思想の問題としてはいろいろあるが、座右に置きたい本としては、
前々から言っているように、ロースキーの『キリスト教東方の神秘
思想』そして横山紘一の『唯識の哲学』の二冊だけでよいと思う。
それぞれ、西洋的霊性、東洋的霊性のエッセンスがある(ただ後者
は、東洋的霊性の「一部」ではあるが)。西田幾多郎も、井筒俊彦も、
私の中では完全にドロップアウトしてしまった。これらの思想は結局、
「究極」と現象界を無媒介に結びつけてしまい、「魂」の場所が見出せ
なくなっている。同時に、そういった無媒介性のために、現象界イコ
ール絶対となってしまい、それは伝統社会的な形而上学のポジション
を超えられていない。つまり現存の世界が神の意図した世界そのもの
とだという完璧なる現状肯定の思想になってしまうのである。これは
思想的には時代錯誤でしかない。その程度のものをもてはやしている
ようではお先真っ暗である。
外界は外界、内界は内界で、宗教や神の問題は外界と無関係な内界
の問題として考える。はっきり言うと、こういう発想でももう行き詰まって
いる。
超心理学をどれだけ真剣に受け取るか、というテーマが近代的知性に
は課せられている。その点ではウィルバーも駄目なのである。
これでは「創造する神」への信仰が持てないのは当然のことである。
「魂」という中間的な場所を確保した時に、神の意志に反して不完全な
世界を作ってしまう魂のありようが見え、そこからいかにして救済、解放
されるかという視点が見える。
こうなって初めて、西洋的霊性との対話が可能になるのである。
近代合理主義的科学の「世界の地図」に抗して、霊性を守ろうとする
とき、私たちの作戦は二方面に向けられるべきであろう。
一つは、「汎内在神論」ともいうべき宇宙体験の地平である。これは
おそらく、ネイティブな文化はほとんど持っていたものであって、中国
思想はその洗練された形であると考えられる。
そしてもう一つが、西洋・インド的な霊性に顕著な、いったん現世的な
ものを否定し、否定しつくした上で超越的な神的世界を見る、合一する
という体験の地平、そしてそこに基礎をおく神秘哲学の再興である。
私たちが戦わねばならないものは、ニヒリズムである。「どうせ人間こん
なもの」という現代インテリ的な絶望を拒絶することである。スピリチュア
リティーは、単に「心の持ち方」を変えることではない。新しい意識にふさ
わしい社会秩序の生成を含むのである。スピリチュアリティーは、「希望」
を与えなければならない。未来世において人類が理想の文明に達する
可能性を信じられるようにすること、その燃える火としてのイデーを点火
しなければならないのである。このためには、旧来の東洋的霊性だけで
は不十分である。
まあこんなことまで言う人は誰もいないが、アカデミズムなんかまったく
恐くなくなったので、そういう恐さがなくなってしまうと自由で、楽しいもん
ですよ。アカデミズムにどう思われようと定年までは食えるんだからね、
私は。というわけでここやHPでは今後、ダメなアカデミズムに対しては
仮借のないクリティックを展開していく予定。結局、同業利益団体で、
「そもそもそんなもの存在してる価値あるの?」という批判を発し得ない
のがアカデミズムなんだから。(なお、もちろんすべての学会を否定して
るわけではない。念のため)