おかしくなってもいたけど、浮かれて調子乗ってた自分が
悪かったとすごく思います。心理学とかなんか思い込んで
たし、心理学板もよくわかってなかったし。適した場所、
適さない場所って、あると思いますし、とにかく、どう進むに
しても、もうちょっと、自分でちゃんと調べて勉強しないとな、
と思いました。早すぎました。そういうのを痛感したのは、
よかったかもしれないです。だからここを読んでなんか、
へたに思い込まないでほしいです。よくわかってなかった
ことなので。うそとかも平気で書いてて、影響もあって、
動揺ってものすごくあります。ちゃんと調べて、なんでも
興味もつことだと思います。そうやって見つけることだと
思います。自分もそういうところなのでほんとはそれしか
いえないんです。自分としては、一度、こういうことを抜き
にして、また一からいろいろ調べたり、勉強に戻っている
ところで。バランスくずしてたのはほんとですけど、いろいろ
聞かれて言ってて本気にされて後悔ってのもあります。
他人とかじゃなくて、自分の問題ですから。やっぱり、
精神的に不安定な時期は、ネットとかやめたほうがいい
です。すぐにいろんな影響とか受けますし。いろいろ変な
ことになってごめんなさい。1年くらいして、自分が固まって
から、ネットとかはやりたいと思います。精神的にすごく
弱いみたいで、強がるだけでよくないんで。あんまり気を
使わせたり心配かけたくないんで、このくらいにさせて
ください。
>>333-357ありがとうございました。横道にそれ
ましたが、自分の弱さと向き合ってるところです。馬鹿に
早くに気づけてよかったです。目標がまだあいまいですが、
やっぱり目先の努力の継続からしかないとおもいます。
それでは。
>>333-357
今回の混乱もあって、実はこの半年でけっこう調べてたし、
知識も変化してます。あくまで進路を考えるためのもの
なので、ひけらかしたりできるもんじゃないですけど。
それで変化したところもあると思います。この混乱もあって、
なにか勘違いして増長してたようなところがあったと思い
ます。それを自覚しました。背伸びして知ったふうな
生意気なこといったり、余計な迷惑かけてすみません
でした。さんざん悪口いわれてたので、それでむきになっ
ていたところもあるけど、性格的・品性的な問題点は
わかりました。悪口いわれて当然なところはたくさんあった
とおもいます。やっぱり知識とか文章とか心理学がどう
というより、そういう基本のところで、すごくバランスが
かたよりつつあったみたいです。それはみなさんのほうが
よっぽど感じていたことだと思うんです。こういうことを
考えすぎると、身の程知らずの傲慢さがでることもある
ようで、これからそこにとくに気をつけたいです。
やっぱり、自分の精神の問題、甘い考えの問題がほとんど
だったと思います。いいかげんもう、なんとなく自覚をとり
もどしました。自分の場合は、それに向き合って、受け入れて
取り組むまえに、何かに頼って理屈で正当化しようとしはじめ
てたところがあったと思います。馬鹿にされたくないとか、
つまらないなんにもならないプライドとか持ち始めてたので
捨てようと思います。よけい恥をさらすだけですし。自分の
場合は、まず自分に精神的な問題がでてきはじめてたので、
そういう個人的な問題を、ここの内容とか、心理学とか、
科学そのものに安易に結びつけて説明しはじめたのはまず
かったなと思いました。まったく関係ないものとして、切り
離さないとだめだなと思います。やっぱり、こういうものって、
受け取るとき、考えるときの状態によっては、よりバランス
を崩していくようなので、自分で注意が必要なんだと思います。
自分の場合、そういう問題があったので、そこに注意しつづ
けないと、他人を混乱させたり、迷惑かけてしまうようです。
やっぱり、科学的な心理学というのは、自分の問題と、
切り離すようなものなんだろうと思います。自分に問題が
でてきたときに、それを自覚しないまま、そこに知識をつみ
かさねたり、心理学とか精神に関わるものに生半可に
関わったりするのはまずいと思いました。そうやって自分を
ほんとうの意味で自覚しながら考えてみると、バランスを
取り戻して、いろいろ本来の物分かりがよくなってくるところ
があるようです。精神的に問題がでてきたとき、その状態
のまま知識とか理屈にたよりはじめるのではなく、つねに
自分をきちんとチェックしつづけることが大切のようです。
そこに油断というか、甘さや緩みが大きくなってくると、
どんどんおかしくなってきたり、ずれてくるところがあるよう
です。そうして自分にでてきた問題をきちんと自覚してみると、
これまでの周囲の反応や、批判的な内容も、冷静に受け
止めることができるようです。なかなか自分が自覚できなく
なってきたとき、自分から自覚をとりもどすのはむずかしい
もののようです。やっぱりそういう自覚が甘くなってくると、
言葉だけが上滑りしてきたり、言葉遊びの世界に入って
しまうようです。この自分の問題は、これからの課題です。
今回のことは自分の問題として受け止めてます。
やっぱりまだ誰も予想のつかないような、そういう見当
はずれの遠い未来予想図のような夢ばかりみはじめても
しょうがないと思いました。なんでも、具体的なところから、
順番にやっていって、なにかまだまったく知らない新しい
ものが、どこからでも、開けてくるのかもしれないんだろう
と思います。ここにきて、そういう、これが答えだ、みたいな、
そういうわかりやすい突破口のようなヒントが、なにか
わかったり、生まれたり、見えてくるのかと、内心、そういう
期待があったのかもしれません。けどやっぱり、なにか
わかりやすいものが見えてきたわけじゃなかったです。
それどころか、全然裏目に出ました。なにかまったく新しい
ものっていうのは、ずっと先の、これからなんだろうと思い
ます。期待とか夢が現実はずれしてふくらみすぎるのも、
無理がでてくるし、無駄で不要な落ち込みがふえるだけで
問題だったようです。そう考えると落ち込んだだけで、
今回のことは損でした。やっぱりここにくるまえとか、
最初のほうが、よっぽど思い込みとか勘違いだけど、
希望にみちて明るくなってました。おかしくもなってたし、
無駄に落ち込んだだけだし、やらなきゃよかったです。
それが後悔です。やっぱり今の自分の現実からそれかけ
てました。まだ決めてないうちに、いろいろ自覚しなければ
いけないこととか、どんどんわかったので、それはよかっ
たです。幼稚さとか未熟さとか若さとかをさらけだして、
かなり恥ずかしいと思ってます。
いいかげんここらへんにしておきます。もうここ以外みて
ないし、自分に集中できなくなるので1年はネットから離れ
ます。悪夢をみました。それではいろいろ混乱とか迷惑
とかかけて、すみませんでした。でもだいぶ、自分の道が
はっきりしてきたところも、実はあります。だから悪いこと、
無駄なことばかりではありませんでした。それではいいか
げんにしておきます。
あと、こっちがよっぽど不幸であるとか、逆によっぽど
有利であるとか、両極端でないと気がすまない人が多い
ので、自分もそういう感じになってくるところありましたが、
みなさんよりは若いし、バランスがくずれかけただけで、
まだけっこう、普通くらいだと思ってます。努力が足り
なかったところとか、甘い考えのところはありましたけど。
いろいろ先のことを読みすぎて、へんな影響を受けて、
常識からだいぶそれかけてたようです。いろいろ影響
受けやすい時期のようだし、自分でも自分がよくわから
ないところもあるし、ここしばらくは、必要以上に常識に
そっていきたいです。やっぱり勉強でした。。。
いろいろどうでもいいこと書きすぎました。やっぱり一人
の人間にできることにはどうしても限界がありますから・・。
自分も、自分の限界のなかで、なんらかを選び、それ以外
の可能性を切り捨てる必要がありますから。いろいろ
あまりに広範に、余計なことを考えすぎていました。
本だけにむかっていたほうが落ち着くようです。今回の
事件で、ネットのあれこれが頭から離れなくなってしまい
ましたが、これにこりたため、ここ1年くらいはネットとは
無縁になりそうです。自分の道が見えてきたので、そこに
集中していきたいです。それでは、お騒がせしました。
>>357 はあ、ほんとどうかしてました。
あのわけのわからなさはいったいなんなんなのか、
自分でも受け入れがたいですけど。
やっぱりコスモロジーっていうんですか、
そういうものを背景として互いに共有していないと、
とんでもないことになりますね。
その重要性を感じます。
たぶん、はたからみたら、
滑稽にしかみえないんじゃないですか。
今回のことがどんな状態のものだったのかは、
いずれ、なんらかのかたちで、
自分で理解、受容することになるのかもしれません。
いまは判断保留です。
それでは大学受験板にもどります。
いまはプライオリティとして、こういうことから、
まったく興味がはなれてます。
ここの人たちよりも、よっぽど接点がないくらい、
はなれてます。そういう時期のようです。
この成り行き上、無理して興味をもちつづけなければ、
また、意識を向けて関わらなければならないのか、
そういう妙な条件付けが強化されてしまってたようで、
重荷になってました。
無節操ながら、興味の移りとか、けっこうあるので。
そういう感じですね。明るく、行動的、生産的に、
前向きにきりかえることでしょう。
こんな馬鹿なことになるとは思いませんでした。
ではでは。もうおしまいにしときます。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
S ────────────→ RT
(刺激) / (全体行動)
/
/
/
/
〆
[S] ───→ rm −−−− Sm ───→ Rx
(Sに対する (心理反応) (自己刺激) (観察可能な実際行動)
音声記号) ↑
│
過去のRTの部分を表象
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
次なる人生に向けて旅立たれたようですね
もうここには来ないのでしょうけど、
私からエールを送りますよ
あなたの人生に乾杯!
そういえばこの前、たまたま通りがった所で
コーヒーカラーが街頭ライブやってたので見ましたよ
甘い声と振り返った哀愁ただよう背中で
見事に魅せてくれてましたよ
ああそう、384は気にしないで下さい
ここでの一連のお話とは全く関係ないものですよ
ええ、ただの私の趣味ですから
本当になんでもないんです
気にしないことが一番の処方箋ですよ
受け売りになりますが、
人間というのは、その生きる現実の中にですね、
意味を見出すのですよ
デューイも言っていますが、現実とは物理的自然や
物の世界ではなく、
意味を担い意味を帯びた記号の世界だと言えるのですよ
その記号的世界の中にあって、私たちは、その意味を解釈しながら、
時に意味に泣き、笑い、喜び、怒り、悲しみ、
意味を恐れるのですよ
また意味のために生き続け、ときには、死に意味を見出すのです
まさしく、意味を解釈するという存在の、
また、意味を産み出すという存在
それが人間なんですね
意味ですか、そうですね
意味は時として、それが観察不可能であり、
対象化不可能ゆえに、扱いがとても困難なものなのですよ
意味には、精神や心や魂が付着するからでして、
それに加え、意味は価値ともなりうるからですよ
記号から意味を解釈する場合に、
人間的事象に意味が抵触するにつれ、
評価なり価値が不可避的に介入してくるのです
ですから、ある種の記号の意味は、
価値と切り離せない深い関係があるのですよ
つまり、辞書的意味と価値的意味というような
意味の二重性があるのです
あたりまえですね
脱線しましたが、要するにですね
意味の測定理論を唱えたですね
オスグッドの表象媒介過程なんですね
つまりですね、rmがSmを生ずる過程を
rmがRTを表象しつつ、rmがSmを媒介するんですよ
これが表象媒介過程なんでして、
それを[S]の意味とみなすんですね
以上のことは忘れてください
ただのメモみたいなものですから
といっても、あなたはもうこれ見ないですから
別にどうでもいいことなのですけどね
それよりも、進化というものは、
膨大な時間がかかるものなんですよ
現代の人間の身体機能や認知機能が形づくられたのは、
人間が農耕牧畜を始め、文明の基礎を築きはじめたころからでは、
時間的に短すぎるんですよ
つまり、その時期から、人間の各種機能自体は、
たいして変わってないんですね
それに比べ、文明や環境というのは、
その時代から一変して大変化を遂げたんですよ
環境の急激な変化に対して、
人間側が追いついてないですよ
>>389 余計かもしれませんが、最後にひとこと。
社会心理学に予言の自己成就ってあります。
思えばそれがすべてでした。
だから現実は、たぶん想像しているのとは、
全然違う人物でしょう。
ここからプラスに転じていくしかないです。
では、この、お互いに
ストレスフルにしかならない場所をもうさっさと離れて、
前向きに、良いこと、美しいこと、ポジティブなこと、
驚きのあること、そういうものを見ていきたいです。
ここまで齟齬がふえると、
自分を受け入れて立ち直るのもたいへんです。
そんな、強くないですから。なかなか自然になれません。
でも自分で自分を明るくするしかありませんから。
389さんもしばらくしたら忘れて、
そうしていくんだろうと思います。
389さんのこと、一人の人間としてみてますから。
それでは、散々でしたが、
お付き合いしてくれたことに感謝します。
影響の意外性のことがあって、長い間、ぐだぐだ、
いらぬご心配、ご迷惑かけてすみませんでした。
ほんとにただの軽はずみでしかありませんでした。
まさかここまでなるなんて、思いもしなかったです。
あまりに周囲が本気にするので、自分でも
こわくなってきて、どうしたら冗談ですんでもらえるか、
と、思ったのです。子供のいたずらに近かったです。
まともなところに書いてあることでもあるようだし、
ネットと現実は別物だろうから、紹介してみるか、
そのくらいの感覚だったのです。
あまりに周囲が気にするので、最後にどう書いたら、
どういう解釈とか影響がでてしまうんだろう?、
そう思うと、不安で不安でしかたなくて、
ついつい気になって、言葉を重ねてしまったのです。
ごめんなさい。こんなに影響あるなら、
ほんとは誰にも影響なんて与えたくなかったです。
あんまり自覚がなかったです。
なにか本気にしている人は忘れてほしいと思います。
これまで、ほかでもいろいろ書いてたりしましたが、
そこではなにもかも普通に通じて、なんの違和感なく
受け取られてたし、自分でも自然に話すことができました。
けど、ここだけは、普通に書いているつもりなのに、
とても病的に問題とか特徴のある性格のように
受け取られてしまいます。それで自分でも、それを意識してか、
自分からゆがんだ感じになってくところありました。
下手なことしたから、しょうがないのかもしれません。
その違和感もあったのかもしれません。
どうもここにくると気が重くなって、
どう解釈されるんだろう?と思うとこわくなって、
なにを書いても調子がくるいます。
コピーが終わってから、
どんどん人格障害とかのスレッドがみるみる上昇して、
活性化して、あんまり考えてコピーしていなかったのに、
そこから解釈になってプロファイリングができるし、
知りもしない他人のように心の中がのぞかれてるようで、
ほんとにこわかったです。
ほんのはずみで、起こってしまったことだったのです。
それなのに、プライベートのぞかれるのこわいですし。
それで周囲に合わせたほうが楽かなと思ったのです。
それで自分でも、自分からそれに合わせて、
さっさと完成させるかのように、
どんどんおかしな行動していったのです。
不思議でした。
幼稚すぎただけで、ほんとは普通だったんです。
場所だけで、ここまで人間変になってくとは思いませんでした。
もうこういうことはやりませんから、ゆるしてください。
どうせネットだと思っていたら、
とんだ悪夢に発展しました。
なにもいい気分なんてなくて、落ち込む一方でした。
でもまさか、ここまで自分から裏目に出るような、
そういう挑発的な演技みたいなことを、
いつまでも続けるもんだとは思いませんでした。
まさか幼稚な思いつきだけで、こんな行動するとか、
こんなに悪影響がでるものだとは。。
こんなこと経験したことなかったし、
人間心理って不思議です。
自分でも自分が信じられないくらいで。
この場所はもう、すっかり忘れてしまったほうがよさそうです。
コピーしていたときは、色々な影響で、
このくらいなら冗談で通じるだろう、と思って、
ふざけながらあおったくらいというか、
紹介していただけとしか思えません。
そのときは、なんの予備知識もありませんでした。
そしたら周囲が騒ぎ始めたので、とまどって、疑問がでて、
たしか、ふざけた、とか書いていたと思います。
そのくらいのものだったと思います。
それでおさまらなかったようで、
ここに書いたものは、周囲の解釈からの影響だけで、
自分から無理して作り上げたものでした。
その証拠に、どれもなにかの原案が先にちゃんとあって、
わざとらしいほどわかりやすくなっていると思います。
自分から作り上げていったようです。
なんでわざわざ、そんな混乱をまねくことをしたのか
わかりません。最初からどうしてこうなったか、
こうして書いておけばよかったのですが、
どういうわけか、そういう風にはなりませんでした。
演技表現するかのように、続いてしまいました。
やっぱり、自己暗示というか、
社会心理学的なものなんだろうと思います。
それをやっと抜けきったんだろうと思います。
その証拠に、たしか、他人の解釈や反応がでてきたあと、
とまどいながら、アートとか、書いていたと思います。
それがあの原案なんです。
最初から最後まで、そういうほんの軽はずみのアートを、
馬鹿だから、ネットだからと後先考えず、軽く考えて、
やってしまってたということです。
そのとき、書いていたと思いますけど、
なんかなにもかも子供だから楽観的に信用しきっていて、
適当に検索して放り込んでしまってただけで、
ものすごく安易にやってて、あんまり読んでなかったです。
周囲の影響を軽く受けてて、今思うと、こわかったです。
まだ当時、ネットに慣れていなかったので、
よくここの掲示板の仕組みがわかってなかったと思います。
5,6人が見ているもんだと思ってました。
まさか多くの人が見ていたり、どんどん影響がでたり、
そういう画面の後先のことは想像してなかったです。
たったあれだけの、信用しきって調子に乗って、
いつのまにか天才アーティストに同化して、
なりきっていただけの、そういうコピーのことで、
まさか外に広まることも想像してませんでした。
あとで外を眺めたら、人格障害のスレッドが
おもしろいほど、どんどん上昇をはじめたんです。
ものすごくおどろいたし、とまどいました。
それで、アーティストとして、
調子に乗ってしまったのかもしれません。
そこをたどって、いろんな日記も知ったりしました。
あんまり現実というより、ネットでのことのつもりでした。
どれもネットで知ったものだけでしたし。
どうも、ネットと現実を、別感覚と考えてしまってたようです。
ここがまだ早すぎるし、
噛み合わなくなって調子がくるってきただけで、
現実や、ほかのところだと、そうでもないんですが。
やっぱり、ここはなにもかも早すぎたんです。
どこも一緒だと思ってたんです。
これからは、もうちょっと現実と同じように考えたいです。
そのときはまだやっぱり心理学とかよく知りませんでした。
こことかいろいろ周辺に書いてあったことを、
読んできただけのことです。
よく書けないことは、へたに書かないことにしました。
といっても、ここでの経験があってから、
現実以上に現実味を感じてしまってました。
時間の無駄で、やらなきゃよかったです。
こんなに影響が広がると知ってたら、やらなかったです。
そのときは、その場限りのつもりでした。
自分でも不安で離れられなくなってしまったんです。
なにもいいことなんてありませんでした。
純粋に、素直に、鵜呑みにして、
こういうのも、これはこれで必要になってくるのでは、
最初はそのくらいのつもりだったと思います。
それ以上のものはなかったです。
けれど、周囲のこととか考えてなかったし、
まずかったと思います。
予想外で開き直って、予言の自己成就という名の、
アートが始まってしまっていたのかもしれません。
とにかくそうやって、向こう見ずに、後先考えずに、
周囲のペースに乗っていくだけだったので、
あとになるほど、説明するのにどうにもならなくなって、
ものすごくこわかったです。
どれもほんとはけっこう適当に言っていただけです。
でもここはまじめな人ばかりだったので、
そういうところとわかってたらふざけませんでした。
いつのまにかそういう理由が許されないような、
そういう雰囲気になってました。
調子にのってただけ、なんて言えません。
やっぱりネットは、とくにここは、気が緩むとこわいです。
とくに注目されてはじめて気づいて自覚しました。
ネットと現実を別々にしてたので。
その結果があとになってつけがきて、
ここで苦しめられることになりました。
終始、おかしな演技をしだすしかなかったんです。
どれもこれも、ここでのストレスでのことでしかないです。
まさか、こんなになるとは、思いもしませんでした。
こんなこと経験したことなんてなかったです。
なかなかひっこみがつかない無駄なことでした。
ご迷惑をおかけしてすみませんでした。
自分の問題はやっと解決しました。
もうここへは来ないです。ここまで続けたのは、
どれもこれもネットだけのことでしかないし、
プライベートもさらけだしたくなんてないし、
よくわかってたなら影響もあたえたくもなかったし、
自分のことを書いていたわけではなかったので、
真に受けないでほしいと思ったからかもしれません。
影響をうけた人はもう忘れてほしいと思ってます。
自分の思春期的な未熟さからきただけのものが、
勝手に一人歩きして広がってしまって苦しんだし、
それを収めるために、わざと裏目に出るようなことをして、
これだけ無責任なものになってもしまってたし、
苦しんだだけなので、忘れるしかしょうがないです。
もうこういうことは一生やりたいと思わないですし。
興味もつひとのことも認めたいし、
それを妨げたくもないけれど、
普通は無理して興味もつものでもなさそうです。
ここまでおかしなことになることもあるようで、
それなりの準備とかもいるんでしょう。
はっきりいって、こういうことは、
そういうオカルト板とかそういうところの人々のほうが、
よっぽどあたりまえのように知ってたことでしょう。
ちゃんと知らなかったから、
ここまで長く、アートみたいな感覚で平気でやれもして、
勘違いして自覚がなかっただけですから。
やっぱりちょっと抜けたところがあったんです。
自分の現実と密接だったわけじゃないし、
かといって否定するほどの関係もないんです。
最初は若気の至り、なりゆきがほとんどです。
だから本気で受け取られるとこまります。
自分はこういうことに詳しくも親しくもなくて、
そういう人はオカルト板とかよっぽど他にいるんでしょう。
そういうところも読んだことなかったんです。
それなのによっぽど肯定とか否定とか
そういう関係があると思われてしまってて、
それが不安で続いたのがほとんどです。
不真面目で馬鹿はやったものの、普通だったんです。
それなのに注目されたので、分相応でした。
思春期的な問題がひとつ解決したようです。
無駄なことでした。
もうさんざんこれで書かないといいつつ、
後にどういう影響をおよぼしてしまうんだろうか?
というようないらぬ不安で、
ついつい言葉を足してしまったのです。
もう信用なんてないと思いますが、
もう本当にこれを最後に、ここを去るつもりです。
たぶん、このあとに389さんが書かれても、
それはもう、ほんとうに読むことはないでしょう。
これを最後に、ここを読むことはないと決めましたから。
このあとに、なにか書きこみがあってもなくても、
もう本人が書くことはないでしょう。
なにか書かれたとしたら、それは別人でしょう。
やっとすべての整理がついたようです。
これまでの物理学を中心とした科学ではですね、
モノの価値・有用性が研究対象になることは、
決してなかったわけなんですよ
しかしですね、
生命現象というものを理解するためにはですね、
価値の概念はきわめて重要なわけなのですよ
価値の概念は、食べる・寝る・繁殖することなどなど
さまざまな活動に適用することができるのですよ
モノや活動過程の価値を決定することによってですね、
生物は世界や自分自身を主体的に解釈してですね、
生物は環境世界を作り上げていくのですよ
有用性とは性質ではなく、
モノと使用者との関係ですよ
使用者とは、有用なモノからなる一つの集合体
にすぎないわけですよ
使用者とは、部分間の諸関係のセット
に他ならないわけですよ
つまりですね、パッティーが言うですね、
意味論的な囲い込みなんですよ
さまざまな関係によって結びつけられた
諸要素の組み合わせというのはですね、
それが意味論的に閉じた環になるkとにより
はじめて自律的となるのですよ
つまりですね、閉じた環とは、
自己自身をどんどん複製しながらですね、
その自己複製過程の中で自己とは何かを
定義することですよ
自律的なシステムにおけるですね、
各構成要素や関係のもつ価値というのは、
それらがシステムの自己複製をする能力に
どれほど役に立ったかということにって
一致して決まるわけですよ
経験などから学習する能力のないですね
単純な生物なんかの場合はですね、
ライフサイクルの各段階において、
生物の価値を最大化するというメカニズムは、
自然選択なんですよ
他方、高等動物の場合はですね、
自然選択が起こる前にですね、
自らの価値を見積もることができるんですよ
すなわちですねよ、高等動物というのは、
死を避けて行動を最適化することができるんです
学習ですか、そうですね
こんな実験がありますよ
生まれたばかりの赤ちゃんにですね、
一方の乳首を吸うと産みの母親の声を
他方の乳首を吸うと他の女性の声が
テープから流れるよう実験をしたんです
それで、生まれたばかりの赤ちゃんは、
どちらの声を好むのか調べたんですね
その結果ですね、生まれたばかりの赤ちゃんは、
産みの母親の声の出る乳首を好んで吸ったんですよ
これが母胎内学習なんですよ
なんか、関係ない方向にいってしまいましたね
気にしないで下さい
あなたは、もう読まないのですからね
これは、読んでもらうために書いているのではありませんから
この世界は、生物の身体とそれを取り巻くモノ
生物がさまざまな活動のために利用するモノ
から成り立っていますよ
高等動物は、自分たちの環境世界の構成要素に対応した
記号を作り出すことができますね
どんな人間も自分の言語辞書をもっており、
それによってですね、
自分の環境世界を記述することができるのですよ
言語とは、コミュニケーションをする個々人が
特定の記号をどう使用するかについて、
相互に合意した結果として生じたものなのですよ
したがいまして、人間の言語における文には、
究極的で固定的な意味など存在しないのですよ
意味とは習慣に他ならないのですよ
仮説を検証することは記号過程であり、
そこで私たちは古い単語を
新しい対象に応用しているのですよ
結局ですね、相互理解していくほかないんですよ
わかりますか?
神は、信仰の厚い人の環境世界の中で
非常に重要な部分を占めています
宗教的経験は、大多数の人々にとって
有用なものである場合が多々ありますよ
しかしですね、皆がそれを必要としている
とは限らないわけですよ
人々は異なる環境世界をもっているがゆえに
神が存在するか否か、
をめぐってですね、意見が一致すること
なんてありえないんですよ
しかしですね、
環境世界はそれぞれ異なっていつつも
その中でですね、重なり合っている部分を
利用しながらですね、
意見交換がなされるわけですよ
神をめぐって意見が一致しないからといってですね、
人々のコミュニケーションというものが
妨げられることはありえないのですよ
個人A(=B)の外的行動が、
個人B(=A)に対して刺激(=反応)である場合、
それは同様に個人A(=B)の内的態度においても
刺激(=反応)なんですよ
このような相互行為の過程の中からですね、
AとBに共通反応を惹き起こしえる
有意味シンボルが成立するようになるのですよ
その最も典型的なものが言語なのですね
いいですか?
つまりまとめてみるとですね、
意味発生の基盤というのは、
(1)ある個人Aの身振り
(2)Aの身振りに対する他の個人Bの反応的身振り
(3)AとBの身振りを端緒とする社会的相互作用の結果
というような三つの関係に見いだせるのですよ
Aの身振りの「意味」は、
Bの反応となるのですよ
動物の場合は、みずからの身振りが
相手に生じさせる反応を
自分自身のうちに惹き起こすことはできないのです
しかしですね、人間の場合というのはですね、
Aの身振りの「意味」であるBの反応は、
身振りをしている当事者の個人Aの内面においても
惹き起こされるのですよ
このような相互行為の反復過程によってですね、
Aの身振りは有意味シンボルとして形成されるのですよy
有意味シンボルというのはですね
ある対象を他者と同様に自分自身にも
指示するものなのですよ
つまり、そういうkとなんです
それがどうかしましたか?
>>400 それはなによりですよ
新路はもうきまったのでしょうかね?
ここは私のメモ帳みたいな感じになりそうですよ
そうですね、そう、
もうこのレスは読まないそうですけど、
これは読んでみてくださいよ
熊木 徹夫(著)
「精神科医になる 患者を<わかる>ということ」 中公新書
これですよ
もう既にお読みになっているかもしれませんが、
何回も読んでみるといいですよ
マリリンさん
410 :
没個性化されたレス↓:05/03/11 07:51:52
内勤に楽させるな。
必ずモーニングコール頼め。
それで出発確認もしろ。
ん?
412 :
没個性化されたレス↓:2005/07/12(火) 21:40:59
保守
413 :
没個性化されたレス↓:2005/07/12(火) 23:19:23
救済も下手な押し付けになると一種の暴力だからね。
一方的な救済主義の押し付けはカルト教団のやり方と同じになる。
カルト教団のやり口は一般に次のとおり。
1.将来の不安を煽った救済思想の布教
2.強引な入会への手続き
3.脱会を許さないか、脱会を「救済の拒否」として罪悪視し、
救済を拒否すれば、「お前は必ず不幸になるぞ」と脅す
4.個人の自己決定能力の否定か制限
これは小集団レヴェルにも国家レヴェルにも言えると思う。
>>414 こういうのを宗教社会学用語でパターナリズムともいう。
416 :
没個性化されたレス↓:2005/12/15(木) 17:47:22
416
418
419 :
没個性化されたレス↓:2006/09/09(土) 15:07:23
透視リーディングをプロとしてができるようになりたいので
スクールに通おうと思うのですが、米国クリアサイト協会の英語名を教えてください。また、勉強するのに一番いいところがそこですか?日本でも米国クリア協会のコースと名乗るスクールがいくつかあるようなのですが、
日本で受けても米国クリアサイト協会の認定が受けられるのですか?
(読者の声1)先週、両国国技館で行われたダライ・ラマ法王猊下の講演会に行って参ったのですが、
考えさせられること多々あります。
猊下の発言。中国に支配されるチベットの厳しい現況、未来を考え、政治的発言を自ら控えておられる猊下の心情は
察するに余りあります。またノーベル平和賞受賞者としての道義的責任、そして猊下自らが宗教的カリスマである現実、
発言内容に極力気を使われておられるのでしょう。
以上を頭では理解しながらも、しかし、結ぶところである「許し、愛し、解り合う」ではチベットは返ってこないのでは?
と思ったのは小生だけでしょうか。
平和的対話は大事であります。しかし血を流さずして民族の独立とは可能なのか?
猊下の本心がどこにあるのか気になった次第です。
もちろん産経の取材記事などを読みますと、最近開通した青蔵鉄道や人権問題等について批判的に述べておられ、
単に中国との妥協点に急接近されておられるばかりではなしと考えられます。
ご存知のように近年、猊下は訪中、もしくは帰国を模索されており、北京特使と交渉を重ねています。
北京は独立放棄を求め、そのかわりに「高度な自治権」を「約束」するとか。
11月2日の毎日新聞によると猊下は「我われは独立を望んでおらず、外交と国防以外の自治を求める現実的な方策を
主張しており、(帰還)を楽観している」と発言されています。果たして外交と国防の伴わない自治とはいかなるものなのでしょうか。
また講演内容とは別の問題で解せないのは、現在日本人一般にダライ・ラマ法王猊下とはどういった存在として
捉えられているのかであります。一般人にどう認識されているのか?
単なるカルト的な「スピリチュアル・リーダー」として捉えられているだけでは?
というのも会場の聴講者、大半が所謂サブカルチャー系で占められていた現状です。
ラブ&ピース的様相の若者も決して少数はではありません。
小生の認識では決してダライ・ラマ法王とラブ&ピース的思想は重なり合わないのですが。
あと新興宗教の筋の方も多数おられました。
講演で設けられた質疑応答、猊下へ投げかけられる質問といいますと「背後霊についてどう考えられるか?」、
「最近、何かに操られているのですか、どうすればいいのか?」、「光のパワーを私にお与え下さい!」等々、
猊下も困惑気味。
人権問題などの「生臭い」質問はなし。
欧米では人権問題、チベット難民問題、中国問題といったハードな話題で取り上げられる猊下でありますが、
この日本においては「サブカル・カルト的」な存在のカリスマとして捉えられる方々がどうもマジョリティーのようで
あります、ビックリいたしました。
やはり日本では大メディアのニグレクトが、そのダライ・ラマ像の誤解を作り上げてしまったのではないかと
思った次第です。
宮崎先生はどうお考えになりますか?
(AI生、渋谷)
(宮崎正弘のコメント)ちょうど二十五年前、加瀬英明・三好修両氏主宰の「日本安全保障研究センター」
(小生がボランティア事務局長でした)で、ダライ・ラマ猊下をお招きして、東京で講演会をおこなってことがあります。
そのおり参加者のなかに新興宗教指導者がまじり、なかには怪しげな指導者がいて、(あの麻原がインドへ行った
おりも猊下は拝謁を許されましたが)、盛んに記念写真を撮っていました。この俗物根性め、と新興宗教の連中の一部を
こころのなかで罵った事を思い出しました。
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