「今、自分は何々をしている。」などのように、自分とか対象とか行動とか
を意識しているのが人間の特徴です。
言葉を使って考えているのが人間の特徴だといってもだいたい同じ事だと思います。
思考には意識的思考と無意識的思考があると思います。
人間は意識的な思考をする所が他の動物との違いだと思います。
人間以外の思考は、いうならば無意識的思考だと考えられます。
ダイエットをする猿とか、自己嫌悪するライオンとか、鬱に悩むバッタとか、
自殺願望を持つ野ネズミとかそういう動物はいないという意味で
意識を持っているのは人間だけだと言えるでしょう。
意識も認識も人間に特有のものだと考えられます。
危険を認識する、あるいは、危険だと意識するというのは、
「あの大きな岩がこちらに向かって転がってきているぞ。
このままここにいたらあの岩に当ってしまうぞ。
あの岩に当れば生きてはいられないな。これは危険だ。」などと、
言葉で考えることを指しています。
これは動物にはできません。
言語を持っているという事は自然からズレているという事です。
人間は自然をありのまま知覚するのではなく、
言語で切り取って観念として把握する訳ですから。
人間は言語で自然を切り刻んでしまうのです。人間が把握している自然は
すでに言語によって切り刻まれた自然でしかありません。
動物にも危険を察知するという事はあります。でも、それはたぶん本能的
に持っている能力で、自分の環境を言語で切り取って理解するのではなく、
その環境のありのままを本能で感じて危険を察知するのでしょう。
危険を察知した時の行動も、
思考(これも言語で行う)した結果こういう行動を選ぶというのではなく、
瞬時にこれも本能的なメカニズムで(だからいわば無意識的に)
行動をするのでしょう。
多分人間は、意識を持たないと生きていけません。
生まれたての人間は、何を食べればいいのかどうすれば生き長らえるのかなど、
生存するための術を持っていません。動物ならば本能がそれを指示してくれるのでしょうが
(例えば、カンガルーの赤ちゃんは生まれたらすぐ母親の袋を目指して
母親の体を昇り始めます。)
しかし、人間は運動能力などが未発達で生まれてくる為に生まれたてでは何もできません。
母親(またはその代理)の保護と世話がなければ生きていけません。
人間の赤ちゃんは動けるようになっても、まとまった行動はできません。
母親に生かされている状態が続きます。
意識を持つようになって、ある程度まとまった思考ができるようになって、
自分の外の環境についてもある程度理解ができるようになって、
はじめて意味のあるまとまった行動ができるようになります。
ですから、親に生かされている状態を別にすれば、
生きているという事は意識を持って判断して行動しているという事です。
人間は言語で考えながら生きています。
人間の精神全体のうち、どう行動するべきかを意識的に考えている部分が
自我と呼ばれている部分でしょう。
人間は自我を持ち、その自我が常に考え意識しながら生きているのです。
動物には本能があるでしょう。
例えば、馬の赤ちゃんは生まれてしばらくすると自分の足で立って
母親のお乳の所まで自力で移動します。これは本能に指示された行動でしょう。
しかし、人間の赤ちゃんはまったく運動能力の無い状態で生まれますから
たとえ本能から指示があっても体を動かす事が出来ません。首もすわっていません。
人間の赤ちゃんは本能からの指示に従えない状態のままで
長く母親の世話を受ける事になります。
母親が世話をするという事は赤ちゃんを自然の状態から隔離する事です。
この状態が長く続くため、人間の本能は壊れてしまいます。
本能が壊れるという事は何をどうすればいいのかと言う行動のルールを失うという事です。
その結果、人間の行動は目的とか意味とか言うものをなくしてしまいました。
意味や目的をなくしても人間は行動しなければなりません。生きていかなければなりません。
そのため人間は自分達の行動に独自の目的や意味付けをしなければなりませんでした。
人間のすべての行動は、人間が後から作り上げた意味と目的を持っていると言えるでしょう。
人間の行動は本能的な意味をなくし、代わりに人工的な意味を持つものとなりました。
人間が言葉を持ったから人間の行動規範が失われたのでありません。
人間の本能が壊れて行動規範を失った結果として言葉が生まれたのです。
本能が壊れた結果、人間は1人1人が思い思いの勝手な行動をとるようになります。
行動規範がない以上、自分の行動は自分で勝手に決めるしかない訳です。
しかし、そうなると困った事になります。
人間1人1人が思い思いの事を考え、思い思いの行動をとるとするならば、
人間同士が同じ土俵に立ってコミュニケーションする事が出来なくなってしまいます。
1人1人が各自の妄想に従って生きていては人間同士の対話が出来ません。
人間の本能が壊れるという事は人間と言う種全体に共通の基盤を失うという事です。
共通の基盤がなくなれば、対話のしようがありません。
人間は孤立してしまいます。孤立すれば種を保存する事も出来ません。
この状況を打開するために人間は「文化」という共通の基盤を発明しました。
共同幻想としての「文化」です。
同じ「文化」を共有する事で同じ常識を持つことが出来、同じ常識を持つ者同士として
コミュニケーションが成り立ちます。
そして、そのコミュニケーションに使われるべく発明されたのが、
やはり、共通の基盤を提供する共同幻想としての「言語」なのでしょう。
人間が他の動物と同じように本能の指示に従えるような身体能力を持ってから
生まれるのならば、人間も本能が壊れる事はなかったでしょう。
充分に成熟して生まれたならば、親の世話なしに本能の指示どおり行動して
外界に適応できたでしょう。
その場合は、人間には文化も言語も生まれなかったでしょう。
人間は未熟なまま生まれてくる為に、本能の指示に従う行動がとれないんですね。
511 :
没個性化されたレス↓:04/03/20 18:49
人間だって本能の「指示」の部分は壊れていないのでしょう。
ただ、指示どおりに行動できない。そういう身体能力が備わっていない。
そして、指示どおりに行動できない状態でずっと育てられるから
本能がうまく機能しなくなったのだと言う事でしょう。
つまり、生まれた時から指示と行動が食い違うのが動物としての人間の特徴だという事です。
「指示」の部分はあるんだけど、行動はその指示からズレている・・・そういうズレが、
人間の行動の基底にあるのです。
例えば、「個体保存の本能」は「個体の生命」の維持を「指示」するのだが、
人間の行動は「自我を守る」「自尊心を守る」などの方向へズレて行ってしまっている。
「種の保存」に関しても「種を絶やさないための交尾」を「指示」するのだが、
人間の行動は「快楽としてのセックス」とか「倒錯的な性交」とかの方向にズレてしまっている。
といった具合に、人間の行動は本能の指示からズレてしまっているのです。
人間には感情があります。
人間の感情は人間が自我を持っている事と関係しているでしょう。
人間は自我の状態によっていろいろな感情を抱くのだと予想されます。
例えば「嫉妬」。これは自我を持っている人間に特有の感情だと思います。
嫉妬とは、大雑把に言えば、
本来自分が所有すべきものを自分が所有していなくて他者が所有している時に
自分が他者に対して抱く尊敬を含んだ憎しみの感情をいいます。
自我の自尊心が傷ついている状態です。
他人の自我の方が安定して見えているのでしょう。
嫉妬は、私の方が相手より劣っていることの証です。
私が劣者であり、相手が優者であり、その優れた部分が本来は私のものだったという
思いがあるから嫉妬の感情を抱くのでしょう。
だから、嫉妬の裏には必ず尊敬の感情が伴っています。
本能を見失って外界との直接的なつながりを無くした人間が
外界とのつながりを取り戻すために自我を築いたのです。
外界を「文化」や「社会」という共同幻想に仕立て上げ、
社会や文化に適応する主体としての「自我」を自分の中に作り上げたのです。
たぶん、人間が自分の外に想定した「社会」と自分の中に築いた「自我」とは
同じ構造のものでしょう。
自我は人間の行動規範であり、自我は世界観を持って、その世界観に従って行動します。
人間は行動規範を持たないと意味や目的のある行動をとることができません。
行動に意味や目的を与えてくれるものが世界観であり、自我なのです。
本能の備わった動物にはそのような行動規範としての自我は必要ありません。
人間は自我を持っているため、特定の状況に対する人間の感情は人それぞれです。
そして、その感情は自我に関わる感情です。
自我の状態が変化した時に、その反応として感じられるのが人間の感情だと考えられます。
人間の「感情」は、自我を持った人間が自我を持った故に生まれたものとしての「感情」です。
喜怒哀楽は自我を持った人間の感情です。
笑いという感情について。
私たちは現実と付き合うために常に緊張をしています。
周りとうまくやっていくためには、その場の雰囲気に合わせて気を使って
緊張していないといけません。
自我が状況を判断しその場に適応しようと意識的に努力しています。
そういう時に、その緊張を解放できる瞬間が突然やって来たとします。
例えば、皆が真剣な話をしているときに、誰かが目の前ですべって転ぶなどのように。
真面目に議論している場が崩れます。緊張を強いられていた現実の場面が一瞬崩れ、
その場面に適応するために必要だった緊張が一瞬要らなくなります。
自我の努力が不要になります。緊張からの解放です。それが笑いです。
フロイドは人格を超自我・自我・エスの三層構造だと捉えました。
フロイドによると、
超自我は、文化や伝統などの社会規範が内在化されたもので、良心、自己観察、
理想機能という働きがあるとされています。
自我は、理性と分別を持っており、現実的な処理をする部分で、
エスの欲求を満足させる役割も担っているとされています。
エスは、本能的な生命エネルギーの貯蔵庫で、快感原則に従い
欲求の満足を追及するとされています。
超自我・自我は大部分が無意識で一部が意識的です。エスはすべて無意識です。
岸田秀によると、人間の精神は幻想の貯蔵庫です。
岸田秀は、超自我も自我もどちらも共同幻想だという事で、フロイドの「超自我」と「自我」を
ひとまとめにして「自我」と呼んでいます。
人間の全人格は自我とエスの二層構造をなしており、それらには
各々さまざまな幻想が詰まっています。
自我は社会の他の構成員のみんなとおおむね共通した幻想が詰まっています。
自我は共同幻想です。
エスは社会の他の構成員とはあまり共通しない独自の妄想的な幻想が詰まっています。
私的幻想と呼ばれています。