466 :
没個性化されたレス↓:04/10/05 05:57:52
トランスパーソナル心理学は、哲学であり、思想であり、学問であり、
幸福論であり、自分学であり、医療であり、すべての科学の理論
(物理学や量子力学をも含む)と、実証されたことを結集して、より
高度な心理状態を達成しようというものであり、セラピーやワークを
ともなう。
孤立、不安、悩み、いらだち、身勝手さ、憎しみ、争い、奪いあい、
殺しあい、とめどもない精神破壊、環境破壊から、個人や人類が
生き延びるためにはどうしたらいいのか。
近代的なアメリカ式個人主義は、すでに限界に来ており、その限界は
越えなければならないし、越えられるということである。
個人や国家が健やかに生きるために、資本主義も、社会主義も
行き詰まってしまった現代において、この思想以外に信じるべきもの
が、ぼくには他に見当たらないのだ。
これは、現代思想の最前線にあり、政治・経済の体制だけでなく、
人間の”心”をどうするかについて、普遍的で妥当な提案を含んで
いる。
心のそれぞれの発達段階、心の層に応じたさまざまなセラピーの統合、
というトランスパーソナルの骨組みは、孤立した個人性という意識を
越え、個を越えたもの(他者・共同体・人類・生態系・地球・宇宙、
そしてブラフマン・神・空といった)との一体感を回復するという意味で
きわめて宗教的でありながら、排他的でなく、他者による再実験・
反論・修正が可能でオープンな仮説であるという意味で科学なのだ。
467 :
没個性化されたレス↓:04/10/05 06:04:23
トランスパーソナルの主張をまとめると、次の3つのポイントになる。
1.人間の成長は、自我の確立、実存の自覚、自己実現などの言葉で
示される<人格=個人性=パーソナリティ>の段階で終わるのでは
なく、他者・共同体・人類・生態系・地球・宇宙との一体感・同一性
(アイデンティティ)の確立、すなわち<自己超越>の段階に到達
することができる。
2.人間の心は生まれつき、構造的にそうした成長の可能性をもって
いる。
3.その成長は適切な方法の実践によって促進できる。
周囲に流されることなく、自ら判断し、自分の命の、かけがえのない
すばらしさ、愛しさを知っているからこそ、他者の命をも尊重すること
のできる、理性、批判力、独立性、自律性といった、個人的なもっとも
正当で生産的な面を充分に包み込みながら、それを越えていくこと、
”自己放棄”ではなく”自己確立”を経たうえでの”自己超越”(トランス
パーソナル)である。
いい人にならなければならない、なりたい、なろうと思うだけではなれ
ないのは、エゴイズムが、知識、理性、意識の問題ではなく、人間の
魂の奥深いところの問題、いわば「深層心理」の問題であるからでは
ないのか。とすれば、いかにして、心の深層に深く根を張ったエゴイズム
を絶ち切り、枯らせてしまうことができるのか、しかしそれは、他人の
話しではなくまず自分のことにおいてなのだ。このことこそが、ずっと
ぼくが抱え込んできた問題なのだ。
468 :
没個性化されたレス↓:04/10/05 06:07:20
トランスパーソナルな人たちは、エゴイズムの根深さ、深層性を十分
認識したうえで、それでも人間の心は構造的にエゴイズムを越える
ことができるようにできていると主張する。
キリスト教の”原罪”、仏教でいう”無明”の再発見であったといっても
いい。その点で「人間は根本的に罪深いもので、原罪は人間の力では
解決できない」とする正統キリスト教よりも、「闇がどれほど深くても
光が照ったとき、たちまちにしてなくなるように、永遠の昔からの無明
も悟ったとたんに克服される」とする仏教思想に近いのだ。
トランスパーソナルは、西洋科学(心理学)と東洋宗教(特に禅)の
統合という面をもっている。最終的に目指す心理状態は、悟りなのだ。
アメリカでは、禅は、鈴木大拙の英文の著作によって知識として早く
から知られていた。それに加えて、臨済宗系は西海岸の千崎如幻や
東海岸の佐々木指月らの活動、曹洞宗系は鈴木俊隆のサンフラン
シスコ禅センターや前角博雄のロサンジェルス禅センターにおける
活動などによって、坐禅の実習が広範囲に行われるようになっていた。
カリフォルニアでは、神父、牧師たちが座禅をしているという。
469 :
没個性化されたレス↓:04/10/05 06:10:56
般若心経の最初に出てくるように、仏教が生み出したものの中で
禅が何よりも重視しているのはキリスト教と同じく言葉である。
形は空と異ならず
空は形と異ならず
形はまさしく空であり
空はまさしく形である
二千年後、西洋の物理学がこの説に同意した。
科学的な宇宙の考え方は量子力学と、エネルギーと物質を別の物と
考えることに疑問を呈したアインシュタシンの相対性理論によって、
根本的に変わった。
宇宙が論理的に行動する微細な固形物で出来上がっているという
都合のよい考え方はこっぱみじんに吹き飛んだ。
粒子は別個の存在ではなく、互いに関連している。世界は相互に
関連した出来事の連続であり、とぎれることのない動的な総合だ。
科学者は今、観察者ではなく参加者になった。
そして物理学と神秘主義には、はっきり平行線に達し、ひとまわりして
元に戻った。ぼくの性格も、ひとまわりして元に戻った。
470 :
没個性化されたレス↓:04/10/05 06:14:27
珍太郎:はじめまして。私はこのほど、まんだら浩へのインタビューを
することになりました「珍太郎」ともうします。今後いろいろなページに
登場してくると思いますが、よろしくお引き回しのほどお願いいたします。
まんだら浩:こちらこそ。変わったお名前ですね(人のことは言えませ
んが)。
珍:で、さっそくですが、今日のテーマは「トランスパーソナルとは、
要するに」というものです。前にもそうしたページがあったのですが、
あれはちょっと飛躍があって、独断的ではなかろうかという印象もあ
ったので、セッション形式でやり直してみようという企画でして・・・
ま:そうでしたかね?
珍:そうですよ、たとえばこの文章ですが、
トランスパーソナルとは、「霊性」を含めてトータルに人間の意識を
捉える立場です。意識の究極には、アジアの宗教で「空」「無」など
とも呼ばれている「絶対」があり、それを含めた「多重的意識=存在
モデル」を考えます。
これ、最初っからなんだかさっぱりわからないでしょう。
ま:いや、そうでもないと思うんですがね・・ たしかに、こういったもの
が出てくる背景のようなものを解説しないと納得はしないでしょうね。
それには、吉福伸逸さんの『トランスパーソナルとは何か』(春秋社)を
読めばいいと思うのですが、それだけでは不親切ですから、ちょっと
やりましょうか。
珍:ぜひお願いします。
ま:まず大きな流れとして捉えると、「学問とは何か」というところから
始まりますが・・
珍:えっ、そんな大きなところからですか。
ま:そうです、まず私たちが通常「学問」として認識しているもの、
そうした「知の枠組み」の起源はどこにあると思いますか?
珍:いきなり大上段に来ましたね。
ま:これは村上陽一郎さんの一連の科学史の本を読んでもわかると
思うのですが、いま通用している「学問」とか「科学」というのは、
けっして万人に妥当する「普遍的」なものではなく、一つの「パラダイム」
を前提とした知の秩序であるということです。このことをまずしっかり
理解していただかないと、これからの話がわからなくなります。
珍:パラダイムですか? なんか聞いたことはあるな。
ま:通常、学校で習うような「科学」というのは、データの実証に
基づいて「客観的に正しい」理論を解明しようとするもの、と理解されて
います。しかし現実には、「パラダイム」という、いわば科学の方向を
示す「基本的なものの見方」--あるいは、「パースペクティブ」といえば
いいですかね--があって、それが科学を創り出しているのです。これは
科学史家のトマス・クーンの説ですが、現在は基本的にこれが受け
入れられています。
珍:つまりそれは、科学というのは「客観的な」ものではなく、「一つの
見方」にすぎない、ということでしょうか?
ま:「すぎない」というのは一つの価値判断なので妥当な言葉では
ありませんが、客観性というのは実は、科学者の間の「共同主観性」に
他ならないのだ、というのが、現在の科学認識論の基本前提なのです。
ですからここでは、生の「データ」というものは存在しないのです。
「データ」というのは「パラダイム」があって初めて意味を持つのです。
珍:というと、「データに基づいて仮説を検証する」という考えは誤り
なのですか。
ま:そうではありません。どういう「データ」を収集するのか指示するのは
パラダイムの役割なのですが、その結果集まったデータがパラダイムと
矛盾する場合が出てきます。そういうときは、なんとか既存のパラダイム
でそのデータを解釈しようとするのですが、それも限界に来ると、
パラダイムそのものの見直しが行われます。
珍:そうやって進歩して行くわけですね。
ま:そういうことですね。ここでのポイントは「すべての科学的認識は
一つのパラダイムを前提としており、いかなるパラダイムからも自由な
絶対的客観性というものは存在しない」ということになります。ここまで
はいいですね?
珍:まあだいたいは。
ま:この「パラダイム論」は、トランスパーソナルを理解するための一つ
の前提です。このことがわかってないと、トランスパーソナルは「科学的
でない」という発想が出てきてしまうのですね。まず、何をもって「科学」
とするのかどうか、ということでコンセンサスがないと議論は不毛ですね。
今の自然科学者の多くはパラダイム認識論を理解していない人が多く、
現在自分たちがやっている科学のパラダイムを「客観的なもの」と考え
ています。具体的に言えば、「物質至上主義」といいますか・・
珍:そのへんは少し詳しく説明してください。
ま:つまり、自然科学者の多く、そして一般的な学校教育を受けた現代
日本人の「科学」の見方はひじょうに限られたものだということを自覚
する必要があるということですね。多くの人は「あらゆる現象を物質の
次元に還元する」ことが科学的である、という見方に立っています。
つまり、意識とか心の現象は、「脳」という物質的な器官の産物だという
ことになります。また、世界のすべての現象は「必ず」物理的法則に
従わなければならない、ということになります。「物質の世界」--五官
およびその延長として計測機械で知覚しうる範囲の世界が唯一の実在
であり、それ以外の、心や意識の世界は、その派生物であるということ
になります。そういう見方をすることが「科学的」であるという理解が、
かなり蔓延しているように思います。
珍:つまり唯物論ということでしょうか?
ま:まあ、「唯物論」という言葉をどのように理解するかにもよりますが、
一般的に言う意味での、つまり物質次元を唯一の実在と考える立場、
と解すれば、そういうことになるでしょう。この立場から「心」を見るのが、
いま大学で一般に教えられている「心理学」ですね。
これは「行動心理学」と呼ばれ、人間の心理を「刺激と反応」という
パラダイムで捉えようとするものです。しばしばネズミによる実験で
人間の行動を研究しようというので、擬人主義 anthropomorphism に
なぞらえて 擬鼠主義 ratomorphism という悪口を言う人もいますが
(たとえば村上陽一郎先生ですが・・)。
ま、「心」は物質の派生物という見方に立てばそういう心理学が成立
することになりますが、「心」にかんする研究をしたいと思って心理学を
専攻した学生は、大いに失望を味わうことになるでしょう。
珍:それでトランスパーソナルというのはそういう見方に反対するわけ
ですね。
ま:まあそうですが、話は順番に。
まず、このような物質へ還元する見方は、「物心二元論」というデカルト
によって完成した世界観に基づいていること、このことも思想史的な
常識として知っておいてください。
デカルトは精神を物質に還元しようというつもりはなかったのです。
むしろ精神の領域を純粋なまま守ろうとしたのでしたが、あとの科学者
たちは物質の名の下に精神を否定するところまで行ってしまいました。
近代ヨーロッパの思想史は、こうした激しい科学的唯物論の進展と、
それに対抗しようとするさまざまな思想運動、という図式をとります。
それは現在も継続しています。
ここで押さえておくべきことは、科学的唯物論も一つの「思想」であり、
一つの立場であるという点です。もしそれを「客観的」だと考えるならば、
それは一つの思想的立場を無批判的に真理として受容しているという
ことに他なりません。
珍:どうも言い方がすこしむずかしいような気がしますが、なんとなくは
わかります。それで、唯物論に対抗する思想運動というのは?
トランスパーソナルもその流れの中にあると言いたいらしいですが。
ま:さすが珍太郎さんですね。しかしこれを全部語ると「現代思想史
講義」になってしまって、いつになったらトランスパーソナルにたどり
着くことやら、ですね。
まあ、カントにはじまる批判的認識論により、唯物論の根拠は成り立
たなくなっています。
カントの要点は「物そのものというのは認識の対象とはならない」
ということですが、唯物論は物質と言っているが、それはあくまで
「こういうのが物質だ」という一つの見方によって成立しているのに
すぎない、というわけですね。つまり唯物論者の言う物とは実は観念
なのであって、物それ自体をつかまえているわけではないのです。
珍:物とは観念である? ・・なんだかわからなくなってきたぞ。
ま:このカントの認識批判は後期フッサールにおいて一つの帰結を
見たようですね。物は観念と言いましたが、もっと正確に言えば「共同
主観」なのだ、ということになりますですね。これは科学者の認識に
限りません。あらゆる認識は「共同主観」という枠組みの中で成立する、
と喝破されたのです。これが「パラダイム論」の哲学的根拠です。
つまり、私たちが「実在」だとしているものが、私たちが実在すると
思っているからあるのだ、ということです。言うなれば、「我々思う、
故にそれあり」 cogitamus ergo est というわけです。
珍:うーん、ちょっと教養をひけらかしすぎか、という感じもありますが。
しかしそれはちょっと、仏教で言う「世界は幻である」ということと似て
いるような気がしないでもないですね。
ま:まさにそうなのです。そのことは後ほどとりあげましょう。ま、こういう
「共同主観的認識論=存在論」が現代の哲学のテーマであり、私は
よく読んでいませんが廣松渉などもそういう思想を展開したことは
ご存じかもしれません。これはまたレヴィ=ストロースや山口昌男、
ビクター・ターナーなどの構造主義や文化記号論(まだその先駆として
のフランス社会学派)、シュッツやピーター・バーガーなどの現象学的
社会学といった学問を生み出していることも指摘できますね。
ですからクーンのパラダイム論も、こうした大きな思想潮流の中で、
当然出てきたものだと思うのですよ。
一部の自然科学者はいざ知らず、こうした人文諸科学では、すでに
主観・客観、精神・物質という二元論で思考してはいません。そういった
「何が精神で、何が物質なのか」というカテゴリー化そのものを決定
しているのが、共同主観的な認識の枠組みとしてのパラダイムなのだ、
と考えられるのです。
珍:しかしそうすると、どういうパラダイムをとるかは、まったく根拠なく、
各自(あるいは各社会)の恣意的選択だということになりませんか。
ま:恣意というか、自由だということでしょう。そこに「価値」の問題が
出てきます。ある時点、ある場所において、AのパラダイムよりBの
パラダイムのほうがよい、という判断は、究極的には価値判断です。
もちろん、データとの対応がまったくでたらめであるパラダイムは駄目
ですが、どういうデータが重要なのか、説明されねばならないのか、
ということもパラダイムが決定します。たとえば「超能力」ということが
十分に説明されるべきだ、と考えるパラダイムもあれば、そうではない
パラダイムもあるでしょう。そもそもデータとして認めるかどうかさえ
パラダイムにより異なります。
まあ最終的には「神々の闘争」であって、客観的にどれが正しいか
決めることはできません。根本的には個々人の価値の問題であり、
その価値がどこまで多くの人と共有されるのか、ということになります。
価値判断の介在しない認識などありえないのです。もし「価値から自由
なのが科学だ」などと言うなら、その人は20世紀の知の流れを全く
勉強していないとしか思えません。
珍:それはわかりましたが、まだトランスパーソナルの話にはならない
んでしょうか?
ま:今から始めます(笑)。ただ、あまりにも多くの人が無批判的な科学
至上主義に埋没していますので、そこをよく考えてもらわないとトランス
パーソナルに対する正しい判断はできないと思ったのです。まあ村上
陽一郎の本をよく読んでください。科学至上主義の解毒をしないと、
なかなかトランスパーソナルのような根本的に異なるパラダイムを理解
するのは難しいでしょうから。
・・さて、そこでですが、さきほど、行動心理学のことを話しましたね。
珍:ええ。たしかにああいう心理学はつまらないですねえ。
ま:それが価値判断です。・・まあそう考える人ははなはだ多いですね。
そこで、フロイトやユングのことは聞いたことがあると思います。
珍:ええ。「無意識」ってことですね。
ま:行動心理学では刺激・反応だけで考える(外側から観察しうる対象
のみを扱う)ということですので、心の中身はブラックボックスなのですね。
心の内側に入っていく方向がフロイトによって始まったわけです。無意識
の発見ですね。そこで、フロイトは主に無意識を幼児期の性的抑圧に
よるものと考え、ユングはそれよりも幅広く、「個人的無意識」に加えて
「集合的無意識」があると考えた、ということもご存じですね。
珍:私は知ってますが、読者みんなが知っているとは限らないと思い
ますが。
ま:そういう人はここまで読み進む前に投げ出しているに違いない(笑)
と思うんですが・・ まあ、フロイト・ユングはこうした学問を「科学」として
認めてもらいたいという指向が強かったのですね。ユングなぞは完全に
霊媒的資質を持っていて、いろいろ霊的体験をしているのですが、
それを表に出さず科学のかっこうを作ろうと苦労したようです。それでも
ユングの心理学はそれまでの「科学」(これは括弧つき、つまり「体制
科学」を言います)をずいぶんハデにはみ出しているようですが。
珍:そういう話は聞きますが、たとえばどんな点が?
ま:要するに、ユングの理論をつきつめていくと、「心というのは個人の
枠を超えて拡がっている」ということになります。集合的無意識とは
そういうことですよね。
珍:ということは、「個人のレベルを超えた普遍的な心」が存在する、
ということに・・
ま:当然、それを前提としてるわけですよね。まあ、心というか、
「意識」と言ってもいいかもしれません。あるいは、意識という言葉が
「人間の覚醒時の意識状態」を指すのならば、「超意識」と言っても
いいかもしれませんが。そして個人個人の心は、この超意識から
派生してきているという見方もできます。
珍:それはすごいですね。
ま:確かに近代的な学問からすればすごい発想なのですが、
実は科学以前の思想にはかなり普遍的にこういう考えはあります。
ユングは直接的には、錬金術やグノーシスの研究を通して新プラトン
主義の思想の影響を受けたと思うんです。元型という概念も新プラトン
主義から来ているように思います。
珍:そういうところが、ユングがトランスパーソナル運動の母胎だとも
言われる点なのですね。
ま:その通りです。ユングには、トランスパーソナルの主要なポイントの
多くが萌芽として含まれていますね。
まず、「個人レベルを超えた意識の層」が存在するという仮説--これが
trans-personal という言葉そのものが意味するところですよね。
もう一つは、その層というのが「霊性」(これは spirituality という言葉の
訳語として使います)の次元であるということ。ユングは人間の「霊的
次元を含めた自己変容」を中心テーマとして設定した、ということです。
これもフロイトにはなく、ユングで確立した視点です。
三番目は、それに関連して「過去の霊的伝統の再評価」というテーマが
浮上してきた、ということですね。これについては、湯浅泰雄先生の
『ユングとキリスト教』(講談社学術文庫)および『ユングとヨーロッパ
精神』『ユングと東洋』(ともに人文書院)という名著がありますので
参照していただくとしまして・・(この視点は臨床をやる人にはあまり
受け継がれていないようなので、ユングの今日的意味を考えるために
湯浅さんの仕事を十分参照したいと思いますね)。
珍:それをひっくるめて私は「スピリチュアル・ルネッサンス」と名づけ
たいのですが、どうでしょうか。
ま:おっ、いいですねえ(笑)。それと私はもう一つポイントを指摘して
おきたいと思います。それは、ユングは「魂の次元」に固有な認識という
ものを打ち出していくという意味も持っていたと思うんです。つまり、
魂の次元は、物質の次元と研究するのとは全く違った方法論と、
パラダイム、認識枠組みが必要である、ということがユングにおいて
明確になったと思います。
珍:魂の次元と物質の次元が違うのは、当たり前じゃありませんか。
ま:それが当たり前と思わない人がいるのですよ。物質次元の認識
方法でわからないものは駄目だし、科学的じゃないというのですからね。
まあ別に「科学」という呼称にこだわる必要はありません。問題は内実
ですから。事実、ユング派の分析は一つの「アート」であって、同じもの
を分析しても、人によってぜんぜん違ったものになるのは当たり前と
されます。物質科学の方法は「反復可能性」と「数量化」なのですが、
魂の次元の学問はそうした基準にこだわる必要はない、ということです。
珍:トランスパーソナルというのは、だいたいそういう流れの延長線上
にあるということでしょうか。
ま:だいたいはそういうことです。これはいわば文明論的な「霊性復興
運動」の一環であると私は理解しているわけです。ごく簡単に言えば
近代ヨーロッパの著しく唯物的な知の体系への挑戦であるということ
です。その意味で言えばロマン主義的な衝動を受け継いでいます。
そこで先にちょっと触れたように、仏教と似たようなところが出てくる
のは当然なのですね。なぜかといえば、伝統的な世界観に含まれて
いた「意識は存在に先行する」という発想が、そこには組み込まれて
いるのですから。
珍:「意識」というのは、普通言う意味とはちょっと違って、「超意識」の
ようなものだとさっき言ったと思いますが、それはもしかして「霊的」な
ものと関係しませんか。
ま:そこがトランスパーソナルの最大のポイントということになります。
ユングにおいては「おそるおそる」カモフラージュされた形で出ていた
ものが前面に出てきた、と言いますかね。
これはやはり、60年代のアメリカという環境が無視できない影響をもっ
ているんでしょうね。いわゆる「ヒッピー文化」における、異質な意識
経験への関心というものです。もっと言えばドラッグによる精神変容の
経験ですが。この辺については初めにあげた吉福伸逸さんの本を一読
することをおすすめいたします。
珍:ドラッグによる「サイケデリック」な経験というのは、過去の霊的伝統
からすれば邪道なのでしょう。
ま:それはもちろんです。邪道であることは事実ですが、シャーマニズム、
とくに中南米では、幻覚性植物をとるということが、一つの意識変成の
きっかけとして用いられてきました。
カスタネダのドン・ファンものにも出てきますし、まだLSDを使った変成
意識研究で業績をあげたスタニスラフ・グロフの例もあります。
いずれにせよ、60年代は、既成の文化価値に対する真正面からの挑戦
がありました。トランスパーソナル運動も、そういうカウンター・カルチャー
的な側面があります。
しかし、トランスパーソナル運動は、少なくともその本質的な部分におい
ては、ドラッグでラリっているようなものではなくて、近代西洋の「知」の
秩序に対する挑戦、そして過去の霊的伝統の再評価というテーマを
持っていました。
これはカウンター・カルチャーの代表的思想家セオドア・ローザクも指摘
することですが、こうした運動はすでに19世紀のヨーロッパのロマン主義
運動に始まっています。ウィリアム・ブレイクなどが、霊性の立場から
近代文明の「霊性の忘却」を批判したものとして代表的ですね。
60年代は、こうしたロマン主義的霊性復古がいわば大衆的規模で
(当然、大衆化に伴う質の悪化をも含みますが)展開した物だと捉える
ことができるでしょう。ユングも大きく見ればロマン主義の一環として
出てきたもので、ユング再評価が問題になるのも当然と言えましょう。
珍:「霊性復古」といいますが、さっきから話に出ている「過去の霊的
伝統」について少し説明が必要なのでは?
ま:そうですね、近代以前に花開いた霊的伝統というのは、具体的には
東洋の宗教的伝統、ヒンドゥー教、仏教、道教、あるいは神道など。
これはヨーガ、仙道、禅、チベット密教、修験道なども含んでますし、
イスラム神秘主義であるスーフィズムもここに入ります。西洋では
新プラトン主義やグノーシス、ユダヤ神秘主義(カバラ)、それに錬金術
などです。
これらはいずれも、ユングのところで触れた、「霊的次元における人間
の変容」をテーマとしています。まず人間は「霊的な次元」を内在させて
いるものと見ます。人間の個の意識は、絶対的な「宇宙意識」に起源を
もっているが、人間はそうした「霊的な起源」を忘却しているもの、という
人間観に立ちます。
人間の目的は、そうした霊的な自己本来の姿を想起し、神=絶対と
究極的には合一することである、とされます。つまり神秘主義といわれ
るものですね。これを、「永遠の哲学」と呼ぶことがあります。
珍:それはいわゆる「宗教」とは違うのですね。
ま:宗教のうちに含まれていますが、いわばこれは「密教」ですね。
宗教には「顕教」と「密教」がある、という視点はご存じでしょうか。
いわゆる普通の宗教、何かの教団に入り、その教えを守って信仰
生活をする、というのが顕教です。密教とは、それにとどまらず、
「行」をし、自ら神と合一することを目的とします。
密教は仏教の専売特許ではありません。キリスト教は密教を切り捨て
た宗教ですが、キリスト教以外のメジャーな宗教にはほとんど密教的
な伝統が存在しています。そこでは神意識に達するための具体的な
修行体系も存在していたのです。
近代ヨーロッパ文明が密教的な部分を切り捨てたのは、もともとヨー
ロッパの母胎となっているキリスト教が密教を敵視する宗教だった、
という特異性の問題もあります。
科学主義(「科学」そのものではありません)はキリスト教を倒して
文明の首座に立ったわけですが、密教的な部分を欠落させるという
点では同じだったのです。
これはヨーロッパ文明に内在する問題点でした。つまりヨーロッパは
「知」を「体験」(広い意味でこれを「行」と言います)を分離させるという
体質を持っており、これが科学主義的な近代的学問体系にも受け
継がれています。
珍:東洋は「知行合一」だったと言うわけですか。
ま:理想としては、ですけどね。
珍:そうすると、霊性復古運動というのは近代にとどまらず、西洋文明
そのものへの批判ということになりますか。
ま:その通りですね。つまりここではっきり意識してもらいたいことは、
トランスパーソナル運動は文明批判である、ということです。
近代的な科学主義世界観は受け入れませんよ、という前提に立って
いるんですから、科学主義をなんら疑わないという場所からいくら何を
言っても始まらないんですよ。まず価値観の変革からスタートしている
わけなんですから。
珍:トランスパーソナルは、そうした霊的伝統を初めから「正しい」とする
前提からスタートしている、と批判する人もありますが。
ま:それはまったくその通りです。そういう前提をあえてとっているわけ
です。「だから駄目だ」というのは一つの価値判断にすぎません。
私たちは「だからいいのだ」と言うわけです。
よってそういう人たちと議論しても無駄です。
問題はそういう人たちが「霊的な諸伝統の正しさを仮定するのは科学的
ではない」と考えていることですが、それは自分たちの科学観を受け入れ
ないから怒っているということであって、
そもそもその点において反逆することから始まっているんですから、
「全員が自分と同じ考えをしないと気に入らない」という幼児的な困った
人たちだと言うしかないですねえ。
珍:そこまで言っていいんでしょうか・・
ま:まあ、ユングのところで出た、物の次元と魂の次元、ということを
思い出してください。魂の次元には独自の探求方法が必要だ、という
ことでしたね。トランスパーソナルはさらに、これに「霊の次元」を自覚的
につけ加えます。
伝統的な霊的探求の見方と、ユング以来の心理学の流れをまとめて
一つの「意識の地図」を作ったのが、ケン・ウィルバーの『意識のスペ
クトル』(邦訳・春秋社)でした。この作品をもってトランスパーソナルの
始まりと見なしてよいと思います。
いろいろ批判はありますが、基本的にはこのウィルバーの枠組みを
中心に動いてきましたし、今後もそうだと思います。
ですからトランスパーソナルの研究も、まずもってこの本を読むことから
始まるのです(ただ、ウィルバーのそのあとの著作には、やや図式的
すぎるという批判が当てはまる部分もあるかもしれないですがね)。
珍:それでは、ウィルバーの意識のスペクトル論をちょっと解説してみて
ください。
ま:そうですねえ、ウィルバーとパラレルな知的現象として、故井筒俊彦
氏による「東洋思想の共時的構造化」の試みがあります。岩波から出た
『意識と本質』(今は岩波文庫に入っている)ですが・・
井筒によれば、東洋思想は共通して、階層的存在=意識論を持って
いるんですね。ウィルバーもそれを基本として押さえ、それと西洋の
心理学を比較照合していったということでしょう。
珍:階層的意識=存在論?
ま:ええ。意識=存在論と等号でつなげているのは、意識のレベルが
存在のあり方を決める、という基本的発想によります。まあこれは、
さっき話した共同主観の問題と多少関係はありますが、それよりは
もっと間口の広いものです。この背景には、involution と evolution と
いうテーマがあります。
珍:何ですかそれは?
ま:ウィルバーのベースの一つになっている、近代インドの生んだ偉大
な思想家、オーロビンドの思想に出てくるものです。しかしこれは一般
に東洋思想的発想を代表する基本テーマということもできましょう。
簡単に言えば、 involution とは、「絶対」の宇宙意識が自らの波動レベル
を落として、さまざまなレベルの存在物を生成するプロセスのことです。
人間の意識もこのプロセスにおいて発生します。
evolution というのは、そうして発生した個的な意識が、次第に成長して
意識の次元を高くし、ついには再び「絶対」に帰るというプロセスです。
これが宇宙の存在する目的である、というのが東洋の霊的伝統の基本
的な見解なのですね。
珍:何とも壮大ですねえ。
ま:これと似た発想はヘーゲルの精神の現象学にもあるでしょう?
これはヘーゲルがドイツ神秘主義を読んでいたことに基づくという見方
もありますがね。まあオーロビンドの言うような「宇宙目的論」は伝統的
インドの思想にはあまり出てこないという指摘もありますが、こうした
見方は「永遠の哲学」とよばれる、人類の普遍的な霊的伝統の中には
確固として存在しているものでしょう。
珍:ウィルバーは自覚的に、過去の密教的伝統の枠組みを採用した、
と言っていいのですか。
ま:ええ、そう思います。これは一つの価値観に基づくパラダイム形成
の作業ということになります。さてそこで、involution - evolution という
見方に立てば、存在は一つの意識の波動に対応する、という理解が
そこから導かれます。
珍:え、何ですって?
ま:宇宙はすべて「絶対意識」の様々な波動の顕現である、という宇宙
観がそこから出てくるのじゃありませんか? その宇宙には、人間と
絶対との二つしか存在しない、というわけではないでしょう。その中間の
段階が想定されるわけです。そして、東洋の密教的伝統は、そうした
段階のこともいろいろと述べているんですね。そしてその段階というのも、
いろいろ比較してみるとある程度一致するもののようです。その辺を
ウィルバーはまとめているわけです。
ここで以前に私が書いたものをまとめとして引用しますと・・
[トランスパーソナルとは] 伝統的な宗教で言われている「階層的意識
存在論」を復権させる、という風にも言えましょう。まず前提として、
「意識が存在を創り出す」という基本的な考え方があります。正確に
言えば、ある次元の世界は、一つの意識状態に対応している、という
ことです。つまり、私たちがふつう生きている物質世界にあっては、
物質界に対応した意識が作用している、ということになります。したがって、
別の意識状態(意識変容状態)では、別の世界が見えてくる、という
ことになります。
私たちは、物質世界以外には世界は存在しないと考えてきました。
それらは「幻想」である、というのが、近代社会の見方です。
しかし、トランスパーソナルの立場は、世界は多重構造をなしている、
と考えます。実はこれは、仏教・ヒンドゥー教をはじめとする、伝統的な
神秘主義的宗教の基本前提だったのです。
・・・ここまではだいたい理解できたと思うのですが。
珍:これは「パラダイム」として提示されているのですね。
ま:そうです。しかもこれは、「物・魂・霊」の三つの次元にわたるもの
ですね。これが「科学」かどうか、という問いは、科学ということの定義
の問題ですからどうでもいいんですが、少なくとも「学問」は志向して
います。つまり「知のパラダイム」としてですね。学問は「霊的次元」を
扱ってはならない、というのも一つの価値判断でありまして、究極的
根拠はありません。しかし、ここがもっとも大きな抵抗を受ける部分
なんです。
珍:「検証」の問題はどうなるんでしょうか。パラダイムというからには、
そう思う、というだけでは駄目なわけでしょう。
ま:ここで重要になってくるのが「認識カテゴリー」の問題です。批判者
は、魂・霊の次元の事象においても、物質科学的な意味での検証を
求めますが、これは「カテゴリー・エラー」なんですね。
たとえば魂の次元の問題は、精神分析を実際にやるなど、ある程度の
経験をもち、それを他の人の経験と比較検証することで、妥当性を判断
することができます。あくまで「心的現実」のレベルに固有の認識方法が
あるわけです。
それと同様、霊的なレベルについては、実際にそうした経験をもたらす
とされる「修行」をやってみるしかありません。そこで得たものを、他の
人の経験と比較検証することは可能なのです。霊的レベルにおける
検証は、あくまで霊的体験以外にはありえません。
しかし、そうした探求を促すということにおいて、トランスパーソナル理論
はパラダイムとして役割を果たしているわけです。トランスパーソナル
理論はあくまで体験によって検証されるべき仮説であり、信仰する必要
はありません。また別の仮説に立ってそれを検証しようとすることも完全
に自由です。
しかし、「変容意識」と呼ばれる、通常の意識状態とは異なる意識を
人間経験の一部として認めること、そして、過去の伝統をも、文献学的
にではなく、その中核となる「経験」に着目して再認識していこうという
方向付けは、そこで明確に示されていますね。
珍:どうも、聞いていますと、伝統的な宗教とはちょっとアプローチが
違いますね。何か、「純粋抽出」してるっていう印象を受けますが。
ま:トランスパーソナルとは、まさにそういうものであろうとしている
のですね。それはまた、そうした霊的伝統へのアプローチに仕方として
も、新しいものを提示しているわけです。
たとえば、そうした思想に対する、体験のない文献学的研究などは
根本的に批判されるわけですし。また各地の密教的伝統を比較して、
本質的部分とそうでない部分を腑分けするということも出てきますね。
珍:最後に、トランスパーソナル運動の現状はどういうものでしょうか。
ま:アメリカでは、ユング心理学者などがトランスパーソナル心理学に
移行する例も多く、トランスパーソナルは一つの流れとして定着して
いますね。博士や修士の学位が取得できる大学院レベルの教育機関
も、既にかなりあります。
メジャーではないが、一角に地歩を占めた、って感じでしょうか?
珍:日本では?
ま:日本は、アメリカと知的バックグラウンドが違いますので、また
いろいろ説明しないといけないんですが・・ 私は日本における
トランスパーソナル運動は、アメリカと同じやり方で展開することは
あり得ない、と思っているんですね。
まず、アメリカにとって「永遠の哲学」は異文化であったが、日本では
伝統の一部であること。そして、日本の学問の中で展開されてきた
ユング研究の基礎、また筑波における「気のシンポジウム」やその
流れを汲む「人体科学会」の活動、「気功」の定着と「気の科学」の
研究、などといった状況がいろいろあります。
もちろんアメリカのトランスパーソナル心理学の導入は進んでいる
のですが、それだけを見て「日本のトランスパーソナル運動」を論じる
のは早計であろうと考えます。でも長くなるので今日はあまり深く触れ
るつもりはありません。
日本における今後の展開の見通しについてはいずれ専門のページを
用意したいと思います。