痛感したのは、ヴェーダーンタ的な世界観の限界。物質界は幻だ、
というのは半面の真理であろう。さらに、現代に至るまでの西洋思想
が、いかに唯名論に侵されているかということである。つまり世界を
構成するのは私たちの主観の働きだというのだ。これはカントに代表
されるが、結局は、現代思想はみなそのバリエーションにすぎない。
ソシュールの言語学、レヴィ=ストロースの人類学は、主観を共同
主観的な「構造」に置き換えただけだし、また現在の認知科学も、
その路線の延長線上を超えてはいないように思われる。そのあたり
でヴェーダーンタ的なものがわかるようになって、仏教の無我説に
接近したりするのも、意義がないとはいえないが、しょせんは唯名論
的伝統に縛られていることには変わりない。つまり、物質界、外界
というものの存在意義を見失っている。
プラトンがイデア説を唱えたのは、プラトンはイデアを見ることができた
からである。つまり超感覚界に物質界に存在するものの「原像」がある
ことを高次の認識で了解したのである。
ところが、現代人はそれを信じない。たとえば、「ネコ」という言葉が
もし存在しなければ、「ネコ」というものは存在しないのだ、と多くの
学者は信じている。この意味で「ネコ」は実在するものではなく、我々
の概念によって形作られているという。これが常識にとっていかに
奇妙でも、それが「現代の知識人の常識」である。いま、学問はそう
いう状況にあることを理解していただきたい。
しかし、ネコというものの原像が霊的世界に実在し、その個々の表現
としていろいろなネコの個体があるのだ、と考えればこれがプラトニズム
である。古代人は動物には動物の精霊があり、また物にも物の霊が
あると思っていた。プラトンはそういう古代的直観の世界を洗練させた
だけである。
霊的世界観に従えば、こうなる。人間は霊的世界にその故郷を有し、
ある理由で物質界に降下して住まうようになった。そのとき、人間に
とっての物質界もまた同時に与えられたのであり、そこには、霊的
世界にあった原像の射影が植え付けられた。こうしてさまざまな自然、
動物界と鉱物界が人間と共に存在するようになった・・・ということで
ある。
この原像は人間に与えられている世界において完璧に実現しており、
それを解読することが人間の霊的使命だ・・・こう考えたのがアリスト
テレスだったのである。
さて今日は、『シュタイナー教育の方法』につづいて『シュタイナーの
治療教育』の読み直し。特に「概念感覚」のこと。言葉を記号として
理解するという発想法が知の世界を席巻してしまったことが、叡智を
矮小化させているということを痛感する。高橋巌の中でも『治療教育』
は特に尖鋭な問題提起があり、刺激に富む本である。けっこうすごい
ところまで語ってしまっているという意味だ。カルマのことも出てくる。
これは「霊学」とも「神秘学」とも言われるが、「学」といっても既存の
アカデミズムの中に入っていこうと頑張ろうとするということではない。
もちろん、入ってくださいと言われたら意地を張って拒否するという
わけではない。つまり私が言いたいのは、「そもそも『ものごとを知る』
というのはどういうことなのか」という問いから始める、ということである。
「知るっていうのはこういうことでしょ」と、既存の体制の中で常識化
されている答えを疑う、その自明性を問いなおすという意味である。
そういう作業がまず前提にあるということだ。いま、「知る」ということ
の本来の意味が忘却され、単なる「記号的記憶の蓄積」になってしま
っていることが魂の危機をもたらしている、という認識に立つべきだ
と言いたいわけである。
ともあれ「概念感覚」ということを深く考えてみる価値はある(ここで
また、「考える」というのはどういう意味か、という問題も出てくるわけ
だが)。それは「わかる、というのはどういうことか」でもある。そこから
話を始めないと駄目である。そこをすっとばして、すでにできあがって
いる体系を学び、そこでいい成績をあげようというのはいわゆる
「優等生」の立場であり、こういう優等生的な勉強がいったんザセツ
するという経験がなかった人には、何を言ってもわからないところが
ある(これは経験から言っている)。
ともあれ、概念とは言語によって社会的、文化的に作り上げられる
もの、というような考えが人文、社会科学者に広まっているが、こうした
「ソシュールの呪縛」を解かない限り、魂の学問はなんら見えてこない
であろう。唯名論は、魂の敵である。魂の学(ロゴス)は、実念論に
立たねばならない。これは自明のことである。
『自由の哲学』をいちおう読み終わった。思ったのは、要するにこれは
「イデーとは現実的なものである」ということを言おうとした本ではないか、
ということである。
そう考えてみると、唯物論と唯名論は通じ合っている。20世紀の学問は、
結局のところ唯名論だ。構造主義はその最たるものだろう。
日本の知識人がダメなのは、「イデーの現実性」を理解できないからだ。
それが、丸山真男が半世紀も前に指摘していた「実感信仰」という日本
的唯物論の土壌になっており、無反省な自然科学者がこの思想的風土
の上に立ってレベルの低い議論を展開する、という図はいまだに変わっ
ていない。
『魂のロゴス』でも、最も重要なテーマの一つは「イデーの現実性」にある。
しかし、論述の展開は『自由の哲学』とはだいぶ違っている。むしろ
新プラトン主義的に表現している部分もある。私は、イデーとは宇宙から
贈られているものだと書いているが、シュタイナーは、イデーとは私たちが
自分の内に見出すものであると言う。しかし、この二つは、究極的には
同じことである。私は、「途上にある人間」の立場から見ているのであり、
彼は究極的なことを論理的に述べているのである。このことは「神は
外にあり、そして内にある」ということでもあることは言うまでもあるまい。
神とはものではなく、イデーなのだから。
私の大学時代の修業をふりかえってみても、現在の知的世界では
基本的に、概念とは道具であり、抽象である、という唯名論の文化が
支配している。その考え方を身につけないと知的世界で成功すること
ができないしくみである。こういう「洗脳」「マインドコントロール」(と、
敢えて言うが)から脱して、イデーとは現実性であり、そう考えなけれ
ば精神文化というものは崩壊するということに気がつかなければなら
ないのである。
これはひいて言えば、「人間とは宇宙的なイデーである」ということ
である。これが「アントローポス」であり、ユングがアントローポスの
元型などと言っているときは、そういうことを必死で考えようとしたの
であろう。
人間がイデーであることがわからなければいかなる哲学も思想もない。
それはすべての根底である。と、私は考えている。
意識のモデルなどというものも、私自身としてはすでに発想的に古いと
感じていて、今は、「魂の感覚」というものから出発して行くことに興味が
移っている。魂の感覚とは何かといえば、「肉体の感覚から離れたところ
に、何も肉体感覚がなくてもなお存在し続ける『自分』」の意識というか、
感覚というかそういうものである。そういう肉体に依存しないものを見出
すというのがシュタイナーの『いかにして』のテーマでもあるわけだ。
まずは、それがまったくわからないというのでは話にならないので、
ともかく何が何でもそれがおぼろげにでもわかるというところまで行く
しかない。すべて話はそれからである。最近それを痛感する。その
感覚をベーシックなものとして共有できて初めて「魂の話」が可能に
なるのである。
そういう「魂」というものをはっきりと経験の地平としてつかんでしまえば、
「最先端の科学理論とトランスパーソナルとはどう関わるのか」などと
いうのがカテゴリー・エラー以外のなにものでもないこともわかるであろう。
つまり科学というのは感覚に依拠しているわけで、認知科学というのも
要するにそのレベルの「知覚と連動している意識作用」を扱っているに
過ぎない。それは唯識では「第六識」というものである。そのレベルでは
ない心というものがあるという前提に立たないと、霊性についての議論
の一切は始まらない。
魂の感覚というものが「深層的身体感覚」と連動しているらしい、という
ことも気づいていることである。身体感覚の深まりが魂の感覚とむすび
つくのである。
思想とは、現代とは抽象的な概念によって作られたものと考えられて
いるが、近代以前ではそうではなかった。日常生活の中では体験し
得ない、ある「深い経験」をした人々が、それを言葉という媒体で表現
しようとしたものである。したがって、言葉を通してその源にある「深い
経験」を理解しようとすることが、思想に対する態度である。重要なこと
は、人間というものの可能性を、現在の自分を基準にして考えること
には限界があるということである。自分はまだ知らない「深い世界経験」
があるということに、畏敬の念をもつということも大切である。
古代的な思想に共通しているのは、「肉体感覚以外の、もう少し奥に
ある自分の感覚」を追求していることである。これを古い言葉では「魂」
(プシュケー、アートマン)と呼ぶ。つまり人間は肉体ともう一つ魂からなる
多次元的な存在だという見方になる。
このような「感覚を超えた世界」がまず最初に存在し、そこから感覚の
世界が派生してきた、と考えるのが古代的な思想の特徴である。さらに、
感覚を超えた世界をさかのぼっていくと、「存在の源」というべき次元に
到達する。これがブラーマン、「一者」の世界である。
ギリシャ思想、インド思想などは、そうした「存在の源」を人間は理解
できるものと考えた。つまり、これらは「人間が神になる(戻る)」道を
教えるものであった。現代人には想像できないかもしれないが、その
ような可能性を認めるところから思想が出発するのである。特にインド
では、そのための方法論が準備されていった。
ところが、キリスト教は、そのような可能性に対する絶望から出発する。
そのような可能性は、普通の人間には閉ざされているという感覚が
あった。そこで、そのような人間のために、神が救済の計画を抱き、
キリストを地上に降ろしたと考えた。「ヨハネ福音書」によれば、「はじめ
にロゴスがあった。ロゴスは神であった」とされ、そのロゴスが受肉して
地上に降りたのがキリストだと書かれている。ここに「神が人間になる」
という思想が成立した。
初期のキリスト教には奇跡や神秘体験の話が満ちている。人々は
「魂の感覚」でキリストの存在に何かを感じ、キリスト教に入っていった
のである。パウロの「キリストが私の中で生きている」というのは、
実体験から生まれた言葉であった。それは「魂が光で照明される」
という経験であり、そこで人間の次元を超えた「愛」を体感するという
ものであったらしい。
しかし、アウグスティヌスを境として、西方ラテン的なキリスト教は、
「人間が神になる(近づく)」可能性に対して否定的になっていった。
これに対して東方ギリシャ的なキリスト教は、その「人間が神になる」
と「神が人間になる」のバランスを追求していったと言える。
一方で、イスラム教が成立すると、イスラムの文化において、アリスト
テレスとイスラム教の融合が試みられ、「存在の大いなる連鎖」という
世界観が成立し、12世紀頃に西ヨーロッパに入ってきた。そこでトマス
・アクィナスの神学が成立したが、その結論は、人間には神は知り得
ないというものであった。これに対してギリシャ的キリスト教では、
神学思想にはあまりアリストテレスは影響しなかった。むしろ実際の
神経験に関心が寄せられ、シメオンの「光の体験」などが知られている。
西ヨーロッパでも、エックハルトなどの神秘主義者が現れたが、正統派
の神学思想には影響を及ぼさず、異端と見なされた。この、思想と
体験との分裂が、西ヨーロッパ的な思想の特徴となっていく。
15世紀のルネサンスでプラトン思想が西ヨーロッパに入り、同時に
錬金術・カバラなどのいわゆる「ヘルメス思想」が流行した。これは、
「エゾテリスム」といわれる流れを作り出していった。代表的な人物に
パラケルススがある。ここには中国でいう「気」の感覚や、シャーマ
ニズムにも見出されるような現象も現れてきている。古代的な世界
感覚の復興という性格も強いものであった。そこではいわば、「存在
の源」とこの感覚世界の中間にある世界を体験しようという衝動が
あった。つまり「人間を神化させる道」を模索していたということも
できよう。こうした動きがキリスト教の神秘主義の流れと結びつき、
ベーメなどの「神智学」という思想も生まれた。
草創期の科学はエゾテリスムと結びついている側面があった。なぜなら
正統的な学問である神学やスコラ哲学は、思考のみを尊重し、世界を
経験するということへの関心を欠いていたからである。ニュートンをはじめ
多くの科学者が錬金術に関心を寄せていた。
しかし、ニュートンやケプラーなどによって、宇宙を数学的な秩序として
記述する理論が大成功を収めると、「宇宙とは完璧なメカニズムである」
という機械論のモデルが勢力を増したため、「神が、その救済計画の
ために、人間の歴史に介入する」というキリスト教の教えはナンセンス
であると見なされるようになり、キリスト教と科学との思想闘争が始まっ
た。これは最終的に科学の勝利に終わり、それに伴って、神など「人間
よりも高次の知性」の存在は無視され、否定されることになった。
神といっても、厳密な「法則としての神」だけが認知された(これを理神論
という)。人間の理性を頂点と考える啓蒙主義の成立である。
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「講義みたいな硬い文章だ」という文句を言う人があるが、講義なのだ
からしかたがない。そういうことは言いっこなしである。私のねらいとして
は、「思想というものの全文明史的なパースペクティブ」の獲得ということ
がある。つまり、心理学とか哲学とか、そういう近代的学問を自明の前提
として出発するのではなく、そもそも心理学なら心理学という立場その
ものが生み出されたヨーロッパ文明の歴史的特質を問題にしていくので
ある。歴史を考察するのは、あくまでも、今ある自明の地平を解体、
相対化するねらいである。
結局、最も中核をなすことは、肉体の感覚とは関わりないところにある
「自分」を感覚としてつかむということだ。身体感覚ではない感覚という
ものがある。シュタイナーや高橋巌の本は、繰り返しそのことを言い続け
ているということがわかってきた。これは、ユングなどをいくら読んでも
わからなかったことだった。「超感覚」などと書くとオカルトめいた誤解を
与えてしまうが、身体を超えた自分というものがあるという実感、確信
というものが、インドやギリシャなどの古代的な霊性の核になっていた
のだった。そのことがはっきりわかってしまうと、それをはっきりと言って
いない「心理学」などばかばかしくて読んでいられなくなる。
それがわかるということがすべて霊性というものの出発点だ。それが
わからないうちは、まだ門に入ってはおらず、門の外を興味ありげに
うろうろしている段階にすぎない。このことはきわめて明瞭に理解され
てきたのである。
そのことをはっきり言っていない心理学、あるいは哲学、宗教学の類は
みな偽物、とはいわないまでも上っ面の言葉を並べたものにすぎない。
いくら世間で権威といわれていてもダメなものはあくまでダメだ。逆に、
このことを完全に確信できるならば、世間のいかなる権威にもだまされ
ることはなく、本物を見分けることができるのではないだろうか。その人
は「それ」を本当に知っているのか? その地平からものを言っている
のか? それを見極めればよいのである。
高橋巌『シュタイナー哲学入門』を読み返す。今回気がついたのは、
この本の一貫したテーマは、「自我が自分自身を定立する」というフィ
ヒテのテーゼであるということだ。最後の方に書いてある次の文章が
全体を示している。
---
ここまでデカルトからシュタイナーにいたる近代哲学の諸問題を辿って
まいりましたが、あらためてそのプロセスをふりかえってみますと、
まるで近代思想史の流れの地下を、別の潮流が流れていたような
感じがします。意識的にせよ、無意識的にせよ、ほとんどすべての
哲学者の魂の奥深くに、共通した衝動がはたらいていました。その衝動は、
ひと口でいえば、「自己意識的な自我」、つまり自分を自分のなかに
定立した近代的自我の「自分」のなかには、外なる宇宙のなかにこめ
られた叡智の内実がすべて含まれているのではないか、という予感
です。みずからの内なるこの予感に対して、当の哲学者が否定的、
反抗的な態度を、ときには憎悪さえも抱いたとしても、この予感は
すべての近代人にとって、無縁ではありえないのではないかと思う
のです。そしてこの感情と真正面から取り組むことが、「近代」もしくは
「現代」の本来の霊的な課題なのではないかと思うのです。(中略)
シュタイナーは、人間という存在の不思議さについて、いろいろと語って
いましたが、特に人間自我のなかに一切の宇宙叡智が込められており、
もし人間が、思い出す行為を通して、少しずつでもそれを意識化する
ことができたら、その意識化された叡智の部分は、これまでのように
物質のなかに組み込まれていたときとはまったく異なる在り方をする
ようになるということに、人びとの注意をうながしました。叡智が内面化
されるというのです。そしてその内面化された叡智は、人間自我のなか
で、「愛の衝動」となって甦るのだというのです。宇宙叡智は個人の
自我のなかで、愛にまでメタモルフォーゼを遂げるというのです。この
ことをシュタイナーは、もっとも重要な人間認識の観点と考えていました。
p.224-5
ここに紹介するのは、千葉大学助教授でカウンセラーの諸富祥彦氏の
「危機的体験」 とそれを乗り越えた体験を氏自身が綴ったものである。
ご本人のいくつかの著作に紹介されているので、すでにご存じの方も
多いかもしれない。ここでは最初に 『自分を変える〈哲学〉』 の
「エピローグ」から紹介する。
---
最後に、私自身の個人的な体験について少しばかり補足的に触れさせ
ていただきたい。すでに幾度か触れた例の「危機的体験」についてである。
一〇代半ばから二〇代前半にかけての私は、いつ果てるとも知れない
「哲学神経症」の苦しみにのたうち回っていた。そのきっかけは、ほんの
些細なことだった。
中学三年のある春の夜。不眠がちだった私は、枕元においてあった太宰治
『人間失格』を手にした。一気に読み終えた私は、明け方の光りが差し込む
のを確認するとともに、自分の内側で奇妙な感覚がうごめくのを感じた。
「ああ、このままではいられなくなる」
それは、それまで長い間慣れ親しみ、すでに自分の一部になっていたある
ものが、突然やってきた風の力で、はるか遠くに吹き飛ばされてしまった
ような、抵抗しようのない感覚であった。
なす術のない私は、ただ荘然とするばかりであった。最初はとるに足らない
ものとして、打ち消してしまおうとしていたこの感覚は、しかし次第に、どれ
ほど打ち消しても打ち消しえないものとなっていった。
「私は、もとには戻れないのだ」
それまでの自分ではいられなくなった私は、自分にとってなくてはならない
一切のものを、つまり思考と行動の一切の基準を奪い取られて、そのまま
そこに放り出された。
そしてその後、私は、一〇年近くもの間、「どう生きなければならないか」
「本当にそれでよいのか」という抽象的な問いにさいなまれ続けることに
なった。
この問いは、いつでもどこでも、遠慮なく、私の生活に侵入してきた。
たとえば食事中に。たとえば友人や恋人との会話の途中に。たとえば試験
を受けている最中に。
そして、この問いが浮かぶや否や、私はその活動の一切を停止して、この
問いを考えることに専念しなくてはならなくなるのだった。
試験を受けている最中にこの問いが浮かんでくるとする。すると私は、
即座に答案用紙を裏返し、その問いをめぐるあれこれの思索をメモ
しなければならなくなった。私には、そうしなけれ ばならない「義務」が
あると感じられたのだ。
「この問いに対する納得のいく答えが得られるまでは、一切のことが
許されない」
私の問題は同時に人類全体の問題でもあり、したがって自分には人類の
意識変革の旗手となる使命があると感じていた私は、その都度の思索の
結果を『二十一世紀旗手』と題されたノートに綴っていった。
当然、受験勉強などする余裕はまるでなく、中学生のとき東大志望だった
私は、高校では完全な落ちこぼれとなっていった。
「死ねばこの苦しみの一切から解放される」――そんな思いに取りつかれて、
死の誘惑にかられたことも、一度ではなかった。
こうして私は、「哲学する病」のために、まさに青春をまるごと棒に振って
しまった。そして一〇年近く続いたこの苦しみの、いわば極限において、
私は救われたのである。
大学三年の秋のある日曜の午後。前日の晩、例によって「あの問い」に
とらわれてから一睡もせず、十数時間もその問いを間い続けたため
ほとほと疲れ果てていた私は、ついに観念して、その問いを放り出して
しまった。「もうどうにでもなれ」と。
するとどうであろう。ついに力尽き、朽ち果てたはずの私は、なおも倒れる
ことな<、立つことができているのであった。
しかもその立ち方は、「自分が立つ」という通常の立ち方ではなく、自分が
一切の力を抜いても立っていられるという――むしろ自分の根底に与え
られた「いのちの働き」そのものが立っているという――そのような仕方で
立つことができているのであった。
これは、驚きであった。
また、新たな発見でもあった。
それは、人間とは本来何であるかを、そして「生きる」とはどういうことかを
「初めて知った」という感慨であった。
私は一以前とはすっかり変わり果てた自分自身の姿への気づきを通して、
人間とは本来何であり、生きるとはどういうことであるかを初めて「告げ
知らされた」のである。
私は今、もし自分がこのような経験をすることがなかったらと思うと、
寒々しい思いがする。せっかく人間として生まれたのに、人間とは本来
何であり、生きるとはどういうことかを、一度も知ることなく、生涯を過ごす
ことになったのだから。
たしかに私は、「哲学する病」のために青春を丸ごと棒に振ってしまった。
けれども、「このような経験をすることができて本当によかった」という思い
が、今、私にはある。だから私は、自分がやった方法を、他の人にも試して
みてほしいと思う。
私は何も、私の個人的体験を絶対化するつもりはない。人に押しつけたい
とも思わない。そん なことをすれば、神秘体験を絶対化したオウムの信者
と同じになってしまう。
けれども、本書(とくに第四章)で提示した哲学的自己変革の方法を徹底
するなら自分がどう変わっていくかを、各自で確かめてみてほしい、という
気持ちはある。本書の隠れた執筆動機の一つは、実はこんなところにある
のである。 ( 『カウンセラーが語る・自分を変える〈哲学〉』 より)
最近の学生を見ると、動機付けが弱いですね。何のために勉強して、
何のために働くのかが分かっていない。今の世の中、勉強しなくたって、
フリーターになったって、車は持ってるし、海外旅行にもいけるし
となってくると、「何故勉強するのか」 を実感させるのは、非常に難しい
ですね。世のため、人のためと言ったって無理です。
とすると 「夢」 とか 「使命感」 です。人権とか、環境とか、「これは
世の中大変だ」 と思うようなことを知らせる。 「私、ちょっと頑張って
勉強して、こういう仕事に携わってなんとかしたいよ」 と思う使命感。
そういうものを持たせる 「使命感の教育」 は、すごく大事だと思います。
日本は、いま問題が山積みじゃないですか。 「俺がやらなければ、誰が
やる」 という教育。そういうときは、「問題を発見する力」 が大事なんです。
学校の試験みたいに、「はい、これが問題です」 っていうようには世の中は
問題を提示してくれない。だから 「何が問題なのか」 を見極める力は、
すごく大事になってきます。
http://web.archive.org/web/20031230024405/http://daigakushinbun.gr.jp/sinnen5.htm 諸富祥彦
1963年福岡県生まれ。1986年筑波大学人間学類、1992年同大学博士
課程修了。英国イーストアングリア大学、米国トランスパーソナル心理学
研究所客員研究員を経て、現在、千葉大教育学部助教授。教育学博士。
2004年4月から明治大学文学部助教授。臨床心理士。日本トランス
パーソナル学会会長。
ヴァレラ『身体化された心』は、「識一元論」パラダイムの認知科学的
裏付けとして使えるのでは、という期待を抱かせる。しかし、私はむしろ
アフォーダンス理論のような「外界」の存在も認めていった方がいいと
いう考えもある。
アフォーダンスの本ももう少し必要だが、これをやっている人はちょっと
「お利口ゲーム」の世界に入っているなと思わせるところもある。扱い
には注意が必要だ。
ペースに巻き込まれてはならない。
学問の世界、「お利口ゲーム」の人が大半である。
著者から「魂の実質」を見通すというトレーニングを一方で忘れないよう
にすることは重要だ。
要するに、三種類あって、
1.本当のことがわかってしまって、人に伝える戦略として書いている人。
2.書きながら徐々に、おぼろげな直観をたしかなものにしていく人。
3.「お利口」であることで人の上に立とうと頑張っている人。
というわけだ。私は現在2のタイプである(つもり)。
さて、ヴァレラの『身体化された心』(工作舎)をざっと見た。もちろん端か
ら端まで読むのではない。とりあえずエッセンスだけわかればいいのだ。
いろいろ書いているが、本質的には単純なことだ。つまり、最初にある
のは「経験」であって、主体と世界はそこから生起するということである
らしい。とすれば、ヴァレラは西谷啓治をひいているが、基本的には
西田の「純粋経験」に近い立場ではあるまいか。ヴァレラは「構造的
カップリング」というが、これは唯識で言う、見分・相分の二つを生み
出す「識」なのではないか。
ヴァレラはアフォーダンスにも触れていて、それは環境の実在性を肯定
してしまうと言って批判している。しかし私が思うに、それは環境の
「客観性」を示すものと受け取る必要はなく、そのように生物によって
「読み出される潜在的可能性」を有すると解釈することもできるのでは
ないか。
まあ、率直に言わせてもらえば、この程度のことがわかるために認知
科学に一生かけなくたっていいよな、という感想である。唯識はもっと
深い。
また、翻訳だが、mindfulness を「三昧」と訳しているのは、ちょっと問題
あり。mindful meditation が「三昧瞑想」? これは日本で普通「ヴィパ
ッサナ瞑想」と言われているもののことである。訳者は、仏教の知識は
十分でないようだ。
とはいっても、「識のみ」という認識論が認知科学でも肯定されている
というのは、一つのサポートではある。しかし、ヴァレラの立場では、
まだ「阿頼耶識」の問題は解けない。重要なことは、さらに先にある。
一方また、『死を超えて生きるもの』(春秋社)は、「霊魂の永遠性に
ついて」という副題がついていて、死後存続の可能性を論じたもの。
グロフやクリップナー、タート、シェルドレイクなどおなじみのメンバー
によるアンソロジー。これはかなり「ぶっ飛び」とも言えるが、ほとんど
は死後存続肯定の立場である。
私が好感を持てるところは、「人間が経験しうること」を最大の振り幅
を持ってとりあげ、「人間がこのようなことを経験するとは、いったい
どういう意味があるのか」と真摯に考えてゆく姿勢である。
私も基本的に、こういうアプローチを取る。その意味では大変参考に
なるものである。