現代社会では「感覚次元を超えた世界次元」が存在し、時に私たちは
そういう次元と交差する経験を持つ(正確には、そういう次元もすべて
私たちの中にあるのだが)ということが「事実」として認知されてはいな
い。それが「常識」となっている。
学問というのはソクラテス以来、世間の常識の根拠を問いただし、真実
を追究するものであるはずだが、現存の学問の99%は、こうした現代
社会の常識を前提として、その上に成り立っている。常識を疑い、破っ
ていけるような人間はごく少数の天才だけなのだ。それはいつの時代
にもかわりはない。学者といっても、ほとんどは凡才であって、人よりち
ょっぴり頭がいいという程度にすぎない。――おっと、こういう論法で行
くと、まるで私が天才だと言っているみたいに聞こえるが(笑) 決して
そういう意図はない。それに、こういう才能というのは、学校の勉強で
いい点をとるというのとは全く違う性質のものなのだ。
ただ、私としても、既存のアカデミックな学問が究極的には「無根拠」で
あることに20代で気づいたのは大きなことだったとは思う。これには
ポストモダン思想の恩恵もあったのだが。それ以来アカデミックなキャ
リアというのは全く無関心になった。就職さえしてしまえばこっちのもの
である。
ともあれ、私がいつもすすめているのは、理論から入るのではなく、
「人間には何が起こりえるのか」ということをできるだけ大きな振り幅の
なかで知るということである。古代の名言で言う、「われは人間なれば、
すべて人間的なるもの、われに無縁ならず」である。
私は90年代から気功やヨーガなどにも手を染めるようになり、現代では
認知されていない現実領域について少し体験的理解を得るようになった。
その結果、90年代初めには、現象学−構造論によって世界地平論を
展開することの思想的限界を自覚していた。そこで、日常世界がある
「識」によって生起しているなら、たとえば気の体験などの現実世界は
また別種の「識」がそこに生成する(もしくは眠りから覚める」というに
なるわけだから、つまり異次元、多次元の現実といってもそれは識の
拡張、そして知覚能力の拡張として理解できることになる。ウィルバー
の『進化の構造』にはこうした考え方がはっきり述べられている。
私のそれまでの世界観は崩壊し、新たに、「こういう体験が存在しうる
ことを前提にした世界観」へのシフトが余儀ないものとなるのである。