トランスパーソナル心理学

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カレン・アームストロングの『神の歴史――ユダヤ・キリスト・イスラーム
教全史』(柏書房)を読み終えたが、大変参考になる本であると同時に、
限界も見えた。歴史というのは結局著者の世界観の表明である。

要するに、著者のカレンさんは、人格神への信仰を失っている。つまり、
ペルソナをもって人間に語りかけ、また歴史を動かし、ついには地上天国
を樹立すべく宇宙を「経綸」するものだ、という、ユダヤ・キリスト・イスラ
ームの伝統的な神観を放棄している。というより端的にそれは「信じられ
ない」と感じていて、仏教のように、「内面に見出される神」のみを受け
入れている。
48:04/09/05 12:20

『教父と東方の霊性』では、プロティノスについて次のように書いている
が、これは妥当な見解である。

「神の超越と善性、および生ける神という理解はヘレニズム思想の内に
 同化できたが、それに対し位格神、その愛が個々の人格を自由に喚び
 起こし、探し求め、再び見出し、回復するところの、そして個々の人格の
 自由が神の自由の中で開花する、そのような位格的な神は十分に
 考察しえなかったのである」p.218

こういう限界が「トラパ」の中にもあることは容易にわかるであろう。
また、日本人の霊性の歴史において、この、「人格的な交わりの内に
決断を促す神との対話」ということがどれだけ存在してきたのか、
私たちはいまだ、キリスト教的霊性をほとんど理解できていない。
しかし、現代西洋のインテリも理解できなくなったことが、「トラパ」の
非キリスト教的性格を生み出していることもある。

現在、大衆的な支持を受けている『神との対話』シリーズにせよ、また
エドガー・ケイシーにせよ、それはいずれもカルマや、輪廻を通じての
霊的進化を説くことによって、多くの人に神への信仰を回復させたので
ある。しかしこういう流れを、カレンさんは無視している。そこが、まだ
近代的地平を超えられないところである。
49:04/09/05 12:21

もう一つ指摘したいのは、やはり彼女は、「物質世界は自然法則に
よって運行され、その外部次元からの介入は一切ありえない」という
「閉じたニュートン宇宙」を信じている。ここがひじょうに近代知性的
である。

「精神の力により物質的な秩序が変更されることもあり得る」という
ことは絶対、認めないであろう。まさにこれが、超心理学へのバッシ
ングの原因となっている、根深い「近代的信念」である。

つまり、外界は外界、内界は内界で、宗教や神の問題は外界と無関
係な内界の問題として考える。これがカレンさんの立場でもあるが、
はっきり言うと、こういう発想でも、もう行き詰まっている。

超心理学をどれだけ真剣に受け取るか、というテーマが近代的知性
には課せられている。これでは「創造する神」への信仰が持てない
のは当然のことである。
50:04/09/05 12:22

超心理学(その先駆としてのイギリスの心霊研究などを含め)のほか
に、もう一つこの本で「書いていないこと」がある。それはスウェーデン
ボルグである。彼の「霊界リポート」は西欧の精神世界に大きな影響
を与えたが、これが全く無視されている。

実は現代は、この種の「霊界リポート」が大量に出回っており、それが
大衆レベルでの宗教意識にかなり影響を与えている。しかしこれは
インテリ層はすべて「ニューエイジ」の名の下に強く抑圧しようとする
ものである。それは最初から「いかがわしい」ものである。たしかに
いかがわしいものも多い。しかしすべてにアレルギーを起こすだけでは
弁別能力もついてこないだろう。

というわけで、『神の歴史』は、その神への理解という点では、いま
精神世界をいろいろ勉強している人々にとっては、ひじょうに保守的
な「近代的インテリ」の限界を超えるものではない。しかし、そういう
精神世界もいまだ十分に知性的な言葉を見出していないわけで、
その辺が私の取り組むべき課題なのである。
51:04/09/05 12:24

いろいろコムツカシイ言い方をするが、要するに言いたいことは、
「近代的な知的世界の内部からは、真実をついた言葉は出てこない」
ということである。

それどころか、うっかり真実を言うと袋だたきに会いかねないという
コワイ状況も存在していたりする。私が時々難しい言葉で武装するのは、
飛んでくる弓矢や槍を避けるための「盾」のようなものであり、そういう
厳しい白兵戦の世界における武具なのである。だから一般の人が
それを読んでわからんと落胆することはない。わざとわかりにくく書いて
いるのだから(笑) 一般の人には、私の戦いがいかに厳しいものか
想像もできないであろう・・ 隙あらば斬られるのである。

とまあ、時にはオドカシをかますのも楽しいものである。ともあれ、
多くの人は「宇宙的な真実」をついた言葉を求めているのだというのは
私が実感することである。

本離れといっても『神との対話』や『聖なる予言』など、ある真実の
ヴィジョンを示そうとした本はちゃんと売れているのだから、読者は
きちんと「良書」を選択しているのだと思う。

出版社が出す本が読者のニーズに合っていないということで、
編集者の頭が古すぎるのだ。
52:04/09/05 12:25

そんなわけで気分転換に『神との対話3』を取り上げて適当に開き、
読み始めた。

 この世を去ったばかりの魂は、注意深く思考を監視することを学ぶ。
 ・・ 物質的な世界の魂が、霊的な魂と同じくらいすばやく効果的に
 思考をコントロールする方法を学べば、人生はがらりと変わるだろう。
 個々の現実の創造に関しては、思考のコントロールがすべてなのだよ。

 思考のコントロールとは、最高のかたちの祈りだ。だから、良いこと、
 正しいことだけを考えなさい。否定的なことにこだわり、闇のなかにいて
 はいけない。たとえ、ものごとが荒涼として見ても、いや、そういう
 ときこそ、完璧さだけを見つけ、偉大さだけを表現し、それから、つぎ
 にはどんな完璧さの実現を選択しようかということだけを考えなさい。

これは真実だと思う。だが、今までの哲学思想では、このことは完全に
表現できないようだ。しかし、「自分の現実は自分で作り出す」ということ
は、唯識思想の中に明確に存在する。さらに重要なのは次のことだろう。

 生命にはつねに、三つの選択肢がある。
 @コントロールのきかない考えに「いま」を創造させる。
 A自分の創造的意識に「いま」を創造させる。
 B集合的意識に「いま」を創造させる。

『神との対話3』は実にすごい本であると思う。そこで語っているのが
本当に「神」であるのかどうかは、さしあたりどうでもいい。語られている
ことが真実であることが直観できるのである。私がこれまで学んできた
ことと矛盾することは一点もなく、さらに見事な表現ができている。
53:04/09/05 12:27

この前から、「Modern Esoteric Spirituality」の、Antoine Faivre による
「Ancient and Medieval Sources of Modern Esoteric Movement」を
少しずつ読み進めている。ギリシャからヨーロッパへの精神史的な
連続性が一望の下に明らかになる感じで、久々の知的興奮である。

私はようやく、学校などで教えられてきたヨーロッパ像から完全に脱却し、
「叡知的世界」の関わりのうちに、どのように人々が真理をめざしてきたか
という視点においてヨーロッパ思想史を眺めることのできる地点に達した
という感じである。

ここまで来るにはおそろしい量の勉強が必要だったが、既成観念を
くつがえすのはそれだけ難しいということだ。

「権威」によって執筆されている「倫理社会」の教科書を初めとする
「公式的思想史」では、現在の我々自身の探求とダイレクトに結びつく
ことがない。公式的思想史は、もはやインテリの陥った袋小路のような
「ポストモダン」で行き止まりになるしかない。

それではなく、ギリシャの叡知的伝統から始まり、キリスト教思想と絡み
合いながら、近代の神智学が成立し、それがまたドイツ観念論などとも
かかわりつつ発展し、それがアメリカの超越主義に続き、現在のニュー
エイジ思想へと連続していく・・・そして、ここに東洋的霊性とのブレンドが
入ってくる・・ というふうな一貫した流れで把握することが必要だ。

そうした中で、日本的霊性、あるいはアジア的霊性(これにもいろいろな
ものがある)をどう受け止めるかという問いが入ってくる。

もちろん私がめざすのは思想史を書くことではなくて思想そのもので
ある。しかしそれは、過去の思想を「人類の、真理への努力の歴史」
としてどう受け止めるかということと切り離すことはできない。
54:04/09/05 12:28

どうしても、「本物」を知っている人、ということになると、ヤコブ・ベーメ
とかシュタイナー、ということになってしまう。それを繰り返し読む方が
得るものは多いなあ、と感ずる。

ベーメは錬金術の語彙がハードルで、なかなか近づきがたい。
シュタイナーでは『神智学』『いかにして・・』『神秘学概論』の三部作を
徹底して読むというのがやはりよい。それと、いまの日本の思想家
では、私は高橋巌が最高だと思っている。

岩波書店などの本は一切読まなくてさしつかえない。

それから、『神との対話』シリーズとか、そういうものが現代における
「Good News」(=福音)の媒体となっているというところもある。

要するに〈イデー〉にまで高まっていない「概念」だけを使ってコトバの
構築をするというゲームからはとっくに降りているということだ。

本当に、お金を出して買うほどの本は少ない。私は商売なので、
いちおう今出ている本には何が書いてあるか知る必要があるから
そうしているので、ふつうの人は、ごく少数の「これは」という本だけを
繰り返し読んでいればそれでいいと思う。自分で買うほどとも思え
ない本は、研究費で買っているわけだ。
55:04/09/05 12:28

霊的思想のソース

顕教的に

玉城康四郎−−これからの仏教論の基礎。
井筒俊彦−−東洋の霊的思想復権。やや、新プラトン主義的な理解で
 あるかもしれないが、日本で初めて階層的存在論を展開した。問題は
 そこの「本質論的バイアス」をはずして、エネルゲイア論的に捉え直す
 ことである。
ウラジミール・ロースキー−−キリスト教の霊的エッセンスを学んだ。
 キリスト教の霊性はここに集約されている。
マイケル・マーフィー−−人間のさらなる進化方向を示唆する。
コルバン−ヒルマン−フェーブルのライン−−「イマジナル」の世界を確立。
ケン・ウィルバー−−全体としては疑問が多いが、その中で認識論、
 世界空間論だけは取り上げるに足る。
唯識−−心と世界の成立について整理した理解を与える。
ヨーガ・気功などの伝統的な微細身体論・微細エネルギー論
 (かなり密教的か??)

密教的に(詳しいコメントは避ける)

本山博、五井昌久、高橋巌、シュタイナー、ホワイト・イーグル、
ヨガナンダ、「神との対話」シリーズ、「黎明」、ダスカロス・・
・・このあたりは、「どの程度まですくい上げることができるか」
ということである。

見渡してみると、まだ、「気」についての思想的深化というものがなされ
ていない、という気がする。つまりは、「タオの哲学」ということでもある。
その現代的展開がまだないのだ。これを「霊的エネルギー論」として
純化し、キリスト教の「神のエネルゲイア」論をも包括するというのが、
私の計画だ。
56:04/09/05 12:29

ペイゲルスの『アダムとイブと蛇』を少し読んでいて、アウグスティヌスの
話などが出ているが、その霊的理解力のレベルの低さにはあきれて
しまった。ここまで真理からはずれた思想が西欧世界を支配してしまった
とは、まさに暗黒時代といわずして何であろうか。西欧はそれからなか
なか立ち直れなかったということだろう。

いまだに、『神との対話』などが、性への罪悪感を払拭しようと一生懸命
であることでもわかる。

私にはアウグスティヌスの暗い人間観はまったく許し難いものだが、
すべての西欧人がそういう影響を受けていたというわけでもない。
たとえばハイドンの「天地創造」などは、そのような伝統キリスト教の
暗さなどは微塵もない、「神の栄光への賛美」をつらぬいている音楽で、
こういう霊性はネイティブ・ピープルでも理解できるものである。

それで思い出したが、バッハの「マタイ受難曲」を最大の曲だという人が
いるが、私には賛成できない。ここでのキリスト教のとらえ方は「西欧的、
あまりに西欧的」であり、イエスの受難の苦しみをこれでもかと描いていく
音楽で、この感性についていける日本人というのは私には不思議に思える。
バッハのカンタータにしてもあまりに「原罪」の意識が強く出過ぎてついて
いけないものが多い。つまり、私は神学的にバッハには全面的に賛同
できないのである。たしかにそれが、人間精神のある一面だとしても。

147番のカンタータは私の好きなものだが、歌詞には「救い主を言い表さ
ない者には、恐ろしい裁きが待っている」などという嘘八百が述べられて
いる(バッハが作詞したものではないが)。こういうところが気に入らない。

私はそこで「こういうものを理解しないと西欧文化は理解できないな」
などと殊勝に構えたりはしない。間違っているものはあくまで間違って
いるのだ。
57:04/09/05 12:31

プロティノスを読んでいた。残念ながらいま「プロティノス全集」は絶版、
古本はなんとセットで六万円もする。そこで「世界の名著」版だけしかも
っていないのだが、これに出ていない論文については、英訳で読むこと
にした。これはマッケンナによるものが、フリーテキストとしてインターネ
ットに出回っているのである。そこから、魂に関する論考などをあれこれ
読む。

結論から言えば、プロティノスにはほとんどすべてがわかっていたという
ことだ。

プロティノスが昔からあまりはやっていないのは、読む人にそれだけの
理解力がなかったからなのでは? と思わせる。幸いにして、私が書
いた原稿には、プロティノスが書いたことと矛盾することはまったくなか
った。

きょう読んだものには、カルマと再生のことがたくさん出ていた。これも
仏教の教説と本質的に違うところは発見できなかった。

というわけで、私としてはだいたいそのラインのものを、これまでの人類
の思想のなかで最も真理に近接したものと見なしてさしつかえないだろ
うと考える。
58:04/09/05 12:32

最近の精神世界本の中で、そういう古来の真理と最も近い水準に達して
いるのは、なんと言っても『神との対話』シリーズであろう。

これは、プロティノスとも根本的な矛盾は何もない。それは読めばわかる。
この本にぴんと来ないという人は、失礼ながら、まだ本当に「神」に向き
合う準備ができていない人ではなかろうかと私は思う。それほどにこの
レベルは高い。

あとは、シルバー・バーチ、ホワイト・イーグル、五井昌久、本山博、そして
シュタイナーである。このあたりを読んでいれば、自然とわかってくるもの
があるだろう。これらのいずれも、プロティノスと矛盾する点は見出せない
のである。

ブラバツキーなどにはあまり手を出さない方が賢明であろう。

しかしまあ、私から見ると「なんであんな本がいいの?」というのを一生
懸命読んでいる人を否定することもできないだろう。
59:04/09/05 12:34

「すべては完全、必然である」という、ニューエイジでよく言われる言葉
がある。しかしこれは考えようによってはとても危険な思想でもある。
たとえば、道に誰かが倒れて、苦しんでいたとしよう。その時、「これは、
この人にとって最善のことが起こっているんだから、いいのよ」とつぶや
いて、その横をスタスタと通り過ぎていく人というのを想像してみるとよい。
あるいはここで、「苦しむのは、自分が苦しみたいから苦しんでいるんで
しょ」という言葉をさらに言ってもいいであろう。という調子で、どんなこと
でも、自分に都合のいいように使えてしまう。

・・・何かがおかしい、何かが間違っている、という感じがしないだろうか。
それは、この人の心には少しも「愛」が存在しないからである。ただ、
助けるのは嫌だ、という利己的(自己保存的)な欲求を、いかにも真理
めいた言葉で正当化する行為にすぎないだろう。
60:04/09/05 12:34

「すべては必然、最善が起こっている」というのはある意味では正しい。
しかしこれは、人間のスケールを超える「愛」によって魂が満たされたと
きに初めて口にすることのできる言葉なのである。これは計り知れない
神愛の偉大さを受け入れ、そこに自ずからなる感謝がわき起こるときに
言える言葉なのだ。もしそうでないときは、果てしない自己欺瞞に陥る
危険性を秘めてもいるのだ。

もう一つは、「すべてが完全」と言う前に、『ヨブ記』を読んでもらいたい、
と言いたい。「すべては完全」というのは、全くの逆説としてある言葉で
ある。この世はどう見ても完全ではないからだ。ヨブ記のようなことは、
この瞬間にも多くの人々に起こっている。そこまで打ちのめされても、
神愛への信頼を持ち続けることができるのか、これは、最も厳しい試練
なのである。それをくぐり抜けて、「そう、主のされることはすべて最善で
す」と言うことができるのかどうか。

「すべてが完全、最善」とは実は最大のパラドックスであり、神の示した
「謎」なのである。世にある、限りない罪、悲惨、汚れ・・・それに直面し、
共感した上で人間を見ているのか、それが本物の霊性かどうかの分か
れ道である。
61:04/09/05 12:36

人から勧められたのだが、チャック・スペザーノのヴィジョン心理学という
のはなかなかいい。

スピリチュアルな内容でありながら、シンプルかつプラクティカルにまとめ
ていて、実践しやすい。内容としては、ジャルポンスキーとも似ている。
両者とも、そのソースは Courses in Miracles だといえば、「なるほど」
という感じだろう。

これを読むと痛感するが、いたずらに「いかにも」という感じの神秘主義
を追い求めていても、まず自分の心に、罪悪感とか無価値感とか、そう
いうものを抱えていては、瞑想などしても進歩は遅々たるものだし、袋
小路にはまる場合も多い。

まず、基本的な、「存在していることの幸福感」をはっきりつかまないと、
スピリチュアルな道は始まっていかないのだ。

スペザーノを読んで、それをあらためて確認。しっかりと、自我やシャドウ
レベルに取り組むことだ。やはり、伝統的修行ではその方面のケアが
薄いことはたしかで、ここでも「東西の融合」の必要を感じる。

ヴィジョン心理学のようなものをニューエイジと言って、読みもしないで
軽蔑している人もいるが、そういう人の多くに、心をオープンにすること
への恐れがひそんでいることを観察することができる。ハートを開くには
勇気がいるのだ。
62:04/09/05 12:38

現代では、実に多くの人が神秘的な経験をしており、また「光」によって
生き方が一変した人もたくさんいる。ところがいまは、それを受け止める
思想がないのだ。

一方には、それはすべて精神病の一種だとか、すぐにカルトの危険とか
言いたがる自称合理主義者がある(実は、その主張はほとんど非合理
的なまでに「自己の根拠への吟味」を欠いているが)。

もちろん、キリスト教でも仏教でも、それなりの体系はあるのだが、いま
は、そうした枠に限定されない形で霊性が浮上している。しかし、そういう
伝統的な枠を超えた、霊性を受け止める思想が不足しているわけである。

私は、ニューエイジ運動の中に真正な霊性への憧れを認める者だが、
しばしば、そこには思想が欠けているのが問題である。ここで思想という
のは、神学的なものである。つまり、自分の体験していること、しつつある
ことは、大きな霊性の枠組の中でどこに位置するのかを認識することが
できるというものだ。ニューエイジの危うさは、「伝統からの遊離」である。
人類がこれまで培ってきた霊性探求の歴史の総体を参照枠とできるよう
な、そういう思想が求められているように思う。その意味でニューエイジ
は過渡的な形態であろう。

ケン・ウィルバーの思想は、そういう思想を提供する試みとして評価する
ことはできるが、実際には、それは霊性のすべてを受け止めるだけの
パワーはない。要するに、それでは「生きることができない」のである。
63:04/09/05 12:39

東洋では意識魂の文化が発達しなかった、つまり意識魂に目覚めた人
は社会から離脱せざるを得なかったという状況。中国の「隠者」の理想
とか、ヨーギとか、あの時代において自由を追求した人が存在し得た形
なのである。しかしこれだけでは、現代にそのままつながらない。

これは、東洋の霊的形而上学が、霊的合一を歌い上げながら、同時に、
「現在ある世界はそのままで絶対である」という肯定に終わるという問題
ともなる。ある意味、ある次元ではまったくその通りであろう。

しかし、地球はまだ完全な神化の状態に至っていないことも事実では
ないだろうか。地球、人類は、神化の過程にある中途の存在であると
いうこともまた否定できないのだ。その面の思想は、東洋ではあまり
発達しなかった。

これが最も強烈に現れたのは、東方キリスト教であった。ニューエイジ
でも霊的進化論は大きなテーマである。それはたしかにキリスト教的な
思想である。しかし、それが最もキリスト教に学ぶべきポイントなのだ。

地球はまだ完成していない、私たちがそれを完成させる者であるという
理想である。これは、東洋では、法華経に見られるものだ。大乗仏教の
成立とキリストの出現とは、連関がある。つまりそれは、この時代に
人類史に出現した「キリスト衝動」と呼ぶべきものの作用なのだ。

プラトン主義も、個人の救いにとどまっている。だが、地球そのものを
神化しようという目的が、宇宙には存在している。それを深く感じること
は、現代における霊的責任の一つである。
64:04/09/05 12:41

分厚いが興味深い本が2冊ある。

一つは、New Age Religion and Western Culture 「ニューエイジ宗教と
西洋文化」で、ニューエイジ文化を総括し、それを西洋のエソテリシズム
の思想的系譜にあることを示す、という趣旨であるらしい。客観的であり
つつ、ニューエイジ思想の内在的理解につとめている姿勢がうかがえ、
好感を抱く。

たとえば、チャネリングにしたって、ヘブライ以来の西洋宗教の伝統には
違いないわけである。そういう視点が重要だ。

ニューエイジとかトランスパーソナルにどっぷりつかるのではなく、「西洋
の神智学的な思想伝統」を総体としてみる視点は、最も必要なものだと
思うので、500ページもするこの本を読破せねばならない。

もう一つは、そのものずばりの Modern Esoteric Spirituality 「近代の
秘教的霊性」で、総合的な概説書である。アジアの伝統そのものをその
ままやるわけにもいかないし、現在の私たちの霊性のあり方を考えるに
当たって、近代社会に対応した形で霊性を追求してきた、モダン・
エソテリックのことを十分に勉強しなくてはならない。

そんなわけでこの2冊は私にとっては重要である。
65:04/09/05 12:42

ニューエイジにはたしかに変なところもあるし、思い込みがかなり混入も
している。しかし全体としてみれば、これまで現れた宗教の教えと比較
しても、最もよくできたシステムがあると思う。

これが究極的な真理ではないが、伝統的な宗教に比べればかなり
真理に近づいた部分がある。

べつに永遠の真理を理解する必要はない。21世紀初頭の人間のレベル
で理解できる限りのことを理解すればよい。そこで、ニューエイジのよい
部分というのは継承していくべきだと思う。

ウィルバーはそういう努力をしているが、なお(あえて?)欠落させてい
る部分があるので(特に天使論と転生・カルマ論、微細身論の領域に
おいて)、なお、別種の知的フォーミュレーションを試みる余地は残され
ている。
66:04/09/05 12:44

転生とカルマの思想がアジア宗教で発達したといっても、伝統的には
それは、輪廻の鎖からの解放として解脱を求めるということであって、
魂が転生を通して成長していくというヴィジョンは十分に発展していな
かったと思う。

そのような見方は、いわゆるニューエイジ的な思想において、エドガー
・ケイシーなどの影響によって確立してきたものだと思う(ちなみに
ハーネグラフのニューエイジ宗教論ではどうもケイシーを軽視しすぎて
いるように思われる)。

つまり、この20世紀末期の宗教思想において、「神の宇宙経綸」と
「カルマと再生」を、「魂の段階的成長」というヴィジョンによって統一して
理解する見方が確立した。それはケイシーやシルバー・バーチの本に
はっきりと述べられており、現在のほとんどのニューエイジ的な思想家
(レッドフィールド、ウォルシュなど)はこのような理解に立っている。

もちろんこの理解が「究極」のものではないし、それはあり得ない。

しかし、現段階の人類としては、もっとも真理に近づいている理解の
仕方だと私は考えている。ま、そう判断するのは個人の価値観であって、
「証明」したりする性質のものではないが。
67:04/09/05 12:46

ハーネグラフは、魂の進化と地球の霊的進歩という思想は、進化論の
影響を受けた近代主義的な発想だとするが、私はそうは思わない。

ハーネグラフは、東方キリスト教の「地球全体を神化にみちびく神の
宇宙的経綸(オイコノミア)」という思想をよく知らないのである。

実はそれがキリスト教の最も貴重なエッセンスなのだ。それを深く理解
して、かつ、魂が再生するという問題を真剣に受け止めれば、魂と地球
が霊的に進歩していくことが宇宙経綸だという理解に到達するのは、
論理的必然といってもいいのである。

この〈イデー〉が私の思想の中核である。

だから、そういう〈イデー〉に理解を示さない思想家(ウィルバーもそう
だが)には何の興味も持てなくなってしまったのである。

もちろん、否定、論争は無益だからそんなことはしない。だが、「神の
愛を感じたい」という、多くの魂の奥に潜む願望を満たしてくれる思想
が、いま、存在しているであろうか。ないのならば、それはいつか表現
されねばならない。
68:04/09/05 12:48

レッドフィールドといえば、Redfield / Murphy の「God and the Evolving
Universe」で、どうも、思想的にはほとんどマーフィーのものではないか
と思う。

内容は、最前衛だ。

超感覚の例や、スポーツ選手の奇跡的パフォーマンスなど、人間能力
の可能性を論じている。さらに臨死体験、体外離脱からなんと天使や
天界の話まであるのには驚いた。もちろん神秘的合一体験やクンダリ
ニー、気のことも書いてある。社会のあり方にも触れていて、バランスの
よい目配りというのが印象的。しかしそれだけなら精神世界になじみの
読者なら「ふつー」の話だろう。

この本での思想的な面でのポイントは、「栄光の身体」glorified body
というイデーを提示していることだ。

つまり、人間のさらなる進化(という言葉が嫌いなら「成長」)というのは
単に霊的、心的な面(つまりいわゆる「内面」)にとどまるものではない。
同時に、私たちの感覚能力、運動能力をも飛躍的に変容するということ
なのである。

この「栄光の身体」というのはもちろんキリスト教の伝統でもあるし、
コルバンがスーフィズムに指摘しているものでもある。また、ヨーガ行者
の驚くべき身体能力や、チベットの修行者が風のように歩く話など。
69:04/09/05 12:49

これはきわめて重要なポイントをついている。

私は身体というものを実体とは考えない。さまざまな知覚・運動が生起
する「場」のようなものと解する。その「場」のあり方が人間のあり方を
決定しているわけだが、このようなものもまた変容しうるということである。

ただ、この本に欠けているところといえば、「闇との対決」というテーマ
であり、闇というものが超個的な存在としてある次元での実体性を
もっており、いずれはそれと対峙しなければならないということだ。

この点を抜かしているのは、ニューエイジ的楽観性がまだ残っている
といわねばならない。しかし、そういう限界はあるが、一つのパラダイム
の提示として完成度は高いと思う。翻訳が出るとよいと思うが。
70:04/09/05 12:50

また、The Cultural Creatives という本がある。How 50 million people
are changing the world という副題で、Paul Ray / Sherry Ruth Anderson
の共著である。アメリカに新しい文化が生まれつつあることを論じた、
社会学的な本であるが、読みやすい。

つまり、新しい意識の目覚めに関心を持ち、また同時に、環境問題、
女性問題・・等々にも新しい意識を有している、という社会層の人々だ。
それが今や5000万人に達するといっている。

これは従来「ニューエイジ」と呼ばれてきたものに近いが、現在では
「ニューエイジ」という言葉は蔑称になっており、だいたいにおいて、
そういう動きが気に入らない人が、その最もオカルト的な部分を誇大
に捉えて馬鹿にするための言葉になっている。

たとえばすぐ「プレイアデス星人からのチャネリング」などという類の
ものを連想させてしまうわけだ。

まともに意識の成長を考える人々は――私を含め、ここを読んでいる
人の大多数はそうだと思うが――自分をニューエイジと呼ばれたくは
ないだろう。

ところがそういうグループをどう呼ぶかというほかの名前がなかったの
だが、この本ではそれを明確に「cultural creatives」という名前を与え
た。

名前をつけたということがいちばん重要なことだろう。
71:04/09/05 12:52

ハーネグラフの研究にしても、何をもってニューエイジとするかという
のが、いろいろ説明はしているものの今ひとつ納得できないものが
あり、著者の恣意で線引きをしているのではという疑念を消すことが
できなかった。

また日本の島薗などは新宗教運動を合わせて考えているが、
これも納得しがたい。

つまり、「自分とほぼ価値観の近いグループ」というものができつつ
あると私たちは感じているわけで、それがそういうものと一緒に扱わ
れるのはかなり違うという印象を受けるわけである。

しかし、この「cultural creatives」というのは、その点、新宗教とも
オカルト好みともはっきり異なる、ある価値観を共有するグループ
として際だたせることに成功している。

つまり私たちは自分たちのアイデンティティを確認し、その名前を持つ
ことができたという意味で、この本は画期的だと思う。

そういうグループの人自身の自己確認には最適であるし、また社会学
者や宗教学者もこれを読んで勉強していただきたいものだ。
72:04/09/05 12:52

またフランス語ではあるが、ヴェルネットによるクセジュ文庫の『ニュー
エイジ』というもの。

これは、非常に冷静、客観的でありながら、ニューエイジがエゾテリスム
の大衆化であることをしっかり抑えているし、ある程度の共感もある。
概説書としては文句なしであろう。

フランス語も平明で、フランス伝統の明晰なる知性のお手本みたいな
クセジュ文庫の一冊である。しかし、クセジュの翻訳権を独占している
白水社はこういうテーマに共感がないようなので、翻訳は出ないでしょ
うねえ(出てるのかもしれないが)。
73:04/09/05 12:54

現代では、憲法上は思想や価値観の完全な自由が保障されている。
北朝鮮だって、憲法にはそう書いてあるはずだ。

だが、ある社会制度を作る時、なぜその制度であってほかの制度では
ないのか、そこには明らかに一つの価値観が作用している。

社会政策が家族単位にして設計されているとしたら、それはある「理想
の家族像」というものがあって、それに従って生きることが幸福へ導く、
という考えがある。

すべての制度は、「誰かが思い描いた理想」に従って設計されている
のだ。従って、その理想を疑わず、そのままに受け入れて自分の価値観
としている人は、こうした社会では生きやすい。その価値観に抵抗が
ある人は、その社会では生きにくい。つまり、割を食う。

つまり、さまざまな価値観は、法的には平等であるが、政治的には平等
ではない。これはよく考えればわかることだろう。こうした政治的不平等
はどのような社会でもなくなることはない。

こういうことを意識せず、論理的次元だけで論じてもしかたないのである。
74:04/09/05 12:56

たとえば精神医学というものが社会の中に制度化されていれば、それは
当然、精神医学の中に含まれている価値観や世界観が、一種の社会的
権威を獲得し、政治的な力を得ているということになる(あらゆる学問は、
価値観・世界観の制約から完全に自由ではない)。

このことが、いわゆる「変性意識」や「異次元の体験」に対する社会的
抑圧を生み出している。

このような観点はいわば知識社会学的な視点というのだが、思想とは
ニュートラルなものではなく、政治的(マクロ・ミクロ次元の)な権力作用と
無関係ではない。まあ、こんなことはミシェル・フーコーでも勉強すれば
わかることだろう。

古い言葉だが、そのような権力作用と関係している思想・価値観を
「イデオロギー」というのである。この意味で、唯物論は現代社会の
イデオロギーなのである。

この意味で、スピリチュアリティーの価値を主張することは、「戦う」ことで
もある。それは政治的な戦いでもある(なお、ここでいう政治的というのは、
マクロ・ミクロの権力現象を見抜き、それに揺さぶりをかけるという意味
であり、決して、選挙や政党に関係することだけを言うのではない。

こう いう「ミクロの権力現象を見抜く」ということは、大学を卒業した人なら、
メディア・リテラシーとあわせて、どんな専攻であれ一般教養として知って
おいてほしいことである)
75:04/09/05 12:57

東方キリスト教に関して、英語が読める人には、以下の本を推薦。
Kyriacos Markides -- Riding with the Lion : In Search of the Mystical Christianity.
Kyriacos Markides -- The Mountain of Silence: A Search for Orthodox Spirituality.
John Meyendorff -- St. Gregory Palamas and Orthodox Christianity.

マルキデスはご存じ「ダスカロス」シリーズでおなじみだが、最初の本
では聖地アトス山を訪問。二番目のでは、キプロスに来た聖者に密着
取材である。霊的な道というものは何か、というものが、それに付随
する超常的現象をも含めて詳細に語られているといってもいいだろう。

霊性に関しては、自分の思いやイメージを投影して語られている場合
があまりに多いので、「事実」をしっかり知っておくことが必要だ。

『沈黙の山』に書かれているようなことは、私も実際に見聞したことが
あるのだから。機会があれば翻訳紹介したいと考えている。

三番目はわかりやすい入門書。邦訳が出ている『聖グレゴリオス・
パラマス―東方キリスト教会の神秘生活』(中央出版社)とあわせ読む
とよい。

なぜ私が熱心にこんなことを書くかというと、その「神化の理想」という
観点から仏教、神道的伝統を逆照射し、再発見するということが、
いまの日本の霊性にとって大きな意義があると考えているからである。

それは逆にいえば、いまの一般的な仏教理解、あるいは「悟り」理解は、
その本来の意味を理解できないために矮小化させた理解にすぎない
(つまり自分の理解できる範囲まで小さくしている)ということでもある。
76:04/09/05 13:00

すべての伝統を「正しい」と認めるのは無理があるということだ。
輪廻説はイスラムやキリスト教にはないとすれば、それはまだ「完全な
真理の開示」ではないからである。そう見るのが不満だとしたら、そこに
限界があるとも言える。それぞれの世界宗教は、みな人類への贈り物
をもって出現したわけだが、真理の全体があまねく開示されている宗教
伝統は今までに一つもない、すべて「パーシャルな真理」にすぎないのだ。

ごく最近になって急速にスピリチュアルな情報が開示され始めており、
もはや、受け取る用意のできた人には、霊的世界観の基本的なことを
だいたい理解するのはそれほどむずかしいことではなくなっている。
ただそうした情報のほとんどは、アカデミズムが扱う範囲にはない。
人文系アカデミズムが拠って立つ「古典」というものが、もはや前世紀
の基準となりつつあり、本当に今読むべきものは、そういうリストから
ずれてきていると私は痛感しているのである。どんどん本を読んでいけ
ば数年でだいたい見通しはついてくる。

こういう本を読んでると周囲から浮いてきちゃうんじゃない? と心配
する人がいるかもしれないが、浮いてしまうというのはそれだけ自分が
足りない証拠である。もしくはその情報がオカルトすぎて本来のところ
から外れている可能性もある。実際、「枝道系霊的情報」ばかり知りす
ぎておかしくなってきた人というのはあるし、そういう危険は常に警戒し
ていないと。

本当に知らなければならないのはどういうことか、という判断の問題で
ある。
77:04/09/05 13:07

こんな文章よりまずシュタイナーの『神智学』を読め、という趣旨という
わけでもないのだが、その序文には参考になると思われる言葉がある
ので読んでみていただきたい。

 今日、超感覚的諸事実の表現を行う人は、二つの点をはっきり知って
 おく必要がある。

 第一に、われわれの時代が超感覚的認識の育成を必要としているこ
 と、しかし第二に、今日の精神生活の中には、このような表現を、まさ
 にとりとめのない幻想、夢想であると思わせる考え方、感じ方が充満
 していることである。

 現代が超感覚的認識を必要としているのは、通常の仕方で人が世界
 と人生を経験する場合、その経験内容がその人の中に、超感覚的真
 実を通してしか答えることのできぬ無数の問題を喚び起すからである。

 人が存在の基礎について今日の精神潮流の内部で学べることは、
 より深く感じとる魂にとっては、世界と人生の大きな謎に対する解答
 ではなく、問いでしかない。しばらくの間は、「厳密な科学的事実が
 教えること」や現代の何人かの思想家の諸説の中に、存在の謎を
 解決してくれるものがあると信じることができるかもしれない。しかし
 魂が、自分自身を本当に理解しはじめるときに入って行かねばなら
 ぬ、あの深層にまで入っていくなら、はじめ解決のように見えたもの
 が、真の問題のための問題提起に過ぎなかったように思われてくる。
78:04/09/05 13:11

 他面、今日の多くの人は、もっとも必要としているものを、もっとも烈し
 く退けようとしている。「確実な科学的経験」の基礎の上に打ち立てら
 れた多くの見解の強制力があまりに大きいために、人々は本書のよ
 うな書物の内容を、根拠のないナンセンスと取ること以外何もできな
 いでいる。

 (中略)人は、このような者の主張に対して「誰も非難できない」ような
 証明をして見せよと要求してくるだろう。だが、こう要求することで、ひ
 とつの錯覚に陥っていることに、人は気づこうとしていない。なぜなら、
 人は事柄の中に存する証明ではなく、自分が認めたがっているもの、
 もしくは認めることのできるものを無意識に要求しているだけなのだか
 ら。

 (中略)議論は、それが自分の思考方法の中に存する論拠だけを通
 用させようとする人との間で交わされるなら、不毛でしかない。「証明
 すること」の本質をよく知っている人は、人間の魂が真なるものを発見
 するのは、そういう議論とは異なる道の上においてである、ということ
 をよく知っている。ちくま学芸文庫版 P11〜14
79:04/09/05 13:11

実際、「確実な科学的基礎」なるものの延長線上で、根本的な存在の
問題が解明できるのではないかと期待している人はたしかに多い。
だからこそ脳科学の啓蒙書などが多数出版されたりしているだろう。

つまり現在の学校教育だけしか知の世界を知らない人は、「確実に
考えるとはどういうことか」というとき、「科学的に考えることだ」という
答え以外、知らないし、自分の中から出てこないのである。そこで、
そういう学問がどこかの大学などで行われていると信じ、それを学べ
ばよいと考えたりしてしまう。これは、無意識のうちに「国定カリキュラム」
というものが人々の知のあり方についてある強制力を持っていることを
意味していないだろうか。つまり、「存在の基礎について考えるという
のはどういうことか」ということを全く知らないし、考えたこともない人が
大部分だ。たしかに、これはカリキュラムとして教えることはできない。
ただ、その問いを生きている人間の存在によって示すことができる
だけであろう。

文部科学省によって作られた「勉強のスタイル」の延長線上で存在
問題を考えてしまう姿勢が、いまだ世の中の大勢を占める。シュタイナ
ーの時代とさほど変わってはいないわけだ。
80:04/09/05 13:14

そういうわけで、一度はっきり書いておいた方がいいと思うが、私個人
は決して「霊性について科学的に研究する立場」ではない、ということ
である。そんなことは一瞬たりとも夢想したことはない。

むしろ、「信頼に値する知というのは、科学だけなんですか?」という
ことから始まっているということだ。これは、私がいまでは批判している
トランスパーソナルにしてもそうなのである。

あくまで、現代では無視されている「霊的な知というスタイル」の復権を
めざしているのであって、そういうものを排除したところに成り立ってい
る現代のアカデミックな知にすり寄り、何とかそこで認めてもらいたいと
いう発想には立っていないということである(ただ残念ながら、日本の
トランスパーソナル関係者の中には、若干そういう「すり寄り」の姿勢を
見せている人もいるにはいる)。
81:04/09/05 13:16

「知」というのは、現代社会が許容しているよりももっと広範なものだ。

トランスパーソナルは、現存している「知」の体制についての、知識社会
学的な批判を含んでいるわけである。わかりやすくいえば、現存の「知」
は、ある前提を無批判に受容した上で成り立っている一つのイデオロギ
ーではないのか、という視点である。

たしかに、ポスト構造主義思想は、ある程度こういう「知」のクリティック
をやってくれた。ミシェル・フーコーやドゥルーズ、デリダなどの業績である。

それはそれで高く評価したい。

ただあれは、あくまで「アンチ」の立場に止まっているもので、21世紀的
な知を切り開く視点は持ってはいないのだが。

それでも、ニーチェに始まったことが一つの完成に達したことは評価でき
る。

つまり、一言でいえば、私たちは知においてまったく「自由」なのだとい
うことである。

その「自由」に気づいている人が少ない。

ほとんどの人はなんらかの「縛り」を求め、縛られることをむしろ喜んで
いる。
82:04/09/05 13:19

引き続き、シュタイナーの『神智学』を読んでみよう。

というのは、そもそも「霊的な思想」とは何か、という基本問題である。
それについては、この本の「認識の小道」という章の最初を見るとよい。
「高次の世界の思考像を提供する」と書いてある。まさにその通りで
ある。

高橋巌もいっていることだが、この『神智学』は徹底的に「思考」の意味
を考えるところから始まっている。それは『自由の哲学』の延長上にある
ことだが。

日本人の霊的文化は伝統的に「反知性主義」である。シュタイナーに
しても、あるいはウィルバーにしても、日本人の拒否反応の多くは、
「霊的なことは、ただ体験すりゃいいんじゃ。何をつべこべ理屈ぬかし
とるんやあんたらは」というようなものであろう。まあ、こういう品の
悪い言葉ではないにしても、そういう気分を持っている人はかなり多い
はずだ。

しかし、これは「真の思考」の持つ力を知らないということなのである。
ここで「思考」というのは、決して記号操作のことではない。私の言葉
でいえば「自己の内部に《イデー》を受け取り、成長させること」である。
83:04/09/05 13:21

 みずから見霊能力を獲得するための第一歩は、このような思考像を
 把握することにあるのだ。なぜなら、人間は思考存在なのであって、
 思考から出発するときにのみ、自分の歩む認識の小道を自分で見つ
 け出すことができるからである。人間の理解力に高次の世界の思考
 像を提供することは、はじめはその像がいわば霊的諸事実について
 の単なる物語に過ぎず、まだその諸事実を自分の眼で観ているので
 はないとしても、不毛なことではない。なぜなら、思考内容は、それ
 自身、力となって作用し続けるからである。この力は理解力に働きか
 け、まどろんでいる素質を目覚めさせてくれる。だからそのような思考
 像に傾倒するのは余計なことだ、という意見は間違っている。そう
 考える人は、思考内容の中に実体のないもの、抽象的なものしか
 見ていない。 P191

霊的世界、霊的原理、宇宙法則などについてのできるだけ正確な思考
像を得るということは、そのようなことを実際に体験するための不可欠
な準備である。ちょっと仏教的にいえば、「成道」のためにはまず「聞法」
から始めよ、ということである。その「言葉に含まれる力」を無視しては
いけない。言葉は単なる記号ではない。霊的なるものの物質界におけ
る媒体(メディア)ともなりうる力を秘めているのである。そこから出発し
なくてはいけない。
84:04/09/05 13:22

 思想の根底には、生きた力が存在している。霊視内容を表現した
 思考内容なら、それを伝達することは、伝達された者の中で、実りを
 もたらす萌芽となって作用する筈である。 P192

つまり、本当に霊的な何かをつかんだ人が、それを思考表現としてアウ
トプットするとき、それは、何事かを、受け取る人の魂に伝える。そういう
ことがありうると想像できないとしたら、それはその人のいままでの人生
経験にはそういう経験が全くなく、またその可能性ついて聴いたことも
ないということで、不幸な事態といわねばならない。
85:04/09/05 13:24

 自分の無意識の中の知識が、他者によって見出された霊的事実に
 反応を示すのである。そしてこの反応は、盲目的信仰なのではなく、
 健全な常識な正常な働きなのである。 P193

つまり、霊的真実の世界に由来する《イデー》が浸透した思考像に接す
るときに、「あっこれは本当なんだ」とわかる、直覚するものが魂の中に
はあるということだ。人が存在についての真実を知るのは常にそういう
《イデー》の力によるのであり、そこから自分自身による体験の世界へ
と導かれるのである。

その意味で、霊的真実について語るというのはきわめて重要なことで
ある。生半可に禅などを振り回して語ることを否定するのは、一知半解
の愚者といわねばならない。
86:04/09/05 13:25

ただし、その《イデー》によってそこに霊的真実が含まれていることを
直覚したからといって、その人の語ることのすべてが霊的な真実である
とは限らない。その《イデー》に感激するあまり、つい、それを語った人は
すべての真実を知っていると考えてしまい、盲目的信仰に陥る場合が
ある。

実は、いままでの宗教、宗派というものはそういうふうにしてできたもの
だといってもいいだろう。たとえばS学会にしろ、G教会にしろ、その教え
の中には確かに霊的真実が含まれていることは事実なのだ。ただ、
真実ではないものも若干交じっている。しかしそれは、もっと伝統ある
カトリックなどだって程度の差はあれ同じことで、伝統的な教義の中に
は、霊的な真実と、そこからちょっとそれているものが混淆しているの
である。

宗教の問題は、そこに含まれる霊的真実のイデーに感激するあまり、
その宗教の教えが100%正しいと無条件に思ってしまうということである。
87:04/09/05 13:26

そういう人に対し、そこに含まれる一部の霊的イデーに対する感性を
持っていない人が、いくらそんな宗教はやめろと言ってもなんの効果も
ない。むしろ逆効果である。

だいたい、世の中の宗教にまつわる騒ぎというのはその程度のレベル
のものであろう。

だから、そこに含まれる《イデー》を尊重しつつも、その一面性を乗りこ
え、他の宗教にも含まれている霊的真実も受け入れられるように、より
普遍的な霊的真実の方へと導いていくのでなければ、カルト信者の
ケアはできないと言えよう。

その意味でも、霊的真実を特定の宗派的枠組から解放した「普遍的
霊性」の思考像を構築する意味が大きいと言える。
88:04/09/05 13:27

映画『華氏911』でも周知のように、数年前に、憎悪の波動が大規模
に現象化するという事件が起こった。それぞれの人がこれをどう受け
止めたかということを、CNNを通して見ていた。最初は放送する人自体
が強い衝撃を受けていることがありありと見えた。

しかし、大統領の「必ず報復する」という言葉を聞いて、「これは滅びへ
の道ではないのか?」と思った。そもそもブッシュ政権は当初から、
一億人ばかりの支持者の利益のためには、地球全体の利益はどうでも
いいという政策を続けており、世界に不調和な波動をばらまいている。
責任の一端は大統領自身にもあるということは夢にも思い及ばない
らしい。もしアメリカという国が真剣に世界の調和を願い、地球環境問題
にもパレスチナ問題にも真摯に取り組んでいたら、これほどまで大規模
な現象化があったであろうか、と思う。

しかしメディアからは、衝撃・恐怖・不安・憎悪といったネガティブな波動
しか来ないことがわかって、見るのを止めたわけだ。
89:04/09/05 13:28

「奇蹟のコース」とか「神との対話」などを読んで、霊的な世界観に目覚
めつつある人々はどのように受け止めているのか、と思って、ニュー
エイジ系サイトをいくつか見てみた。

すると、もう多くのメッセージが書き込まれている。いずれも「このような
ときこそ、愛の波動の中にとどまり続けることが重要だ」と言っている。
「これは wake-up callなのだ」という言葉も何回も出てきた。
James Redfield や Neale Donald Walsh のメッセージもあった。

実に多くの人々が、「悪いのは奴らだ」という分離意識の誤りを知り、
人類の意識を全体として考え、その癒しを真剣に祈っているのであった。

このように「敵を愛する」というキリスト的メッセージを多くの人が実行
しようと努めていることに、地球的な意識変革がたしかに進んでいる
ことを実感したのである。

ともあれ、テレビや新聞は、まだまだ主流である古いパラダイムに
基づいて見ているものなので、そういうものを見過ぎず、高い意識から
これを受け止めようと努力している人々の声に耳を傾けたいものである。

しかし思うに、恐怖にとらわれて分離意識に陥ってしまうのは、肉体
意識のみが人間だと思っているからである。つまり、真に「恐怖に基づ
いたパラダイム」を超えるためには、人間の本体が霊的なものである
ことを知り、いつでも肉体から去るという覚悟が出来ていなくてはなら
ない。厳しいものなのである。
90:04/09/05 13:30

神愛だが、文字通り「神の絶対的愛」を確信し、魂次元で感じる、知る
ということである。これは観念ではない。魂における絶対的現実である。
神愛を実感するということが、魂の浄化がある程度まで進んだことを
意味すると言ってもいいだろうと思う。

もちろん「神」という概念が必要なわけではない。むしろ「宇宙的な愛」
とか「宇宙の絶対調和」などという言葉もあるかもしれない。

近代の知は深くニヒリズムに侵されているといってもいいだろう。宇宙
には何の意味もない、人間は意味がない、という思想だ。意味がない
というより、意味があるように「思えない」「感じられない」ということで、
魂の問題だろう。実存主義というのはこういうニヒリズムから出発して
いる思想である。実存主義は現在の流行思想ではないが、ニヒリズム
はますます社会全体を覆っているようにも見える。

いわゆる「識者」は、援助交際とかいろいろな社会の頽廃現象をあげ
つらっているが、そもそも今の「知識人」全体として、人間や世界の存在
意義を明らかにできるような思想を提示し得ていないという怠慢・失敗
の責任を自覚しているようには見えない。
91:04/09/05 13:33

たしかに20世紀は大量虐殺の世紀であり、アウシュヴィッツや原爆など
の現実を前にして「宇宙の絶対的調和」という思想を持つことはむずか
しいのかもしれない。

しかしそれは、結局、ものごとを「一つの平面」だけで考えるから、そう
いうことの意味を理解できないということでもある。

ものごとが起こる「因果」というものは、物質次元だけでは完結していな
い。多次元なる宇宙全体を見わたしてはじめて、すべてが完璧なる
法則で動いていることが理解できる。

つまり、一次元的な世界観では、決して宇宙調和を理解することができ
ず、ニヒリズムに行き着くしかないのである。これがウィルバーのいう、
「フラットランド」である。

この意味で、非物質次元と物質次元を貫いて原因結果の法則が働く
という「カルマの法則」の理解は、宇宙調和を理解するために欠かせ
ない視点といえる。

それが欠如しているような思想は力を持てない。というかはっきり言っ
て真実が見えていない。カルマと輪廻転生を前提にすれば、神の宇宙
的な愛を実感することははるかに容易になる。
92:04/09/05 13:35

ある時、私の研究室に、「地球と環境の哲学」(オギュスタン・ベルク著)
という本があったのを見て、「こんなの、やってることに関係あるの?」
なんてマジに質問してきた人がいたのには参った。

それはちょっと認識不足でしょう? スピリチュアルなことと環境問題が
無関係だと思っているなんて、それはちょっと、そういう「スピリチュアル」
の理解の仕方に限界があるんじゃない? と言いたくなってしまうな。

現代において霊的な思想を提示するってことは、人類と地球とか同時
に救われなければならない、ってことを意味せざるを得ない。当然、
人間と他の生物・無生物を含めた「地球」というものは霊的にどういう
意味をもっているのか−−ということは「地球まるごとの救済」である。
いや、救済と言うより「神化」といった方がいいかも。

自分だけの救済を求めても意味はない。

重要なことは「スピリットというものが実在する、ということを視野に入れ
てすべてのことをする」ということだ、という理解に到達したのである。
それは、日常のささいなことから、一見すると霊とは何の関わりもない
「世俗的」と見える行為まで、すべてはスピリットと切り離されていない
ということだ。

スピリットとはホリスティック(全体論的)であるからだ。それはすべての
分野につながる。シュタイナーが、教育、医療、経済、環境などすべての
分野で活動したのをみてもわかる。スピリチュアルということは全体に
関わるもので、「これはスピリチュアルとは関係ない」ということはありえ
ないのである。そう考える人がいたとしたら、そのスピリチュアル理解は
浅薄だと言わざるをえないと思う。
93:04/09/05 13:37

人間を「霊魂体」の統合としてホリスティックに捉える立場から、
何が生まれるか。具体的な場面への応用を考えると。

まず第一は、環境問題である。エコロジーへのスピリチュアルなアプロ
ーチとしての「エコソフィア」への展開。たとえば「気のエコロジー」とい
った、「ユニバーサル・エネルギー・フィールド」のパラダイムに基づく
新しい環境思想を樹立することを、これから1〜2年のうちにやってい
きたい。

第二は、代替・相補医療について。ホリスティック医学の動向。「ヒーリ
ング」というのはきわめて本質的なパラダイムではないか。エコソフィー
というのも結局は「地球のヒーリング」にほかならないのだ。

これと関連して、ホリスティック教育というテーマもある。

これはもちろんシュタイナーの本質的なテーマだが、そもそもコメニウス
やフレーベルなど、優れた教育学者はすべて神秘学者でもあった。

というのも神秘学は総合の学だからであり、すべてにスピリットが宿る
ことを前提とするからだ。
94:04/09/05 13:38

アラン・ドレングソン・井上有一編『ディープ・エコロジー』(昭和堂)は
よい本である。ディープ・エコロジーについての基礎的な知識はこれで
得られる。

これで、「エコステリー」というコンセプトのことを知る。これは、エコロジ
ーとモナステリー(僧院)との造語で、エコ思想やライフスタイルについて
学ぶセンターのようなものを言う。そのHPもあるというので見てみると、
充実している。特に文献リストとWEBリンクは有益だ。アメリカのエコ
ソフィー運動はかなり腰の据わったものだという印象を強くする。

それにひきかえ日本のWEBでは・・数が圧倒的に少ないのだが、その
中で、京都精華大学の環境社会学科というものがあることを知ったの
は収穫。エコロジー思想や環境保護運動について総合的に学べる
専門学科ということで画期的だろう。井上有一氏もここの教員である。
ただやはり「環境社会学」であるから、ディープ・エコロジーが持っている
スピリチュアル志向の側面はあまり出ていないと思えた。

これは日本の状況の反映でもあるなあ、と思った。

つまりアメリカでは、ニューエイジ的なスピリチュアル志向と、環境保護
運動は密接に結びついているのだが、日本ではエコロジー運動と
「精神世界」運動はそういう結びつきが弱いようなのだ(ないとは言わ
ない)。

エコステリーのHPにしても、文献リストの三割くらいはタオだとかカス
タネダ、女神といった本が入っている。日本の環境保護運動は住民
運動という文脈が多いというのは悪いことではないが、「精神世界」派
の方が内向きすぎるのではないか? というところも感じる。

とにかくエコロジーとスピリチュアルを切り離せないものとして認識する
という知的風土はまだ弱い。
95:04/09/05 13:40

それを抑えつつ、なおも中核には人間が経験しうるスピリチュアルな
経験の意義というものがあり、これは「スピリチュアル・エマージェンシー」
を視野に入れ、臨死体験・至高体験・クンダリニー覚醒など「特異な
体験」のうちに人類の可能性と未来を見るという基本的視座を持つ。
もちろんネガティブな体験をも包括するようなモデルが必要である。

そこを視野に入れると、「エコ陣営には超越が不足している」という
ウィルバーの批判もたしかにわからなくはないのである。超越体験と
エコソフィー、これが問題になってくる。医療や教育もそうだが、超越
の問題は常に見え隠れしているのだ。

「癒し」というのは「全体と結びつく」という意味である。

「地球と人類の癒し」というのはそういうことである。

そこで、全体意識の経験を中心として、ほかの諸分野が位置づけられ
てくるのだ。
96:04/09/05 13:42

ある時に研究室に学生が来て「自分のやりたいことが見つからない」
などと相談されて困ってしまった。私にはそういう状態が全然想像でき
ないからである。「やりたいことが多すぎてどう整理していいのかわか
らない」というならおなじみであるが・・

あるいは、「やりたいことはあるが、それをやらせてくれる場所がない」
というのはわかる。それは結局、自分で切り開くしかないということだ。

ところが、「やりたいことがない」というのがいちばん困ったことで、これ
はつまり「理想を思い描くエネルギー」が弱いということである。聞いて
みると、特に自分の好きな「場所」というものがなく、ほとんどどこにも
行ったことがないという。「伊勢神宮なんかいいよ」といえば、「伊勢って
どこにあるんですか」と来るので困ってしまうのである。しようがないので、
「やりたいことがないなら、いっそ徹底的にカラッポになってしまって、
スタートし直したらどうか」と、ヴィパッサナ瞑想10日コースをすすめて
しまったが、意外と乗り気だった。
97:04/09/05 13:43

最近になって、一人で森へ行ったりし始め、「これまではいつも誰かと
一緒だったのに、最近は一人のことが多くて、ほかの人には話せない
ような感情や感覚が生まれてきて、それには寂しさを感じる」というよう
なことを言っていた。

それはようやく魂が目覚め始めたという徴なので、成長という意味では
よいことである、できればそれは17,8歳くらいの時に経験しておけば
よかった、大学4年ではちょっと遅かったね、などと言った。

たぶん、「やることがない」というのも、これまで「これをやるんだ」と思っ
ていたのが実は誰か他人の価値観を借りていたにすぎないもので、
本当に自分のやりたいことではなかったことに気づいたのだろう。

4年で気づくのは遅いのだが、卒研テーマを決める時にこれに気づく
学生はけっこう多いものである。もっとも、そういう迷いがないというのも、
借り物を一回も疑わない生き方であるということも多いので、いちがいに
いいとも言えない。
98:04/09/05 13:44

しかし、いままで何の疑問も抱かずに過ごしてきたので、現状を否定
して「理想」をイメージする力が弱いし、イマジネーションが極度に不足
している。すぐにどうこうできるというものではない。

もし何の制約条件もないと仮定するなら、休学して一年間全国、世界を
放浪の旅するといい、などと言った。無責任のようだがこれが正論では
ないかと思える。理想をイメージする力は、豊かな経験からしか生まれ
ないと思うのだ(経験というのは、読書や芸術の体験も含まれる)。

環境ボランティアやNPOにも関心があるというのだが、実際には環境
問題についてほとんど知らないので、自分の空虚さを埋めるために
「何でもいいから社会的活動をしたい」というのはよく考えた方がいい
とも言った。そういう動機で運動に入ると教条的になったりしなやかさが
なくなる人がいるので、あくまで「自分の暮らしたいスタイル」を求める
過程でかかわっていくのが基本だと思う。

だから、「どのように生きたいのか」が入っていないと危ういわけだ。
99:04/09/05 13:45

森岡正博の『生命観を問いなおす』、この本で面白いのは、「生命
主義思想」への批判である。私が生命主義思想に感じている「安易さ」
をうまく指摘していると思う。要するに、「いのちというけど、いのちと
いうのは他のいのちを殺さなければいけないものでしょ?それが
わかってるの?」ということなのだが、私もまったくそれには賛成である。
この点をおさえているのは鳥山敏子だといって、それを最も高く評価
している。私が思い出すのは宮澤賢治の「よたかの星」の世界である。

当然、上田紀行などは批判的に論じられる。「上田のいのち論は、
たいへん明るいものです。みんなで生き生きすれば、地球はきっと
よくなってゆくよ、と言わんばかりの明るさと素朴さが支配しています。
そのナイーブなきらめきに、多くの人々は打たれるのだとも思います。
それは、消費社会が行き着くところまでゆき、こころの癒しまでもが
パッケージに詰めて「商品化」されはじめた八〇年代日本がはらんで
いた、根拠のない明るさを反映しているのかもしれません」 と、要する
に、「よくもそんな甘チャンの思想を口にできまんなあ。わたしゃとても
ついていけませんわ」と言っているわけである。

つまりは、「内なる煩悩への取り組みなき生命主義思想は、薄っぺ
らい」というふうに要約できるだろう。これには、まったく賛成である。
私も、中沢新一の霊性論に、「内なる罪の自覚と救済という契機を
欠いた、『救済論なきキリスト教論』だ」と思う。永沢哲も同じで、
煩悩への取り組みという点を薄めた仏教論になっている。こういう
薄っぺらさを撃つための砦の一つとして、森岡の論は使える。
100:04/09/05 13:45

ただ、ディープ・エコロジー思想も、ともすればこういう生命主義的に
とらえられがちだが、ジェームズ・スワンなどは「狩猟論」を書いているし、
生き物のと共存とは「殺すものと殺されるものとの共存」だということ
を理解している。

そのような冷徹な事実の認識の上に、生命をとらえるのは、アイヌや
マタギなどの人々はよく理解していたことだ。
101:04/09/05 13:47

キャロリン・マーチャント『自然の死』(工作舎)、分厚い本だが、言って
いることは簡潔で、要するに有機体論世界観から機械論的世界観に
変わったことの問題点を指摘している。その世界観の転換を歴史的に
書いたものである。まとめ方としてわかりやすい。参考になる。

彼女によればライプニッツが有機体論に立っている思想だという。
マーチャントはこの『自然の死』を踏まえた『ラディカル・エコロジー』の
著書がある。

私が今度展開しようとしているのも、ニューライプニッツ的なものである。
私は実体ではなくて、知覚器官とその知覚領域をゲシュタルトとして
把握し、それを「場所」的なものと理解し、そうした場所性の拡張と交差
が宇宙を形成しているという世界観である。

それから『自然の死』と同じような路線と思われるのがモリス・バーマン
の『デカルトからベイトソンへ−−世界の再魔術化』(国文社)である。

ここでは「参加する意識」から「参加しない意識」への転換というふうに
論を立てている。つまり、世界や自然から自分を切り離し、外側に立つ
ものとして自分を捉えるということだ。これがいわゆる「客観性」という
神話である。それはまた「傍観者」ということでもある。

このことは、ウィルバーが「モノローグ的」と「ディアローグ的」という
「知のモード」の問題として述べていることとほぼ同じである。
102:04/09/05 13:48

加藤尚武『環境倫理学のすすめ』という本は、野蛮に感想をいえば
加藤氏というのは、魂の深みというものをまったく知らず、自分の知性
に思い上がっている大学の先生というものの典型であろう。

まあ、参考になるところもある。しかしいろいろ屁理屈も多く、感服しな
かった。要するに「自然観のパラダイム変換」というような発想をこき
下ろそうとしているのだが、彼自身の立っている地平が近代そのもの
なので、「近代を超えようという思想は、近代の価値観を否定するから
いかん」というトートロジーの構造ではないかと思えた。

考えてみるに、「自然観における転換」と、「自然保護をいかに進める
か」ということがなんとなく同一視されているような状況は、やはり少し
問題だろう。自然保護を公共政策やまた市民運動という視点で行うなら、
ある目的を達成するのに効率的な手段は何かということを考えるわけ
だし、その時点で言えばたしかに主観−客観という構図でものを考えて
いる。
103:04/09/05 13:49

主観−客観ということが悪いわけではなく、問題は「そのほかにももの
ごとを理解する『モード』というものがある」ということを否定しようとする
イデオロギーであるのだ。

自然に対する深いコミットメントを進めようとする自然思想は、そういう
「異なるモード」の存在を認知させようというものであり、それはロマン
主義の思想の流れにある。つまり「交感的なモード」である。このモード
に入っている時は、知性を超えた魂的な感覚になっている。自然保護
の具体的な方策を考えるのは、そのモードからいったん出たあとである。
しかしこの「深いモード」は、自然に対するコミットの深い動機づけとして
作用するであろう。

加藤は、具体的な人間というものはどういうものかという問いを抜きにして、
合理的推論のみで「いかにするべきか」を規定できるという前提に立って
いる。

これが倫理学というものだとしたら、そもそも私はこの立場自体の価値
を評価できない。

大事なのは、事実を知ることである。魂次元の事実だ。
つまりユング的な心理学である。
104:04/09/05 13:51

加藤尚武は、いっさいの「自然観の再検討」を拒否して、それとは
無関係なところに環境倫理を定立しようとしているかに見えるが、
このような立場は環境倫理としては少数派と言ってよいだろうと思う。

やはり、近代の自然観を再検討することと結びつけて考えていく方が
多数派なのだ。

『見える自然と見えない自然』とか、それから『自然観の構造と環境
倫理学』などという本もある。エコロジーを思想としてとらえるものとして
はキャロリン・マーチャントの『ラディカル・エコロジー』がいちばんまと
まっていて、これも自然観の問題から、ディープエコロジーとソーシャル
エコロジーを取り上げている。ディープ・エコロジーの入門としては井上
有一+ドレングソンの『ディープ・エコロジー』がすすめられる。また
現代的な環境倫理の考え方としては鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』
がいちばんわかりよいと思う。
105:04/09/05 13:52

加藤尚武の本は『環境倫理学のすすめ』などと入門書ぽいタイトルが
ついているが、環境思想の基本的な流れからは外れており、その外側
に立って小馬鹿にしているような態度で書かれている。

これは、そこの「環境倫理学の三つの主張」というところだけ参考にして、
あとはあまり気にしないのがよい。要するにこれを入門書だと思わないように、という
ことである。

自然観の検討を拒否するということは、今の常識を疑う必要はないと
言っていることになるのだ。

環境思想の本については、京都精華大学の人文学部環境社会学科の
HPにあるブックガイドをすすめる。http://www.kyoto-seika.ac.jp/

それから先の『ディープ・エコロジー』の巻末の文献案内と、石弘之編
『必読・環境本100』がよい。
106:04/09/05 13:53

田村正勝『見える自然と見えない自然』という自然哲学を扱った本は、
あまり期待していなかったが、けっこう面白かった。哲学の本で面白か
ったのは久々で、これは著者が狭義の哲学専門家ではなく社会哲学
の出身で、常に現実の問題を見ながら思想をやっていることとも関係
しているだろう。

この場合は環境問題だ。そこで「人間は生きる限りにおいて何らかの
形而上学を持たざるを得ない」ということが書いてあったが、その通り
だと思う。

魂や霊の世界というものはないんだ、というのも一つの形而上学である。
それが「合理的」などと思われているのは、社会通念がそういう形而上
学を「本当らしい」と思っているだけで、決してそれが「証明」されている
からではないのである。

つまり文化的選択の問題である。

ほとんどの「学問」は、こういう暗黙の形而上学的前提を問わず、社会
通念の上に乗って独自のサブカルチャーを形成しているにすぎない。

多くの場合、近代社会が前提としている形而上学前提を問うことを回避
した上で、それをいかに近代の学問文化という文脈に理解可能なもの
として「説明」をつけるか、という努力が営々としてつづけられるわけだが、
「そんなもの、意味あるの?」と素朴な反問をしたくなってくる。

前提が脆弱だという印象をぬぐえない。
107:04/09/05 13:54

たとえば、シャーマニズムをどう見るかというような場合に、論ずる人が
自らの「現実」という観念を再検討することを怠ってはならないということ
だ。

そこで近代西欧的な「現実」観念を無前提に普遍とおいてしまうと、
知的植民地主義に陥るということである。

中井久夫の『治療文化論−−精神医学的再構築の試み』を読んでみた
が、これも当時としては最先端だったんだろうな、ということである。
近代西欧の「普遍性」なる主張を疑おうという姿勢は悪くはない。

しかしもっとはるかに先に進みたい。

トランスパーソナル心理学というものがいかにラジカルであったかという
ことが、逆によくわかる。

近代西欧は「普遍」ではなく、人類史的に見れば「特殊」なのだ。
108:04/09/05 13:55

鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)は、自然・人間という
二項対立的思考から抜けて、「ネットワーク」として考えていくべき
と主張している。ホリスティックな関係論である。これには全く賛成で、
特に「切り身」と「生身」という議論は面白かった。

しかし、彼はディープ・エコロジーを「人間と切り離された自然を理想化
している」と批判しているらしいが、はたしてディープ・エコロジーとは
本当にそういうものであろうか。むしろ、ホリスティックな関係性のうち
に「自己」を捉え、そのネットワークの自覚を拡張していくことを主張する
ものなのではないだろうか。したがって、鬼頭が理解するように、ディ
ープ・エコロジーとバイオリージョニズムとは思想的に異なるものでは
なく、密接な関係があるのだ。たしかに、ミューアなどの「原生自然」の
保護というシエラ・クラブ的な自然保護思想の影響は受けていることは
たしかだが、それの直系とみなすべきではなく、多様な源流の一つと
解釈すべきものだ。
109:04/09/05 13:56

思想史としては、思想界全体におけるホリスティックな思考の興隆は、
基本的に文化・自然の二項対立を克服しようとするものであり、
ベイトソン的な「全関係性の自覚」という方向に行こうとしているもの
である。

ディープ・エコロジーもあくまでそうした方向において理解すべきもの
である。

というわけで、近代思想史全体から位置づけるという点においては
いま一歩だと思われた。

しかし結論として、オギュスタン・ベルク的な「風土性」の自覚、ローカ
ルな特性を前提として文化−自然関係性を重視するという立場は、
支持できる。
110:04/09/05 13:58

基本的に日本というのは貧しい社会なのではないかと思われた。
欠陥ある医療制度の問題にも言えるが、生きていることについての
基本的なしくみにおいて、貧しいのだ。

これはまず、私たちが「豊かな暮らし」とは何であるかということの
ヴィジョンを、スピリチュアルな次元を含めてしっかり持った上で、その
上で社会経済的・制度的なシステムの改革に着手しなければなら
ない、ということである。

精神医学の問題は最も尖鋭である。たとえば憑依という現象がある。
ここで、「宇宙は霊的存在に満ちている」という世界観に立てば、憑依
を癒すには霊を諭し、悟らせることが最善である。ところが医学は決して
「霊」の存在を認めない。なぜか。その絶対的根拠はない。それが彼ら
の「文化」だからだ。近代社会の形而上学的前提だからである。彼らは
その枠から出ることができない。

中井の『治療文化論』に、ある若い女性が突然「自分は普賢菩薩である」
と名乗って部屋に閉じこもり、家族に礼拝を強要するという事例が出て
いた。霊的世界観に生きている人間から見れば、これは「低級霊が
憑依したな」と明白にわかるケースである。これは力のある宗教者なら
簡単に解決できる。
111:04/09/05 13:59

何を根拠に「霊は存在しない」という形而上学的仮定が正当化されて
いるのかは明白ではない。

ここで明らかになるのは、たしかに思想の自由というものがあり、いか
なる世界観を持とうとも法的に処罰されることはないが、いろいろな
世界観には、明らかに社会的ステータスの違いというものが存在して
いることである。

問題は、社会学的、社会心理学的なものである。
112:04/09/05 14:00

つまり、「霊はない」という近代医学者、近代アカデミズムの世界観は
社会的ステータスが高く、霊能者や宗教者の霊的世界観は、社会的
ステータスが低いのである。逆に言えば、ある特定の世界観を奉じる
ことが、高い社会的ステータスを獲得する条件にもなっているという
社会構造が見られる。ここから、近代的世界観に基づく医療文化が
享受している権威に比較して、霊能者の属する治療文化の社会的
地位は極端に低い。

しかし、英国では霊的ヒーラーの社会的地位が認められ、1500の病院
でヒーラーの治療が受けられる。治療師の連盟もあり、健康保険もきく。
社会的ステータスが認められているのである。英国はやはり「スピリ
チュアリズム」の国なのだ。

日本において、極端に西欧合理主義への信奉が見られるのは、
非西洋世界における「植民地的エリート」の心性の名残だと思う。
つまり、現地の伝統文化を脱して、いかに近代西欧型の世界観を
身につけるかが、植民地における現地人エリートの社会的上昇を
保証することだったのである。

つまり、思想は平等の条件で競っているのではない。思想・世界観には
中心と周縁、強者と弱者が存在する。それが現実である。社会通念を
変えることを考えねばならない。
113:04/09/05 14:02

天外伺朗の『深美意識の世界』では現在の病院に代わる、ホリスティ
ックな健康と成長のためのセンターを構想しているが、これは注目され
てよい。

医学でも特に、現在の精神医学の持つ権威性に挑戦していかねばな
らない。個々の精神科医には善意の人が多いだろう。だが体制として
はきわめて反動的な体質を持っている。それは結局、異次元を拒絶し、
魂の欲求を封殺するからだ。これについては、トランスパーソナル精神
医学の学会を拠点としつつ、スピリチュアル・エマージェンス・ネットワー
クをNPOとして活動していくという方策が考えられよう。

具体的な運動方法としては、NPOを中心とするのがよいだろう。官僚
主導の構造を変えていくためには市民参加型のNPOの役割が大きく
なっていかなければならない。これは全ての分野における構造転換と
して必要なことである。そして市民運動と結びついた議員などを巻きこ
んで政治運動化していくことが考えられる。代替医療なども、NPOとし
て動き出しているようである。既に、行政も自分が直接やりにくいことは
NPOに委託して、補助金などを出してやってもらう、ということが多くの
分野で成立している。

だがそれと共にオピニオン・リーダー的な存在も必要になってくるだろう。
新しい社会のヴィジョンを示すことだ。

よい政治とは、上からいろいろ世話を焼いてあげることだけではなくて、
多くの人に「よい世界を作っていこう」という欲求を呼び覚ますことでは
ないか、と思う。そういうエネルギーを放射することが必要だ。
114:04/09/05 14:03

それにしても、人類社会はどこへ向かっているのか。『神との対話3』で
描かれているような、進化した惑星への道を歩んでいるのか?

ともあれ理想社会とはどういうものなのか、と考える人は大事で、理想
がなければ進歩はない。天外伺朗は理想社会を提示しようとしている。
このこと自体がスピリチュアルなことだ。私もこの理想社会像にはかなり
共感できる。

さらにもっと究極的なものは、『神との対話3』に出てくる。たしかに地球
以外の星ではこういう文明もある。こういう風に地球外の進化した文明
とは何か、と思索することも大事で、それは私たちの中にある理想(イデ
ー)を呼び起こす。その完成された社会のイデーは魂の中に眠っている
はずだ。

一人でも多くの人が、霊的次元には既に完成している、「完成された
人類社会」がいかに光に満ちたものであるか、それを直観できれば
よいのに、と思う。

それを見てしまったら、「この世にその社会を実現するために働こう」と
いうエネルギーが出てくる。

もしそうならないとすれば、そんな霊性は本物ではない。

幸いなことに、今の地球には、そうしたヴィジョンを感じている人が多く
いると思う。そうして、少しずつ地球のカルマは浄められてゆく。
115:04/09/05 14:08

「自分」というものを自我とイコールとおいているというのが近代知の
誤りの一つだ。

自我は二元対立を建てようとしている自己意識のあり方である。それ
はいいとして、ではそういう自我を離れたところで、自分そのものという
ものを考えることはできないのか。そこでまた、一足飛びに「無我」など
へ飛んでしまうのは、発想が凡庸なのである。それは頭だけで思考し
ている証拠だ。

二元的な自我を離れても、なお純粋なる自分の意識はある。それが
シュタイナーの言う「意識魂」であり、「トランスパーソナル・セルフ」なの
だ。そこを視界に捉えていないと、ヨーロッパ文化のとらえ方が薄くなる。

バーマンが提示しようとしているヴィジョンは、「宇宙に組み入れられた
意識」 cosmos-embedded consciousness とでもいうか−−宇宙全体
と、無数の網目によって結ばれたオープン・システムとしての自己、
そして人間世界ということであろう。

これがエコロジカルな意識へとつながっていくのである。

つまり、web of life という基本発想に立つ。これには全く賛成なのだが、
なおそこに、全体性のレベルとしての次元性を考慮に入れていく必要
があるだろう。というのは、スピリチュアルな体験というのは、「次元交差」
であって、通常は経験することのないエネルギー次元に接触すること
であるからだ。
116:04/09/05 14:09

ごくざっくりと言ってしまえば、要は、「見えない次元の世界」がリアリティ
として存在するのかどうか、つきつめればそういうことだ。

それを「ない」と考えれば唯物論。「あるかもしれないが、人間には不可
知である」とすればカント的な地平。これに対して、「イマジネーションの
眼によって、見えない次元を認識することは可能」と考えるかどうかだ。

いや、これは正確な表現ではないので、厳密に言えば、主観と客観が
まず存在するのではなく、それは「識」の作用によって、その「事後」に、
その両端に存在するかのように見えるものである。それはいいとして、
実は「識」はそれだけではないんだ、他にも識というのはあって、その
レベルの識に見合う「主観」と「客観」世界が成立しているんだよ、という
ことなのだ。これがウィルバーの言う「世界空間」ということですね。
だから、「見えない世界」――身も蓋もなく言えば、「あの世」――が
存在するかどうかというのは、「知覚や第六識以外にも識作用は存在
するか」という命題に置き換えられることになる。

ここで、元型心理学の言う想像力とは、「より根源的な識作用である」と
主張されているということになる。実はこれは、コールリッジやらシュレ
ーゲルなどの、ロマン主義的思想の命脈につながる考え方である。
つまりその根源的な識作用こそが、世界と自己を生成させている根源
的な作用ということになる。この立場に定位するということが、重要な
ことだ。難しい話だが、これはどうしてもわかってもらわなくてはならない。
117:04/09/05 14:11

東方キリスト教神学において「神の本質」と「エネルゲイア」の区別が
なされた。神の本質は絶対に知りえない。このような絶対不可知論に
立つことが霊的には健康である。

しかし同時に、神の救済の働きが私たちに光として、エネルギーとして
現れることもある。だから、こういう場合に安易にそれを「悟った」と
自力的に理解してしまうのではなく、「神の恵み」という視点でそれを
頂くという姿勢が大切だということである。このような「恩恵と救済」
というパラダイムが欠如している、といわないまでもいささか弱いことが、
日本の精神風土における一つの危ういところだろうな、と私は思って
いるわけだ。

ともあれ、臨死体験とか、いわゆる前世退行による「マスターとの出会
い」などというような体験が生じうるということ自体は事実である。事実
であることは動かせないので、それをどう解釈するかという枠組の問題
である。ではマスターというのは何だという話にもなる。ここで思想的
には「天使論」の領域に至るのである。
118:04/09/05 14:14

東方キリスト教思想では、人間よりも高次の知性・霊性を持っている
存在があることは自明と考えられている。この思想的枠組に従えば、
マスターの出会いなるものがどういう意味なのかは理解できる。つまり
マスターは神そのものではない。いわば天使であり、人間よりも霊的
視力を持ち、神を人間よりも理解しうるものである。

東方キリスト教によれば「神の本質は知り得ない絶対的な不可知で
ある。人間や天使などの被造物は、その霊的能力に従って、その理解
力の限りにおいて神を理解する」。そもそも、「何が見えるのか」という
ことはその存在者の能力限界において決定されているので、人間に
見えている世界そのものはあくまで人間にとってのみリアリティであっ
て、天使にはまた天使のリアリティがある。ということは臨死体験や
前世退行において起こっているのは、こうした人間的限界の一時的
拡張であると理解できるのである。

こうした光体験や「新しい魂の目覚め」が大規模に発生しつつあること
自体、人類に大きな変化が起こりつつあることを示しているだろうが、
その光は究極的にどこから発出しているかという思想的問いがそこで
要請される。

もちろん、そこに「神」−−あるいは、絶対的根源というものと対峙する
時が来たということなのだ。

これまでインテリは何の霊的体験もなく抽象的に神や救済について
考えていたが、思想は体験と表裏一体のものであるべきだ。光があり、
マスターとの出会いがあるというなら、その事実をふまえて、神と人間
について考えねばならない。私にはまったく当然のことであるように
思われるのだが。

なお、ブライアン・ワイスの『前世療法』『前世療法2』『魂の伴侶』(以上
PHP文庫)、そして『魂の療法』(PHP)いずれもお勧めである。
119:04/09/05 14:17

唯識のアサンガは、次のようにいっている。

アーラヤ識の転換はどのようにして起こるか。それは、「最清浄法界より
流るる所の正聞熏習、種子となるが故に、出世心、生ずることを得」、

私の言葉で言えば、これは、「神の光」による照明を浴びて、自己意識
の根源が照らされると、根本的な魂の「転回」が起こるということである。
これが「回心」である。

アサンガは、そのように、照明を浴びなければ深い我執の海からは
逃れられない、と言っているわけである。

しかし神の光は神そのものではない。神は絶対的に不可知である。
正確に言えば、この光とは神のエネルゲイアであって、神そのものでは
ない。よく「根源的いのち」などと言われるのはそれである。

これにもいろいろ段階があるようだ。
120:04/09/05 14:19

霊的な方面では、「光」の体験に基づくキリスト教東方神学、ロースキ
ーの本を熟読して、そのエッセンスは理解できる。

そこでいちばん重要なのは「ペルソナの神秘」ということであった。
私たちが、なぜ「個」として存在するのか、その根源は何かということだ。
このことを「イデー」のレベルで把握できたのは大きかった。

また「光」についてだが、これにも無限の階梯がある。たしかにそれに
執着すると魔境にもなりうるのだが、これは光そのものというよりその
受け入れ方の問題である(もちろんアストラル的な偽の光というのも
あるが、それは見分けられない方が悪いのだからしかたがない)。

光が恩寵であるということは多くの臨死者や催眠退行での経験者も
語っていることである。
121:04/09/05 14:20

そのような次元の光を見るということは、そうしょっちゅうできることでは
なく、それを繰り返そうとすることはあまり意味がない。しかし、一度光が
通ってしまうと、宇宙にはエネルギーが満ちていることが何となくわかる
し、そのエネルギーにつながるということが何を意味するかも理解できる
ようになるようである。何よりも、自分が存在するということ自体に、
無限の愛・恩寵が注がれているということが体験的事実としてわかる
ということである。そういうことがわからないということは、まだ本当の
意味での光を体験していないのではないか。

東方キリスト教で、光を見ることと恩寵の道がイコールにおかれている
のは、体験的事実として当然のことであろうと思われる。そしてこの光
は、タボル山上のキリストの変容において現れたのである。そのことも
また疑いようのない霊的事実なのである。

世界を光に浸されたものとして見よう、ということは、光によって促され
た聖なる意志なのだと思う。そのように生きるようにと、光が人を導いて
いるのである。そのことを霊的事実として確認するのが、東方神学の
道なのである。
122:04/09/05 14:22

カレン・アームストロングの『神の歴史――ユダヤ・キリスト・イスラーム
教全史』(柏書房)は「神の絶対的不可知性」を擁護する立場に立ち、
我々に知られるものはすべて神のエネルゲイアである、と考えている
らしいが、これは私が到達した考えと一致する。

これは、西欧のキリスト教への徹底的な批判ということも意味している
わけである。

また、ユダヤ・キリスト・イスラームを統合して見ると、これが「西方思想」
の全体を統一的に見る視野を与える。哲学史などというともう幅が狭く
なるわけで、問題は、西方世界において人々はどのように「神」と向き
合ってきたかということであり、狭義の哲学もそのバリエーションなのだ。
ここではプラトン主義も西方における神の追求の一形態と捉えることが
特に大切である。

哲学と宗教が別々ものであるという近代的常識(それが現在の学問
分類にも反映しているわけだが)を離れなくてはいけない。
123:04/09/05 14:25

『忘れられた真理』、これも、「学者としては相当の線まで行っている」
という種類の書物であろうと思う。

日本ではウィルバーばかりがもてはやされているが(グロフなどはほと
んど影響力がない)、ウィルバーのいちばんいけないところは、自分が
究極まで悟っていると思っているらしいことである。何が問題だといって、
これほど許し難いことはないと思う。ま、彼にも役目があるのはたしかな
ので、自分は悟っていると思ってさえいなければ私ももっと好意的に
書くところであるが。

ヒューストン・スミスは自分が悟っているなどと微塵も思ってなくて、
知性の限界を知っているところがある。そして、スミスは「永遠の哲学」
にきわめて忠実にそれを知性言語で語っている。

それとウィルバーの著作を比較すると、ウィルバーが永遠の哲学を
ベースにしつつ、それに独自のものをつけ加えて体系化しようとして
いるのがわかる。その「独自のもの」が、私には余計ものだと思う。
たとえば彼が言う「プレパーソナル」なるものは存在論的にどう位置
づけられるのか。
124:04/09/05 14:26

彼のいけないところは、この物質世界と 霊的世界では霊的世界の
方が先にあって、霊的世界に浮遊している特殊領域が物質世界だ
ということが十分にわかっていない(もしくは論理化されていない)
ことである。

つまり、日本ではウィルバーから入ってしまったために、永遠の哲学
の本来のヴィジョンが「ウィルバー流」にゆがめられたものが流通して
いると思う。

あくまでウィルバー思想は彼独自のもので、伝統的霊性から飛躍、
逸脱したところを持っていることを認識しつつ受けとめるべきだろう。

この意味でウィルバーは過大評価されていると私は考える。いいか
げんウィルバー一辺倒から目を覚ますべきだろう。
125:04/09/05 14:28

日本人が思想を作ろうとするとたいていは東洋的無とか、そういう方に
いってしまう。だがこれは、実際に無や空を体験したわけではなくて
(それは生やさしいことではない)、観念で言っているにすぎない場合が
多いのである。

西田幾多郎にしても、実際に空に入ったわけではなく、見性はあったに
しても霊的覚醒としては中途段階にすぎなかったと私は思っている。

それに西田哲学には、魂が覚醒し始めたときの喜びというものがまった
く入っていないので、彼の体験というものもある限定されたものと見る
のが妥当であろう。

一足飛びに空に行ってしまうのは、まず観念で書いていると思って間違
いない。その途中のプロセスを実際に知らない人は信用しない方がいい。
私は空は語らない。自分が体験していないことは沈黙するのだ。
126:04/09/05 14:29

私は、インドのバクティ・ヨーガやキリスト教の神秘体験などに、自分と
共通する要素をかなり見出している。そこで、「魂」の自覚と、それが
神的な交わりへと進んでいくということに最も興味をいだいている。

不思議なことに日本の思想では魂について深く考察したものは見られ
ない。魂は「ある地平から見れば」実在であるということ、それはつまり、
肉体を超えて存続するある「もう一つの自分」が存在するということで
あり、それは体験の地平としてたしかに存在するものだ。これはまた、
自分のほかにも魂は存在していることを意味してもいて、つまり宇宙は
魂で充満しているとも言える。魂は様々な存在レベルにおいて実在
する。つまり大地の魂とか地球の魂というものもあるわけだ。それを
神々と呼んでもかまわないわけだが。

つまり魂の実在性を確定する思想は、同時に、天使、妖精、神々と
いった諸存在の「相対的実在性」の可能性をも肯定するのである。
このような、人間と共に宇宙に住んでいる存在を知らしめるということも、
重要なテーマである。

これについては、シェルドレイクとマシュー・フォックスの対談本『天使の
自然学』が興味深い。それは、「コレスポンデンスの宇宙」を描こうとす
るものなのだ。
127:04/09/05 14:32

斎藤は一貫して「あまり神秘的なことに興味を持ちすぎないようにする
こと」と言っているが、これも一理ある。

健康な現実感覚を持てず、バランスが悪くてフラフラしているような若者
が霊的世界に興味を持ったりするケースがかなり多いことは私も実際に
見聞しているからである。

特に若い男性に多いのだが、何かとてつもないすごい体験がどーんと
来て、その瞬間に全てを悟ってしまうような体験を期待している人が
ある。そして、そういう体験が自分にはないことに悩んだり焦ったりする
ケースがよくある。これもまた、オウム的なるものにひっかかりやすい
パターンなので十分な注意を要する(女性の場合は、身体によって
この世界に存在しているという感覚に完全に鈍感になることが比較的
少ないのかもしれない)。

たしかにそういうすごい体験というものが世の中にないわけではない。
しかしそれは恩寵ともいうべきものであろう。それはスピリチュアルなる
ものが存在する唯一の形ではない。

むしろ、こう言いたい。あなたは、この一日の中で、どのくらい「美」を
発見しましたか? と。今日の空に、面白い形の雲はありましたか?
家から駅までの道に、何種類の花が咲いていたか覚えていますか?
――たとえばもし、道ばたに赤い花の野草があって、その茎にかたい
棘がいっぱい生えていることに気づいて、そして図鑑を見てその名前
が「ママコノシリヌグイ」であるということを発見する、ということは
「スピリチュアル」とは何の関係もないことなのであろうか?

世界をきちんと感じることが、あらゆるスピリチュアルの出発点である
べきではなかろうか。だから、シュタイナーのシステムにもオイリュトミ
ーがあり、幼児教育の基礎となっているのだろう。
128:04/09/05 14:33

「魂の感覚」というものがわかるようになるのはべつにむずかしいこと
ではない。本来誰でもわかるものをたまたま忘れてしまっているだけだ
からだ。

思い出すようにするのは簡単なことで、よい文学を読み、よい音楽を
聴く。よい美術やアート作品を見る。金のためにいやな仕事はしない。
頭だけでひねくったような本は読まない。変なテレビは見ない。自然に
親しむ。疲れたら休む。食べ物を味わって食べる。部屋の中に置くもの
も、美しいデザインで作った人の心が感じられるものにする・・こうして
いれば、感じないというほうがおかしい、と思うのだが・・

とかく大人の読書人の世界は、「人間なんて駄目なもんだ」ということを
暗く書いたような作品が評価を受ける傾向があるが、子供の本の世界
はそういう変な癖がついていないのでいいということもありそうだ。

子供の時に「よい子供の本」をたくさん読んで育った人は「魂にいいもの」
はなんであるかわかるし、決してオウムのようなものにだまされることは
ない。オウムなどは「美的に耐えがたい」と感じるはずだ。

美しいものがなんであるか知っていることが重要で、哲学はその次に
来る。

美的な世界感覚という基礎がなくて思想を論ずるのは虚しいことだが、
今の大学教授などの8割方は基礎がない砂上の楼閣の世界に生きて
いる(これは多少甘く見積もった数字である)。
129:04/09/05 14:35

シュタイナーの『神智学』、やはりこれが、徹底的に知的アプローチで
霊的事象を解明しようとする本としては、最高峰であろうと思う。

「私には体験が何もないから」ということを気にする人が多いことは
知っている。しかし、徹底して思考によって霊的世界の構造を把握する
ことはひじょうに重要なことである。このことをシュタイナーは強調して
いる。もし、そういう知的な理解が先行しておらず、いきなり体験の大波
が押し寄せてきたら、間違いなくそれに溺れて道を失うか、または自分
が悟ったと思い込んで教祖のようになってしまうだろう。ある体験が
いきなりどーんと来て、その瞬間にすべてがわかってしまうことを期待
しない方がいいと思う。そういう瞬間もあるにはあるが、その前提として
長い準備期間があるのだ(ないように見えても、前世にはある)。たとえ
今生ではそれを体験的に知ることができなくても、魂のライフサイクル
から見ればそれはたいしたことではない。部分的にでも真理をとらえて
いる「イデー」には霊的な力がある。その力を魂に受け止め、育てると
いうことが非常に大切なのだ。

逆に、ちょっとばかりの体験に有頂天になって、それを正確に位置づけ
るための「霊的思考」の作業を怠っていると、かえってそれ以上の進歩
が阻害されるケースも少なくないと言えよう。「私は宇宙の真理を見ま
した」というようなメールもたまに来たりするが、だいたい、霊界をほんの
少しかいま見たようなものばかりである。たしかにそれは一つの「恩寵」
としてありがたく頂くべきものだが、それ以上に大切なのは、それを道標
として正しい道を歩むということである。
130:04/09/05 14:37

なぜ私が教父とか東方とかに関心を持っているかというと、それは
『キリスト教神秘思想の源流』の訳者の解説が的を得ている。つまり、
近代の「知」で自明の前提とされている、「哲学と神学」「神学と霊性」
の分離がそこにはないということ、そこから、新しい知の地平へのヒント
が得られるということだ。神秘体験を中核にして、そこからどのような
ロゴスが可能になるのか−−これはトランスパーソナルでも中心となる
テーマだろう。

それから、訳者の水落健治氏は、「日本人の宗教意識が宗教経験の
ロゴス化を拒否する」傾向を指摘する。神秘体験をしたら沈黙するのが
当たり前で、いろいろしゃべる奴は信用できない、という風潮は私にも
思い当たる。私が経験を話すと、そのようにはっきり断言した人も数人
いた。もっとも、神秘体験に接するのに、日本人は依然として「禅」という
フィルターしか持っていない、ということの現れである。同じ東洋的瞑想
でも、ヨーガは受容されず、うっかり「チャクラ」などというとオウムの
シンパと思われかねないという偏見はまだ多いのである。

ハーネグラフのニューエイジ文化論は、歴史家、宗教史家という立場
から見られたものである。しかし、これはあえて価値中立的な立場を
保持しているので、これだけでは、たとえば、オウム的なものとまっとう
なエソテリック・サークルとの区別がつけにくいのではなかろうか。そこで、
こうした歴史的研究をふまえつつ、価値判断の領域にも踏み込んで
いくことは、トランスパーソナルという立場からは必要なことではないか、
とも思うのである。オウムのどこが間違っていたのかを本当に明らかに
するには、外面的な考察だけではダメであり、霊的な領域に踏み込ま
ないといけないのだ。それは、歴史家の立場を超えている。
131:04/09/05 14:41

今出ているかどうか、私が別冊宝島の『東洋体育の本』(津村喬著)と
出会った衝撃は大きかった。「深層体育」というコンセプトは、まったく
新しく自分の身体を発見するきっかけとなったのである。その次の
『太極拳第一歩』もすごかった。それから私はいろいろと「気の世界」の
遍歴を始め、太極拳の教室に通うまでになったのだからわからない
ものである。いろいろ習った型はだいぶ忘れてしまい、今ではベーシッ
クな「簡化太極拳24式」しかできないが、それでも私が太極拳の世界
から学んだことは計り知れないのである。オイリュトミーに触れたときも、
これは太極拳と同様、自分のまわりの「気」(=エーテル体)を味わう
ことからスタートするのだな、とすぐ理解できた。講師のヘルガさんは、
「Feel the space!」と何度も言っていたが。

そうして私は、霊性について頭であれこれ考えるという袋小路に陥る
ことを回避することができたように思う。

「上にあがろう」と気張る前に、まず自分の深層的身体としっかりと向き
合い、受け止めることができていなければならない、ということも体感的
にわかっているつもりである。
132:04/09/05 14:43

つまり、気、エーテル体の体感からスタートすべきである。

シュタイナー教育で、まず体の感覚から入っていくのはまさにそういう
ことである。しかしシュタイナーをやっている人々が、地元東洋の
「気の文化」について無知なままでいるのはもったいないことだと思う。
「気」から見れば、シュタイナー教育がよくわかるという面もありそうだ。

自分の身体を疎外している人がいたずらに「霊性」を求めても、それは
自己へのネガティブなイメージの代償を「別世界」に求めているにすぎ
ず、こういう人々はオウムのようなものの格好の餌食にもなりかねない
のである。

自分を受け止めず、「こっちの世界で偉くなってやる」というようなノリで
「修行」に興味を持つ人々もしばしば目にしたが、しかしまあ、観音様な
どはそういう人達をも受け入れているのだから、私がつべこべ言う資格
もないのだが。

ともあれ、自分の中の「存在の核」を身体知として理解できれば、
外側の権威にひれ伏すことがあるはずもない。
133:04/09/05 14:45

考えてみれば、べつにトランスパーソナルが悪いわけではなく、それを
いかにも「軽く」言ってしまう風潮が疑問であるわけで、要は、どれだけ
魂の言葉になりえているか、というその点しかないのだろう。「言葉が
上滑りしていないか」を警戒すること。「言葉に光が入っているか」をよく
見る。表面の意味だけにとらわれないことだ。もちろん自分で発する
言葉を含めてである。

中沢は、やはりオウムを見抜けなかったということがひっかかる。その
ような力のない思想は、どこか本物でないと思えてしまう。(この中沢・
島田のオウム評価でのしくじり以来、世間での宗教学者の評価は地に
落ちたという)

加藤清・鎌田東二『霊性の時代』を読む。前作の『この世とあの世の風
通し』に比べると、鎌田がよくしゃべって、加藤清の考えがあまり出て
こないので、面白さの点では及ばない。とこどこ面白い箇所はあるが、
「超宗教」というか、霊性の時代を切り開こうとする気持は伝わるのだが、
まだあまり具体的には見えてこないなあという感じ。「ものすごく行きづ
まっている」という感覚だけは鮮明に表れていた。
134:04/09/05 14:49

自分の魂から語ることを認められない思想のあり方というのはいったい
なんだろうと、西洋哲学やアカデミズムのあり方そのものが根本的に
私には疑問のままである。それは、哲学者自身が、自分の生というもの
について曖昧な行き方をしている人が多いということだ。

もう権威は解体している。「人」が見られている時代である。

どうも本ばかり読みすぎるといけないので、自分がやりたいことをもう
一度よく瞑想してみると、それは「魂が、その本来の輝きの中に生きる
ことができるための、具体的な指針」を知るということだ、と思えてくる。
これが広い意味での、「癒しの哲学、癒しの思想」ということである。
癒しということの根本を、「魂が光とつながること」と考える。これが霊性
であり、超宗教でもある。

そのような方向が見えていない本は、注意して取り扱わないといけな
い。向こうのペースに巻き込まれてはならない。