トランスパーソナル心理学

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「多様性は、人類のうちでは消滅するであろう。同一の行動様式、同一
 の思考様式、同一の感情様式は世界のどこの隅にも同じように見出さ
 れ、すべての民族が同一のことをますます実行するようになっていく。
 ・・・・すべての民族は、特に互いに模倣しあったわけではなくても、
 自然に似通ったものになっていく。・・・彼らは知らず知らずのうちに
 互いに接近しあうのであり、そして彼らはついにはいつの間にか同一
 の場所に集結しているのを見出して、びっくりすることであろう。(下巻
 ・405頁)」

「私が平等社会について非難しているのは、平等が人々を禁止的享楽
 に誘い込むことになっている点ではない。そうではなく、それは平等が
 人々を許容的享楽の追求ばかりに、全く耽溺させる点である。(下巻・
 242頁「民主主義時代に物質的享楽欲が作り出している特殊な諸効
 果について」)」

「そういうわけで、やがてこの世には、魂を腐敗堕落させることはないで
 あろうが、これを軟弱にして、魂のすべての原動力を弛緩させてしまう、
 一種の誠実な唯物論が確立されるだろう。」

(下巻・242頁。現実を見ても、彼が言うこの「誠実な唯物論」は世界を
 覆いつつあり、そしてそれは短期的には無害だが長期的には文明に
 とって麻薬よりもさらに危険で致命的なものになりかねないということ
 になる。)

「「個人主義」は民主主義時代の特徴であるが、これは次の点で利己
 主義と異なる。利己主義は人間の本能に根ざすもので極めて古くから
 存在する悪徳だが、個人主義は新しい民主主主義的起源のもので、
 地位の平等化に伴って発展してきた。・・・・利己主義は過度に偏重
 された盲目的な自己愛から来る積極的な感情である。一方個人主義
 は消極的で平和的な感情であり、各自を大衆の中から自発的に孤立
 させて周囲の小さな社会に引きこもらせようとするものである。・・・・
 利己主義は即座にすべての美徳を枯らしてしまうが、個人主義は
 初めに公徳の源泉だけを枯らす。けれどもしまいには、個人主義は
 他のすべてのものを攻撃し、破壊し、そして最後に利己主義の中に
 呑み込まれることになる。(下巻・187頁「民主国における個人主義
 について)」

「民主的民族が将来襲われるかもしれない種類の圧政とは何かを想像
 するとき、それは過去の圧政とは全く似ていないと私は考えている。
 ・・・・そもそも独裁制と圧政という古い言葉も、今やそれを表現する
 適切な用語ではない。・・・・まずそこでは、無数の類似した平等な人々
 の群れが、小さな卑俗な快楽を手に入れようとしてあくせくめいめいに
 活動している。・・・そして彼らにとってはほんの身近な周囲が世界の
 すべてであり、その外の世界には無関心である。そういった意味では、
 彼らはもはや祖国をもっていないと言える。・・・・そしてこのような人々
 から成る世界の上に、これらの人々の享楽を保証し、そしてこれらの
 人々の運命を監視する、巨大な後見的な唯一の権力がそびえ立って
 いる。・・・・この権力は、人々を決定的に幼時期に釘づけすることだけ
 を求めている。そして日に日に市民たちの自由意志を無用なものにし、
 成立し難いものとしている。・・・そしてそれが推進する平等化によって、
 どんな独創的な精神も、どんな強力な魂も、群衆を超えて真に頭角を
 あらわすことはできなくされてしまう。・・・そしてこの「主権者」は、市民
 たちに何かを強制する圧政は行わないが、それを無気力にし、麻痺
 させる。またそれは、積極的に何かを破壊することは行わないが、ただ
 何か真に新しいものが生まれてくることを困難にし、不可能とさせる。
 ・・・そして「主権者」はついに各国民を臆病なよく働く動物の一群の
 ようなものにしてしまって、それぞれの政府にこれを指導させるので
 ある。(下巻・558頁「民主的民族が恐れなければならない独裁制は、
 どのような種類のものであろうか」)」

「地位が平等になればなるほど、人々は個人的に一層弱くなり、そして
 新聞は、人々が個人的に一層弱くなればなるほど、たやすく人々を
 誘いこむようになる。・・・それゆえに新聞の天下は、人々が平等化
 するにしたがって、拡大するに違いない。

(下巻・213頁。なお、「ニューヨーク・タイムズ」紙の創刊はこの予言の
 11年後、「ワシントン・ポスト」紙の創刊が37年後であり、本書が
 書かれた時点では両紙ともまだこの世に存在していない。)」

「アメリカではジャーナリストの精神は、人々にぶしつけに無謀に拙劣
 に襲いかかり、人々をとらえるのに諸原則だけをぶちまけ、人々の
 私生活に入り込み、人々の弱点と悪徳を丸裸にすることである。
 このような思想の濫用は慨嘆すべきことである。(中巻・38頁)」

「アメリカでは、ヨーロッパではほとんど見られないほど激しい過激な
 精神主義を特徴とする宗教の熱狂的な信者が、少数ながらむしろ
 一部に見られる。・・・それはアメリカでは大多数の人々の精神が
 物質的福利の追求に向かっているため、若干の人々の心の中では
 大きな反動が起こって、その物質主義の外へ出ようとするためである。
 ところが彼らが一旦その線を越えると、もう彼らを押し留めるものが
 ないため、常識の限界を超えてどこまでも行こうとするのである。
 ・・・逆に社会全体がこれほど物質主義的でないとすれば、人々は
 宗教や信仰においてももっと節度的・社会常識的に振る舞うだろう。
 (下巻・243頁「若干のアメリカ人は何故に非常に熱狂的な精神
 主義をあらわしているのだろうか」)」

「(平等がもたらす)不信仰の時代に恐れるべきことは、人々があまり
 にも日常的で短期的な願望を求めるため、永続的で偉大なものを
 全く作り出そうとしなくなることである。・・・・一方常にあの世のことを
 考えている宗教的民族は、将来を目指して永続的に行動する習性を
 もつため、結果的にしばしばこの世でも偉大な物事を完成させている。
 ・・・これは宗教の偉大な政治的側面である。(下巻・274頁。)」

「唯物論者たちは、自分たちが動物でしかないことを証明することで、
 自分が神になったと信じ込んでいる。・・・・唯物論は本来どんな社会
 にとっても人間精神の危険な病だが、ことに民主社会にとってそれは
 最も危険である。なぜならそれは民主社会特有の病と非常によく結び
 ついてそれを強化するからである。・・・・民主主義はそこに生きる
 人々を物質的享楽に誘い込みがちであるが、唯物論はさらにそれを
 思想的にも促進させる効果があり、相乗効果の悪循環を作り出しがち
 である。(下巻・266頁)」

「ソクラテスとその学派がはっきりともっていた唯一の信仰は、霊魂が
 肉体と共通なものを全くもっていないということ、そして霊魂が肉体の
 死滅後にも不滅なものとして生き残るということである。この信仰は、
 プラトン的哲学に崇高な飛躍を与えることになった。・・・霊魂不滅の
 信条は、むしろ民主主義の時代においてこそ何より重要となっている。
 ・・・・・宗教の多くは、霊魂不滅を人々に教えるための最も標準的な
 手段に過ぎない。(下巻・268頁)」

「人間は、もし肉体の死と共に自分のすべてが消滅すると考えるように
 なると、次第に将来のことを考えようとする習慣そのものを失っていき、
 そしてその習慣を失うや否や、自分たちの小さな願望を、忍耐なしに
 直ちに実現しようとする。・・・・つまり彼らは永遠に生きることを断念
 した途端に、今度はわずか一日しか生きられないかのように行動する
 ようである。(下巻・274頁)」

(実のところ未来を構想するに際して、これらほど頭の痛い問題はない
 と言える。人類は19世紀の諸革命以来、それまで人間精神が住んで
 いた来世的世界の部分を引きはらって、そこの全部を現世の物質的
 世界に移住させ、霊魂不滅の教義は滅亡するに任せた。しかしその
 代償を提供するため、文明世界は人々に不断に拡大していく物質的
 繁栄と人間の無限の進歩を約束せねばならず、そしてそれでも埋め
 られない精神部分の空白はしばしば国家主義という擬似宗教で補わ
 れた。だが今やそれは限界に達し、世界はそれらの大半を捨てること
 を余儀なくされている。

 そうなるとわれわれは、宗教や身分制度の力によらずに「社会的秩序
 という奇跡」を実現する、これまで全く知られていなかった新しい社会
 運営技術を発明するか、

 それとも唯物論が科学的に誤りだったことを証明して何らかの形で
 健全な宗教を復活させるか、

 という、いずれも前代未聞という点では甲乙つけがたい二つの手段の、
 少なくとも一方を実行せねばならない事態に結局は追い込まれる
 可能性が高い。

 どちらをとるにせよ、全く大変なことになったものである。)

「アメリカではどこへ行っても「団体」というもの(政治団体のみならず
 宗教、思想、その他こまごましたことを目的とするものに至るまで)が
 見られる。・・・一般に平等が進むと各市民が個人的に弱くなり、相互
 の糸が失われて皆が孤立するため、団体はそれを補うために不可欠
 なものである。・・・イギリスのような貴族社会では大領主が担って
 いた役割を、アメリカでは団体が担っている。(下巻・200頁「アメリカ
 人が市民生活で行っている団体の使用について」)」

「イギリスで貴族たちが団体を作ろうとするとき、構成員一人一人の力
 が強いため、その団員数は少なくて良い。だが民主的国民の場合、
 一人一人の力が弱いため、団体の人数は極めて多いことが常に必要
 である。(下巻・203頁)」

「もし政府があらゆる場合(つまり道徳的・知的・商工業の活動などの
 いろいろな面で)について、これらの多数の自発的団体の役割にとっ
 てかわろうとすると、民主社会は大変な危機に遭遇するだろう。・・・・
 なぜならそれは市民の自発的団結力を衰弱させ、その結果無力化
 した市民は次第に政府に助けてもらおうとする欲望をもつようになり、
 政府はさらに多くの団体にとってかわらねばならない悪循環を生む
 からである。(下巻・204頁)」

「次の法則は、人間社会を管理する諸法則の一つとして極めて明瞭
 かつ重要なものである。すなわちそれは、人間が文明人であり続け
 るためには、社会内部で平等化が増大するのに正比例して、人々の
 団結の術が発展し、そして完成することが必要だということである。

 (下巻・208頁。なおこの部分も、その「団結の術」という部分に
 「マスメディアの支配力に依らない形での」という但し書きがついて
 いないと、現代ではあまり意味がない。)」

「私はアメリカで、世界中で最も自由で豊かな境遇に恵まれている人々
 に会ったが、ところがおしなべて彼らの表情は常に暗雲のような不安
 に包まれており、中にはほとんど悲痛なおももちを見せていることさえ
 あった。・・・一方私は旧世界で、極めて貧困で無知で不自由な境遇
 に置かれた民族に会ったが、ところが多くの場合、むしろ彼らの容貌の
 方が晴れ晴れとしており、陽気な気分に満ちていた。・・・・アメリカ人
 たちは、この世の幸福の中にあるにもかかわらず、それを味わうこと
 ができずになお新しい幸福を求め、それを生きているうちに捉え損ね
 るのではないかとの不安に苛まれている。・・・・彼らは、老後のため
 に立派な家を建てようとするが、棟上げが行われている最中に彼は
 それを人に売るのである。また彼は庭に果樹を植えるが、果実が味わ
 えそうになった時にはこの果樹園を他人に貸してしまうのである。・・・
 彼はこのようにして、その不安な幸福をまぎらわすために次から次へ
 と場所を変え、何百マイルもの旅に出かけていく。」

(下巻・246頁「何故アメリカ人はその福祉のさなかで、非常な不安を
 あらわしているのであろうか」。この現象を指摘したのは、恐らく近代
 西欧においてはトックビルが最初ではあるまいかと思われる。なお
 われわれの場合、これに関しては碁石理論による再解釈や説明が
 可能であろう。)

「アメリカでは、人々は献身的であることは稀であるが、すべての人々
 は奉仕的である。(下巻・317頁)」

「分業の原理が一層完全に適用されるにしたがって、労働者は一層
 弱くなり、一層制限され、一層隷属的になる。・・・今日の製造業的
 貴族は、自らの使用人たちを貧乏にし愚かにしたのちに、恐慌の時
 に彼らを養ってもらうために、公共的慈善に引き渡すのである。
 (下巻・289頁)」

「民主的国民の間では、人々が互いに一層類似したものになっていく
 にしたがって、誰か特定の一人の人が、他のすべての人々よりも知的
 な優越をもつことができるという通念も、まもなく消滅していくのである。
 ・・・・その場合には革新者がどのような者であろうと、民衆の精神に
 対して偉大な影響力を及ぼすことはますます難しくなっていく。それ
 ゆえにそのような社会では、突然な知的革命は稀である。(下巻・
 460頁)」

「貴族的社会では、何か説得を行うに際しては数人の精神に働きかけ
 るだけで十分であって、あとの人々はこれらの数人についていく。
 ところが民主的社会では、人々は互いにどんな紐帯によっても結び
 付けられていないので、説得するとなると一人一人を全部説得しな
 ければならないことになる。・・・かつてルターは領主たちを説得する
 ことで宗教改革を実現したが、彼が平等の時代に生まれていたなら、
 ヨーロッパを変貌させるのに遥かに大きな困難を感じたことだろう。
 (下巻・461頁)」

「知性の大革命に適した社会状態がどのようなものかを考えると、それ
 は絶対的平等社会と絶対的階級社会の間のどこかの状態のうちに
 存在する。・・・絶対的平等社会と絶対的階級社会は、完全に両極端
 な社会状態であるが、ただそこでは人間精神の大革命は起こりにくい
 という一点においては共通する。・・・・けれども民族史上のこれらの
 両極端の間には、中間的な時代、光輝ある苦悩の時代が見出される。
 ・・・強力な改革者たちが出現し、新しい理念が世界の表面を一挙に
 変えるのは、そのときである。(下巻・468頁の註。)」
265あとがき:04/09/06 00:26

なお、この468頁の註の抜粋でこの名言集を締めくくった理由を、
「編者あとがき」というわけではありませんが、私見を交えて述べて
おきましょう。ひょっとするとお読みになって思いもかけない光景に
気づかれる場合もあるかもしれません。

トックビルはその全般的な論調において、社会と大衆の均質化が進み
過ぎると、社会が「多数者の短期的願望の極大化」によってコラプサー
化するのみならず、そこから脱出するための変革や知的革命さえも不
可能になってしまうことを懸念しています。

そして現在の社会(ただしイスラム世界を除く)を見ると、トックビルが
言うように確かに人々や大衆が完全に均質化して液状化してしまって
おり、彼のいう如く、回復のための大きな知的革命は不可能であること
がほとんど明白という、憂うべき状況となっています。

そうだとすれば、逆に言えばどこかにその均質化を免れた小集団が
存在しない限り、脱出のための如何なる戦略も最初から立てようが
ないことになり、まずそれを何とかして探し出すことが死活的な鍵だと
いうことになります。
266あとがき:04/09/06 00:27

ところがその中にあって理系専門家の集団というものを見るとき、それ
はいささか盲目的なギルドと化しつつも、それでも大衆とは異質な知的
小集団を維持しており、なおかつ名目的にはまだ敬意を払われている
という点で、今やこの大衆社会の中に僅かに残された最後の独立集団
となりつつあるように私には思われます。

ただし、トックビルのこの註の内容に照らして見る限り、今のままでは
それは全く力にはならないことがわかります。それというのも、現在の
知的状況というものは、まず大衆同士の相互関係について見てみると、
そこでは平均化が進んで、先ほど引用した部分の「絶対的平等社会」
に近い状況が見られます。

しかし一方、大衆と専門家(特に理系の)の関係についてみると、そこ
には大衆が越えられないとされる知的な壁が存在して、専門家たちは
その中に守られて安住しており、その点に関する限りでは一種の「絶対
的階級社会」に近い状態が見られます。つまり双方が別個に安定状態
を作っていて、その外には出ようとしないからです。
267あとがき:04/09/06 00:28

ところがこれまでこの理系小集団は、唯物論的世界観というものをその
共通信仰としてもっており、それが少なからずこの安定状態に寄与して
いました。

(そしてそれにいまだにしがみついていることが、もはや社会の中で真の
尊敬を得られなくなっていることの最大の理由です。)

しかしもしそれが単なる信仰に過ぎなかったことが数学的に証明された
場合、恐らくその信仰が揺らぐことで一時的にせよ、その内部と周囲に
何かが起こる可能性が高いと言えます。

つまり、ごく短い間ではありますが、トックビルの言うその「光輝ある苦悩
の時代」が、この世界に生じる可能性があるわけです。
268あとがき:04/09/06 00:30

一般に歴史的に見ても、社会の中に存在していたある階級や集団が
壊れたり揺らいだりするとき、その集団の中と外の双方に力が生まれて、
しばしばそれが壊れる瞬間に(原子核が壊れる場合に似て)大きな光と
エネルギーを放つものです。

(さしずめ明治維新などは、武士階級そのものが壊れて消滅する際の
エネルギーが最大限に輝かしく燃焼させられた例でしょう。)

しかしそのエネルギーはただ無駄に燃やされてしまう場合もあります。
われわれの場合も、それが無自覚にただ専門家の権威を失墜させる
ことのみを目的に、大衆社会に雑文を売るぐらいのことに終始した場合、
ただハーモニック・コスモス信仰を自然消滅させて、この社会に残って
いた最後の独立集団を抜け殻のようなギルドに変えるだけのつまらない
結果に終わるでしょう。

そしてそれが魂を失って単なる職人として大衆社会の中に最終的に
埋没した後は、例えば日本のような国で何か一つでもトックビルの言う
特殊な小集団が残るかははなはだ疑問と言わざるを得ません。

かと言って、唯物論信仰の滅亡それ自体はもはや予定された避けが
たい運命で、遅かれ早かれ必ずやってくることです。
269あとがき:04/09/06 00:32

そうなると、この人類社会に最後に残った貴重な閉鎖的小集団の存在
を最大限に利用し、その精神的コアの一部が壊れる瞬間を捉えて如何
に大きなエネルギーに変換させるかは、今や余りにも重要なこととなって
しまっています。

そして同時に、われわれが文明社会のどれほど死活的で重要な最後の
一線付近に立たされているのか、そしてもしそれを逸すれば、後に広がる
不気味な底なし沼が如何ほどのものかを、トックビルを読むたびに自覚
させられていささか目眩いを覚えるのです。

ところがそうは言うもののいざ現実に周囲を眺めてみると、大衆社会も
専門家社会の中もこの光景自体を見ようともしない大勢の人々で満ち
ており、そのため行く手に何があるかを見てしまった一握りの人間は、
必ずその面でも苦悩を強いられることになるでしょう。

しかしそんな時、実は自分たちが今見ているものこそが、まさしくトック
ビルの言う「光輝ある苦悩の時代」の光景そのものなのであり、これは
皮肉にもその真っ只中にいるが故の苦悩なのではあるまいかと気づか
されて、かえってある種の確信をもつこともしばしばあるのです。