ともあれ、できるだけいろいろな体験について知ることは重要だ。とも
すると、ちょっと「ぶっ飛び」の体験をした人は、ついその体験に執着し
てしまいがちだ。たいていは、その体験の価値を過大評価する傾向が
ある。宇宙の真理とか、空とか、そんなに簡単に体験できるはずがな
い。それを体験するような人が、私なんかに相談をもちかけるはずは
ないでしょう。もっと自分でいろいろとわかるようになっているはず。
その意味では、伝統的な哲学なんかにかじりついているよりは、グロ
フの『脳を超えて』とか、人間の意識体験とはかくも多様であるか、と
いうことを教えてくれるものをたくさん読むことの方が、いろいろわかっ
てくるスピードが速いだろうと思う。現代は、そういう体験について黙
して語らなかったという封印が解けた時代といえる。これほどの規模で、
霊的体験や記憶がシェアされはじめた時代はない。もう、過去の基準
による「古典」などに執着すべきではない。21世紀のスタンダードとい
うものをあらたに樹立していかねばならないだろう。時代は急速に変
化している。
極端な例をあげれば、死んだからといって霊的世界のことがすべてわ
かるようになるわけではない。既にご存じと思うが、肉体を離脱しても、
自分の波動にあったごくわずかな波動領域しか経験されないことが
多い。ほとんどの人は、アストラル次元よりも上の世界があることを知
らないで、死んですぐ行く世界こそが天界なのだと信じることになるが、
こうなるとむしろ進歩は遅々たるものになるかもしれない。宇宙はアス
トラル次元と物質次元だけではないという知識は、この地上界に来た
からこそわかるチャンスがあるというものだ。なおかつ、アストラル界
を超えた次元から来るエネルギー、光とはどういうものであるかを少し
でも理解できたとしたら、その達成の意味は、むしろ死後においてはっ
きりと理解されてくるはずなのである。
その意味で、ウィリアム・ブールマンが、アストラルは大したことがない、
その先へこそ行かねばならないと強調し、OBEによる探求の最終目
的を、アストラルを超えることだと書いているのには大いに共感したの
である。こういう視点をはっきりと打ち出しているOBE本は他にあまり
例がない。
ちなみに講義でたまに、「死後の世界のイメージ」を書かせることがあ
るが、だいたい全学生の5〜10%が「何もない闇」というイメージを答
える。これが恐ろしい無なのかと思ったら、そうでもなくあまり怖くない
らしい。このように思っていたら本当にそういう世界に行ってしまうの
ではないかという余計な心配もするが、こういう無という世界も魂の中
の原型としてたしかに実在するのだ。
ついでにいえば看護学生は花園や三途の川、祖父母との再会などの
わりあい伝統型のイメージを書く。
これに対して造形学部ではもっと内面的というか屈折しているというか、
そういう楽観的な他界イメージが少ない。世界や意識とはバーチャル
リアリティであるというような話が多いようだ。映画「マトリックス」の
宇宙船みたいなものを考える人もいる。しかし、美大生にしてはイマジ
ネーションが不足しているのではないかと感じることもある。
クリストファー・バックは、魂の死と再生という原型構造としてグロフの
ペリネイタル・マトリックス理論をとらえ直した上で、こうしたFNDEを
自我の死という過程と位置づける。まあ、いわれてみれば当たり前の
ようにもきこえるが。地獄というのは罰ではなく浄化の場である、つまり
キリスト教でいう永遠の罰という意味での地獄は存在せず、ただある
のは煉獄のみである。このことは非キリスト教徒には当たり前の話で
あるかもしれない。だから闇にも意味があるので、ただ闇に執着したり
しなければいい。自我の死はいろいろな形を取るので、特定の闇の
形を絶対的なプロセスと見なすことは誤りである。私とて光の経験の
直前には絶体絶命まで追いつめられる経験があったものだ。
ただバックは、FNDEは全NDEのうちわずか1%程度しかないという
事実については、十分に説明しているとは思わない。それは、NDEは
蘇生者のデータであるので、FNDEは蘇生の確率がきわめて低いの
だというのが私の仮説である。しかし他の霊的情報から判断して、
そういう恐ろしい世界に行く人の率はそんなに多くないという印象を
もつが、たしかな確率などは言えない。