スレ復活あげ。
彼は何がしたかったんでしょうねさげ。
しまったMozilla化け
ミンデルが重要だと言いたい。
グロフしか知らない
前回の講義では、次のような問題構造が現れた。
・自分たちが「常識」と考えているものの見方は、近代特有
のものに過ぎず、決して普遍的なものとは言えないこと。
・すべて人間は枠組・フィルターを通してものを見る。これを
世界観・宇宙観・パラダイムなどと呼ぶ。それは多くの場合
暗黙の前提としてある。そうした枠組の存在は、「エッジ」の
部分において明確になる。近代的世界の場合、超能力・
死後世界・霊的なことに関するものがこうしたエッジとして
ある。
現代は、「近代パラダイム」から「脱近代パラダイム」への
転換期にある。脱近代パラダイムは、多くの点で、前近代
パラダイムが持っていて、近代パラダイムが抑圧し、否定
したものを復権させるという要素を持っている。
概括的に言えば、近代パラダイムは「一次元世界」つまり
自分の知覚している世界が無限に続いているという世界観
を基本としている。これに対し、前近代、そして脱近代(超近代)
パラダイムは、「多次元世界」のモデルに立っている。世界は
多次元であり、それと対応して意識−心もまた多次元的
存在であるという見方である。
そこで、近代パラダイムの「前」と「後」を考え、近代パラダ
イムの限界を明らかにすることが一つの目標となる。もちろん
前と後は同じではない。
現在は、かなり激しいパラダイムの変動期、過渡期と見る
ことができる。
前近代の世界を理解したり、また脱近代の思想を考える
前に、その前提として、近代社会の世界観における特質を
理解しておかねばならない。
近代世界のパラダイムを作ったのは、デカルトとニュートン
であると考えるのが一般的である。
デカルトの思想の特徴は、「物心二元論」である。彼は
「われ思う、故にわれあり」という有名な言葉を残している。
彼によれば、物質は延長であり、心(意識)とはすなわち
思惟のことである。その二つは全く別の秩序に属するもの
と考えた。これは、それまでの中世キリスト教世界の唯心論
に対して、物質とその経験の世界の独立性を主張し、近代
科学の立場を確立しようとする意図に基づいていた。
また、物理学者ニュートンの力学は、なおも現代人の日常的
世界観の基本となっている。その特徴は、(1)均質的な時間
と空間の広がり、(2)質点としての物質、というものである。
つまり、何もない空の時空間があり、そこに「物」としての
物体が存在する、と考える。これは私たちの日常的な
「見え」の世界を作っていると考えてよい。そこに「自然法則」
という思想が確立していることに注目できる。これは近代に
特異な思想である。
近代世界のもう一つの基本となっているのが、「啓蒙主義」
である。啓蒙主義とは、「理性が人間の最高価値であり、
理性によって社会を建設すべきである」という理念であり、
これが民主主義その他の近代社会秩序の基礎となっている。
しかし、近代世界の成立する前提には、中世キリスト教の
世界秩序がある。その基本構造はそのままに、そこから
「神」の要素を抜き、そのかわりに「理性」をおいたのが、
近代的啓蒙主義の本質である。フランス革命にもそういう
要素があった。
現在の私たちの公式の世界観は、デカルト=ニュートン的な
宇宙である。そして、社会・政治的には啓蒙主義がその原則
となっている。しかしながら、こうした公式の世界観は、
人間の深い精神的欲求を満足させず、どこか抑圧するものを
持っているように感じてきた人々も多い。
近代世界の限界はどのような形で現れ、それを克服する
試みとしてどのようなものがあるのか。
その大きな流れとして「聖なるものの復権」というテーマが、
一貫して流れている。この意味で、近代の思想史は、近代
の前提に対する絶えざる反抗であり、超克の試みであった。
こういう文脈において、古代への関心もまた生まれたので
ある。
ただし、ヨーロッパにおける聖なるものは、キリスト教会の
支配下にあり、ほとんど自由のない状態であった。
つまりは、「近代理性主義の崩壊」というのが、現在の
テーマである。そこで、いかに理性を超えるか、という問題
が浮上している。
デカルト(1596〜1650)によって、物心二元論が確立した。
「物」の次元は無限の延長と考えられ、「物」の次元は独立
性があるとされた。またニュートン(1642/43〜1727)は、
この次元が自然法則に支配されているという見方を成立
させ、これは機械論的唯物論を生むことになった。これが
近代科学的な世界観の基礎となる。さらに、啓蒙主義思想
によって、人間を超える超越的次元は最終的に追放され、
理性を最高価値とする近代社会的価値観が成立した。
近代以前の世界観は、存在の大いなる連鎖といわれる、
段階を持った多数の世界次元が重なっているという多次元
的世界観を特徴としていた。これに対して古典的な意味での
近代科学的世界観は一次元的世界観であることを大きな
特徴としている。
これはまた、支配・制御を基本価値とする文化であるとも
言える。これが自然に対する抑圧的な姿勢を生み出し、
今日の生態系の危機の原因となっているという指摘もある。
また、社会的には「パノプティコン」に象徴されるように人間
に対する管理・制御の体制をもたらすことになった。また、
ここには近代における「遠近法」の確立という問題点も
見逃すことができない。遠近法・透視画法とは人間が神の
視点を獲得することを意味し、近代的な世界の「見え」の
基本的な要素となった。芸術形式はその当時の人間が
当然としていた世界の「見え」を前提としていることに注意
する必要がある。
理性中心主義の文化に対して、人間の根本的な心の欲求
を満たしていないという感覚は、当初からあった。そうした
違和感を持つ人間が最初に反抗を行ったのは、ロマン主義
と呼ばれる芸術運動においてである。
イギリスの詩人ウィリアム・ブレイク(1757〜1827)は、想像力
の価値を絶対とし、ニュートンのもたらした一次元的世界観を
"single vision"と呼び激しく攻撃した。そして「幻視書」と
呼ばれる奇怪な挿し絵を持つ詩編を制作した。またコール
リッジ(1772〜1834 )は、阿片を吸引した幻視を詩に書いた。
ロマン主義は、理性に対抗し、感情・感覚・想像力を重視し、
「現実」の価値を転倒させ、「夢」の世界の価値を主張した。
これは、理性で捉えられる世界のみしか扱わない近代の知の
秩序に対して、近代以前の文明が持っていた「他の世界」との
接触という経験を奪回しようとする試みであった。また神話や
古代的な知のあり方に対する関心もまた盛んになってきた。
加えて、東洋的な知(中国・インドなど)もヨーロッパの思想家に
影響を与え始めていた。そこに共通してあったのは、「非理性的
な領域を含めた、宇宙・人間についての全体的な知」への
欲求であった。この場合の「知」には感じること、経験する
ことも含まれる。
19世紀以降の芸術や学問は、こうしたテーマを軸に展開して
いった。一方、近代科学は、引き続き機械論的なパラダイムを
維持したまま発展を続けていた。ここに、物質科学と精神文化
の乖離という問題が発生してきた。
カント(1724〜1804)は、世界の認識は経験以前のパターン
(先験的形式)に基づいて成り立つと考え、理性には「物自体」
は不可知だとした。カントの試みは理性の可能性と限界を
明らかにしようとしたものである。すなわちカントによれば、
超感覚的な世界は理性では認識できないことが明らかであり、
それは理性の限界を示すものでもあったのである。
カント以降のドイツ哲学においては、理性を超えた「知的直観」
の立場などが説かれていた。ヘーゲル(1770〜1831)においては、
理性の自己回帰運動として世界を把握しようとしたが、
既にここでいう理性は、啓蒙主義的な理性とは全く異なる
ものであり、神秘的内容を帯びるに至っている。これも
大きく言えばロマン主義的な思潮の中にあるといえる。
ロマン主義芸術はワグナー(1813〜1883)の楽劇において
頂点に達した。「一次元的世界の超越」および「聖なるものの
探究」「神話の復権」というテーマは、「ニーベルンゲンの指輪」
(1876)「パルチファル」(1882)などの楽劇において明瞭に
現れている。
19世紀後半から20世紀になると、近代の理性中心主義が
「聖なる次元」を喪失させたという問題点は明瞭になっていた。
このような時、フロイト(1856〜1939)の精神分析が登場した。
フロイトの『夢判断』(1900)が「無意識の発見」の始まりを
告げるものであった。
夢の世界の独自性ということは、既にロマン主義芸術で
提示されているテーマである。フロイトは、意識は人間に
とって心の一部を占めるに過ぎず、心の大部分は無意識
という領域が占めていると考える。無意識の内容は勝手
に意識に中に入って来れないよう、「検閲」の機能がある。
この機能が弱まるとき、神経症の症状になるとされた。
また、イド・自我・超自我という理論もある。フロイトに特徴
的なところは、心の根源的エネルギーとして「リビドー」
というものを想定し、これを性的エネルギーと考えたところ
である。すなわち、無意識の内容は基本的には性的なもの
であり、無意識の抑圧は性的抑圧が生み出したもので
あった。
フロイトが20世紀の学問や芸術に与えた影響はきわめて
大きい。つまりそれは、ここではじめて人間の非理性的な
領域が学問の視野の中に入ってきたということを意味した
のである。
だが、無意識をすべて性的なものであるという理論は極端
なものであるとして、反対する声が起こってきた。その代表
的なものが、カール・グスタフ・ユング(1875〜1961)である。
彼の心理学はユング心理学と呼ばれ、彼の存命中は大きな
勢力にならなかったが、死後になって急速に普及した。
それは、フロイトでは否定されてきた「聖なる次元」が、
ユング心理学でははっきりと肯定されていたからである。
ユングはもともと一種の霊的資質に恵まれていた人物で
あったといわれる。彼の作り出した深層心理学(正式には
「分析心理学」という)は、それまで学問という枠では扱う
ことのできなかった、魂や霊の領域に大胆に踏み込んだ
ものとして、近年注目されている。
その主要な思想は、「集合的無意識」の理論である。
フロイトにおいては、無意識はあくまで個人的なものと
考えられ、幼児体験が重視されていた。しかしユングは、
個人レベルを超えた無意識が存在すると考え、集合的
無意識を仮定した。これは、実は近代的世界観の大前提
を揺るがす可能性を秘めたものだったのである。また、
ユングの発想は東洋的なものに近いとも指摘されている。
つまり、集合的無意識の概念は、個の独立性を基本とする
近代的世界観に挑戦し、不可視の部分で結びついている
部分のあることを示唆するのである。
フロイトにおいて「リビドー」として想定されていたものは、
ユングでは「心的エネルギー」とし、性よりも根源的な生命
エネルギーのようなものとして考えられた。これはある
意味では東洋的な「気」「プラーナ」の概念とも類似したもの
がある。
集合的無意識と並んで重要な概念が「元型」(アーキタイプ)
である。これは、心的エネルギーのあるパターンのことで
あり、それが普遍的に同じようなタイプのイメージを生み
出す働きがあるという。その代表的なものとして、アニマ・
アニムス・影・老賢者・永遠の少年、などがある。ユング
心理学において確立した「象徴を通じて無意識の世界を
探る」という方法は、ロマン派が「夢の世界」に向けていた
関心を理論的に表現する道を開いたものだといえる。その
世界は個人の領域を超えた広がりを持つものとして捉えら
れたのである。
ユングの心理学は人間の心を全体的に捉えることを重視
した。彼は心の主要な機能を、知性・感情・感覚・直観の
4つに分類した。人間はその一つが主要なものとしてある
が、他の機能も潜在的に常に存在しているという。また
実際の臨床に当たっても知性的分析に偏ることを避け、
科学というよりアートであるという立場をとっている。
フロイトの精神分析が患者を社会に再適応させることを
目的としたのに対し、ユングにおいては心(魂)の成長という
テーマが登場してきた。彼は、魂には自己を癒す能力が
本質的に備わっていると考え、そのプロセスが展開する
のを援助することが心理療法の課題であるとした。こういう
成長のプロセスの目的として、ユングは「自己」Self, Selbst
を想定する。これは自我egoとは異なり、より深い次元の
魂の全体性を示すものである。「自己」に向かって魂が
変容していくプロセスをユングは「個性化」individuationと
呼んでいる。これは、悟りをめざす仏教などの東洋宗教の
世界とかなり接近してきている。フロイトによる理性中心
人間観の破壊は、ユングに至って、人間の中にある「人間
を超えた世界」を発見する入り口のところまで来たといえる。
それは近代ヨーロッパ的な意味での知の秩序から大幅に
はみ出すものであった。またそれは近代以前に存在して
いた宗教的世界観の現代的復活という面も持っている。
もう一つ、ユングの説の中で現在注目されているのが
「共時性」synchronicityの仮説である。これは「意味ある
一致」に注目したもので、デカルト=ニュートン的な均質的
な宇宙とは全く違う宇宙観を提示するものであった。
前回、フロイトとユングについて説明したように、精神分析
において「深層心理」の存在が言われるようになり、心に
ついての学問的理解は大きく変容した。フロイトは初めて
無意識の概念を打ち出し、人間が理性的な存在であると
いう啓蒙主義的近代の見方を完全に終わらせた。フロイト
によれば、人間の無意識は抑圧された衝動で渦巻いている
のであった。これに対しユングは、普遍的無意識を提唱し、
個という枠を超える心のレベルがあることを示唆した。これは、
のちの「トランスパーソナル」につながっていく視点である。
また、ユングは心にはそれ固有の成長プロセスがあると
考え、それを「個性化」と呼んだ。ユングの深層心理学は、
ある意味では、近代的な知の秩序が抑圧してきた精神的
伝統の復活という意味も持っている。
事実、ユングの心理学は、東洋の宗教や神秘主義的伝統、
それに夢や瞑想状態など特別な意識状態についての関心
などに結びついて、今日の心についての知的関心のあり方
に今なお大きな影響を与え続けている。ユングは聖なる
次元を求めるロマン主義的運動の流れの中にあり、また
その一つの終着点とも言える。また、均質的に「延長」として
広がる時空間という近代の宇宙観の常識を超えるものが
含まれており、宇宙観の再定義を促すという意味も見逃す
ことはできない。
このように、啓蒙主義以降のヨーロッパの思想史は、近代
の理性中心主義やデカルト=ニュートン的な世界観の限界
を意識し、それを克服しようとする歩みであった。そして、
そうした近代世界的な「世界の見え」を批判していく過程で、
非近代西洋世界における世界の見方についての理解も
深まっていった。
今回はやや視点を変えて、フロイト−ユングの流れで再発見
されていった「夢」の世界が、人類の文明では本来どのような
位置づけをされていたのかを検討したい。あわせて、
『イメージの博物誌3・夢』(平凡社)より図版を紹介する。
それによって、近代的な世界観が喪失した世界体験とは
どのようなものであるかを考えてみる。
非・近代の世界観の特徴は、多次元的な見方にある。
すなわち、日常の物質世界とは別種の現実が実在して
いるという前提に立っている場合が多い。覚醒状態に
おいて、肉体の五感によって認識される世界以外に、
内的な知覚、いわばヴィジョナリーな能力によって認識
される世界があると考えられている。つまりそれは単に
個人の主観が生み出したものではなく、個人という枠を
超えた一種の客観性を持った世界である。ユングの
集合的無意識の説は、こうした古代的な見方の現代版で
あるとも言える。
また、別種の現実世界があるならば、それと「こちら側の
世界」との間を媒介するものが必要である。そうした機能
を夢が持っていると考えられた。つまり夢とは、別の現実
をのぞく窓のようなものである。非近代世界においては、
私たちの住む世界は、次元の異なる世界に取り巻かれて
おり、そしてその異次元の世界をのぞいたり、訪問したり
することも人間の経験としてありうべきことと見なされて
いた。現代の科学的世界観のなかでは、そうしたものは
精神病的妄想と解釈されてしまうかもしれない。
原始的な社会では、そうした異次元との媒介をする者と
して「シャーマン」という存在が知られていた。
日本でも縄文時代はシャーマンを中心とする文化であった
ことが知られており、また邪馬台国の卑弥呼もシャーマン
であった。
日本では夢をもう一つの現実との架け橋としてみる見方や、
現実とされているものが大きな夢に過ぎない、という考え
が文化の主流であった。
このように古代から夢が重視されてきたのは、たしかに
夢はある場合に、もう一つの現実と接触したようなヌミノ
ースな体験を生み出すからである。ヌミノースというのは
宗教学者オットーの言葉で、「ある本質的な、神秘的なこと
に出会ったときの畏怖の感覚・感情」のようなものを意味
する。人類の文化の多くは、こうしたヌミノースの体験を
人間にとって本質的な者と見なし、それを中心とする世界観
を構築してきたのである。
ここで注意するのは、夢といっても多種多様であり、古代人
が重視した夢とは、いわゆる幻視体験のようなものも含んで
いるということである。夢も、どのレベルの世界からのメッセ
ージが来るかによっていろいろである。ヌミノースな感覚を
ともなった夢はbig dreamと呼ばれる。また、夢と一括して
呼ばれている体験のなかには「覚醒夢」lucid dreamも含まれ
ていると考えられる。覚醒夢とは、「意識を保ったまま夢の
世界に入り、その内容をある程度コントロールすることが
できる状態」である(参考:ラバージ『明晰夢』春秋社/
ガーフィールド『夢学』白揚社)。
またインドでは、世界を「覚醒・夢・夢のない眠り・第四の
状態」の四つに分けている。イスラムのなかでは、夢の
ようなヴィジョンの世界が独立して存在するという見方が
確立しており、「アラーム・アルミタール」と呼ばれていた。
インドでもイスラムでも、覚醒を保ったままこうしたヴィジョン
の世界に入っていく能力を重視していた。
「世界そのものがある大いなる者の夢である」という見方
も、各地に存在する。インドでは世界は神の夢であるとされ、
アフリカのブッシュマンでは「大いなる夢が我々という夢を
見ている」と言われている。オーストラリアのアボリジニは、
世界の始源として「ドリームタイム」という世界があると
信じている。
神話というものも、集合的な夢が共有され、伝承されたもの
であると考えられる。つまりその起源は物質世界を超えた
ところにあると一般に考えられていることが多い。
これらを総合してみると、非近代世界はいずれも世界に
「深さ」の次元があるという見方に基づいており、その別種の
現実との接触が何らかの形で可能であるとする考えが
普遍的であったことがわかる。ヨーロッパのロマン派の
試みは、こうした見方を近代世界において復権させよう
としたものであった。この夢あるいは幻視によって知られる
世界は、デカルト=ニュートン的な時間空間の概念を超えて
いる。こうした世界観の再評価が現代の思想の問題として
浮上している。
このように、世界観の拡大の必要性が感じられ始めた。
ユングにおいては、非物質的な世界の体験も、その人
自身の心的体験にはちがいないとして、その正当性を
認めるという立場がとられていた。これを「心的現実」の
立場という。ユングによれば、心理学とはその人の体験
世界を追体験し、それを解釈するものであり、それが物理
的な意味での「客観的事実」であるかどうかを問題とする
ものではない。言いかえれば、物理法則では理解し得ない
事態も、それについて事実か虚偽かを問題にするのでは
なく、そうしたことが人間の経験可能なことがらであること
を認めるということである。その立場から見ると、科学では
理解できない人間経験はあまりにも多い。そうした経験
すべてを包含できる新しい世界観が求められる。
この点で、基本的に意識・無意識の二分法の枠組をもつ
ユング心理学ではなお十分でないと考える人々が現れて
きた。その中から、チェコ出身の精神医学者、スタニスラフ
・グロフ(1931〜)を取り上げてみよう。
グロフは、精神疾患の患者にLSDを投与する治療法の
研究を行った。この薬物は、その乱用が問題となったため
後に使用を禁止されたが、グロフはその代替物として
「ホロトロピック・ブリージング」と呼ばれる呼吸法を用いた
技法を開発し、研究を継続している。そこで、きわめて強烈
なヴィジョン体験が観察された。グロフはこれを分類し、
「意識の地図」を作ることを試みた。その結果、次のような
心的体験の領域があることが確認された。
1.自伝的レベル
2.基本的分娩前後のマトリックス(Basic Perinatal Matrices)
3.トランスパーソナルの領域
自伝的なレベルとは、フロイト的な個人的無意識の領域
である。基本的分娩前後のマトリックス(BPM)とはグロフ
独自の理論で、出生に関わる心的経験が大きな位置を
占めているとするものである。BPMは4つの段階に分かれ、
(1)母親との融合、(2)分離の始まり、(3)闘争、(4)再生の
段階があり、それぞれ強烈な心理体験が付随する。第三
のトランスパーソナルの領域とは、BPMを超え、時間空間
を超越した様々な体験をするもので、ニュートン=デカルト
的な世界観では全く理解することができない。例えばそれ
には、祖先の体験、ユング的な集合的無意識の諸要素、
いわゆる「過去生の記憶」、他の動植物との同化、テレパシ
ー・透視などの超常現象、などが含まれる。
グロフの研究の意味は、ユングが発見したよりもさらに
広大な心的経験の地平を見出したことにある。人間の
心的経験は、近代の機械論的世界観では全く理解し得ない
広がりを持っていることは、すでにユングの心理学において
明らかとなっていたが、グロフの理論はそうした超時空的
な体験をさらに細かく調べ、理論化したものといえる。
参考文献 スタニスラフ・グロフ『脳を超えて』(春秋社)・
『魂の航海術』(平凡社)・『深層からの回帰』(青土社) ほか
物理学でも機械論の絶対性が否定されている現在、機械論
的世界観はすでに生命を失ったと言うことができる。グロフ
の理論はそれに代わる新しい世界観を提案するものである。
また、こうした状況において、過去の宗教的・哲学的世界観
が再び注目を集めるようになった。それが次のテーマである。
前回、スタニスラフ・グロフの説を紹介した。それは、人間の
持ちうる心的体験の地平を踏まえて、それに忠実な「意識の
地図」を作ろうとする試みであった。
つまり、20世紀末という現時点においては、日常生活を
構成しているデカルト=ニュートン的なパラダイムに基づく
「素朴実在論」は、既に世界観としての力を失っている。
それに代わるものを提示するためには、これまで省みられ
なかった人間の心的世界を考慮に入れなくてはならなった
のである。そして、そうしたことを追求していくうちに、時空
を超えた領域を想定する必要が生まれてきた。
グロフは、一般的に「トランスパーソナル心理学」transper
sonal psychologyという枠組の中で捉えられている。
「トランスパーソナル心理学」とは、アメリカを中心に勃興
してきた新しい心理学の一派である。これは1970年代の
初めに生み出されたものであり、現在は大学院レベルの
研究施設を擁するまでに成長している。
成立の背景には、マズローを中心とする「人間性心理学」
humanistic psychologyあるいはhuman potential movement
や、また一方ではユング心理学、そしてこの当時アメリカ
に流入してきた東洋宗教の影響や、対抗文化の思潮など
があった。特に西海岸を中心とする「ニューエイジ」と呼ばれ
る思潮はトランスパーソナル心理学の母胎であるとも言える。
この中で、中心的な理論家として見なされているのがケン・
ウィルバー(1949-)である。ウィルバーのトランスパーソナル
心理学理論について次項で見ていくことにする。
日本では、1985年ころから翻訳の出版が始まり、アメリカ
で行われている体験的セラピーをワークショップ形式で行う
試みがあった。
しかし学問的な組織ができたのはつい最近のことであり、
まだ遅れているのが現状である。これには、日本では欧米
以上に「科学信仰」が影響力を持っていることも一因として
考えられる。
まず、ウィルバーの理論は、それまでに近代的(アカデミック)
な学問とは根本的に異なる発想から出発していることを指摘
しておきたい。
「とりあえずこう仮定してみよう。真正な神秘家−聖者は、
人間の発達の最高段階のいくつかを代表しており、それは
人類そのものがサルより進んでいるのと同じくらい、平均的
な人類よりもはるかに進んだ存在である――と。」
つまり、通常の人間の意識よりも上位の、より進化した意識
のあり方というものが存在する、ということを前提として、
彼の理論は構築されている。人類に普遍的な「叡知の伝統」
というものがあり、それが真実を示していることをまず受容
するのである。
そして、そういう神秘主義的伝統で語られている進化した
意識状態を、西洋心理学で探究されてきた下位および中間
段階/レベルと接合すれば、人間の意識の経験を包括的に
モデル化することができる、という考えが生まれる。このよう
にして、「意識のスペクトル」というモデルができあがった
(邦訳 『意識のスペクトル』1・2 春秋社)
ウィルバーはそれを元にして人間の意識発達論(『アート
マン・プロジェクト』 春秋社)、
また人類の意識発達史(『エデンから』 講談社)を世に
問うている。
最近では、「ホロン」の概念に基づく宇宙観(コスモロジー)
を提示しようとしている(『万物の歴史』・『進化の構造』1・
2 ともに春秋社)。
ここでは、心理学は文字通りの「魂の学」として捉えられ、
西洋近代的な知の枠組から既に抜け出ている。まずそれは
体験を重視し、体験によって実証されることを求めるという
点で、非近代的である。また、それは宇宙モデルとして提示
されていることもポイントである。ウィルバーには、壮大な
宇宙進化論あるいは宇宙サイクル論ともいうべきヴィジョン
がある。これは近代的なアカデミックな秩序の中で理解する
ことはむずかしい。
既に述べたように、ウィルバーは「意識=宇宙」という、
インドその他の「永遠の哲学」の伝統で言われている状態
を究極とみなし、意識の同一化のレベルが「収縮」すること
によって、「偽りのアイデンティティ」が生まれるという見方を
している。
この考え方に従えば、私たちが自己とか世界とか思って
いるものはすべて偽りの同一化による幻想にほかならない。
それは仏教をはじめとする東洋思想・東洋宗教的な理解
とひじょうに接近してくることになる。
「意識のスペクトル」に基づいて、ウィルバーは人間の意識
を段階的に進化していくものとして捉える。『アートマン・
プロジェクト』によれば、その段階とは次のようなものである。
(1)プレローマ的自己、(2)ウロボロス的自己、(3)身体自我
(テュポーン的、中軸的身体、プラーナ的)、(4)言語的メンバ
ーシップ自己、(5)心的−自我的自己、(7)ケンタウロス的
自己、(8)微細(subtle)自己、(9)元因(causal)自己、(10)究極
・アートマン。
この発達は、円環をなしている。つまり、完全な意識を持って、
元いたところに戻るということになる。
こうした段階的モデルは、既に多くの伝統において言われ
てきたことである。たとえばヒンドゥー教には「鞘」という
考えがある。
ウィルバーの最近の思想では、「ホロン」という概念が中心
になっている。holoとは「全体」という意味のギリシャ語で
ある。ホロンの概念は、アーサー・ケストラーによって生み
出されたもので、「全体であり、同時に、さらに高次のある
ものの部分である」というものである。ウィルバーは「宇宙
は、どこまでいってもホロンの重畳である」と言う。ホロンが
無限に積み重なっているのである。そして、そのどのレベル
まで自分と同一視するかによって、その意識のレベルが
決まってくるわけである。言いかえれば、固定した一つの
現実というものは存在しない、ということになる。世界の
地平線は、自分のあり方に世って、ダイナミックに変動する
ことになる。そして、世界すべてが自己そのものとなるという
状態も理論的には想定できる。これが東洋宗教で言われ
ている「悟り」の状態であると考えられる。
これとも関連するが、近年、宇宙のホログラフィック・モデル
というものが提唱されている。これは、物理学者のデイビット
・ボームと、脳生理学者カール・プリブラムの説を元に発展
してきた宇宙モデルである。ホログラムとは、「部分の中に
全体を含み込んでいるような秩序」をここでは意味する。
プリブラムは次のような考えに到達した。「私たちの脳は、
つきつめてしまえば他の次元――時間と空間を超えた深い
レベルに存在する秩序――から投影される波動を解釈し、
客観的現実なるものを数学的に構築しているのである。
すなわち、脳はホログラフィックな宇宙に包み込まれたひとつ
のホログラムなのだ」
ボームは、『全体性と内蔵秩序』Wholeness and Implicate
Orderという著書で、宇宙は一種の無限のエネルギーの
海のようなものであり、その一部が相対的に安定した秩序
を持っているものが現実として知覚される、と述べている。
宇宙は切れ目のない全体である。それをボームは「ホロ
ムーブメント」と呼んでいる。この中で、私たちにとって存在
しているように見える現実を「顕在秩序」explicate order
その奥にある、無限の可能性を秘めた存在の世界を「内蔵
秩序」implicate orderとボームは呼ぶ。
このような世界観を「全体論」holismと呼ぶことがある。
宇宙は無数のレベルの秩序を内在させた切れ目のない
全体だという立場である。そして、何が「現実」であり、
「世界」であるかということは、それぞれの観点によって
決定される相対的なものであり、また固定的なものでも
ない。それらすべての「限定された世界」を含み込むもの
として宇宙を考えるのである。こうした全体論の発想は、
ポスト近代をめざす世界観の重要な特徴である。ウィルバ
ーやグロフのモデルも、基本的にはこうした枠組の中で
展開されている。ウィルバーの仕事は、ホログラム的な
宇宙像を基本的には認めつつ、その中において「現実=
自己」のレベルの進化が存在することを指摘したものと
捉えることができるだろう。
また、このホログラフィック・モデルから、近代の学問秩序
では理解不能であったことが、さまざまに説明できることが
知られている。たとえば次のような問題がある。
1.体外離脱体験
2.臨死体験
3.超感覚の存在
4.生体エネルギー場の存在とスピリチュアル・ヒーリング
の可能性
次に、これらの問題について見ていくことにしよう。
参考文献:マイケル・タルボット『ホログラフィック・ユニヴァ
ース』 春秋社
ホログラムとは、レーザー光線の干渉による波動パターン
を記録したものであり、それに像が内在しているものである。
注目すべきことは、これは分割してもまったくその像に変化
がないことだ。つまり、像はある特定の場所に局在している
のではなく、全体の波動パターンの中に「折り畳まれた」
形で存在していることになる。ボームやプリブラムが着目
したのはホログラムのこうした性質であった。
プリブラムは、脳の機能も特定の部位に局在しているもの
ではないという結論に達した。そして、意識は脳によって
生み出されているわけではなく、脳は一種のホログラムで
あり、波動パターンから知覚像を形成する変換器のような
ものだという考えに傾いている。
デイビット・ボームも、『全体性と内蔵秩序』Wholeness and
Implicate Orderという著書で、宇宙は一種の無限のエネ
ルギーの海のようなものであり、その一部が相対的に安定
した秩序を持っているものが現実として知覚される、と述べ
ている。宇宙は切れ目のない全体である。それをボームは
「ホロムーブメント」と呼んでいる。この中で、私たちにとって
存在しているように見える現実を「顕在秩序」explicate order
その奥にある、無限の可能性を秘めた存在の世界を「内蔵
秩序」implicate orderとボームは呼ぶ。
このような世界観を「全体論」holismと呼ぶことがある。
宇宙は無数のレベルの秩序を内在させた切れ目のない
全体だという立場である。そして、何が「現実」であり、
「世界」であるかということは、それぞれの観点によって
決定される相対的なものであり、また固定的なものでも
ない。それらすべての「限定された世界」を含み込むもの
として宇宙を考えるのである。逆に言えば、現実=世界は、
その視点の違いに応じて無限に存在する可能性を持つ
ことになる。したがって、私たちが現実と考えているものは、
宇宙のごく小部分にすぎないのであり、もしそうした現実
に対応する意識のあり方が変化すれば、異なる次元の
意識を体験する可能性も考えられるわけである。現在、
現実として通用しているものは、宇宙的ホログラムの断片
であり、そうした断片化思考が習慣化し、固定化したもの
だということになる。
こうした全体論の発想は、ポスト近代をめざす世界観の
重要な特徴である。ウィルバーやグロフのモデルも、基本
的にはこうした枠組の中で展開されている。ウィルバーの
仕事は、ホログラム的な宇宙像を基本的には認めつつ、
その中において「現実=自己」のレベルの進化が存在する
ことを指摘したものと捉えることができるだろう。
また、このホログラフィック・モデルから、近代の学問秩序
では理解不能であったことが、さまざまに説明できることが
知られている。たとえば体外離脱体験・臨死体験・超感覚
の存在・生体エネルギー場の存在・前世退行体験などの
ような問題がある。さらに、シャーマニズムのような、非近代
的な文化における意識体験を説明することも可能である。
要するに、ホログラフィック・パラダイムは、近代が閉め出し
てしまった人間の広範な意識体験の世界を統一的に説明
する可能性を持つのである。
これはつまり、物質と意識との間に厳密な区別はなく、
それは根本的には同じであるということを意味する。した
がって身体と意識との関係も、近代的・デカルト的二元論
を超えている。身体と意識との関係について新しい見方を
要求するものとしては、プラシーボ、奇跡的治癒、聖痕、
不食生、物質化現象などといった例がある。
また、生体を微細なエネルギーの波動の場として見るとい
う見方も、ホログラフィック・モデルと基本的に一致する。
これは中国やインドなどの伝統的な見方であり、実際に、
人体のエネルギー場を見ることができるという能力を持つ
人も存在することが知られている。つまり、身体とはいわば
波動の干渉パターンのような場として成立している、という
ことがそこから考えられる。
臨死体験や体外離脱体験では、固定した現実を超えた、
いわばホログラフィックな世界に入り込んでいくような体験
が実際に現れる。そこでは、考えるだけで広大な距離を
移動できるなど、時間空間を枠を超えた存在状態が経験
されるといわれている。
さらに、UFO現象も、日常の現実を超えたホログラフィック
な領域の経験として理解できるといわれる。つまり、現実
と非現実を厳密に分けるような近代的な世界観では理解
不能な現象ということである。
ホログラフィーは、ホリスティックな宇宙観の一つのメタファ
ーであると理解することができる。ホリスティック(holistic)
というのは「全体的」ということであり、かつて支配的であっ
たデカルト=ニュートン的モデルが「世界を基本的な要素
に還元し、その組み合わせとして理解する」という態度で
あったのに対し、「世界は切れ目のない全体をなしている」
というリアリティ観を意味している。ただしこれは機械論的
な見方は全く無意味だということではなく、それはある限定
された条件の下では引き続き有効なのである。ただ、宇宙
のリアリティにはそうしたモデルを超えた側面が存在する
ことを強調するという意味である。
そのような関心から、先日(11月26日・27日)に「意識・
新医療・新エネルギー国際シンポジウム」が行われた。
その実行委員長であった猪股修二博士は、物理学の
パラダイムを拡張して、「意識・エネルギー・物質」の相互
作用としてリアリティを捉えることを提唱している。また
この他に、スタンフォード大学のウィリアム・ティラーの
モデルもある。
機械論的科学では説明のできない事象に対して、それを
「非科学的」として切り捨てるのではなく、リアリティという
概念を拡張する必要があるということである。そうした事象
の例として、覚醒夢、奇跡的治癒、聖痕、不食生、物質化
現象を含む超常能力などをあげた。さらに、臨死体験や
体外離脱体験もその例であろう。
臨死体験(near death experience: NDE)は、アメリカの
医師レイモンド・ムーディーが初めて発表したものであり、
その後、ケネス・リングなどによって統計的な研究が進ん
でいる。国際的な研究組織もあり、その解釈はともあれ、
経験の事象そのものについては否定できないところに
来ている。
臨死体験者は、(1)体外離脱、(2)非身体的知覚、(3)トン
ネル通過体験、(4)近親者などとの出会い、(5)高次元の
存在との出会い、(6)帰還、などを経験するというパターン
が知られている。つまり、体験者は異次元の世界を経験
し、そこでは物質次元よりもはるかに高度な知性が働く
ともいわれる。また、こうした体験のあと、精神的に大きな
人格的変容をするケースがひじょうに多い。また、臨死
体験とシャーマンの「魂の旅」の類似性も指摘されている。
また、ネガティブな臨死体験の例も少数ではあるが報告
されている。
臨死体験の解釈については、脳内現象説と現実体験説
がある。脳内現象説の問題は、超感覚的に知覚したこと
が現実と符合する現象や、脳波計が完全に平坦な状態
経験が起こっていることを説明できないことにある。現実
体験説も、「現実」ということの定義がやや曖昧である。
既にユング心理学の「心的現実」psychic realityの考えに
みられるように、リアリティは単一なものではなく、レベル
の異なるリアリティが重層しうると考えるというのがホリス
ティックな思考であり、臨死体験もそうした文脈で理解
すべきだと思われる。
また、体外離脱体験(out of body experience: OBE)は、
臨死などの特別な状況ではなく、意図的あるいは無意識
的に、意識と身体が分離し、意識が移動するという現象で
ある。アメリカの実業家であったロバート・モンローがこの
経験を何冊も本に書いている。モンローは、初めは睡眠中
に無意識的に意識が抜け、他の場所に行くという経験を
したが、訓練の末しだいにそれをコントロールできるように
なった。注目すべきなのは、こうした離脱中に他の場所に
おいて物質的痕跡を残すこともできたということで、これは
「物質的な時空を超えたリアリティの領域」という、量子
物理学的な概念を考えなければ説明することができない。
またモンローの体験は、全く物質世界や地球を離れた
次元のリアリティにまで及ぶ。体外離脱体験は、ヨーガなど
の霊的修行の過程でも起こることが知られている。また、
シャーマンのトランス経験も一種の体外離脱体験と見る
ことができる。実は、さまざまな文化において、そうした
「別次元のリアリティ」に意識がシフトする状態はかなり
知られており、それがもたらす利益やまた危険についても
情報が蓄積されていたと考えられる。
ここで改めて振り返ってみると、量子物理学では、いわゆる
ソリッドな物質というものは実在せず、いわば波動の干渉
パターンのような「プロセス」としてのみ物質が存在している
ことを明らかにした。またユング心理学からトランスパーソナル
心理学への流れでは、人間の「心的経験」の世界は物質的
な次元に拘束されているわけではなく、「個」の単位を超えて
いることを発見している。デカルト=ニュートン的な「均質な
延長としての時空間」という概念が絶対ではないという前提
に立てば、臨死体験や体外離脱体験が示しているリアリティ
体験も決して非現実的と言うことはできないのである。
次に、こうしたホリスティックなリアリティ観に基づいた、
医療およびエコロジー(環境保護運動)の新しい動きについて
述べることにしよう。
機械論的な科学に基づけば、我々の身体は物質である。
従来の正統派の西洋近代医学は、基本的に身体を機械
モデルによって捉える医療システムである。これは、まだ
医学界の主流を占めていると言ってよいが、心身医学や、
生活習慣の問題を重視するなど、こうした見方への反省も
始まっている。
ラリー・ドッシーは、『空間・時間・医療――プロセスとしての
身体』(めるくまーる社、1987年)で、量子論的なホリスティ
ックな発想を、身体や医療の問題についても適用すべきだ
と主張している。「現代の宇宙論において、空間と時間が
引き離せないならば、身体・健康・病気もまた、分離しては
考えられない。電子が事物でないのと同じ具合に、身体も
また事物ではない。電子が粒子性や波動性を『所有する』
わけではないのと同様に、われわれの身体も健康や病気を
『持つ』のではない。健康や病気は、そうした特質そのもの
であり、より適切に言えば、空間と時間の双方に非局所的
・非因果的に連結した、とぎれのないプロセスだ」(同書223
ページ)
すなわち、デカルト=ニュートン的な世界モデルの相対化
(唯一絶対性の否定)にともなって、私たちの「身体」の
捉え方は大幅な変更を余儀なくされている。それとともに、
健康、病気、そして治療に関する思想も見直しが要請され
ている。西洋近代医学は、機械論的な世界モデルと密接
に結びついていた。しかし、世界各地には伝統的な医療
システムがあり、それは異なる世界観に基づいたもので
ある。
多くの文化圏では、意識と物質の双方の要素を含むエネル
ギー的なものが宇宙を満たしていると考え、そうしたエネル
ギーのバランスの上に身体が成立していると捉える。その
代表的な例が、中国やインドの医学である。中国医学は
「気」の概念を中心とし、その陰陽、虚実などのバランスを
考える。また、インドの伝統医学として「アーユルヴェーダ」
というものがある。これは「ドーシャ」という概念に基づいて
いる。ここには、身体は一種の波動パターンであるという
捉え方があり、それを脈診で探ることが重要な意味を持っ
ている。また、伝統医学は、病気の症状そのものに対応する
だけでなく、生活全体を含めた統合的なアプローチをする。
そして、人間の「自己治癒力」を最も重視し、それを活性化
させることを医療の目標に置く。
現代の医療のあり方の反省として、病気のみを相手にする
のではなく、その患者の意識、生活、環境など全体を問題
にしていこうという動きが「ホリスティック医療」holistic med
icineと言われるものである。
中心にあるのは「病気はそれ自身独立した現象ではなく、
他のすべてにつながっている」という全体論の発想である。
ホリスティック医療は、西洋医学だけではなく、東洋医学
など他の医療システムと平衡させていくという発想も含んで
いる。こうした医療システムのことを「代替医療」alternative
medicineあるいは「相補医療」complementary medicineと
呼んでいる。
アメリカでは、西洋医学よりも代替医療の医療費の方が
多くなり、政府機関の中に代替医療の研究部門が設けら
れるなど、代替医療の再評価が急速に進んでいる。また、
イギリスやドイツなどでも、医療における多元主義がシス
テムがほぼ確立しているし、中国・韓国・インドなどでは
伝統医学が高い地位を与えられている。西洋医学のみを
公式には絶対のものとしている日本は特異な存在である。