生物からスタート
し、それをニューロンの点火、神経の反射、そしてコンピュー
タの作用と同じような選択メカニズムにまで還元しようと
する。だが、前に進むのであれ、後ろに進むのであれ、
その目的は同じなのだ。知性というものを、それをまったく
もっていないものから導き出そうとするわけだ。
84没個性化されたレス↓:04/11/06 21:20:05

 というのも、心理学はもちろん論点先取であってはなら
 ないからだ。知性を説明するために、知性を持ち出しては
 ならない。たとえば、知性が存在しているのは、知性ある
 創造主が気前良くも生物に分け与えてくれたためだ、とか、
 神経組織のコントロールパネルに賢いホムンクルスが
 入っているなどと言ってはいけない、ということである。
 もし、心理学がその程度のことしかできないとするなら、
 心理学はその義務を果たしていないことになるだろう。

同じことは生物学にもいえる。こうした試みが、全体として
どこまで成功するのか、生物を無生物から、知性を知性の
ないところから説明すること、説明されるべきものがその
説明の中にまったく入っていないような説明を考えること、
この問題は、根源的なものである。ある意味で、伝統社会
から近代社会への転換すべてが、この問題に集約されて
いるともいえる。
85没個性化されたレス↓:04/11/06 21:21:44

そして、私の目的は、レバーを昔の、もっと自然な(と私は
主張するが)ポジションに戻そうということなのである。

ここで、論点先取だという批判は何の解決ももたらさない。
というのも、あることを前提とするのは、議論の形式として
は誤りであるとはいえないのだ。その議論の事実として
前提していることや、はっきり言葉にされていない仮定が
真理かどうかが問題になっているときに、論点先取という
非難を持ち出すことは、まさにその論点先取そのものを
犯していることになる。事実かどうかの吟味は別としても、
そもそもの論点先取の誤りとは何なのか、それをはっきり
述べることができるかどうかも疑わしい。私は論理学専門
の同僚に、論点先取の誤りはどう定義されるかをたずねて
みた。「もし学生が来て、その誤りとはいったいどういう
ものか、単刀直入に質問したら、どう答えますか」と聞いて
みた。彼はこう答えた、「それについては、はっきりとした
定式は存在していない、と答えますね」。
86没個性化されたレス↓:04/11/06 21:22:44

私は、進化論仮説がなぜ肥大した地位を保っているのか、
それを説明しようとしてきた。そしてこれまで、それが希望
の基礎になっているということ以外に、方法論にかかわる
理由を見出した。つまり、進化論は、科学的であると認め
られるような形式を備えている唯一の候補であるので、
本当はそこに要求されるはずの量のデータをもっていない
のに、理論として通用してしまっているのだ。それに対応
する存在論的な理由としては、科学が研究をしている世界
では、ほかのどこにも、生命の起源を探す場所はないという
ことがある。前に引用したジェームズ卿の言葉をわかりや
すく言い換えれば、科学者はまったくなにも考えないよりは、
ありえないことを考えるほうを好む。だとするなら、帽子から
ウサギが出てきたほうが、何もないところ、文字通り「無」
から出てくるよりはましだと思うだろう、というわけだ。
87没個性化されたレス↓:04/11/06 21:24:07

進化論の力は、近代科学に特有な、純粋に物質的次元
以外に、いかなるリアリティの『次元性』も考えることが
できないということに由来する。近代科学は、種が『垂直に』
生成するということを理解することができない。

この、種が垂直に生成するというのはどういうことか。もし
「神」だと答えるなら、それは不正確だというわけではない
だろう。だが、「特別に創造された」という説はあまりに
擬人的なイメージがつきまとっているので、もっと非人格論
的に言いかえるなら、それはエマネーション(流出論)で
ある。

天上の領域においても、種は決して存在していないのでは
ない。種の本質的な形、その原型は、限りなき始原の時
からそこに存在し続けている。大地がそれを受け入れる
ほどに成熟したとき、それぞれの種は順番に地上に降下
してきて、世界に彩りを与え、新しい生命の形を生み出す
のだ。種の起源とは、形而上学的なものである。
88没個性化されたレス↓:04/11/06 21:24:57

初めに、生存が可能である環境が準備されねばならない。
そこで、無機的な宇宙が成熟し、生命を支えられるほど
までくる。そして生命体が到着するとき、比較的に未分化
な有機体から、複雑なものへというおおよその順序がある。
未分化といっても、決して単純ではない。電子顕微鏡で
見れば、単細胞生物は、驚くほど複雑なものだ。だが、
化石の資料からは、単線的な、連続したラインを思い描く
ことはできない。無理にそうすることもない。たとえ、飛躍
が生ずる、それとわかるような生命の形、たとえば昆虫、
魚、爬虫類、鳥類、哺乳類などをつなげる一本の糸を想定
して、仮説の数を増やす必要はないのである。ある種の
魚が陸に上がって進むときに、ひれを使うとしても、その
ひれに手や足になっていくような原始的な形を見たりする
必要は無い。鳥と爬虫類とが似ている点を誇大に考えて、
鳥は爬虫類から生まれたことを証明しようとする必要も
ない。鳥と爬虫類は、骨格がまぎれもなく違っているし、
聴覚器官が作られている機構も全然違うものなのだ。もし、
クモがその獲物となるものと同時に出現し、その巣作りの
能力が完全に発達した状態であったとしても、そういう
事実にとまどう必要はなく、笑って受け入れることができる
だろう。
89没個性化されたレス↓:04/11/06 21:25:25

ダーウィン主義は、種から種への変異についての仮説を
組み立てるために、突然変異種を使うわけだが、これに
ついてはどうか。形而上学的な観点から言えば、こうした
突然変異は、その種が許容した変異だということになる。
それはあたかも、自然はこれまで考えていたよりもずっと
多産的で、生命を愛しており、まずはっきりと、ほかと区別
できる形の種を作り出し、そしてそれから、そこに変化を
つけようとするかのようだ。自然は、その種の本質的な
限界を踏み越えない範囲で、ほかの種の形をそこに映し
出そうとしている。こうしてみると、突然変異とは、新しい
種を作り出すものではない。たとえば、イルカは何から
何の種になろうとしているのか、まだ証明されていない。
それはむしろものまねなのだ。ある種は、それとは本質的
に異なる種のやり方や姿を模倣しているのである。それは、
単に適応や生存のための、功利的な理由からだけでは
ない。部分的には、多くの部分だが、それは「遊び」なのだ。
純粋な形を変えること自体の喜びなのだ。存在はそれ自体
とても良きものなり、ということで、神はその存在の可能性
を試してみる誘惑に勝てない。イルカやクジラは、もし魚
であったらどういう感じだろうかと思っている、原型的な
哺乳類なのだ。アルマジロは、「もしウロコをつけて、哺乳
類を演じたら面白いのじゃないか」と考えた結果、ああな
っている。こういうイメージをさらにすすめれば、エサをつい
ばみ飛び回っている虹色のハチドリは、自分が蝶であると
想像している鳥である。それはインドラの網のようでもある。
すべての宝石はほかの宝石と、互いを映しあっている。
それは「万物照応(コレスポンデンス)」である。
90没個性化されたレス↓:04/11/06 21:26:12

私はここでコンピュータの生成ユニットのようなことをして
おり、テストユニットではないということは認めよう。だが、
ここでさらに踏み込んでいうならば、進化論者が人間の
前段階だと考えている骨は、もしかすると人間ができた
以後のものかもしれない。それは退化した派生種の残した
ものかもしれない。初期の人類のサイクルが終息に迎え
た、その一番最後の姿だということもありうる。実際、神話
が語るのは進化ではなく退化である。そして、後代の人間
の姿は、必ずしも進んでいるわけではないことも周知の
事実だ。シュタインハイム人はネアンデルタール人より前
にいたが、もっと「進化」している。

これはあまりに幻想的だと思うかもしれない。だが私は、
人間の起源という問題に入るにあたって、衝撃的なことを
言うと約束したはずだ。もしこれはいきすぎだとするなら、
それも考えがあってのことである。弁護のためには、こう
言えば十分だろう。私は何事も無責任に述べてきたわけ
ではないが、最も確信をもって言えることは、次のことで
ある。
91没個性化されたレス↓:04/11/06 21:26:50

現代の生物学モデルは、抗生物質を発見するなど、役に
立つところはあるが、生命の「理解」ということに関しては、
こうしたモデルはほとんど役に立たない。もっと言えば、
有害ですらある。諸科学において、物理学は存在論的に
は最も低次のものである。物理学は、その最も原始的な
姿において物質を扱っている。それとともに、物理学は
その世界を「見通して」、その輝ける彼方の世界を見ること
において、経験科学のうち第一のものである。物理学は、
時間や空間が、二次的なものであることを「知っている」。
リアルであることの、想像を超えた、超越的な性質を
「知っている」。

もし、私がここで論じたことの細かい点が間違っていたと
仮定したとしても、これだけは確かだと思う、もし近代科学
が存続していくなら、ダーウィン主義を含め、今の生物学
における理論は、そのうちに(たぶん短い間に)、ニュート
ン物理学と同様、不適切なものであることが明らかになる
だろう。

生命科学は、音速の壁のように、その壁を突破していく
だろう。その喜ばしい日に、生物学者たちは物理学者の
ように語り始めるだろう。リチャード・ファインマンのように、
こう言うだろう、「私たちは、新しい世界観を見出さねば
ならない」。あるいはフリーマン・ダイソンのように、「一見
したところ気が狂ったように見えないような考えには、
望みはない」。
92没個性化されたレス↓:04/11/06 21:27:30
にゃははは。
93没個性化されたレス↓:04/11/06 21:32:57

ここでようやく進化論についての議論を終えることができ
たようである。進歩という考えは科学と技術に支えられて
いるが、その最も主要な支えは進化論だったのである。
こういう支えに文句をつけることには気が進まないという
人もいるだろう。というのも、それ以外に希望を見出すべき
場所をすべて封印してしまった時代にあっては、進化を
攻撃すること、進歩のため残された最後の支えを無力化
しようとすることは、希望そのものを無力化することになる。
近代世界では、進歩とは、希望に許された唯一の形に
なっているからだ。希望は人間の幸福にとってなくては
ならないものである。

だが真理を取るのか、それともその結果が意味することを
考えて、真理から目をそらすのか、そのどちらかを選ばな
ければならないとき、少なくとも、知識(グノーシス)の道に
よって、神(リアリティ)に近づこうとする人々は、真理を
選ばざるを得ないことがわかるだろう。