先日、池田晶子『14歳からの哲学』というものを読んでみた。結論から
言えば、大したことない。というか、なんでこういうのがはやるのかなあ
・・と思った。たしかに凡庸な哲学研究者(哲学者になりたくてもなれな
い人たち)に比較すれば、何かを見ているとはいえる。彼女がたしかに
理解した哲学的経験とは何か・・それは、「自分とは、この現象界には
属していない」という発見だった、と私は推測した。たぶん間違いない
と思う。それを「存在の神秘」と呼んでいる。だが、そこまで。それ以上
は何も知らない。それが、この人の立っているポジションだ。「私はたし
かに存在する。私が存在するということの謎は、現象界を調べることに
よっては決して到達できない永遠の謎である」というのが、この本の基
本であり、その謎を味わうことが考えるということだ、と論じて、考える
ことをすすめているわけだ。
池田晶子には埴谷雄高に関する本もある。自意識の存在が謎である
という問題に向かっていることはわかる。だが、それと同じ場所に、14
歳の少年少女を導こうというのには、正直、危険を感じる。この本のい
うことを鵜呑みにして、こういう形で「考える」ことはしない方がいいと
思う。馬鹿正直にそうしていたら、独我論的な世界に陥って、精神に
異常をきたす子供が出てこないか、それが心配だ。つまり、池田が導
こうとしているのは近代精神の袋小路に過ぎない。デカルトの自意識
は、神に支えられていた。だが池田には神もない。「仏陀も答えを出し
たわけではない。ただ存在の永遠の謎に触れただけだ」などという意
味のことが書いてあったが、「馬鹿も休み休み言いなさい」と言いたく
なった。自分が答えを出せないからといって、全人類から答えを出す
権利を奪ってはいけません。
考えるといっても、結局は自分の中にあるものしか出て来ない。
若い人はむしろ、「世界とはいかに多様であるのか。人間にはどんな
経験が可能であるのか」という方向でものを考える方をすすめる。
その経験というのは、たとえば臨死体験やシャーマニズム的体験など
も含める。
「人間が経験しうることを、その最大の振り幅を持って理解する」という
ことだ。
最も邪悪かつ残酷なことから、宇宙叡智との合一の神秘まで、すべて
人間に開かれた地平ではないか。