トランスパーソナル心理学

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シュタイナーの『神秘学概論』の、「神秘学の性格」という方法論の章を
読むと、これはウィルバーの認識論とほぼ同じことを言っている。

そもそもウィルバーの主張自体が、「超感覚的な世界を理解するには、
超感覚的な知覚器官を発達させることが前提になる」というものであって、
これは完全に神秘学的な発想なのである。

これに対して、アカデミズムを初めとする現代社会の基本思想は「五感
によって確認し得る世界のみが、正確な知識の対象であり得る」という
ものなので、このきわめて根本的な「知」に対する姿勢の相違はそう
簡単に埋められるものではなさそうである。

これは、伝統的な西欧社会が「超感覚的な世界については、人間が
直接知ることができず、ただ信仰によってのみ理解しうる」と考えていた
ことの歴史的結果である。その「信仰」も分離され、消滅しつつあり、
ただ実証主義的な知識観のみが残された。

それで、またパラマスについての本を読んでいるのだが、こういう西欧的
知識観と東方的知識観の激突が、14世紀のパラマスとバーラームの
論争にはっきりと示されているのだ。

この東西の分岐は、アウグスティヌスに始まっている。それまでのヘレ
ニズム世界は、基本的に霊的認識(広義のグノーシス)の可能性を
承認していた。
358:04/09/11 02:00:54

ヨーロッパ思想の成立で、キリスト教の東西の分裂、ラテン的な西方
キリスト教が「神と人間との一致」の可能性を否定したことが重要な
意味をもつ。

つまり、神秘主義という名のもとに一括されている、「自己の中に宇宙
的なプロセスを体験することをベースにした思想」というものこそ人類
思想史の本道なのであって、それを否定している「ヨーロッパ思想=
哲学」というものこそ特殊な存在である。

古代思想の「宇宙中心主義」から近代の「人間中心主義」への移行。
啓蒙主義は人間の理性への信頼であると同時に「人間を超える知性
が存在することの否定」をも意味している。このような宇宙観の「フラッ
トランド化」と共に、「自己の中に宇宙的なプロセスが存在する」という
経験の地平もまた、「異常」の名の下に葬り去られるようになっていっ
たのである。

そのような地平を追求し、保持しようとする運動が「エゾテリスム」であ
り、ロマン主義もまたその一部なのである。

このように、おおざっぱにいえば、近代思想は、フラットランド化の思想
と、それに対抗し「宇宙的な体験」を重要視する対抗文化としてのエゾ
テリスムとに分極化した。

問題は、近代の大学アカデミズム自体がフラットランド化的思潮の流れ
にあるということだ。それを自省しない「学問」は、結局、知的植民地
主義に終わる。「宗教学」がそのよい例だ。そこでよく考えてやらない
と、「知の帝国主義」に巻き込まれ、近代世界的パラダイムの中にいか
に取り込むかに腐心することになる。
359:04/09/11 02:29:34

「自分の中に宇宙的プロセスが流れている」というのは、自分と宇宙と
の一体性を体感するということでもある。思想と体感とはなぜ分離して
しまったのか。それは西欧におけるスコラ哲学の伝統までさかのぼる
のだが、それは詳しく触れない。

そのことを、あんまり「神秘」と考えない方がいい。人間にとってノーマル
な状態だということだ。「神秘主義」という言葉自体が、「理論」の方が
体感よりも上だと考えるヨーロッパの知的伝統からする偏見の産物
である。

天人合一、ということだが、それは、自分のまわりの「気」(=エーテル
体)の感覚から始まる。それによって、「からだの深層」に降りていく時
に、宇宙が広がっているのを発見する。そのためには、「緩める」ことが
大切だ、というのが気功から学んだことだった。「修行」につきものの
「ガンバリズム」では逆に緊張ばかり増えてしまう。

「上にあがろう」という意識を捨てて、「カラになる」ことが大切だ。禅も、
もともとはそういうことを教えているはずだ。現実には禅寺の修行は
緊張した身振りを強いるところもあるが。

水草が流れに揺らぐごとく、宇宙的プロセスの中で静かに呼吸している
自分を味わうということだ。それがアジア的な宇宙的感性のエッセンス
だと思うのだ。
360:04/09/11 03:06:23

結局、今の学校体育というものが、勉強の面と同様、「ある決められた
枠組の中で、いかにしていい成績を収めることができるか」という、
「優等生」を優遇するしくみにはめこまれているのだ、ということである。
企業社会もまた、生産力だけで人を評価しようというのだから、学校の
文化と基本的にはいっしょである(というより、よき企業人を育てると
いう目的で、学校教育が成立しているわけだが)。

ある「ゲームのルール」があって初めて、そこに「勝者」と「敗者」が
成立するわけだが、そもそも、いかなるゲームもそこに存在しない、
ただ「存在していること」だけがある状態を知ることの訓練は、なにも
なされていない。優秀も劣等も、すべてはゲームである。それを
見きわめることが、「空」を根本におく仏教の智恵でもある。

ゲームの達人をめざすのもいいが、あらゆるゲームがまだ開始されて
いない「ゼロ」の地点に立てるということが、人間としての基本的な
「生命の力」を自覚するということだろう。

「スポ根的修行」に私が疑念を抱くのは、本来そうした「ゼロ」をめざす
べき技法であったものが、いつのまにか、「誰がどのくらい進んでいる
か」ということを競うという新たなゲームになってしまい、そこにおいて
いかにして「優等生」になるか、という争いと化す危険があるという
ことだ。
361:04/09/11 03:08:23

「私はこんなにすごい修行をした。それで、こういう境地に達した。
こんなすばらしいものを知らないとは残念だから、あなたも一生懸命
に修行しなさい」というようなことを人に言われたこともある。しかし
どうも、その人がまだ、そうやって得た「境地」に執着しているようにも
感じたのである。というのはその人は、いまだ、自分の厳しい修行の
「代価」として、苦しみの日々の末につかんだ「巨人の星」のごとき
ものとしてその境地を見ているように思えたのであった。

しかし、魂の感覚や、霊的な光の体験などは、なんの修行も特にして
いない人にも「恩恵」として現れることもある。

ウィルバーをみても「修行してない奴はダメだ」的なノリが強くて抵抗が
ある。こういいかえた方がいい。「宇宙と親しみ、存在の基本感覚へと
自分を開いていくためのいろいろな技法をやってみる」――これを
「修行」という言葉のかわりに使ってみよう。