問題は、「現実」ということがすでにある地平によって成立している
ものであってみれば、そこには不協約性(相互に通じ合わないこと)
が存在する。
バーマンは、「異質の現実世界を相手にしたときの近代の思考は、
無力さをさらけ出している」という(p.100)。ユングも結局のところ
妥協主義者で駄目だとこきおろしているのは、「よくぞ言ってくれた」
と言いますか。
近代人が思い及ばないのは、現実構成というものは相互に不協約
であり、無数の現実が存在するということだ。つまり異質な現実構成
の世界は、パラレルワールドなのである。
本当は時間も空間もない、何もない世界の上に、いくつもの現実
構成が島のように漂っているだけだ。頭上にも足の下にも本当は
虚空があるばかりである。
無数のパラレルワールドが共存する世界ということを自分の「世界
感覚」のレベルで理解するところまで行かなくては、ことの核心は
見えてこない。
日本の学者では、見田宗介の『時間の比較社会学』が、かすかに
それに気づきかけているところを感じさせる。あとは、わかっている
と思えるのは、中沢新一くらいのものか。
本当は、そこまでわかっていないと、私が言おうとすることは通じない
のである。だから、ほとんどの人にはわからないかもしれないと思う
のだが、それでも書かざるを得ない。何かに気づくきっかけが書物
から得られることもある、ということは事実だろうから。
あるミュージシャンが、「音楽をいつも聴いている人というのは何となく
わかりますね。つまり何というか、存在すること自体のエロスというか、
そういう感覚がある」というようなことを言っていたのが印象に残って
いるのだが、言いたいことはだいたいわかる。言いかえれば、エーテル
体、アストラル体が発達しているということである。
シュタイナー教育で、その最大の眼目は、まずエーテル体の教育から
入り(具体的には身体感覚などである)、アストラル体を十分に豊かに
し、そのうえで概念的な勉強に入る、という段階を踏むことである。
これはとても大切なことで、言いかえれば、現在の公教育というのは、
エーテル体、アストラル体をなおざりにしたまま概念的勉強へと突入して
しまう。
エーテル体・アストラル体の豊かさがあるなら、「世の中は全部きっちり
と説明されている」なんて感覚は絶対に生じないのである。
そういうのは、そういう「既に誰か専門家が説明してくれている知識」
を体系化した教科書を、知識として覚えることが勉強だという印象を
刷り込まれているわけで、知識とは無限の未知に接して、その無限の
荒野に道をつけながら進むものなのだという感覚を得られていない
とするなら、残念ながらそれは今までにいい先生に出会えていない
のだと思ったほうがいいのですぞ。
超一流の科学者なら誰でも今言ったような感覚をもっていると思う。
アインシュタインの語録を読んでみい。
また、世界には無限の次元があるという感覚も、結局は、自分の奥深
い中心点という感覚が分かってこない人には本当には理解できないと
思う。
それが分からなければ、世界とはこの物質的な時間空間の世界しか
ないのだと思えてしまったとしてもやむを得ないのである。
言いたいことがわかるかな? 「存在すること自体のエロス」ってどう
いう意味だと思う? 考えてみてほしい。
http://www.1101.com/watch/ 「藤原さんはいつから論理と情緒について
話をされているんですか」
「もともとは、奈良女子大に岡潔(おかきよし)
という大天才数学者がいて、
彼が情緒が大事だと言い出したんです。
彼の言う情緒と僕の情緒とはちょっと違いますけどね」
「岡潔さんも数学者なのに、情緒が大事だと?」
「彼は仏教なんかにも詳しくて、
美的感受性を大事にしていました。
だいたい、論理で数学の発見はできないんです」
「論理で数学の発見はできない?」
「そう、大事なのは『美的感受性』と
『調和感』とでも言いますか、
そういうものがないと新しい発見はできない。
じゃあ数学の発見をするとはどういうことか。
高い山のいただきにある美しい花を
取りに行くようなものです。
もともと美的感受性がないと、
花を手に入れようとも思わない。
そこに花があることにも気づかないし、
登っていく意欲も湧かないでしょう」
「人間は論理に弱いんですね。
例えば国際化の名の下に
小学校から英語を教えようと言われると、
一見筋が通っているから皆賛成する。
情報化時代だから子供の頃からパソコンを教えましょう。
これも筋が通っているから賛成する。
でもこれは間違っています。
人は論理に弱い。
だから国民に政治をするのは無理なんです。
政治はエリートがしなければならないんです」
藤原は真のエリートには
ふたつの資質がなければならないと言う。
「まず、文学、歴史、思想、芸術など
役にも立たない教養を身につけていることです。
役にたつものは情報と呼ばれます。
教養はまったく役に立たないものです。
ですが、こうした役にたたない教養を
持っている人間だけが、
圧倒的総合判断力を持つことができるんです」
「そしてもうひとつエリートに必要な資質は、
いざというときに国民の為なら
自分の命を捨てるだけの覚悟があるということです」
「じゃあ今の日本の官僚はというと、
省庁の利益しか考えない、
つまり自分の立身出世を求めるだけの
人間ばかりになってます。
これはもう『エリートなき民主主義国家の悲劇』です。
論理にだまされることなく、
道を選択していくことが大事なのに、
情緒を身につけた真のエリートがいないんです」
「北朝鮮の反日攻撃にしても論は彼らなりに通っている。
100年前に帝国主義を否定する人は居なかった。
劣等民族のために優秀な民族が
支配してあげるという理屈は、
あのころはすばらしい論理だった。
共産主義だって論理は通っていたんですよ」
藤原は一呼吸置き、あきれた口調で続けた。
「論理はあとになれば、ただの笑い話です」
競争を重視した今の社会の傾向も
いずれは笑い話になる類のものだと藤原は言う。
だが日本の最大の問題は『教養の衰退』だという。
「子供の頃友人が読んだ古典を自分が読んでないと
恥ずかしくて言えなかったものです。
でもいまはそんなことないでしょう。
教養が衰退すると何がいけないのか。
長期的視野が失われるんです。
長期的視野は教養からしか生まれない。
教養の衰退は文化の衰退につながっていく。
テレビで教養を伝えられますか。
テレビは情報は伝えられても、
教養は伝えられないんです。
教養は活字を追うことでしか得られないんです」
ここから藤原の言う
『読書離れが国を滅ぼす』という考えに
つながっていく。
読書離れが、教養の衰退に繋がり、
教養なき指導者には
論理に騙されずに道を選択する能力が欠如し、
国を誤った方向に持っていってしまう。
「日本は真のエリートをつくらなくなった。
旧制高校は教養主義のメッカだったんですよ。
それが戦後なくなってしまった。
日本が2度と立ちあがって
アメリカに立ち向かわないようにという
アメリカの思惑があった。
当時の教育を受けた人たちが、
15年前に引退し始めた。
そのころから日本はダメになってきてますよ。
学者と学識経験者が最後の砦だったのに、
それもここ10年危うくなってきている。
テレビに出た学識経験者が何を言ったか
検証してみればわかる。むちゃくちゃだ。
特に教育学者とエコノミスト。
自分が言ったことが間違っていることがわかっても、
反省もない。
自然科学からみると信じられない。
恐るべき傲慢さだよね」
「なぜ最後の砦までダメになったんでしょう?」
「学者自身も教養を亡くした。特に理系。
文部省にひざまづいて、学問の自治も、誰も言わない。
研究費をもらうために意地汚くなっている。
他の省庁は力が落ちているのに、
逆に文部省は力が強くなっているんですよ。
国立大学も大学の自治について議論すらしない。
ノーベル賞だって、あれは過去の人。
過去の業績で今もらっているんですよ。
小柴さんも旧制高校で育った人です」
「最後の砦もダメとすると、日本はどうすれば?」
「日本はあがいています。
もう対症療法ではうまくいかない。
GHQのやりたい通りになった。
旧制高校で育った75歳以上はいいが、
65歳以下はろくなのがいない。
65歳から75歳はグレーだ。
教育を立て直すしかないんです。
例えばいじめをなくすには、
『ひきょう』を教えるのが手っ取り早い。
小学校でけんかを見て見ぬ振りをしたときに、
ひきょうだと教えることもできる。
『他人の不幸への敏感さ』は
貧困から学ぶことができる。
僕らの子供の頃、クラスには必ずひとりふたり、
弁当を持って来られなくて、
お昼になると外に出てしまう子供がいた。
そういうところから
他人の不幸への敏感さを学んでいけた。
だが、いまはきれいごとばかり。
日本の教育学者もアメリカが失敗したことを
遅れていま日本でやっている。
教育界はまったく荒れ果てています」
「何から手をつければいいでしょう」
「答えを教えましょう」
藤原はかすかに身を乗り出して続けた。
「初等教育の国語なんです。
いまは実質3〜4時間。
これをもっと増やすことです。繰り返しますが、
情緒は活字を追うことでついていきます。
読書をすることで教養も自然に身についていきます。
『もののあはれ』『貧困への思いやり』
『美的感受性』などです。
その人たちがいい親になり、いい先生になる。
そうすれば変わっていきます。
孫の世代で立て直せます」
「情緒力ではアジアは強みがあるのでは?」
「例えばアジアは親孝行の意識がある。
だがアングロサクソンには薄い。
日本的情緒を身につける。
それは国際人になることでもある。
国際人とは英語の力ではないんです。
グローバリズムと言うが、
21世紀はローカリズムの時代です。
すぐ世界を便利にと言うが便利にしてはいけないんです。
その地域地域の文化を残していくことこそ必要です」
最初は疲れているように見えた藤原の言葉は
次第に熱を帯びた。
「グローバリスムはアメリカの国益になるから
アメリカは主張しているんです。
グローバリズムにのせられて、
日本はアメリカにしてやられた。
例えばアングロサクソンは
顔色ひとつ変えずに人を殺せるが、
ラテンは泣きながら人を殺す。
ラテンの方が人間らしいとも言えるが、
敵にしてはいけないのはアングロサクソンです。
彼らは相手をやっつけるのに、
100年計画すらたてるほどです」
「日本とイギリスはよく似てるんですね。
イギリスはヨーロッパのまま子。
ヨーロッパでありながら、ヨーロッパじゃない。
日本もアジアのまま子。アジアでありながら、
周りも自分もアジアの意識が薄い。
ふたつの国ともに中途半端。
かつての日英同盟はすばらしい同盟だった。
当時はアメリカの陰謀で解消せざるを得なかった。
似たもの同士、日英同盟を結ぶのもいいかもしれません。
軍事ではなく、文化や経済でもいい」
イギリスにも留学経験がある藤原はそう言って微笑んだ。