ここには、道徳心がわかるスゲェーーーひとがあつまってください 普段生活していて、「道徳心から言って、あれはへんだ。」 というカキコをしてください。
道徳の本はルールブックです。人を殺せない人の
∧_∧ ( ´∀`)< ぬるぽ
で、道徳心って何よ?
>>道徳マスター 道徳心を定義してください。
友情は美しい ウンコたべろや
7 :
没個性化されたレス↓ :03/01/27 20:54
シュッチョウダ
( ・∀・) | | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >__Λ∩
_/し' //. V`Д´)/
(_フ彡 / ←
>>3
>>4 と
>>5 道徳とは、人として、守らなければいけない正しいおこないをさします
近頃の、厨房たちは、道徳心がなってないとかよく聞きますが・・・・・・
10 :
没個性化されたレス↓ :03/01/28 18:37
>>9 ふ〜ん。
で、人として守らなければいけない正しい行いってのは何?
そういう抽象的な定義はわかっていて、
その上で4、5は問うているのだと思うのですが。
11 :
道徳マスター :03/01/28 18:53
>>10 正しい行いは簡単なことです。
例をあげると、身体障害者の人が段差などに悪戦苦闘しているときに、
助けてあげるのが、いい例です
>10 それはただの自己満足じゃないの?
身体障害者側からみれば うれしい わけだから 「自己満足」って言葉は少し違うんじゃない
訂正 うれしい ではなくて 少なくとも、 助かる
利他行為のことを「正しい」行為とよんでいるのですね。 というわけで、利他行為を列挙するスレといいかえても いいのかな?
中国思想とかなんじゃん 孔子とか 子曰く 過ちて改めざる、これを過ちという。 という方向でいいんじゃない?あまりおもしろくないと思うけど
17 :
没個性化されたレス↓ :03/01/28 19:59
過ちってなあに?
まず、道徳はひとつの共同幻想です。
交通道徳とか公衆道徳とかいろいろと使われたりするけど、 そして共同幻想かも知れんけど、 中身は何なの?どう言うのが道徳なの? はっきりこれが道徳だって言えるものってあるのかなあ。
私は、道端に唾を吐く人は嫌い。 道端に唾を吐く人は道徳心が無いと思う。
ゴミのポイ捨ては道徳に反する。 コンビニの前がゴミだらけなのを見ると気持ちが暗くなる。 すぐそこにゴミ箱があるのに・・・。
自由記述を集めてみるのも良いかもしれませんの。 ここよりは、他でやるほうが効果的だとは思いまするが。
ある行為をする他人を嫌悪すると言うことは、 その人と同じ衝動を自分の中に持っているという事です。 他人がその行為をして許されるならば、 自分が同じ衝動を持っていながら我慢している理由がなくなります。 だから、「それは道徳的に許される事ではない。」と言って 道徳を持ち出してきて、その人を非難するんです。 非難している人に道徳心があるからではないでしょう。 道徳はそのために必要なものかと・・・。
そのためって人を非難するため?
>23 そうなってくるとただの権力による抑制になってしまうと思う。
26 :
没個性化されたレス↓ :03/01/28 22:48
>>20 &21
今の世の中では道徳のない人が好き勝手にやって
別に自分が道徳はあるとは思わないけど最低限のマナーを
守ってる自分が損をしてる気持ちににもさせられるナー。
やだナー。
<<17 さっきの(16)は 過ちを犯しても改めない、これを本当の過ちというのだ という意味です
俺の解釈では、 堕胎に手を貸す産婦人科医は罪人であるからこれを殺害する という行動は人間の「道徳性」の発露であるとみなされるわけだが。
29 :
没個性化されたレス↓ :03/01/31 01:29
アダムスミスとかヒュームの議論が参考になるんじゃなかろうか。
http://www4.synapse.ne.jp/~legend/philosophy.html ヒュームについてはここが割とまとまってる気がする。(あんまり読んでないけど)
おれの知ってる知識でヒュームの道徳感情論を乱暴に要約する。
いいことすると「周囲の人の心に」快が生じ、悪いことをすると不快が生じる。
行為者はその周りの反応を関知して、共感の能力によって、
よいことをすれば「自分自身の心にも」快が生じるようになる。
これによって次第に道徳感情が形成されてくる。
(誤解があったら指摘してくれ)
30 :
没個性化されたレス↓ :03/01/31 01:33
ん・・
なかなか面白い。 道徳は理性ではなく感性に由来する、 人間は利己的でありながらも社会的存在となりうる、か。
人間は利己的でありながら、他の多くの哺乳類と同様に「群れ」で 生きる動物です。 ですから、自分の群れの中で「道徳」=利他的なマナーが発生してもおかしくない。 一方、自分の群れ以外の人間と日常的に共存する空間=都会では、 マナーがなくなってしまうと考えられます。特に社会性がなくなってしまった 中年主婦、老人のマナーの欠如が現代でひどく、 若年層ほど、マナーがあるという現象が起きています。
J.R.Restの「道徳の構成要 1.自分の行為としていくつかの取るべき可能性を考え、それぞれの行為が、 他の人の幸福にどのような影響を及ぼすかという視点から状況を理解すること 2.特定の状況で何をすべきか、すなわち、道徳的理想を実現するためには 一連の行動としてどのようなことを選ぶのがよいかを考える。 3.いくつかの案としてのこっている中からどれを選択するかの意志決定 4.何をなすべきかがわかったところで、実際に行為に移す問題。 よいことを思い付くことと、それを実行に移すこととは違うから 「実行」の問題は道徳の構成要素である、という考え方。
>24 道徳は、自分がある衝動を我慢していることが良い事なんだと 自分に納得させる為に必要だと言う意味です。 そう言う道徳が世の中に客観的に存在するんだと思いたいんですね。 その道徳が客観的に存在するからこそ 自分は自分の衝動を我慢するんだと思いたいんです。 外からの禁止で自分は我慢しているのだと思いたいんです。 そして、それを我慢していることで社会の秩序が守れているのだと信じたいんですね。 だから腹が立つんですね。 社会の秩序を守るために自分が断念している衝動を 他人が表現して満足させていることが腹立たしいんですね。 そんな事をされては当人の世界観が崩れますから。 社会の秩序が崩れてしまいますから。 (と当人が思い込んでいるんだけなのですが・・・。)
>>25 自分の衝動を断念するのは本来は自己抑圧だと考えられます。
自分で断念するんですね。
ただ、自分自身で自分の衝動を断念するのは辛すぎるので
外にある権力とか道徳とかをその説明に持ってくるんだと思われます。
実際には自分でその衝動を断念するのに
「自分が我慢するのはこういう道徳があるからなんだ。」
「外から禁止されているから仕方がないんだ。」
と言うように道徳を持ち出してきて自分に納得させるんですね。
道徳が自分の衝動を断念させているんだと言う納得ですね。
自己抑圧を支える為に道徳が必要だという事になります。
だから自分だけでなく他の人もその道徳を守っているという事実が必要なんですね。
で、なんで断念するのかな?
自分を良い人間だと思いたいからかな。 自分が抱いたいやらしい衝動を断念したとすると、 いやらしい衝動を断念した自分は良い人間だと思えるんですね。
38 :
没個性化されたレス↓ :03/02/02 03:07
>>35 自己立法(自律)についてはどう説明されるの?
例えばサッカー選手はルールという縛りの内においてこそ最も自由であるように、
自ら意志し定めた規律に自ら従うこと(自律)こそが最も自由なのであり、
これが普遍的な視点においても同時に妥当であることを最善であるとする道徳学説がある。
それによれば、道徳は本来人間を自由にする事はあれど抑圧するものではないと考えられる。
日本人ってホント嫌だ。 陰険で、悲観的で、優れた人には影で唆すような精神攻撃 道徳的かよ
それでも日本人として生きていかなければならない.... そして,きみたちはどうする?
41 :
没個性化されたレス↓ :03/02/02 03:42
>>39 それって、どこの国でも人間である限りあるよ。
ただ、日本は江戸時代のチクリ制度が尾を引いてるな。
四人組だっけ?五人組だっけ、忘れたけど(w
42 :
没個性化されたレス↓ :03/02/02 07:30
そのような精神攻撃などものともしない道徳心と実力を持てばすむこと。
>>38 道徳は自己抑圧を支えるものだと考えられますから、
その意味では人は皆、自律的であると言えます。
自ら定めた(と意識はしていませんが)規律に自ら従っている訳ですから。
ルールの中では誰もが自由ですが、
ルールが無いと誰もどう行動して良いか分かりません。
そう言う意味でこの抑圧は人間にとって必要です。
>自ら意志し定めた規律に自ら従うこと(自律)こそが最も自由なのであり、
>これが普遍的な視点においても同時に妥当であること
「個人が定めた規律が普遍的にも妥当」などと言うことは起こり得ないと思います。
それよりも何よりも「普遍的な視点」自体がフィクションです。存在しない。
>ルールが無いと誰もどう行動して良いか分かりません。 というのも嘘だがな。
人間には行動規範が必要です。 この行動規範は生まれつき身に備わっているものではありません。 外部からもらうものです。 人間は外部にある規範を内面化することによって行動規範を身に付け それによってある程度一貫した行動ができるようになります。 そう言う意味で、「ルールが無いとどう行動して良いか分かりません。」 と書きました。嘘ではありません。
46 :
没個性化されたレス↓ :03/02/02 23:06
>>人間には行動規範が必要です。 そんな、あんた、すべての動物には行動規範があるよ。
47 :
没個性化されたレス↓ :03/02/02 23:31
>>43 >そう言う意味でこの抑圧は人間にとって必要です。
なるほど、「抑圧」は日常的な用法ではないわけですね。ためになります。
以下細かいですが、
>自ら定めた(と意識はしていませんが)
多くの倫理学者は意識することが重要と古来から言いつづけています。
もちろん無意識的なものを否定するのではありませんが(否定する人もいます)。
>「普遍的な視点」自体がフィクションです。存在しない。
事実として存在するかどうか、ということは道徳において重要でないと思います。
(形而上学的な問題になりますのでその存在についての問題は避けますが)
普遍的視点は仮定されているだけで実践においては十分です。
「個人が定めた規律が普遍的にも妥当」であるように「意志する」ということ、
これこそが道徳においては重要なことかと。
道徳への服従が必ずしも
>>35 で語られているような消極的な意味においてだけではない、と思います。
>人間には行動規範が必要です。 >この行動規範は生まれつき身に備わっているものではありません。 >外部からもらうものです。 っていうのもうそ。規範はなくとも行動はできる。 規範に従った行動はできないがな。
49 :
没個性化されたレス↓ :03/02/02 23:57
>>46 、
>>48 人間には道徳的に行為するための規範が必要という意味ではないの?
道徳的な行為とは、よい行為・正しい行為であって、
動物がやるような単なる行為とは違うものだと思う。
人間は動物的な行動もできるけれども、同時に自発的に道徳的な行為をすることができる。
その行為の正しさの基準は、
単に遺伝的に備わった仕方で活動するのとは根本的に違うものであって、
外在的な規範によって培われる、という意味だと思った。
>道徳的な行為とは、よい行為・正しい行為 トートロジー。それ以外に定義できるかい?
51 :
没個性化されたレス↓ :03/02/03 00:49
>>50 トートロジーだとして何か問題がある?
よさ・正しさの定義次第でいくらでも有意義な命題にできるだろ。
>トートロジーだとして何か問題がある? 「単なる行為」と「正しい行為」の識別基準とならない。 >よさ・正しさの定義次第でいくらでも有意義な命題にできるだろ。 では、正しさを定義してみたまえ。
53 :
没個性化されたレス↓ :03/02/03 01:25
>>52 >正しさを定義してみたまえ
んじゃ伝統的な定義をいくつか。
・社会の利益に適った行為がよい/正しい行為である。
・個人の利益に適った行為がよい/正しい行為である。
・直観的に把握されるいくつかの道徳規則に合致する行為がよい/正しい行為である。
・仮定的に想像される「知慮のある人(乱暴な言い方だと神のごとくによい人)」が行うだろう行為はよい/正しい行為である。
・社会の一般的幸福を最大化するような行為がよい/正しい行為である。
・神の意志を実現する行為がよい/正しい行為である。
これで全部ではないけど、書き尽くせない。
>>53 そこに挙げた基準から導かれる「正しさ」が相互矛盾する場合は?
>>53 で、どの定義にそって話を進めるつもりだい?
だーかーらー 道徳は具体的な行動のリストではないんだってばよ
>>49 そうそう。だいたいそんな感じ。
>>37 に付け加えると、
自分の事を良い人間だと思えると自分の精神が安定するんですね。
自我が安定するんですね。
自分の自我を安定させる為にある種の衝動をが断念する。
自分の自我を安定させる為に道徳が必要なんですね。
だから道徳は個人が必要にしているもので、いわば個人的なものなんですね。 自分の事として考えればわかると思うんですが、 「何々をすべきである。」「何々をしてはいけない。」といった道徳が 社会の共通認識としてあって、自分もそれを正しいと思っていて、 皆もその道徳をきちんと守ってくれる・・・そう言う状況を個人は望んでいるんですね。 自分の正しいと信じる道徳が行き渡っていて世界の秩序が保たれている状態が 自分の自我がもっとも安定する状態です。 道徳が世界の秩序を支え、世界の秩序がすなわち自我の安定である訳です。 しかしながら、各個人が信じる道徳はいろんなところで食い違うんですね。 正反対である場合も少なくない。 道徳は共通認識であってもらわないと困るんですが、言い方を変えれば、 道徳は普遍的であってもらわないと(自我の安定にとって)困るんですが、 実際にはごく個人的な思い込み=幻想なんですね。 普遍的であるべき道徳が個人的なものであるという所が 道徳の抱えるジレンマだと言うことです。
行動規範をできるだけ広い意味にとれば、生活習慣など文化全般をも含めれば 「人間は規範がなければ行動できない」というのは嘘でもなんでもないと思います。 人が朝に朝食を食べるのは、 そうするもんだと言う社会のルール(生活習慣)があると思い込んでいるからです。
60 :
没個性化されたレス↓ :03/02/08 14:53
行動規範の文化的相対性 英国人 「禁止されていなければやって良い」 独国人 「許可されていなければやってはいけない」 仏国人 「禁止されていてもやって良い」 ソ連人 「許可されていてもやってはいけない」
行動規範は集団によって違いますよね。行動規範は文化によって違いますよね。
63 :
没個性化されたレス↓ :03/02/08 18:16
道徳とは、いろいろな対人関係の中で自分が行動するとき その行動の正当性を保証してくれる行動規範であって、 当人は自分の外にその根拠があると思い込んでいるが、 実際には自分の心の中にあって、自我の一貫性を維持する 力を持っているもの・・・って感じかな。違うか。
64 :
没個性化されたレス↓ :03/02/11 17:56
>>1 皆が並んでいる列への横入り。これは不道徳でしょ。
ギリガンのコールバーグ批判はその後どうなったのでしょうか。
あまり知られてないが、 教育基本法は本来、教育勅語の存在を前提とし、 教育勅語とワン・ セットの形で作られたものであった。 教育基本法には道徳教育の理念が欠如しているが、 それは教育基本法の起草者が教育勅語を肯定し、 道徳教育の理念として教育勅語をあてにし 教育基本法と教育勅語との役割分担を考えたからである。 私たちは國の宝である子供たちのために、 教育基本法を改正するか、教育勅語を復活せねばなるまい!
トリップかこいい
ほんとだ
子の曰わく、これを道びくに政を以てし、これを斉うるに刑を 以てすれば、民免れて恥ずることなし。これを道びくに徳を以てし、 これを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格し。 『論語』 爲政篇
70 :
没個性化されたレス↓ :03/02/13 22:53
>>66 ホントのこと?ソースかなんかある?
戦後民主主義教育に道徳が無いのは確かだな。
憲法にも教育基本法にも道徳的なことは書いてないしね。
実際には現在の日本人は
かつて存在した「世間の目」が否定されてバラバラに壊れたその断片を
適当に組み合わせて規範にしているって感じだもんね。
「壊れた世間の目」が現在の道徳って感じだもんね。
そして、その隙間を埋めるように侵食しているのがコヴァ的ナショナリズムなわけだが
72 :
没個性化されたレス↓ :03/02/13 23:24
73 :
没個性化されたレス↓ :03/02/13 23:45
箸の握り方は道徳に入るのかなあ。
74 :
没個性化されたレス↓ :03/02/14 00:51
コヴァ的ナショナリズム?小林よしのりの事? 道徳の不在というか混乱というか・・・ 現在の日本の抱える大きな問題だと思います。 確かに右翼的な方向に行っても解決するとは思えません。 ただ、難しい問題ですよね。 「世間の目」を復活させるのは難しそうだし・・・。 私は「世間の目」はなかなかよく出来た 日本人向けのいい道徳だったと思っていますが、 いったん壊れてしまえば元には戻りませんし、 民主主義との相性が悪いですし・・・。 このまま個人主義を目指しても道徳の不在はそのままだし・・・。 何とかできないもんでしょうかねえ。
>>66 お、まともなことを言う人が現れたね。
>>71 相変わらず硬直した思考だな>ロバ
1ビットの中の人も大変だな。
別に?
ロバじゃないロボだ。字もまともに書けんか。アンポン
81 :
没個性化されたレス↓ :03/02/14 14:10
ところで 79>> あんたは誰?
>アホビット しょうもない感想文だけでなく、おまえの意見を書けや。 他人の意見にケチつけるか、引用しかできないのか?
83 :
没個性化されたレス↓ :03/02/14 20:37
道徳心と言うか、人と会話する事が大切かも。 会話が出来ないと、コミニケーションできないし、 人として存在感が・・・と言うか、 あいつ頭おかしいんとちゃう?と思われる事必死。 無理やり会話しても浮いてちゃ意味ないし難しいところ。
85 :
没個性化されたレス↓ :03/02/15 04:53
1ビットにムキになってるやつってなんでこんなに必死?
86 :
没個性化されたレス↓ :03/02/15 06:35
最近の風潮として、道徳より法律を利用してこっちに有利に働くようにする傾向が重視されてると思う。 例えば交通事故の場合だと、交差点や曲がり角で車同士が衝突した場合は どちらに責任があるか判断しにくい。 だから、先に謝るとこちらが不利であることを認める事になるから、保険の割合でも 不利になってしまう。だから、上記のような事故があっても「謝ってはいけない」という ことが常識化してしまう。 俺も以前、曲がり角で車同士の衝突事故を起こした時、相手の運転手に真っ先に謝った。 相手は俺より年上で2年留年してる男性だったけど、俺が謝った時はキョトンとして 「え、あ、ああ・・・」とだけ言った。まあ、謝らなかったら怒鳴られたんじゃないかな? しかし、俺の親戚(団塊の世代)が謝った事を知ると、 「お前は何してるんだ!自分が損するだけなんだぞ!相手の保険屋から電話が掛かってきた時は 自分に有利になることを話せ!」って怒られた。 だから、俺はその通りにしたけど心底気分が悪かった。 結局、8:2でこっちが不利な結果になった。 しかし、謝った事に関しては悪い気はしなかった。 どっちみち、相手の所有物を壊したのは事実なんだから謝ると言うのが当然の行為ではないかと思う。 それを否定して、自分に有利に動かす為に謝りもせず権利ばかり主張してるのはナンセンスだ。 結局、これも戦後民主主義教育の個人主義思想の蔓延が原因か?
87 :
没個性化されたレス↓ :03/02/15 06:49
そういうのはどのみち8:2でしょ。謝って正解じゃない。アメリカ じゃないんだし。 米軍と中国軍の飛行機が接触事故をおこしたときの、江(だっけ?) のコメント。「事故をおこしたときは謝るものだ」
88 :
没個性化されたレス↓ :03/02/15 16:04
我々日本人は、 人と付き合う時、互いに相手の心の安定に対して非常に配慮し合うんですね。 相手に失礼があってはいけないというのが人付き合いの大前提なんですね。 だから、よく「すいません。」と言うし敬語が発達しているんですね。 以前は、立って挨拶する時は腰を90°に曲げるし 座って挨拶する時は額を畳に擦り付けるほど腰をおっていました。 これも相手に対する服従・忠誠を示しています。 こういう挨拶や敬語は、あなたに配慮をしているという事を表現しているんですね。 だから、何かあったとき、相手が不快を感じたのではないかと思える時、 まず、自分から謝るんですね。互いに謝り合うんですね。 それが相手に対する配慮です。 日本では、相手に対する配慮が大切だという観念があったから 「何かあったらまず謝る」が道徳になっているんです。 (日本が西欧化してからはそういう道徳がだんだん力を失ってきているようです。 西欧のように自己を主張するのがいいんだと言う事になってきているようです。)
89 :
世直し一揆(コピペ推奨) :03/02/15 20:43
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され るな!!) ●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い) ●他人に異常に干渉し、しかも好戦的・ファイト満々(キモイ、自己中心) ●妙にプライドが高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に はたいてい、内面的・実質的に負けている) ●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!) ●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本 の常識は世界の非常識) ●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる) ●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす) ●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗) ●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ) ●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量) ●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険) ●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい) ●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、 世間体命) ●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度 も言ってキモイ) ●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い) ●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う) ●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬 する(不合理な馬鹿) ●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ) ●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷) ●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男 前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
>>66 同じような事を書いている人がいました。
参考になる資料を知っている人がいたら教えて下さいませんでしょうか。
91 :
没個性化されたレス↓ :03/02/22 17:55
>>1 >>89 は何がしたいんだろ。
どこでも見るけど。目障りなんだけど。
道徳観から言って、この人のコピペは変ですよね。
92 :
没個性化されたレス↓ :03/02/22 18:08
不良になった友達に優しく声をかけてやろう 殴られてマット巻きにされるかもしれないけど
93 :
没個性化されたレス↓ :03/02/22 18:09
>>91 1じゃないけど
A型じゃない人間のがもっと粘着ってことだろう
94 :
没個性化されたレス↓ :03/02/22 18:24
下手に謙虚になるより西洋式?の対等な付き合いこそ礼儀。みたいな風潮が好きです。形式社交辞令は過剰になりすぎると道徳の為の道徳みたいで、どちらかといえば苦手です
95 :
没個性化されたレス↓ :03/02/22 18:33
自分は あまり信頼してない人には逆に敬語を使うタイプです。 純粋な思いやりからなる道徳か 自分をいい人に見せる為の手段としての道徳かを使いわけています。
96 :
没個性化されたレス↓ :03/02/22 18:56
>>94 西洋式の対等な関係・・・契約を大事にする関係
人と意見が食い違った時に気が済むまで互いに自己主張をし合い
さらに言い合った後も気まずくならないような関係。
隣人を相手に訴訟を起こすことができ、
さらに判決が出るとまた仲のいい隣人として付き合う事ができる関係。
相手に気を使って謙虚にするのではなく
相手に気を使わず自己を思うままに主張しあう関係。
そんな事、日本人に出来ますか。
私には無理。
相手と意見が食い違ったらそれだけで不安になるし・・・。
友達と主張しあうなんて出来ないし、主張し合えばそれは喧嘩だし・・・。
日本人にとっては難しいでしょう。
最近思う、とにかく他の人の意見は尊重するべきだと思う。 自分の意見が通らないだけでふてくされる大人もいるし、 他人の意見にはいちゃもんつけるくせに、肝心な時にはまるで役立たず。 なにが言いたいかと言うと、大人も子供も関係は無い。 自分の意見もまともに述べれないやつが多い。ただこれだけを言いたかった。 国際社会どころか、同じ日本人だと言うのに心を通わせれないのはなぜだろう。 幼い頃に親や周りの人の愛が少しでもあれば、もう少しはマシになるのではないだろうか? こうなってしまったきっかけを直球で突いてやれば、心を動かせるかもしれない。 もっと、、、もっと考えよう。 【人間は一本の葦に過ぎない。自然の中で最も弱い存在だ。しかし、人間は考え る葦である。】ブレーズ・パスカル 微妙に板違いだと思いつつ、カキコ。
99 :
没個性化されたレス↓ :03/02/22 22:40
電車に乗る時にどのような事を心掛けるのがいいのか・・・ 電車の中では騒がない、はしゃがない、うるさくしない。 カップルは電車の中では(人前では)イチャイチャしない。 靴を履いたままの子供を席に立たせない。 これらはもう古いかもしれませんが・・・。 他にはどんなのがあるんでしょうかね。 それと、電車が出来たのは比較的新しいですよね。 だから、電車の中での道徳も新しいんでしょうね。 電車の中での道徳っていつ頃、どうやって出来たんでしょうか。
100 :
没個性化されたレス :03/02/23 00:16
100?!
101 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 02:09
道徳を心理学的に分析できないものかね
>>101 てめぇは心理学板で言っちゃなんねぇことを言ったな。
氏ね。
103 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 06:27
>>99 俺も電車が嫌い。
でも、電車の中での他人の振る舞いを見ていると
いかに日本人はモラルがないか、他人を気にかけていないかが
わかる。
104 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 07:15
>>96 はははははー!
夢見てるよ、この人。一度、でいいから行ってみると良い。
おれも便器は西洋式のがいいとは思うけど。
105 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 07:45
106 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 10:51
>>相手と意見が食い違ったらそれだけで不安になるし・・・。 友達と主張しあうなんて出来ないし、主張し合えばそれは喧嘩だし・・・。 雨人も人間だから、主張のぶつかり合いの結果、ケンカにはなる。 ただ、それまでのプロセスが長い。 日本人は主張しあう文化がないから、どちらかが折れなければ すぐケンカになる可能性は高いってどっかに書いてあった。 一度、壊れた人間関係も日本人の場合はほぼ修復不可能みたいだしね。
107 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 11:05
そーんなことはない。人間関係を壊してしまうのはガキか大人かの違い。 アメリカでの争いは果て知らずで醜いよ。すぐ裁判起こすのも当事者 解決能力の欠如。契約書が必要なのは、そんなものでもなければ約 束反故でも何でもするからだよ。社会の規範意識も低いから、法律も 徹底的に明文化しなければいけない。 日本人が争いを好まないのはむしろ美徳。ただ必要なことまで主張でき ない風潮はどうかと思う。日本だってこんなに個人が公の場で自己を主 張できなくなったのは最近のことでしょ。(逆に私的な場では自己の欲 望を主張しまくりだろ?)
108 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 11:24
キチガイ相手に解決能力の欠如もないだろ?(w
109 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 11:39
110 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 14:13
日本は 腹を割って喧嘩しないから陰湿な方向に向かいがち。それから電車のマナーの悪さはアメリカの方が悪いという見方あり。アメリカの合理主義に日本の義理人情主義を組み合わせたのがベター
111 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 14:27
日本の道徳を水で薄める為にはアメリカの価値観を少し取り入れないと。電車のモラルは直接的迷惑(中年男性の割り込みや痴漢 満員電車でビジネスマンの新聞の広げ読み)はいけないけど化粧云々は間接的迷惑だから受け取り方次第。やむおえない
112 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 14:32
欧米と日本は自己の支え方が根本的に違います。 人間関係の作り方も根本的に違います。 その違いを理解しないといけないと思います。 欧米人にはバックに神がいます。 神が自分の正しさを支えてくれています。 だから安心して自己主張ができるし、他人の目も気にしないんです。 神が支えてくれているから自分の正しさをどこまでも主張できて 主張しあって折り合いがつけば同じ神を信じているもの同士として また仲良くできるんです。 どちらも神を背負っているので自分から折れたりはしないんです。 だから主張がぶつかった場合は裁判で決着する以外にはないんです。
日本人の場合はバックに神はいません。 自分の正しさを支えてくれる神はいません。 日本では顔を見知った人々が互いに互いの正しさを支えあって生きています。 神がいなくて互いに支えあっているから人間関係が難しくなります。 日本人は自分の周囲の人達から認められる事で 自分の正しさを支えてもらっています。 だから日本人は周りの人たちの目を非常に気にします。 周りが自分を支えてくれているので周りの人とぶつかったり出来ないんです。 必要な事を主張するのもなかなか難しいんじゃないかな。 互いに支えあっているので互いに相手の事を大切にしなければならないから 日本には敬語が発達したんだと思います。欧米人には必要なさそうだもんね。 また日本ではイヤミや陰口が発達したのも 自分を支えてくれる人々に面と向かっては言いにくいから (そしてそれでも愚痴は言いたいから)です。 欧米と日本の文化の根っこが根本的に違うので両者を混ぜて中間の文化を ということは不可能です。 価値観や道徳の違いも、以上のような自己の支え方の違いから出てきたものですから これも両者の中間とか両者の折衷案とかも不可能だと思います。 根本的に違うんですから。
115 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 18:05
ウィルスを送りつけるSEは死刑だな。
116 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 18:08
そんなSEいるのか!?それは信じられん事をするなあ。
117 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 18:57
根本が違うから絶対 折衷ができないは多面的な考え方ではないのでは?大雑把な二元論で相対して折衷ができないと決め付けるのはどうかと
118 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 19:04
それから 自分はクリスチャンですが文句ありますか?神と私 しかし隣人愛は戒律的な道徳より強いをモットーにしています。帰国子女ですが。日本から出てけとでも…
119 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 19:11
キリスト教文化の欠点だけクローズアップして(契約説)長所の部分(愛の尊さ)を無視して西洋思想断固不可ですか?
120 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 19:27
自我が神に支えられるか、周囲の人々の是認に支えられるかは二者択一です。 日本人である私達から見れば欧米人の神に対する信仰は馬鹿馬鹿しいとしか思えません。 何故あんなものを信仰しているのか、何故神が恐いのかまったく理解できません。 だから、日本人が神を信仰する事は不可能でしょう。 欧米人から日本人を見れば周りの人の目を気にする事、世間の目を気にする事は 馬鹿馬鹿しいとしか思えないでしょう。何故人の目を気にするのか理解できないでしょう。 だから、欧米人は周囲に人々の是認を自我の支えにする事は不可能でしょう。 以上、中間や折衷案も不可能であることは想像できるでしょう。
西洋人は、隣りのおじさんの機嫌や彼女の気持ちなんざも一切考えずに 神様のご機嫌ばかりうかがって戒律守ったり論争ばかりしてるのか? 生活感覚欠如した人達やなー。まるで学者か坊主みたいな奴らだ。 反面、日本人には法律も哲学も精神分析も意味なさないな。
欧米文化と日本文化は基底が根本的に違うという事を言いたかったんです。 文化の違いに関する原理を書いたものとご理解ください。 欧米人だって周りの人に対する気遣いは当然あるとは思いますが、 自我の支えが欧米と日本では違うので対人関係における態度の違いがあるという事です。 (欧米人にとっての神の意味も昔と今とでは大部変わっているかもしれませんが 原理としては上で書いたようなことが言えるのではないかと思っています。)
キリスト教の結婚では、結婚相手に愛を誓うのではなく、神に対して愛を誓います。 このように欧米人の対人関係は神を仲介にします。 神を通してしか人と繋がれないんですね。 同じ神を信仰するもの同士は人間関係を持つ事は出来ますが そうでなければ隣人にさえなれません。 だからその昔、アメリカ大陸に渡ってきたキリスト教徒は 現地のインディアンを大量に殺戮しました。 キリスト教には隣人愛という教えがあるそうですが インディアンは同じ神を信仰していませんから隣人ではありませんでした。 だから愛する必要がなかったのです。
比重や程度の差に過ぎないのか・ それとも絶対的な「有/無」なのか・ 素人比較文化論というのはその問いを無視した上にしか成立しないのか・
一神教を信仰するものにとっては 神が違えば人間関係を持つことはできません。 神が仲介してくれませんから。 そして、神が違うということは戒律が違うということで それは道徳も常識も違うということです。 日本人には宗教戦争は理解できませんが、 宗教を信仰する人たちにとっては死活問題です。 自分が信じている世界の外に自分達とまったく違う世界があるのですから。 キリスト教徒がその昔世界に乗り出して各地に植民地を作り キリスト教を広めようとしたのは、全世界が自分の信じている神の世界でないと 不安で仕方がないからだったのでしょう。
>>124 根本に絶対的な「有・無」があると思います。
日本人には「神」は妄想にしか思えないし、理解できない。
日本の結婚では、杯を交わして血縁関係(擬似的な)になる儀式を行います。 愛を誓うのではなく血縁となって直接繋がろうとします。 日本人の対人関係は擬似的な血縁関係を作ることで始まります。 顔見知り同士が腹を割った直接的な付き合いを持つことで人と人が繋がります。 顔見知りになってお互い信頼するようになって互いに相手を認め認められる関係になります。
やくざでも固めの杯を酌み交わし親分子分兄弟分という擬似血縁を作って 集団としてまとまりを持つようになります。 職人の世界も親方と弟子というように親子の関係を模しています。 また、会社の営業マンは「商品でなく自分を売り込め。」などと言われたりします。 これは顧客と直接の人間関係を作って自分の人柄を認めてもらって 擬似血縁関係をまず作ってその上で商売をしろというような意味でしょう。
日本人は、顔を見知った者同士を身内と呼んで他と区別します。 これはいろいろなレベルで行われますが、これも血縁の内と外を示しているのでしょう。 そして身内の人間に対しては互いに非常に配慮し合います。 日本には身内の関係を律する道徳はあって身内の人間とは人付き合いで来ますが、 身内以外の人間と付き合う方法は持っていません。赤の他人です。 旅の恥は掻き捨てというのも、旅に出て地元を離れれば自分の身内はいないのだから 別に配慮をする必要が無い赤の他人がいるだけなので気にする事はないということでしょう。
>一神教を信仰するものにとっては >神が違えば人間関係を持つことはできません。 >神が仲介してくれませんから。 すっげー気になるのだが… 何時代の話をしてるの? 彼我の根源的差異を認識するのは良いことだ。 知らずに付き合えば、99%痛い目に遭うから。 けど貴方の分かり易い主張も、切り口があまりにも極端過ぎて、厳しい言い方をすると 「私は向こうで上手く人間関係結べなかった!けどこれは文化の違いが原因なんです どうしょうもなかったんです。一神教の文化が悪い。 それがわからない国際主義者は『現場』を知らないだけだ。 私は現場を知ったからこの認識にいたったのだ。私の経験は正しかった」 と自己正当化をしているようにしか聞こえないです。
131 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 22:37
原理的なキリスト宗派は一部です(ピューリタニストや福音保守派くらい)逆に日本人はみな曹洞宗だから日本はこうなんだ〜だからアメリカとは違うといってるようなものだと思います
132 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 22:44
保守福音派→アメリカ人の典型例ではありません。むしろカルト的です。神が違えば信頼なし=保守福音派の教え。ただアメリカ道徳に反映はされてます しかし日本にも堅い曹洞宗や朱子学が日本道徳に反映されてます
133 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 22:52
むしろ神=例え キリスト=哲学者的。なリベラル派のキリスト教徒がアメリカはほとんどです。対等な立場=フレンドリー アバウト故に礼儀的なキリスト観。違う価値観の人が個性を発揮し支え合う考え方。つまり集団に埋没しない上での協調が理想=リベラル派
134 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 22:59
日本の村社会 全体主義=朱子学 曹洞宗的保守道徳とアメリカの徹底した個人主義=原理福音派的保守道徳 日米の保守原理主義の極端な例を比較してるように見えるのですが
ファンディ同士を代表者として扱うバイアスに陥っているような気がする。
136 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 23:11
キリストの愛とは アメリカがいかにも人情を軽視する社会と思われてるからいいました契約社会だけでは無く日本でいうところの人情が アメリカでは愛として表現されてますもちろん神では無く人に対して。
句読点&改行キボンヌ。
138 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 23:20
一概にいえないけど 見ず知らずの婆さんが道端に倒れていたら日本人は 立場をわきまえながら救急車呼ぶかどうか考える。アメリカ=隣人愛 みな友達主義だから、顔見知りか否か関係無く、立場をて考えず素直に救急車を呼ぶ。
その説明は片手落ちだ。もしもアメリカ人が根っから 隣人愛に溢れた人達だと思って接すれば、倍痛い目にあって 本スレの帰国子女氏の如く徹底した合理化を行わなくてはならない ハメになるだろう。 その婆さんがいかにも怪しい風貌だったら、後ろ手で銃を構える。
140 :
没個性化されたレス↓ :03/02/23 23:43
まあ、アメリカ人の方が脳天気なのは多いよ。 アメリカは欧米でも珍しいキリスト教国。 地味にピューリタン的なところも残っている。 道徳や行動パターンに一応の規範がある。 日本人はあんまりない。 だから、同じ一般人レベルで比べたら、アメリカ人のほうがまとも。 日本人は状況次第で行動がコロコロ変る。 人の目を見て、行動をとる。 ただ、アメリカの白人は基本的に人種差別主義者だから 彼らの規範は日本人相手にはあんまり・・・・・
142 :
没個性化されたレス↓ :03/02/24 00:03
日本人は若い奴はまだ道徳心があるけど 大人や老人が道徳心がないという奇妙な国。
143 :
没個性化されたレス↓ :03/02/24 12:45
ババアとかはズルすることしか考えてないからな。
144 :
世直し一揆(コピペ推奨) :03/02/24 12:57
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され るな!!) ●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い) ●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない) ●妙にプライドが高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に はたいてい、内面的・実質的に負けている) ●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!) ●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本 の常識は世界の非常識) ●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる) ●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす) ●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗) ●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ) ●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量) ●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険) ●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい) ●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、 世間体命) ●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度 も言ってキモイ) ●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い) ●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う) ●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬 する(不合理な馬鹿) ●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ) ●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷) ●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男 前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
ある船に火災が発生した。船長は乗客に海に逃げるよう指示した。 イギリス人には「紳士はこういうときに飛び込むものです」 ドイツ人には「規則では海に飛び込むことになっています」 イタリア人には「さっき美女が飛び込みました」 アメリカ人には「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」 フランス人には「海に飛び込まないで下さい」 ロシア人には「最後のウオッカのビンが流されてしまいました今追えば間に合います」 中国人には「おいしそうな魚が泳いでましたよ」 北朝鮮人には「共和国に帰らなくて済みますよ」 ポリネシア人…は、黙ってても飛び込む。「海だ! ヒャッホーーーッ!」 日本人には「みんなもう飛び込みましたよ」 大阪人には「阪神が優勝しましたよ」 アラブ人には「アメリカが海にビルを再建するそうです」
>>130 確かに古い話です。
ただ、原理としては上に書いた通りです。
西欧人は神という普遍的な存在を自我の支えにしていた。
日本人は所属している集団に認められる事を自我の支えにしていた。
自我の支え方が根本的に違っていたということです。
ニーチェ以前には、上の様に書いた通りの状態だったと思います。
そしてそれは今も基本的には変わっていないと思います。
西欧では神が死んだ後いろんな神の代替物に自我の支えを求めてきました。 現在では「理性」や理性に基づいて建設された「国家」などが 自我の支えになっているのではないでしょうか。 国家に支えられた個人・・・これは現在の西欧人のイメージにぴったりじゃないでしょうか。 支えの見栄えは変わっていますが、 西欧人が何らかの普遍的なものに自我の支えを置くという事情は 何ら変わる事はなかったと思います。 西欧人の自我の支えが変わっても 自分の所属する集団から認められる事に自我の支えを置く事はまずないでしょう。
148 :
没個性化されたレス↓ :03/02/27 01:00
就職面接で高3女子にキス。 社長室で1対1で面接中。 道路標識会社社長63歳を愛知県警逮捕。 合格通知届くが辞退。
149 :
没個性化されたレス↓ :03/02/28 20:39
県立高校教諭を懲戒免職処分。 セクハラ行為で香川県教委。 指導中に女子生徒の体を触る。 教諭「つい魔が差した」と。
150 :
没個性化されたレス↓ :03/02/28 20:45
県立高校教諭を懲戒免職処分。 セクハラ行為で香川県教委。 指導中に女子生徒の体を触る。 教諭「つい魔が差した」と。
あなたが今日の晩ごはんの時 お父様やお母様と道徳について ちょこっとでも話し合ってくれたら おばちゃま うれしいわー とーーーーーっても・・・・・・ 『道徳戦士超獣ギーガー』 漫☆画太郎
The road to hell is paved with good intentions. J. Boswell
153 :
没個性化されたレス↓ :03/03/01 01:52
常に弱者、子供に配慮する、というのが一番妥当だな! 老人は高齢化社会により配慮無し。
154 :
没個性化されたレス↓ :03/03/01 02:21
老人ほど自分勝手な奴はいないよ 老人はいたわるんものなんて嘘 ニクコップンにして北に送ってヤレ
155 :
没個性化されたレス↓ :03/03/01 18:30
「目上の人に対する尊敬」という道徳はすたれてしまいましたね。 いつからでしょうね。
老人が死ななくなってからです。 明らかに需要過多。
以前は、欧米人は神を自我の支えとし、神が死んだ後は、理性や国家などの 神と似た普遍的なものを支えとしていました。 そして、日本人は周囲の人々に認められる事を自我の支えとしていました。 日本が欧米と付き合うようになって日本人は欧米人の自我を見て驚きます。 人の目を気にせず人の意見に引きずられず、堂々と自己主張できる・・・。 人の目を気にしている日本人には欧米人の自我は「強い」自我に見えました。 自我の支えは根本的に違う事に気がつかなかったのです。 そうして日本人は「自分達の自我は未熟な弱い自我だ。 自分達も欧米人のように強い自我にしなければ。」 という思い違いをしてしまいました。
158 :
没個性化されたレス↓ :03/03/02 18:24
日本人は「世間の目を気にする自我、他人の評価を気にする自我は 未発達で封建的な自我だ。世間の目や他人の評価を気にしない強い自我にならなければ。」 と考え、自分達の自我の支えを否定し始めました。 世間の目以外に支えがある訳ではないのにその支えを否定し始めたのです。 それは、台の上に乗ってその台をどけようとしているようなもので、不可能な事でした。 結局、台の上に乗っていながら台の上には乗っていないと思い込む事しかできませんでした。 現在の日本人は皆そのような状況です。 周囲の評価を自我の支えにしながら、そういう事はよくない事だと思い込んで 常に不安定な自我を抱えている・・・・それが現在の日本人です。
159 :
没個性化されたレス↓ :03/03/02 19:03
「世間の目」や「世間体」というのが日本の道徳の基本でした。 周囲の人から認められる事が自我の支えですから、 その周囲の人の評価をもっとも大切にするのは当然と言えば当然です。 「世間の目」は周囲の人の評価(=他者の視線)が 規範化され抽象化されたものでしょう。 現在では「世間の目」は表面上、否定されています。 そういうことを気にするのは好ましい事ではないとされています。 道徳としての「世間の目」「世間体」も弱くなってきています。 (しかし、依然として自我の支えは周囲の人から認められる事であることは 変わりありません。 実際には世間体を気にしていながら(無意識でそう思っている人も多いかも) 意識的には世間体を気にしてはいけないと思っている・・・ それが今の日本人です) そして、それに代わる道徳が、この日本には見当たりません。 道徳は社会の秩序のために必要なのですが、 現在の日本には有効な道徳がない状態なのではないでしょうか。 そして、「世間の目」は、今では道徳の位置から滑り落ちてしまい 人々の嫉妬や好奇心やお節介を正当化する道具になってしまっているようです。
まるで蚊猥爬椰汚の日本人論のようだ
その人の本は読んだ事がない。
163 :
没個性化されたレス↓ :03/03/02 21:49
>>156 確かに老人が多すぎ。
実際、老人の容姿って醜悪で気分が悪くなる。
164 :
没個性化されたレス↓ :03/03/05 19:17
道徳観の違いが殺し合いになる・・・。 道徳とは迷惑なものですね。
165 :
没個性化されたレス↓ :03/03/05 19:43
>>163 道徳というのは平民が社会生活を営む上で生活を円滑にするために
あるものだから、老人とか主婦とか社会から隔離されてしまった
人間が「道徳」に欠如しているのは当然とはいえる。
166 :
没個性化されたレス↓ :03/03/06 06:58
>>159 なんか無知まるだしだな。
なんとなくそういう考えが常識として通用してるけど全然違ーう。
ちゃんとした歴史の本でも読みたまえ。
167 :
没個性化されたレス↓ :03/03/06 06:59
つーか、だれか「国民の道徳」読んだ人はおらんの? 私は読もうと思って、まだ読んでません。
168 :
没個性化されたレス↓ :03/03/06 20:35
>>166 どこがどう間違いなのか具体的に書いてください。
169 :
没個性化されたレス↓ :03/03/07 01:34
>>168 >「世間の目」や「世間体」というのが日本の道徳の基本でした。
はい、間違いです。できたらその根拠を教えて下さい。
170 :
没個性化されたレス↓ :03/03/08 04:14
>>159 つーか、間違ってるもなにもそもそも話がおおざっぱすぎて正しい
かどうか以前の問題じゃ。
いったいいつからいつの話で、具体的に何を指していて、どういう経緯で
それが道徳となり、いかに他国と違って日本独自かを述べてみろ。
(^^)
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
177 :
没個性化されたレス↓ :03/05/29 20:13
道徳といえば、先日こんなことがあった。 数日前、警備の仕事をしていたときの話だ。 俺は客用エレベーターの前で立哨していたのだが、 そのエレベーターから客だったかスタッフだったか一人の男性が降りてきた。 年齢は見たところ20代後半。スーツを着た、エリート風のナイスガイだ。 その男性が、俺の横を通り過ぎる際に財布を落とした。 辺り床一面に散乱する何枚ものカード。俺はそれらを拾うのを手伝ってやろうと手を伸ばしかけた。 が。 俺の体が一瞬固まった。一枚のカードが目に飛び込んできたからだ。トレカだろうか。 それには美少女キャラが描かれていた。 俺はためらった。 拾うのを手伝ってやるべきか、あるいは見て見ぬフリをして、そっとしておくべきか。 この男は、どちらを望んでいるのだろうか。 とにかく、やばい物を見てしまった。 俺は後者を選んだ。 ハッと別の何かに気づいたフリをして、よそ見をする俺。 気のせいだろうか。一人でカードを拾い集める彼がたいそう慌てふためいているように見えたのは。 あの時の俺の判断は、真に道徳的で正しかったと今でも信じている。 彼もきっと、この俺に最大級の感謝の念を抱いているに違いない。 もちろん、礼には及ばないが。
>177 俺も多分拾わない。 でもそれは、そういう人にはあまり関わらないほうがいいという防衛目的が多少なりともある。 もし拾うならば、「可愛いカードですね」とか相手を肯定すると思う。 それは相手への配慮ではあるが、いい大人が‥という社会的道徳は無視されている。
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
180 :
没個性化されたレス↓ :03/07/27 19:25
>65に対するレスキボンヌ。 >101 ハインツのジレンマとか。教育畑の人に聞きなされ。 コールバーグは確かに神学出身だけど、そんなに変かねぇ?
181 :
没個性化されたレス↓ :03/07/27 20:02
182 :
没個性化されたレス↓ :03/07/27 20:58
183 :
没個性化されたレス↓ :03/07/27 22:15
少なきを憂えず,均しからずを憂い、貧しきを憂えず、安らかざるを憂う (財産、所得が少ないことを憂えず不公平なことを憂い。 、貧しいことを憂えず、不安定な生活を憂う)
184 :
没個性化されたレス↓ :03/07/28 04:35
コールバーグで思い出したけど、「利他」の精神で、共同体の「仲間」との「共生」を考えたとき、 「仲間」の境界線をどこで引くか、というのがその人にとっての「道徳性」ではないかと思う。 例えば『はだしのゲン』では、「病床の母の命を救うために盗みを働くのはアリかナシか」という葛藤シーンがあった。 ゲンは「家族こそが仲間である」との精神に従って「お母ちゃんのためなら盗みだっていくらでもしてやるわい」と言ったが、 「敗戦後の貧しい時代を過ごしている日本人全体が仲間である」と規定すれば「仲間の為にも、盗みなんかしちゃダメだ」になる。どちらが正しいとも言えないと思う。 (小学校の道徳の時間に『はだしのゲン』を紹介されたときには、ゲンの行動の是非には触れず、「盗みをしなきゃいけなくなるほど、戦争ってのはいけないものなんだね」と教えられたが、これは問題のすり替えのような気がしなくもない。) 要するに「道徳性」は個人の延長物(「こっち側」の存在)を規定するためのバイアスのようなものではないかと思う。 つまるところ道徳は「利他的なもの」などと言われながらも、実は個人的なものでしか有り得ないような気がする。 何か文章下手でスマン。。うまく伝わった人がいれば嬉しい。
185 :
没個性化されたレス↓ :03/07/28 05:45
人の生活に踏み込まなければ、 それでいいのだが・・
「あるべき姿」は、未来構文の内容である。
日本語には、時制がないので未来形もなく、神の意思 (will) も個人の意思も疎んじられている。
日本人は、没個人主義で、神も仏もなかりけり、である。
だから、英米人の倫理・道徳は、翻訳を通してでは、わが国に受け入れがたい。
You can read more at
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
188 :
没個性化されたレス↓ :03/07/28 20:23
>184 行動に至る決断は自ら下すしかないのだから、当たり前じゃん。 コールバーグの場合:母の生命は、失われたら2度と取り返しの付かないかけがえのない もので有ると同時に、他の同じ境遇にある人に対して公正と成らないことで どうすることが正義かモラルジレンマに陥っていたら第3水準第6段階。 ギリガンの場合:母を救うために食べ物を分けてくれるよう、持ち主や他の母と同じ境遇の 人と、納得いくまで話し合うことが大事┐('〜`;)┌ >185 君は「嫌な大人に対抗するために同じ屁理屈を身につける」経験がないと思われ。固着って言うの? >181を読んで、フロイトがそれを父性と呼んだのは、的を得ているなぁと思った。
190 :
没個性化されたレス↓ :03/07/28 20:34
>>184 行動に至る決断は自ら下すしかないのだから、当たり前じゃん。 ただし、仲間の範囲は宇宙全体まで拡大する。自己レススマソ。
191 :
没個性化されたレス↓ :03/07/28 21:53
〜1001ストッパーが壊れた!?〜
科学板のとあるスレで、1001ストッパーが壊れ
1001以降もまだ書き込みできている模様。
1001 名前: 1001 投稿日: Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
1006 名前: マロン名無しさん 投稿日: 03/07/28 06:25 ID:Z0CeMHS7
何これ
1014 名前: マロン名無しさん 投稿日: 03/07/28 06:25 ID:AxlwdY4A
お〜い、まだ書けるぞ?
書き込みは1300レスを過ぎた今も続けられている。
●最もレス数の多いスレ(1001ストッパー導入後)
1位 12535レス(1001ストッパー5904)
ギガウイング2
↓のスレに直行し、2ちゃんねるの歴史に名を残そう!
http://science.2ch.net/test/read.cgi/future/1056396418/50-
∧_∧ ∧_∧ ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕 = ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
194 :
没個性化されたレス↓ :03/12/13 22:27
個人個人が持っている道徳は互いに微妙にあるいは大きく食い違っていますよね。 そういう意味で道徳は個人的なものですよね。 各個人がそれぞれ自分なりの道徳観を持っている。 その道徳観は、この日本の社会の中である程度共通している部分はあるが 食い違っている部分も結構ある。 そして、各自の道徳観が食い違っているという事が争いの原因になったりするんですよね。
195 :
没個性化されたレス↓ :03/12/14 14:35
道徳観は各自が持っている個人的なものですね。 しかし、自分の持っている道徳観と同じ道徳観を周りのみんなも持ってくれていないと こまりますよね。 みんなが自分と同じ道徳観を持っていて同じようにそれを守りながら暮らしていると 信じる事が出来ないと安心して暮らせませんよね。 自分の心が安定しませんよね。 自分の心が安定する為には自分の道徳観に周りのみんなも従っていないといけないんですね。 だから、自分の心を安定させる為に自分の道徳観を他人にも押し付けようとするんですね。 そして、自分の道徳観に合わない人が出てくると不安になり腹が立つんですね。 世間では「私の道徳が正しいんだからみんなも従わなきゃダメよ!!」ってリキんでいる人を よく見かけますよね。 道徳観っていうのは元々はた迷惑なものなんですよね。
196 :
没個性化されたレス↓ :04/01/11 22:04
>>195 だから宗教が必要になるっていう事なのかなあ。
同じ宗教を信じていれば、同じ世界観を持てますから、道徳観も多分同じになるでしょうし。
だから、一つの宗教団体の中では、各自の道徳と集団の道徳が一致する。
従って、各自が持っている道徳観が同時に普遍的な道徳観にもなっているという
都合のいい事になるんでしょうね。
だから宗教は捨てられないんでしょうかね。
>>195 >>だから、自分の心を安定させる為に自分の道徳観を他人にも押し付けようとするんですね。
これが違う、道徳はもっと実利的なものを含む
例えば、何らかの式典の際、壇上で人が話しているにもかかわらず
観客が壇上に上がって、人が話しているのを制止したり
幟をひっぺがしてはいけないという道徳があるのは何故か?
それは自分の心を安定させるためか? そんなわきゃないだろ。
公の式典が邪魔されることで、なんらかの迷惑がかかるからこそ
「厳粛な行事の際には、騒いだりする等の行為はしてはいけない」っていう道徳がうまれたんだろ
まあもっとも、道徳ってのがあまりに実利的な面に重きをおきすぎると
法律ってのに変わってくるんだけどね
ここらへんが微妙だが、道徳は心理的な面半分、実利的な面半分でできている
という風に考えた方がいいだろう。
198 :
没個性化されたレス↓ :04/02/15 20:00
>>197 実利的と言うべきものなのかなあ・・・?
私の精神の安定と外部世界の秩序の維持とは密接に関わっています。
「厳粛な行事の歳にはそれなりの行動を取らなければならない。」
「厳粛な行事の歳には、騒いだりしてはいけない。」そういう道徳を私が持っているとします。
この時、私が厳粛な行事できちんと行動できたならば、「私は道徳を守るいい人間である。」
と自分で思うことが出来、この事実は私の心の安定に貢献するでしょう。
しかしまた同時に、周りのみんながこの道徳を守っている事を見る事によって、
私の持っている道徳が間違いではない、正しい道徳なのだと確認しています。
ですから、それを守っていない人を見ると不快になります。
自分の道徳を壊そうとするその人に対して怒りを感じます。
そういう人が居てもらっては、私が困るのです。
だから、是が非でも騒いでいる人を排除しなければなりません。
是が非でも騒いでいる人を裁かなければなりません。
そういう人が非難されないならば、私の道徳は正しくないものとなってしまいますから。
だから、誰かが強制的に彼らを排除したり、叱責したりする事を望みます。
誰もいなければ自分で行って排除しようとするかもしれません。
道徳に強制力が必要なのはこういう事情ではないでしょうか。
そして、もし騒いだ人が排除されたなら、再び心の安定が戻ってきます。
私の道徳の正しさ(=社会の秩序の正しさ)が証明されたからです。
だから、やはり道徳の存在意義は心の安定ではないかと思います。
199 :
没個性化されたレス↓ :04/02/15 22:26
>194 道徳が個人的なもの 違和感。 なんだー? 言語化できねぇが、なんか違うぞ!!
>>198 私の精神の安定と外部世界の秩序の維持とは密接に関わっています。
まあ密接に関わるのはかまわんが
それが過ぎると、環境の変化に対応できなくなるんじゃねーの?
例えば、ゼンゼン価値観や道徳の違う外国の文化に触れて、カルチャーショックを受けた香具師が
どのように環境に適応していくのかを調べた研究ってのがあるんだが
やっぱ、カルチャーショックを強く受ける人間や、それに対応できない香具師ってのは
自分の道徳にこだわり過ぎてる連中なんだよね
視野が狭いっていうのかな、自分の価値観しか認めない、みたいな?
他の道徳に触れたときに、その道徳を受け入れられる人と、受け入れられない人がいることから見て
個人差があるんだろう、その、道徳が精神の安定に関わっている度合いというのは
別に君が道徳と、どの程度関わっていこうとかまわんけど
自分の価値観にこだわって環境に対応できない香具師ってのは、世間一般的いって
「弱い人間」ってことになるんじゃねーか?
201 :
没個性化されたレス↓ :04/02/16 01:02
↑『道徳』=『倫理』≠ 『個人特有の価値観』ではないか。
すげえ簡略化して書くが、社会心理学で捉えてる図式はこんな感じ 個人的価値→社会的価値→社会規範→道徳→個人的価値→社会的価値・・・ (大坊・安藤・池田, 1990)
203 :
没個性化されたレス↓ :04/02/16 18:52
204 :
没個性化されたレス↓ :04/02/21 18:16
>200 >自分の価値観にこだわって環境に対応できない香具師ってのは、世間一般的いって >「弱い人間」ってことになるんじゃねーか? こだわりが強い人は、確かに「頭が固い」とか「自我が狭い」とか言われる人で、一般に 社会の適応が難しくなるでしょう。 しかし、当人にとっては、当人の道徳観は、当人の精神的安定の支えであり、同時に、 それは社会の秩序です。この事情はこだわりが強い弱いに関わりありません。 程度の差はあれ、人間は自分の価値観にこだわらないことは出来ません。 そして、「自分の価値観は同時に社会の秩序でなければならない。」とまったく思わない なんて事はできません。 誰でも、「自分の価値観=社会の秩序」という図式を信じて安心したいのです。
>>204 >>程度の差はあれ、人間は自分の価値観にこだわらないことは出来ません。
そして、「自分の価値観は同時に社会の秩序でなければならない。」とまったく思わない
なんて事はできません。
誰でも、「自分の価値観=社会の秩序」という図式を信じて安心したいのです。
あなたは「自分の価値観にあまりこだわらない人もいる」ということを認めてますよね?
その上で、「自分の価値観は同時に社会の秩序でなければならない。」といっている・・・
すると「自分の価値観は同時に社会の秩序でなければならないが、別にそれにこだわらない人もいる」ということになります。
となると、誰でも「自分の価値観=社会の秩序」という図式を信じて安心したい、という主張は上の主張は矛盾するんじゃないですか?
訂正でつ × という主張は上の主張は矛盾・・・ ○ という主張は上の主張と矛盾・・・
207 :
没個性化されたレス↓ :04/02/22 17:58
>205 >しかし、当人にとっては、当人の道徳観は、当人の精神的安定の支えであり、同時に、 >それは社会の秩序です。この事情はこだわりが強い弱いに関わりありません。 > >程度の差はあれ、人間は自分の価値観にこだわらないことは出来ません。 >そして、「自分の価値観は同時に社会の秩序でなければならない。」とまったく思わない >なんて事はできません。 >誰でも、「自分の価値観=社会の秩序」という図式を信じて安心したいのです。 と書きました。その意味は、 万人にとって、「当人の道徳観は当人の精神的安定の支えであり、同時に、それは 社会の秩序で」あると言う事情は変わりはないという事です。 例外なく、誰もそう思い込む事で精神的安定を得ているという事です。 万人にとって「自分の世界観=社会の秩序」なのです。 比較的、自分の世界観に執着せずに、柔軟に自分の世界観を修正できる人は そういう柔軟性もその人の世界観の一部として組み込まれています。社会の秩序とは その程度のものだと思っています。(社会の秩序も流動的な柔軟なものだと思っています。) だから、「自分の世界観=社会の秩序」と言う図式はそう言う人にとっても共通です。
>>207 >>例外なく、誰もそう思い込む事で精神的安定を得ているという事です。
思い込む?
自分の世界観にこだわらない人でも、「自分の世界観=社会の秩序」と思い込むんですか?
思い込んで、精神的安定を得ていると?
「思い込む」というのは、滅多なことでは考えを変えないことだと思ってましたが
あなたの主張だと、思い込んでるのにもかかわらず、すぐ考え方を変える人間がいるということになりますね
どういう人間ですか、それは?
209 :
没個性化されたレス↓ :04/02/23 03:16
興味age
「自分の世界観にこだわらない人」は 「自分の世界観≠社会の秩序」と思っている筈なのです これから、それを証明しましょう。 まず、前提として 人間は生まれたときには自分の世界観を何も持っていません では自分の世界観というのものはどこから形作られていくのか、というと 202に書いたように、人間の個人的世界観・価値観というのは、社会的価値、規範、道徳による影響を受けます。 だから、よっぽど住む社会を頻繁に変えて育てられた赤ん坊でない限り 子供の頃は「自分の世界観=社会の秩序」という図式を抱いていると言えるでしょう 前述の通り、自分の世界観は社会の規範や道徳に影響されるので 社会の秩序が変わらなければ、自分の世界観も変わらないでしょうから。 つまり、逆に言うと 「自分の世界観にこだわらない人」になるには まず、異なった社会秩序を学習しなければならないのです その際どうしても、自分の元の世界観と、新しい社会の秩序との差異を経験する必要があります その上で、その差異を受け入れ、自分の世界観を修正した結果 自分の世界観にこだわらない人が出来上がる、とこういう仕組みな訳です。 よって、「自分の世界観にこだわらない人」は 「自分の世界観≠社会の秩序」と思っている、となるのです。
211 :
没個性化されたレス↓ :04/02/25 20:36
>>208 「思い込む」とは「そういう観念を持っている」「幻想を持っている」というような意味です。
「自分の世界観=社会の秩序」について少し書きます。
世間一般に「人の物を盗んではいけない。」という道徳があると信じられています。
例えば、私が世間の道徳を受け入れ、「人の物は盗んではいけない。」という道徳があると
固く信じているとします。それは、私の世界観の一部です。
私は、私の世界観に従って「絶対に人のものは盗まない。」「人の物を盗む奴は悪人だ。」
と考えています。そして、私は人の物を決して盗みません。
それは、「私は『人の物を盗んではいけない。』という道徳を守る善人である。」と
私が思いたいからです。
この道徳を守ることによって、自分はいい人間であると思うことが出来ます。
いい人間であると思うことができれば、それによって、他人からも認められる人間であると
思うことが出来ます。
つまり、自分の道徳観、世界観に従って生きることによって、
自分はいい人間だと信じることが出来、自分の精神が安定することになります。
私の世界観は私の精神の安定を支えています。
(つづく)
212 :
没個性化されたレス↓ :04/02/25 20:37
しかし、それだけでは不十分です。というのは・・・ この私の世界観は、私だけが守っていたのでは、ホントの精神の安定にはつながりません。 私だけが守っていて、他の誰もが守っていなければそれは単なる妄想になってしまいます。 私以外のみんなもその同じ世界観を持っているという事を確認することで、 その世界観が現実のものであると思うことができ、精神は真に安定します。 私の世界観がみんなと共通のものであり、私の世界観が現実の社会の秩序にも なっていると思えることで、精神は安定します。 (つづく)
213 :
没個性化されたレス↓ :04/02/25 20:38
ですから、例えば・・・ ここに、他人の物を平気で盗む人間がいたとします。その人は他人の物を盗むことに さしたる罪悪感も持たず、いろんな物を盗み続けているとします。 こういう人間を私が見たら、どうなるでしょうか。たぶん非常に腹が立つでしょう。 何故なら、そういう人間がいると、私の世界観が崩れてしまうからです。 私の世界観が壊れれば、私の精神の安定が失われます。 私にとっては、その人間が非常に邪魔になります。できれば消えてなくなってほしい。 (たぶん、この心情が殺人の起源です。) そうでなければ、誰かに厳しく罰してもらいたい。(たぶん、この心情が刑罰の起源です。) そういうふうに思うでしょう。 つまり、私の世界観が壊れないためには、社会の秩序も私の世界観と同じでなければ ならないのです。 そして、何らかの理由でその人がいなくなれば、再び精神の安定がやってくるのです。 (つづく)
214 :
没個性化されたレス↓ :04/02/25 20:38
この、私が私の中に築いている世界観が狭く固まったものであれば、その人にとっての 社会の秩序も狭く固まったものでなければなりません。これがあまりに狭く、固いと、 実際の(=他者が抱いている)社会の秩序とは大きなギャップが出来ます。 私は私の世界観が社会の秩序だと固く信じていて、それに精神の安定がかかっていま すから、現実の(=他者が抱く)秩序は間違っていると考えます。 この私を、傍から見れば、自分の世界観にこだわる人、頭の固い人、自我の狭い人 となります。 逆に、私の中に築いている世界観がある程度柔軟性のあるものであれば、その人にとっ ての社会の秩序も柔軟性があるでしょう。これが、現実の(=他者の抱いている)社会の 秩序とさほど変わらなければ、 周りの人は、私を、現実にちゃんと対応する柔軟な人と見るでしょう。
215 :
没個性化されたレス↓ :04/02/25 20:45
216 :
没個性化されたレス↓ :04/02/25 20:47
ニーチェの話が出てこないな。 奴隷道徳とかルサンチマンとか。 弱者が強者に復讐するための手段としての道徳云々。 うろ覚えですまん。
217 :
没個性化されたレス↓ :04/02/25 21:33
まあ、ここは心理学板であって、哲学板じゃあないからね・・・。
>>214 >>逆に、私の中に築いている世界観がある程度柔軟性のあるものであれば、その人にとっ
ての社会の秩序も柔軟性があるでしょう。
あの
その人にとっての社会の秩序というのが、つまり自分の持つ世界観というヤツかと
ちょっと混同してませんか?
で、社会秩序というのは、普通
その社会における規範とかルール、道徳、マナー、法律といったものだと考えますが。
ちなみに、社会における規範や道徳というものは、前述したように
個人の価値観の集合である社会的な価値から生まれるものですが
しかし、個々の価値観と、全体的な価値観というのは、質的にまったく別なものです
それはゲシュタルト心理学や、それに伴うグループダイナミクスの研究等から導かれています
例をあげれば、集団討論におけるリスキーシフトとかですかね。
219 :
没個性化されたレス↓ :04/02/25 23:51
道徳ってのは自分も周りの人も心地よくあるための「あり方の例」 だと思う。小難しく考えずに、「自分も周りも笑顔でいられる方 法」っての考えてみるといいんでないだろか。 道徳ってゆうと、「○○してはいけません」とゆう 禁止をしていることってイメージが強いのだけど、それをしてはいけないと ゆう理由、また、それを行った事で起きる問題、それを行ったときに自分 が、或いは相手が抱く感情、また、それによって発生する継続的な 心理的な葛藤や問題、同時にそれを行わなかったことで得られる メリットや「心地よい感情」、そういったことを考える 能力を養うべきものが道徳ではなかろうかと。 「心地よい人間関係のための手段の一つ」として、道徳はあるのでは なかろかと思ったりする。101さんが心理学的にって言ってたけど、むしろ 「道徳」は心理学的に説明したほうがいいものなのかもしれないと 思ったよ。「快」「不快」を用いて。 社会一般に道徳は既に作用を失っているけど、それは本来のそういった 人の心に即した側面が失われて形骸化してしまってるからではないかと 思う。
ああ、ところどころ日本語が変だ つД`) よぱらってるのでうまくいえんけど、ひとまずあれですよ。 どれですか?
221 :
没個性化されたレス↓ :04/02/26 15:48
>>218 私の世界観は、この社会がどのような秩序で成り立っているかに関する私の見解です。
従って、私から見た社会の秩序は私の世界観通りになっているはずです。
つまり、私という個人の立場から見れば、個人の世界観と社会の秩序は同じようなものです。
>>221 >>私という個人の立場から見れば
いや、個人の立場から見ないで欲しいんですが
公の立場から見てください。
確かに『自分の世界観』は個人的なものですが
『社会の秩序』は皆が共有している公のものですから。
まあ、東京にしか住んだことない私という立場から見れば
日本は、つまり東京と同じようなものですが
しかし、他の人から見れば、日本がつまり東京ということにはならないでしょう
それと同じことです。
223 :
没個性化されたレス↓ :04/02/26 20:20
「自分の世界観」は社会の秩序を含んでいます。みんなと共有している部分を含んでいます。 「社会の秩序」が皆が共有しているものだと言っても、それが個人の外に客観的に存在して いる訳ではありません。 (もし、外に存在しているというのなら、どこに存在しているのか教えてほしい。) 自分の持っている観念のうち、個人から見て「この観念は社会の皆と共有しているのだ。」と 本人が信じているものが「社会の秩序」になるのです。 「社会の秩序」は、社会の皆が共有しているものではなく、 個人が持っている観念のうち、その人が、社会の皆が共有している観念であると信じているもの なのではないでしょうか。
>>223 >>自分の持っている観念のうち、個人から見て「この観念は社会の皆と共有しているのだ。」と
本人が信じているものが「社会の秩序」になるのです。
なんでですか?
あなたは『「社会の」秩序』といってるんですよね?
これでは『「個人の」秩序』ってことになっちゃうんじゃないですか?
「個人の秩序=自分の世界観」ということは認めますよ。
それと 『「社会の秩序」=個人が持っている観念のうち、その人が 社会の皆が共有している観念であると信じているものの集合』 ということなら、了解します。 でも「社会の秩序」と書いてあるのに、何故「個人に限定された秩序」になるのか? その疑問に納得のいく答えが出ない限り、上記の定義は譲れませんよ。
226 :
没個性化されたレス↓ :04/02/27 19:41
では、「社会の秩序」はどこにあるのでしょうか。 どこかの看板に、これが社会の秩序だと書いてあるのでしょうか。
227 :
没個性化されたレス↓ :04/02/27 19:44
補足: 私の問題意識は、「社会の秩序」と、個人における「社会の秩序」は 一体、区別できるものなのかという事です。 私の心を脇に置いておいて「社会の秩序」は意味があるのか ということです。
>>226 もちろん書いてあります
身近なものでは、交通標識、標語、大学や会社の規則、一般的な法律等です。
しかし、一方でそんなに明確にされていない社会の秩序というのもあります
そういった場合には、人にそれを教えてもらったり、他人の行動を観察することで発見することが出来ます。
また、心理学的な手法をつかえば、内在化された社会の秩序を表すことも可能です。
229 :
没個性化されたレス↓ :04/02/28 15:04
>>228 >身近なものでは、交通標識、標語、大学や会社の規則、一般的な法律等です。
交通標識や標語、法律などはそれ自体何の意味もないものです。
解釈する存在があってこそのモノです。
「進入禁止」の標識を見て、それが進入禁止を表しているのだと了解する人が
いなければ意味がありません。そして、その了解する人は、私です。個人です。
例えば、私の中にその標識が「進入禁止」を意味するものであり、禁止を破る
ことは、社会的に許されない事だという観念があるから、その標識は「社会の
秩序」として役に立つのです。標識を「社会の秩序」に仕立てているのは私の
心です。私の中の「社会の秩序」です。
>内在化された社会の秩序を表すことも可能です。
内在化されているという事は個人が持っている「社会の秩序」あるいは
個人の中にある「社会の秩序」という事です。
そういう風に内在化されていない「社会の秩序」はあるのですかと問うたのです。
>>229 >>解釈する存在があってこそのモノです。
それはないでしょ〜
『解釈する存在がいないと、意味はない』なんて言ってたら、なんでもそうじゃない
りんごだって、鉛筆だって、パソコンだってみんなそう。
『りんごを食べるものだと解釈する存在がないと、意味がない』
『鉛筆を書くものだと解釈する存在がないと、意味がない』
『パソコンを色々な事に使えるものだと解釈する存在がないと、意味がない』
なんだっていえるじゃない。
そりゃ、パソコンの扱い方を知らないアフリカの原住民にパソコンをあげても無意味だろう
『全てのものは、解釈する存在がないと、何も意味はない』
そりゃそうだ で、だから何? という感じですな。
231 :
没個性化されたレス↓ :04/02/29 22:21
個人個人が自分の中に「社会の秩序」を持っているという事。 そして、その内容は互いに微妙にあるいは大きく違っているだろうという事。 しかし、当人は自分の中にある「社会の秩序」はみんなが共有している だろうと思い込んでいる・・・ つまり、自分の外部に存在していると錯覚している・・・ 「社会の秩序」って、そういうもんじゃないかっていう事です。 そして、それらの元となるような、あるいは、それらの集積であるような 客観的な「社会の秩序」が、人々の外部に存在している訳ではない だろうという事です。 あっ、それから石ころなどのモノは、それ自体で存在しています。 モノは、それを了解する人がいなくても存在しています。 ただ、そのモノに意味をもたせるのは、やはり人間です。
232 :
没個性化されたレス↓ :04/02/29 22:32
補足: 人はみな自分の外部に社会が実際に存在していると思っていますが、 私の考えでは、これは錯覚です。確かに、モノは存在しています。 人も存在しています。しかし、それらの意味を作り出して、それらを関連付け ひとつの社会のイメージを作り上げているのは、他でもない当人なのです。 私の心の中の出来事を私の外部の出来事だと錯覚することを投影と言いますが、 私は、私の外部の社会やそのルールは投影の結果なのだと考えています。
>>231 >>そして、それらの元となるような、あるいは、それらの集積であるような
客観的な「社会の秩序」が、人々の外部に存在している訳ではない
だろうという事です。
ですから、「社会の秩序」は交通標記等に表されていると言ってるじゃないですか
それは存在していて、客観的ではないんですか?
>>しかし、それらの意味を作り出して、それらを関連付け
ひとつの社会のイメージを作り上げているのは、他でもない当人なのです。
これも別に社会じゃなくとも、あらゆる概念に対して言えるんですが
まあ、存在しない言葉がお好みなら、例えば「歩行」という概念。
「歩行」なんていうモノは存在しません、なのであなた流に言えば
「歩行」は錯覚ということになるんでしょうね
なにせ一口に「歩行」といっても、各人それぞれ色々な歩き方があるでしょうから
当然、その内容は互いに微妙に、あるいは大きく違っていることでしょう
そして、当人は自分の中にある「歩行」のイメージはみんなが共有している
だろうと思い込んでいる・・・
つまり、「歩行」というモノが自分の外部に存在していると錯覚している・・・
「歩行」って、そういうもんじゃないかっていう事です。
ちなみに、書いてて分かりましたが、上の文で変なところは
「みんなが共有している=モノが外部に存在している」と考えている点ですね
234 :
没個性化されたレス↓ :04/03/01 20:48
>>233 >ですから、「社会の秩序」は交通標記等に表されていると言ってるじゃないですか
>それは存在していて、客観的ではないんですか?
交通標識(=何かのマークが書かれたモノ)は客観的に存在しているでしょう。
しかし、それを交通標識たらしめているのは、「そのマークはこれこれの意味である。」という
共通認識です。みんなが共有しているその認識がなければ、
そこに「何かマークが書かれたモノ」が存在しても、それを誰も交通標識だとは思いません。
それが「何がしかの社会の秩序に関わるものである。」とは誰も思いません。
すなわち、私たちにとっては交通標識は存在しないのです。
235 :
没個性化されたレス↓ :04/03/01 21:15
>>233 「歩行」は、言語の問題ですね。
言語は、いうまでもなく、ある集団の中で共有されている観念の体系です。
日本という集団において、(人間の外部で起こっている)人間などが前進するあの運動を
「歩行」という言葉で切り取っているのです。
あの動作を「歩行」という言葉で表すのだという共通の認識が日本人の間にあるから
「歩行」という動作は(日本人の心の中に)存在しています。
「歩行」という動作は、日本人の心の中に、みんなと共有している観念として
存在しているのです。「歩行」という動作は客観的に外部に存在するのではありません。
「歩行」とは、すでに日本語で切り取られた後のイメージの事なのです。
(動作自体ではありません。)
英国人ならそのような動作を「walk」という言葉で切り取っています。
同じ動作に対して、日本人は心の中で「歩行」だと思い、
英国人は心の中で「walk」だと思うのです。
この場合、「歩行」は客観的に人間の外部に存在していて、
「walk」は妄想だと判断するのでしょうか。
運動自体はそこで行われています。運動自体はそこにあるといえるでしょう。
しかし、その運動自体は「歩行」とは言えません。ただ単にそういう動作があるだけです。
それを日本人が「歩行」という言葉として切り取っているから、「歩行」と言う動作が
日本人の精神の中に、あるいは言語という観念体系の中に存在するのです。
>>235 ?
なんか、自己解決していませんか?
225で書きましたが
『「社会の秩序」=個人が持っている観念のうち、その人が
社会の皆が共有している観念であると信じているものの集合』
なら了解しますよ
あなたもこの定義に従っているように見えるのですが。
っていうか、よく考えてみると 225に対する226のレスが理解できないな・・・。 漏れはただ「個人の世界観が集まり、相互に作用して出来たモノが、社会の秩序である」 っていってるだけなのに、なんで「社会の秩序はどこにあるのか?」 なんていうレスが帰ってくるのかな・・・。
238 :
没個性化されたレス↓ :04/03/02 22:05
私の読み間違いなのかなあ。
>>224 で
>あなたは『「社会の」秩序』といってるんですよね?
>これでは『「個人の」秩序』ってことになっちゃうんじゃないですか?
>>225 で
>でも「社会の秩序」と書いてあるのに、何故「個人に限定された秩序」になるのか?
>その疑問に納得のいく答えが出ない限り、上記の定義は譲れませんよ。
と書かれているので、あなたは「社会の秩序」と「個人から見た社会の秩序」とは
別のものだと考えておられると思ったんですが。
私の考えでは、両者は同じものです。「社会の秩序」は個人の中にしかありません。
あなたが、「それとは別の「社会の秩序」がある。」と考えておられるように見えたので
あなたが考えている「社会の秩序」は個人の中以外にどこにあると思っておられるのかを
聞きたかったので、「社会の秩序はどこにあるのか。」という質問になりました。
分かりにくかったですか。それとも、何か私が勘違いしてるのかな。
>それと
>『「社会の秩序」=個人が持っている観念のうち、その人が
>社会の皆が共有している観念であると信じているものの集合』
>ということなら、了解します。
これは、上のような定義をするなら了解できるが、「もし、社会の秩序を、
個人が持っているものではなく個人の外部にあるとするならば了解できません。」
という意味を含んでいるように読み取ったので、
「社会の秩序」は個人の中にしかない、個人の外部に何やら客観的なものとして
存在している訳ではないということを再度、主張しました。
>>238 >>あなたは「社会の秩序」と「個人から見た社会の秩序」とは
別のものだと考えておられると思ったんですが。
私の考えでは、両者は同じものです。「社会の秩序」は個人の中にしかありません。
あなたが、「それとは別の「社会の秩序」がある。」と考えておられるように見えた
確かに漏れは「社会の秩序」と「個人から見た社会の秩序」を別なものだと考えてますよ
でも、だからといって「個人の中以外に別の社会の秩序がある」とは考えていません
というのも「社会の秩序」というのを
『「個人の中にある秩序」が集まってできたモノ』と考えているからです。
例えて言うなら、「ドレミファソラシド」といったような音と
それらが規則的に並べられてできている楽曲とでは、まったく別なものになる
というのと同じことです。
241 :
没個性化されたレス↓ :04/03/02 23:09
結局、 本などによって得た他人からの情報を媒介とした意見しか、 人間は持てないんだよ。
242 :
没個性化されたレス↓ :04/03/03 00:30
藤沢病院のPSW長見さん あなたの道徳心は? 妻子がいる暖かい家庭を不倫と言う悪魔が襲っています 夜中に不倫相手に酔っ払いでやりたいとか下着姿で興奮させろとか どういうこと?
おいおいおいおいおいおいおいおい こらこらこらこらこらこらこらこら 何だ人前で、やめんかおい
244 :
没個性化されたレス↓ :04/03/03 19:33
>>240 >『「個人の中にある秩序」が集まってできたモノ』と考えているからです。
と、あなたが書かれると「その『集まってできたモノ』はどこに
存在するのですか。」と聞きたくなりますね。
それも、個人の中にあるのではありませんか。
>>244 >>それも、個人の中にあるのではありませんか。
何を根拠にそういってるのか知りませんが、有り得ませんね。
246 :
没個性化されたレス↓ :04/03/04 20:46
>>246 人が多数いて、相互に交流しているところにできるでしょうね。
248 :
没個性化されたレス↓ :04/03/05 22:55
>人が多数いて、相互に交流しているところにできるでしょうね。 多数の人々のどこらへんにあるんでしょうか。 みんなの中心あたりにあるんでしょうか。 (その場合は、「みんなの中心」の求め方もよろしく。) それとも、みんなの周りのどっかにあるんでしょうか。 それとも、みんなの頭上にあるんでしょうか。 それぞれの人の心の中なのではないですか。
>>248 >>多数の人々のどこらへんにあるんでしょうか。
平たく言えば「社会の秩序」は「社会」にあります
それ以外には有り得ませんね。
それと、sage進行でお願いします。
無駄にスレを消費するのも何なんで、一つ言っておきますと 『「社会の秩序」=個人が持っている観念のうち、その人が 社会の皆が共有している観念であると信じているもの』という定義だと まるで「社会の秩序」が個人の信奉みたいで、「社会の」という意味が含まれていません。 「社会」というのはもちろん「影響しあう人々のまとまり」という意味です 実際に多数の人々が影響し合い、個人的な自分の世界観を修正しあった上でこそ 全体的な「社会の秩序」が生まれるのです そのためそれは、他人の世界観が関与しており、自分の世界観と反する面を含みます。 だから、「社会の秩序」は「個人の秩序」とは別の性質を持つものだ ということが言えるのです。
もう一つ 「社会の秩序」と「個人の秩序」は違うものである という主張に対する根拠 それは「犯罪行為」にあると思います。 「犯罪行為」というのは「社会の秩序」に反した行為です しかし、その「犯罪行為」を犯した人も、「個人の秩序」を抱く社会の成員です つまり、事故や過失でない限り 「犯罪行為」は、社会の成員が「社会の秩序」を破り 「個人の秩序」にのっとって行っている、と言うことになります。 もし「社会の秩序」と「個人の秩序」が同じものであるなら そのような事態は起きずに、すべての人間は 「個人の秩序」である「社会の秩序」に従うはずです しかし、現実に犯罪行為は起こっているので 「社会の秩序」と「個人の秩序」は違うもの、ということが言えるでしょう。
>>248 ああ、分かった、分かりました
この「存在のある・なし」問題、どうも釈然としないと思ったら
「心の中にのみあるもの」は「ないもの」と扱うべきだったんだわ
それを、まるで実際にあるもののように考えているから、変に感じたんでつ。
つまり「神はどこにいるの?」「それぞれの心の中におります」
と答えたところで、神が実際に存在していることにはならないのと同じことで
「それはどこにあるの?」「それぞれの心の中にあります」
というのは、物事を問う存在に対しての答えになっていないんでつよ。
すなわち、漏れが客観的に「社会の秩序」が見られる場所を示したのに対して
あなたは主観的な宗教みたいなことを求めてた、とこういうことですな。
253 :
没個性化されたレス↓ :04/03/06 20:20
>>252 私が言っているのは、客観的な「社会の秩序」は存在しないという事です。
誰から見ても同じに見えるような、そして、個人を超えたあるいは個人の外部に
あるような「社会の秩序」は存在していないと言っているのです。
「社会」は「神」と同じような意味でしか存在していないという事です。
>>249 >平たく言えば「社会の秩序」は「社会」にあります
>それ以外には有り得ませんね。
>>249 それでは答えになっていないのです。では「社会」はどこにあるんですか。
私は、「社会」は各個人の中にあると考えていますが・・・。
個人が持っている様々な観念のうち、自分の所属する集団のみんなが
共有している観念を共同観念とでも呼ぶとすれば、
私達が法、慣習、倫理、道徳、ルールなどと呼んでいるものはすべて共同観念なのです。
ですからそれらは、自分の外に実体として存在しているのではなく、観念として
個人の中に存在しているのです。
「社会」も「社会の秩序」も観念です。共同観念として個人の中にあるものなのです。
>>251 >「犯罪行為」というのは「社会の秩序」に反した行為です
これは、個人を超えたところに客観な「社会の秩序」があることを前提にしていませんか。
それでは、それはどこに存在しているのかという事になります。
そうでないならば、
>「犯罪行為」というのは「社会の秩序」に反した行為です
の「社会の秩序」は、誰かの「社会の秩序」でなければなりません。
そして、それは「犯罪行為」を行っていない人の持っている「社会の秩序」なのです。
犯罪者自身は自分の犯罪を容認するような「社会の秩序」を持っていると
考えられます。
詐欺をする人などの中にときどき見受けられるように、「詐欺は正当な仕事だ。」と真剣に 思っている人もいます。 「詐欺は頭のいい人間にしか出来ない仕事で、自分は有能だからこの仕事ができるのだ。」 と考えている人がいます。 「詐欺は仕事だ。」という事がこの人の「社会の秩序」に含まれているのです。 彼は彼の「社会の秩序」に照らして正しい事を行っていると信じているでしょう。 だから、そういう人に「君の行為は社会的に認められていない。」と言っても無駄です。 彼の信じている「社会の秩序」では許されている行為だからです。
>>254 >>「社会」は各個人の中にあると考えていますが・・・。
あなたが日々生活している場所が「社会」でないとしたら
一体何なんですか?
あなたは社会に住んでいないんですか?
>>255 >>「社会の秩序」は、誰かの「社会の秩序」でなければなりません。
そして、それは「犯罪行為」を行っていない人の持っている「社会の秩序」なのです。
ん?
これは、「犯罪行為」を行っていない多数の人の「個人の秩序」が
「社会の秩序」ということですか?
「社会の秩序」が「個人の秩序」の集合体であることを認めるんですね?
>>255 もうひとつ
『「社会の秩序」は「犯罪行為」を行っていない人が持っている』
『「社会の秩序」は犯罪者が自分の犯罪を容認するようなものを持つ』
「社会の秩序」という名でこれら二つはまったく違うものを意味しています
はっきりいってムジュンしています、これは言葉を変えるべきです。
>>257 >あなたが日々生活している場所が「社会」でないとしたら
>一体何なんですか?
我々の周りで起こっている出来事に意味を持たせているのは自分の世界観だと考えています。
私の世界観が、私の周りで起こっている出来事を「社会の出来事」に作り上げているのだと
いうことです。
私の観念が私の外に社会という像を作り出しているのです。
そして、みんながみんな、自分の観念によって自分の外に社会という像を作り出しているのです。
つまり、みんなが、自分の中の出来事を、自分の外の出来事だと錯覚しているだけなのです。
ただ、みんなの観念に共通な部分が多いので、誰から見ても社会が人の外部に
実在しているように感じられるだけです。
私は、誰から見ても同じように見える客観的な存在としての「社会」は
この世には存在していないと考えています。
私の考えでは、「社会」は私の中にある観念なんです。
私達ひとりひとり心の中に「社会」の像(社会とはこういうものだという観念) があるのです。 そして、その各自の心の中の「社会」の像にぴったり対応した「個人の秩序」が 各自の心の中にあるのです。 ですから、「社会」の像は、人間の数だけあると考えられます。 「社会の秩序」は人間の数だけあるのです。そして、その社会の秩序に ぴったり対応した「個人の秩序」も人間の数だけあるのです。 私はそう考えています。
>>260 >>つまり、みんなが、自分の中の出来事を
自分の外の出来事だと錯覚しているだけなのです。
ということは社会で起こる様々な事件
つまり児童虐待や交通事故、鳥インフルエンザや長島監督の入院等も
漏れの頭の中で起こっていたのですか!
なるほどねえ、そう考えると、たかが1個人の入院があんなに騒がれたり
マスコミに叩かれたぐらいで会長が自殺するなんて、有り得ない錯覚だよなあ
うん、すべてに合点がいきましたよ。
では、もちろん2ちゃんねるなんてのも錯覚なんですよね?
本当は、2ちゃんねるなんて存在しないんでしょ?
あなたも、漏れの頭の中にいる妄想なんですよね?
>ということは社会で起こる様々な事件 >つまり児童虐待や交通事故、鳥インフルエンザや長島監督の入院等も >漏れの頭の中で起こっていたのですか! そういう事です。 人間は確かに存在しています。車も走っています。鳥も存在しています。 「長島監督」と呼ばれる人間が存在する事も事実です。 しかし、それらを言語で切り取っている以上、それらはすべて観念です。 「児童」「虐待」「交通事故」「鳥インフルエンザ」「長島監督」・・・これらは すべて共同観念です。 私たちの周りで起こる人間に関する出来事はすべて共同観念によって意味を与えられて いるのです。 私の意見では、 長島監督を長島監督たらしめているものは共同観念なのです。 長島監督自身の中に何か長島監督の本質があるわけではありません。
>>263 やっぱり観念論者ですか
まあ、どうでもいのですけど。
本題に戻って
『「社会の秩序」は「犯罪行為」を行っていない人が持っている』
『「社会の秩序」は犯罪者が自分の犯罪を容認するようなものを持つ』
一体「社会の秩序」は犯罪者が持っていないものなのか
それとも持っているものなのか? どっちなのでしょうか?
観念論者に実在の論拠は意味を持ちませんが
言葉のムジュンは重要ですよね?
あなたが観念論者であることは分かったんですが しかし、今ひとつ納得いかないことがあります それは『何故あなたは「社会の秩序」がある場所を問うたのか?』ということです。 どういうことかというと 「言語で切り取っている以上、それらはすべて観念」になるなら もちろん「場所」も観念になります だから、どんな場所を示しても、観念が個人の中である以上 すべての対象は「個人の中にある」ということになってしまいます。 つまり「東京」や「日本」、「公園」や「漏れの部屋」、もちろん「社会」や「世界」等・・・ 場所を示すすべての言葉は、観念や共同観念ということになるのだから すなわち、「場所を問う」ということ、それ自体が無意味なことであるはずなのに 何故、あなたはそんな意味のないことをやったのでしょうか?
>>264 各自が各自の「社会の秩序」を自分の中に持っているのだと考えられます。
>しかし、今ひとつ納得いかないことがあります >それは『何故あなたは「社会の秩序」がある場所を問うたのか?』ということです。 私は、「社会の秩序」は個人の中にある共同観念だと考えています。 「社会の秩序」は個人の中にしか存在しないと私は考えています。 しかし、そうではないとおっしゃる。個人の中の観念ではないとおっしゃる。 だから、「それじゃあ、どこにあるの?」と聞いたのです。 個人の中の観念ではないのだとしたら、一体それはどこにある何モノなのか?と 聞いたのです。 「個人の中以外にそんなものが存在する場所はないでしょ。」と言いたかったのです。
>>266 >>各自が各自の「社会の秩序」を自分の中に持っているのだと考えられます。
しかしあなたは『「社会の秩序」は犯罪者が持っていないものである』といった
これはどういうことですか?
>>267 >>だから、「それじゃあ、どこにあるの?」と聞いたのです。
その問いが無意味なのです
お分かりになりませんか?
例えば「りんごは青森にある」と主張しても
「青森」というのは皆が自分達の観念によって作り上げた「共同観念」なので
「青森」は自分の中にあり、よってそこに存在するはずの「りんご」も自分の中にある
という解釈ができるからです
だから「場所を問う」という行為は無意味なのです。
>>「個人の中以外にそんなものが存在する場所はないでしょ。」と言いたかったのです。
正確には「個人の中以外にどんなものも存在するはずがない」ですね。
>>268 >しかしあなたは『「社会の秩序」は犯罪者が持っていないものである』といった
>これはどういうことですか?
犯罪者が「持っていない」とは書いていませんが。
>>255 を読み返してください。
「社会の秩序」は各自が持っており、それぞれの「社会の秩序」は微妙にあるいは大きく
違っています。
犯罪者は、その犯罪をある程度容認するような「社会の秩序」を持っているだろうし、
犯罪を非難する人々は、その犯罪を許容しないような「社会の秩序」をもっているだろう
という事です。
>>269 >正確には「個人の中以外にどんなものも存在するはずがない」ですね。
人間の心に関することはすべて観念だといえると思います。
自然の石や木や土や、建物が存在している事は事実です。
「人」が存在しているのも事実です。
しかし、それらに意味付けをし、意味によって相互を関連付けているのは
私の観念です。
そして私は、私の観念を通してしか、外界を見る事ができないのです。
私が、自然や他者をありのまま見るという事は不可能なのです。
私は常に、私の観念というフィルタを通すことによって外界を捉えているのです。
いや、もっと言うと、私から見えるのは私の観念だけなのです。
私は私の観念と対話しているだけなのです。
何故なら、私の観念が外界の対象ときちんと対応している保証は、
実はどこにもないからです。
>>270 >>犯罪を非難する人々は、その犯罪を許容しないような「社会の秩序」をもっているだろう
という事です。
「犯罪を非難する人々」では、集合になりますよ
あなたは「社会の秩序」が「個人が持っている観念のうち、その人が
社会の皆が共有している観念であると信じているものの集合」であることを否定したんでしょ
言い直したほうがいいんじゃないですか。
>>271 あなたが観念論者であることは分かっていますので
別にご自分の考えを披露していただかなくとも結構です。
で、結局
「場所を問う」という行為は無意味なのだということを
ご理解いただけたのでしょうか?
そして「場所を問う」という行為は無意味なために
「社会の秩序の場所を問う」ことで「社会の秩序が客観的に存在しない」と言うことを
示そうとしたあなたの行為も無駄なのです。
よって『「社会の秩序」は「個人の中にある秩序」が集まってできたモノ』
という主張に対する反論はまったくできていない
と、こういうことになるワケです。
274 :
没個性化されたレス↓ :04/03/14 16:47
>>272 各自が各自の社会の秩序を持っていると何度も書いているでしょう。
あなたが勝手に集合的に考えているだけです。
275 :
没個性化されたレス↓ :04/03/14 16:51
>>273 私が、「「社会の秩序」が「個人の中にある秩序」の集まってできたモノである」
という事に反論しているとは知りませんでした。
>>274 >>犯罪を非難する人々は、その犯罪を許容しないような「社会の秩序」をもっているだろう
という事です。
あなたは、犯罪を許容しない内容の「社会の秩序」を
「犯罪を非難する人々」が持つ、と書いているんですが。
「人々」っていうのは、複数の人間ってことで、個人の集合ですよね?
すると、個人の集合が犯罪を許容しない内容の「社会の秩序」を持つ、ということになるんですが
いいんですか?
>>275 反論していないんですか?
それでは、「「社会の秩序」は「個人の中にある秩序」の集まってできたモノである」
という命題を認めるということで、よろしいでしょうか?
>>273 >で、結局
>「場所を問う」という行為は無意味なのだということを
>ご理解いただけたのでしょうか?
何言ってるのか分かりません。あなたは観念論者なのですか。
もし、あなたが観念論者ならば
『「社会の秩序」は「個人の中にある秩序」が集まってできたモノ』が、個人の心の中にしか
存在しないのですから、それは結局「個人の中にある秩序」 になってしまいます。
もし、あなたが観念論者でないのならば
『「社会の秩序」は「個人の中にある秩序」が集まってできたモノ』が個人の心の中ではなく
どこにあるのかにつて、あなたの信じる所を述べる必要があります。
279 :
没個性化されたレス↓ :04/03/14 18:39
>>276 >あなたは、犯罪を許容しない内容の「社会の秩序」を
>「犯罪を非難する人々」が持つ、と書いているんですが。
犯罪を非難する人々が、各自別々に、犯罪を許容しない内容の「社会の秩序」を持つという事です。
280 :
没個性化されたレス↓ :04/03/14 18:39
ごめん、ずっと前から読んでた者だけど。 通りすがりの戯れ事と思ってちょ。 私から言わせれば 観 念 な ん て 糞 腹の足しにもならねーや。
>>280 「観念なんて糞」ってのも観念ですね。
人間は観念がなければ生きていけません。
観念がなければ、判断腹の足しになるかどうかも判断できないし、
そもそも会話ができないでしょう。
282 :
没個性化されたレス↓ :04/03/14 18:54
>>277 >それでは、「「社会の秩序」は「個人の中にある秩序」の集まってできたモノである」
>という命題を認めるということで、よろしいでしょうか?
私にとっては
「「社会の秩序」は「個人の中にある秩序」の集まってできたモノである」 と
「「社会の秩序」は「個人の秩序」である」とは同じ主張です。
どちらも個人の心の中にあるものですから。これらを区別する必要は私にはありません。
もしその社会の秩序が個人の心の中にあると言うのなら
あなたの命題を認めるという事は私の命題を認めるということと同じです。
正直、心理学徒から言っても糞のようなものだけど
「糞だから相手にしない」じゃあ議論にならないし。
>>278 >>もし、あなたが観念論者でないのならば
『「社会の秩序」は「個人の中にある秩序」が集まってできたモノ』が個人の心の中ではなく
どこにあるのかにつて、あなたの信じる所を述べる必要があります。
勿論漏れは観念論者でないので
『「社会の秩序」は人が集まる「社会」にある』
と再三再四言っていますよ
あなたが変な難癖つけてくるから、こじれてしまう訳で。
>>282 >>私にとっては
「「社会の秩序」は「個人の中にある秩序」の集まってできたモノである」 と
「「社会の秩序」は「個人の秩序」である」とは同じ主張です。
上は、様々な「個人の秩序」が「社会の秩序」の要素であると言っているのです。
記号で正確に書くと、上が「ある人間Aの秩序」∈「社会の秩序」で
下が「ある人間Aの秩序」=「社会の秩序」ですから
意味がゼンゼン違うでしょ。
『観念』の定義を確認しときたいので。 広辞苑より @ (仏教用語) 観察し思念すること。仏陀や真理などに心を集中してよく考えること。 A あきらめること。覚悟。 「もはやこれまでと___する」 B (哲学・心理学用語) (idea)思考の対象となる意識の内容・心的形象の総称。 山の観念、善悪の観念など。 C 物事に対する考え。見解。「固定_____」「責任_____」「経済_____に欠ける」
>>281 私の
>>280 「観念なんて糞」の『観念』は、
>>285 Bの意味で使った。
対するあなたのレスの『観念』は Cだ。
一般に「観念」といえばBに該当するでしょ。BとCをゴチャにして考えてない?
単語の定義がズレている事が、この議論の原因だと思うね。
私にとって、
観念なんてモンは、頭の中だけで作り上げモン、
体験不足分を想像で補ってできたモンだと思ってる。
実際に体験したら、『ああ、甘い考えだった』と思う事が多々あった。
でもな、体験する前は、『観念=把握したつもり』だったんさw
『観念』の反対語は、『現実』でしょ。
まぁ、この方は、その『現実』さえ 『観念の産物』と言わはるんでしょうなw
まぁ、お二方とも、そろそろナンバーでもいいからコテつけてよな。
二人だけのチャットもいいんだけど、把握しにくい。
それに『道徳心』から ずいぶん反れてきちゃってるね。
まー必要な過程だと理解してるつもりなんだけどさ。ケチつけたかw
287 :
没個性化されたレス↓ :04/03/15 16:40
「倫理」とは、あえて善と悪にコントラスト(白と黒)をつけ、善を賞賛し悪を非難する視点 との見方があるそうです。何故はっきりとコントラストをつけねばならないのか? それは、ひとたび灰色を許容するとひとは、限りなく黒に傾斜する危険があるから というのが理由だそうです。「道徳」とはそうしてみると、あえて公と私にコントラスト をつける視点という見方も成立するでしょう。同じように、私に傾斜する危険性 がある、ということがはっきりとコントラストをつける根拠となります。 危険性、危機意識が国レベル、社会のレベル、個人のレベルで質量共に異なるのですね。 だから、難しいのでしょうね。
>>283 >勿論漏れは観念論者でないので
>『「社会の秩序」は人が集まる「社会」にある』
>と再三再四言っていますよ
その「社会」はどこにあるのでしょうか。
人々が集まれば、そこが「社会」なのでしょうか。
人々がどう集まれば「社会」になるのでしょうか。
また、人々が集まったどのあたりに「社会」があるのでしょうか。
その目に見えない「社会」とは観念なのではないでしょうか。
私には、「社会」は観念として存在しているとしか思えないんですが・・・。
観念ではない「社会」はどのように存在しているのでしょうか。
>>284 >「「社会の秩序」は「個人の中にある秩序」の集まってできたモノである」 と・・・
>・・・は様々な「個人の秩序」が「社会の秩序」の要素であると言っているのです。
>>282 に書いたように
私にとっては どちらも個人の心の中にあるものですから同じことなのです。
それからもし、「個人の秩序」が集まって「社会の秩序」ができるのだとするならば
個人の中の観念として存在している「個人の秩序」がどこに集まるんでしょうか。
個人の心から外へ出て行ってどこかで集まるんでしょうか。
また、誰かが「個人の秩序」を集めているんでしょうか。もしそうなら
誰が集めているんでしょうか。そして、それらをどうやって集めているんでしょうか。
例えば、個人が「個人の秩序」に従って生きていて、社会のいろんな人々と
接しているうちに社会のいろんなルールを知り、その結果、
自分の中に「個人の秩序」とは別の「社会の秩序」が出来上がるという風に
考えておられるのでしょうか。
もしそうなら、これらはすべて個人の中の出来事ですから、すべては観念だという事に
なります。「個人の秩序」も「社会の秩序」も個人の観念です。
そして、本人が「個人の秩序」と「社会の秩序」とを区別して考えていたとしても
その「社会の秩序」は、その人自身がその人個人の中で作り上げた
その人独自の観念であり、万人が共通して持っているモノではなく、その意味で
個人的な秩序であると言えます。つまり、それは「個人の秩序」なのです。
>>286 私は「観念」という言葉をかなり広い意味に使っていますね。
観念や概念、価値観、世界観、イメージ、幻想、妄想などをすべて含んだ
感じでしょうか。
私はこれらの意味を指す言葉としては「幻想」という言葉が一番好きなんですが、
いきなり「幻想」と書いてもその意味が伝わりにくいと思い、
「観念」という言葉を使いました。
「観念」は頭で作り上げるモノでしょうが、
「現実」も頭の中で作り上げるモノではないでしょうか。
経験を通して「現実とはこういうモノだ。」という風にだんだん分かっていくものでしょう。
その「現実」は、その人自身の経験に基づいた、その人自身にとっての「現実」でしょう。
つまり、個人が個人の経験を材料として個人の中に作り上げていくのが「現実」なの
ではないでしょうか。
私には私の中に私にとっての「現実」があり、
彼には彼の中に彼にとっての「現実」があり、・・・といった感じではないでしょうか。
そして、それらの現実の素になるような客観的な「現実」が
各個人の外に存在している訳ではないでしょう。
>>287 私の考えでは、
人間は何らかの価値によって支えられていないと生きていく事ができません。
そして、
自分という人間を支えてくれるのが「道徳」という価値体系なのだと考えられます。
人間は、自分を支える為に自分の中に「道徳」を持たなければ
生きていけないのだと思います。
自分は道徳に照らして善なる行いをしているのだと思うことができれば、
すなわち自分はいい人間なのだと思うことができれば、自分の精神は安定します。
個人の精神の安定の為には、
善と悪がはっきり分かれていて、その内の善なる生き方を自分は選んでいるのだと
思えると、都合がいいんでしょうね。だから、道徳は善悪をはっきりさせようとするんでしょう。
>>291 時間が無いので、捨て書きで失礼。
あなたの文章を読んでいると、いつも 『 ? 』が 湧き興る。
あなたの主張は、こうですね?
『精神の安定を得る』ために、倫理観が存在する と。
つまり、『目的』としている事が、私には腑に落ちないのよ。
私が言いたいのは、
倫理・道徳は、 『精神の安定』など個人の事情などお構いなしに、既に『ある』という事。
そして、それは幼児期から、『教え・しつけ』という形で、親や周囲から伝授され会得するもの。
『おはよう、こんにちは、ありがとう・・・あいさつをしなさい。』
『下に落ちたモノを拾って食べては、不潔だからダメて゜す。』
『道路に飛び出しては、いけません。』
子供の成長に応じて、伝える内容も高度になっていくわね。
『生理的』から 『集団への対応』へ。
だんだんと、『社会に適応する自立した人間になるための必須吸収要素』と思っている。
それは、『精神の安定』を含むけれど、
すべてじゃない。
『生きていくための知恵』なんだよね。 的確な表現が思いつかないやww
>>292 >倫理・道徳は、 『精神の安定』など個人の事情などお構いなしに、既に『ある』という事。
私は、それは錯覚だと考えています。既に在るように錯覚しているだけだと考えています。
みんなは、道徳や倫理は個人を超えた普遍的なものでなければならないと思っているでしょう。
私もそう思っていますが、実際には個人を超えた普遍的な道徳・倫理というものは
存在しないのだという事を訴えつづけているのですが・・・。
>>288 一つ聞きますが「観念じゃないもの」はどこにあるんですか?
その答えを参考にして漏れも答えます。
>>289 >>もしそうなら、これらはすべて個人の中の出来事ですから、すべては観念だという事に
なります。「個人の秩序」も「社会の秩序」も個人の観念です。
「個人の中の出来事なのだから、それは同じもの」という事はいえないでしょう。
例えば「正義」と「悪」は個人の中の価値観という点では同じですが
「正義「と「悪」は同じものを指す言葉ではないでしょう。
>例えば「正義」と「悪」は個人の中の価値観という点では同じですが >「正義「と「悪」は同じものを指す言葉ではないでしょう。 「正義」と「悪」の話なんか誰がしているのですか。 そうやって、話を変に一般化して訳の分からない方向へもって行かないで下さい。 私は、個人の観念としての「個人の秩序」と「社会の秩序」のことを言っただけです。 個人の観念としては、「個人の秩序」と「社会の秩序」は言い方が違うだけで内容は同じものだ と言っただけです。
>>295 例えば、石がそこに存在している事、木がそこに存在している事、
いろんな動物が地球上に存在している事、
我々がビルと呼んでいるコンクリートの建造物がそこに存在している事、・・・
これらは観念じゃないでしょうね。
しかし、そういう存在を「石」と名づけたり、木を「木」と呼んだり、
ある動物を「ライオン」と呼んだり、コンクリートの建造物を「ビル」と呼んだり、
「○○会社の社屋だ」と認識したりする事はすべて観念の領域でしょう。
「石」と名付けた時には、もうそれらは観念としての「石」になっています。
・・・つくづく、284さんは、辛抱強いと思ったね。私も見習うわ。では、後ほど。
>>299 例えば、石がそこに存在している事、木がそこに存在している事、
いろんな動物が地球上に存在している事
なるほど
では、自分もそう言います
『「社会の秩序」はそこに存在している。』
>>297 >>「個人の秩序」と「社会の秩序」は言い方が違うだけで内容は同じものだ
と言っただけです。
内容も違うでしょう
何故なら「社会の秩序」は自分の知らない法律とか、決まりとかも含むのですから。
自分の知らないものが「個人の秩序」にはならないでしょ?
>>300 まあ、議論するのは楽しいからね。
それに、辛抱強いと言っても
かつてのマルシンド先生ほどじゃあないでしょう。
>>301 全然違うじゃないですか。
石や木が存在する存在の仕方と、「社会の秩序」が存在する存在の仕方は
まったく違います。
石や木はそれ自体で存在しています。
石を観察する人、了解する人がいなくても石は石で存在しています。
しかし、「社会の秩序」はそういう仕方で存在している訳ではないでしょう。
「社会の秩序」を認める人々、了解する人々がいなければ、
「社会の秩序」は存在しません。
「社会の秩序」が石と同じような意味で存在しているとは言えません。
>>292 >倫理・道徳は、 『精神の安定』など個人の事情などお構いなしに、既に『ある』という事。
>そして、それは幼児期から、『教え・しつけ』という形で、親や周囲から伝授され会得するもの。
教えやしつけは、親の幻想を子供にも押し付ける事です。
その結果、同じ幻想を共有するようになるのです。
同じ幻想を共有する事によって親子という関係が出来上がっていくのです。
ですから、道徳は個人の外部の既にあったのではなく、
親の中に幻想(観念)としてあったのです。それを子供がコピーしたのです。
>>304 >>石や木はそれ自体で存在しています。
石を観察する人、了解する人がいなくても石は石で存在しています。
観察する人間がいないのに
そこにものが存在すると言うことは不可能ですよ。
まあ、別に「モノの実在」を否定する訳ではありませんので
とりあえず「観察する対象」を仮定して
「観念じゃないもの」がどこにあるかを示してください。
>>306 >観察する人間がいないのに
>そこにものが存在すると言うことは不可能ですよ。
何を言っているのかまったく分かりません。石は人間がいなくても存在しています。
今、仮に地球上の人間がすべて消えても、例えば、富士山は依然として
そこに存在しているでしょう。存在を確認する存在がいないだけです。
存在を了解する人がいないだけで、そこにモノが存在する事には変わりはないでしょう。
>>294 それから、道徳が個人の事情とは関係なく、既にあるとすると、
その内容は既にはっきりしているのでしょうか。
例えば、「人に会えば挨拶をするべきである。」というのは道徳に含まれているのでしょうか。
「レジや電車を待っている列に横入りをしてはいけない。」というのは含まれているのでしょうか。
もし含まれているとすれば、
人に会っても挨拶しない人もいれば、列に横は入りする人もいますが、
こういう人達の存在はどのように説明されるんでしょうか。
こういう人達は、私達とは違う「社会の秩序」を持っていると言えるのではないでしょうか。
私は、人が各自持っている「社会の秩序」がそれぞれ異なっているから、
ある規範と思われているモノに、従う人もいれば従わない人もいるのだと考えているのですが。
>>307 >>今、仮に地球上の人間がすべて消えても、例えば、富士山は依然として
そこに存在しているでしょう。存在を確認する存在がいないだけです。
存在を了解する人がいないだけで、そこにモノが存在する事には変わりはないでしょう。
あなたの論理に従って、地球上の人間がすべて消えたとします
でも、六法全書や、交通標記など、「社会の秩序」を表すモノはのこります
これも、その内容を了解する人間がいなくなっただけで、そこにモノが存在することに変わりありません
「社会の秩序」は現実に存在するんじゃないですか?
また、「私たちにとって交通標識は存在しない」ということもできません
何故なら、ここでは「すべての人間がいない」と言う前提なので
「私たちにとって」という観察者を仮定して導き出される命題は事実上成立しえないからです。
「みんなが共有している認識がなければ、そこに「何かマークが書かれたモノ」が存在しても それを誰も交通標識だとは思わない、従って、私たちにとって交通標識は存在しない」 とあなたはおっしゃった しかし、それは「石」についても同じです。 「みんなが共有している認識がなければ、そこに「様々な元素が結集してできた物質」が存在しても それを誰も石だとは思わない、従って、私たちにとって石は存在しない」 しかし、、あなたは観察者がいなくても「石は実在している」とおっしゃった ならば観察者がいるかどうかは関係なく「交通標識も実在している」とおっしゃるべきです。
>>309 「六法全書」などの「モノ」が「社会の秩序」と考えておられるのですか。
それでは話になりません。
…哲板向きでは?
>>311 >>それでは話になりません。
平行線のようなので、話を元に戻します。
要するに、漏れは「個人の秩序」と「社会の秩序」は違うもので
あなたは同じものだとおっしゃった
そこが問題点なわけですよね。
で、漏れは「社会の秩序」は「集合」であり
「個人の秩序」はその集合の「要素」であると考えているわけですよ
「集合」と「要素」は違うから、社会と個人の秩序は別々に考える必要がある、というわけですな。
この考えが明確に現れるのが、海外旅行などに言った場合です
「外国の社会の秩序」は「自分の社会の秩序」とは違っているものが多々含まれますから
例えば、ドイツでタクシーに乗ろうとして手をあげても乗れない、等といった経験から
海外旅行者は「個人の秩序」と「社会の秩序」が違うことを、まざまざと認識させられると思います
そしておそらく、これからはタクシーに乗るのに手をあげようとはしなくなるでしょう
つまり、自分のもつ「個人の秩序」を書き換えてしまうでしょう。
対して、「社会の秩序」を形成している人間が一人外国へ旅行に行ったところで
その国の「社会の秩序」は変わりませんよね
また、「タクシーに乗るのに手をあげない」秩序を持つ海外旅行者が帰国したところで
依然としてその国の「社会の秩序」は変わらないでしょう
海外旅行者の「タクシーに乗るのに手をあげない個人の秩序」が失われるだけだと思います。
そのように、秩序の内容が変化する度合いを見ても
「社会の秩序」と「個人の秩序」には明確な違いが見られ
「社会の秩序」と「個人の秩序」は別物である、ということが言えると思います。
>>313 >で、漏れは「社会の秩序」は「集合」であり
>「個人の秩序」はその集合の「要素」であると考えているわけですよ
この「要素」である「個人の秩序」は個人の中にあるんですよね。
じゃあ、「集合」はどこにあるんでしょうか。やっぱり、個人の外にあるんでしょうか。
各個人の中にあるものをどうやって集めるんでしょうか。
315 :
没個性化されたレス↓ :04/03/30 09:47
なんというか,ど素人がへっぴり腰で斬り合っているような展開だな(藁
>>314 >>この「要素」である「個人の秩序」は個人の中にあるんですよね。
もちろん「個人の秩序」は個人に内在する機能ですよ
だから、その集合である「社会の秩序」は、個人を集めたもの
つまり、影響を与えあったりしている人々のまとまりである社会にあると言ってるんです。
これをパソコンに例えるなら、「命令解釈や論理演算」はCPUに内在する機能であり
「記憶、読み取り、書き込み」はメモリに内在する機能です
そして、個々のCPUやメモリ、ディスプレイやキーボードなどの持つ機能を
それぞれが影響を与え合うように合わせたものが、全体の「パソコンの持つ働き」であるということと同じです。
まあ、CPUに内在する「命令解釈」の機能も、パソコンの持つ働きの一つではありますが
「命令解釈」=「パソコンの持つ働き」ではないでしょう。
>>316 >もちろん「個人の秩序」は個人に内在する機能ですよ
>だから、その集合である「社会の秩序」は、個人を集めたもの
>つまり、影響を与えあったりしている人々のまとまりである社会にあると言ってるんです。
どういうメカニズムで個人の中にあるものが個人の外に集合できるんですか。
個人の中の観念が個人の外に出るとするとそれはナニモノになるんでしょうか。
観念のまま個人の外に出るのでしょうか。観念が何かに変質して外に出るのでしょうか。
例えば、平面上の点の集合である円はやはり平面上にあります。
平面上の点を集めたものが平面の外に出ているという事はありえません。
だいたい、要素とその集合は同じフィールドにあるはずではありませんか。
私の考えでは、複数の個人の中にある観念を集めることは不可能です。
是非とも、どのようにして「個人の秩序」を集めるのかを説明してください。
>>317 >>どういうメカニズムで個人の中にあるものが個人の外に集合できるんですか。
個人に内在する機能は、他の個人と相互作用する上で違う働きを持つことがあります
例えば、人間の生体機能の一つである「声を出して歌を歌う」という機能を集合させれば
「コーラスを歌う」という風な違う働きを生み出すことが可能です。
>>個人の中の観念が個人の外に出るとするとそれはナニモノになるんでしょうか。
個人の中の価値観や概念などは、個人の行動という形で表に現れるかと
例えば、あるモノが価値が高いと言う観念を持った人間は、そのモノを自分のものにしようとするでしょう。
>>318 観念と声とは違うでしょう。観念は外から見えませんよ。
どのようにして個人の中の観念を「コーラスを歌う」ように集めるのでしょうか。
そして、集めたものはナニモノなのでしょうか。
個人の外に集合した観念の集合はやはり観念なのでしょうか。
それとも別の何かなのでしょうか。
私は「個人の観念の集合」という考え方に問題があると思っていますが・・・。
>>319 >>観念と声とは違うでしょう。観念は外から見えませんよ。
声も外から見えませんね
>>どのようにして個人の中の観念を「コーラスを歌う」ように集めるのでしょうか。
人が集まれば、自然と集まるのでは?
なにぜ「個人の秩序」は人に内在するものですからね
まあでも、個人の中の観念だけを集めることはできないでしょう
「コーラスを歌う」ために、「人間ののど」だけを集めることができないように。
>>そして、集めたものはナニモノなのでしょうか。
「個人の中の秩序」が行動と言う形で表出し
それそれが集まって相互作用した結果、生じた行動の枠組みが「社会の秩序」です。
>>320 >「個人の中の秩序」が行動と言う形で表出し
>それそれが集まって相互作用した結果、生じた行動の枠組みが「社会の秩序」です。
観念ではないのですか。
形があって存在しているモノではないのですか。
もしそうなら、それは何なのですか。
>>320 >それそれが集まって相互作用した結果
どこに集まっているのか、どういうフィールド上で相互作用するのかよく分かりません。
例えば、Aという人の「個人の秩序が行動という形で表出した場合」、その行動を見ていた人Bが
Aの行動の意味を解釈して、Aの中の秩序はこういうものかなと推定するという事があります。
その場合、「Aの中の秩序に関する推定」はBの中の観念でしかありません。
そして、Bの抱いた観念が正しくAの中の秩序を推定している保証はどこにもありません。
AとBとが相互に影響を及ぼした合って人間関係を持ったとしても、
Bの個人像あるいは「Bがもつ個人の秩序」像のという観念がAの中にできていき
Aの個人像あるいは「Aがもつ個人の秩序」像のという観念がBの中にできていくだけでしょう。
A、B2人の持つ観念がそれぞれ変化するだけです。
A、Bの持っている個人の秩序がどこかに集まってまとまるということはないでしょう。
AとBが人間関係を持ち、それを通して、互いの人間像や二人の関係や 外部の世界に関する共通認識ができるという事はあります。 この場合、共通認識がA、B二人の外部にできる訳ではありません。 「共通認識」はA、Bそれぞれの精神の中にそれぞれの観念として存在しています。 「共通認識」とは、A、Bが同じような観念を抱いているというような意味ですが、 実際には、二人が同じような観念を抱いている訳ではありません。 互いに「同じような観念を抱いている。」という思い込みが両者の中にあるだけです。 ですから、「共通認識」とは、AとBがそれぞれに抱いている観念であって 両者ともその観念を相手と共有しているという思い込みを持っている・・・ そういう観念のことをいうのだと思います。
>>321 >>観念ではないのですか。
観念と言う言葉が好きでつな
この言葉、定義があいまいなので、あまり使って欲しくないんですが
まあ、「社会の秩序」には明文化されたルールなども含まれるので、ただの観念ではないかと。
>>322 Bの個人像あるいは「Bがもつ個人の秩序」像のという観念がAの中にできていき
Aの個人像あるいは「Aがもつ個人の秩序」像のという観念がBの中にできていくだけでしょう。
ある状況に対してほとんど全ての人が同じような行動をとったら、それを見ていたBはどういう風に行動すると思いますか?
おそらくBは、ほとんど全ての人がとった行動と同じ行動をするでしょう
しかし、ある状況に対してAしかとらなかった行動には、Bはそれと同じような行動をしようとは思わないでしょう。
例えば街で、一人の人間が空の一点を見つめていても、通行人は誰も空を見ようとはしませんが
かなりの人間が空をみつめていると、通行人は真似して空を見てしまいます
この現象を同調と言うのですが。
しかし何故、人間はみんなが同じような行動をとっていると自分も真似するのに
一人しかとっていない行動は真似しないのでしょうか?
それは、ある特定の人達しか行わない「個人の秩序」に基づいた行動と
多数の人間が行う「社会の秩序」に基づいた行動、という風に分けて考えられているからではないでしょうか。
>>322 >>A、B2人の持つ観念がそれぞれ変化するだけです。
A、Bの持っている個人の秩序がどこかに集まってまとまるということはないでしょう。
だから、個人の秩序だけが一人歩きしてどこかに集まるなんて言ってないでしょ
個人の秩序を持っている人間が集まると言っているんですよ。
>>324 >例えば街で、一人の人間が空の一点を見つめていても、通行人は誰も空を見ようとはしませんが
>かなりの人間が空をみつめていると、通行人は真似して空を見てしまいます
これは人が人の行動を真似しているだけで社会の秩序とは何の関係もないと
私は思うのですが。あなたにとっては同じ事なのでしょうか。
>>325 >だから、個人の秩序だけが一人歩きしてどこかに集まるなんて言ってないでしょ
>個人の秩序を持っている人間が集まると言っているんですよ。
個人が集まっても観念の集合はできないんですけど。
>>324 >まあ、「社会の秩序」には明文化されたルールなども含まれるので、ただの観念ではないかと。
「社会の秩序」には字で書き表されたものがあり、それは形ある存在だから観念じゃないと
そう主張されているのでしょうか。
明文化されたものがルールの本体ではないでしょう。
明文化されたものが指し示している内容がルールの本体です。
一般に電車の中では煙草を吸ってはいけませんが、電車の車両の中に貼られた「禁煙」
と書かれたプレート自体がルールの本体なのではなく、「禁煙」と書かれたプレートが
指し示している内容すなわち「この車両の中では煙草を吸ってはいけない。」という概念
あるいは観念がルールの本体です。プレートはそのシンボルにすぎないでしょう。
>>326 行動の真似が社会の秩序とは関係ない?
だったら何故、社会生活を営む人間は皆同じような行動を取っているのですか?
なんで皆、会社に行くのにスーツを着るのでしょうか?
なんで皆、電車に乗るのに切符を買うのでしょうか?
またなんで、赤信号で皆が待っていると、自分も待つのに
信号が赤でも皆が渡っていると、自分も渡ろうとするのでしょうか?
何故、皆がしている行動をとると、行動を束縛する罪の意識が消えるのでしょうか?
>>327 >>個人が集まっても観念の集合はできないんですけど。
ある特定の考えを持つ人、例えばオウム信者や教団幹部が集まれば
オウム真理教という観念の集合になるんじゃないんですか?
>>330 >ある特定の考えを持つ人、例えばオウム信者や教団幹部が集まれば
>オウム真理教という観念の集合になるんじゃないんですか?
観念は集合しません。特定の考えを持っているのは集団の構成員各自です。
観念は集団構成員各自の中にしかありません。
集団の構成員の皆がある一定の観念を共有する(=共有していると思い込んでいる) とき、この共有された観念を「共同幻想」と呼んでいます。 共同幻想は各自の中にあります。集団にあるのではありません。 各自の中にあるのですが、その幻想が集団のみんなと共有(共同化)しているという 思い込みが各構成員にあるため、共同幻想は個人の中にあって集団の行動に 影響を与えるのです。
>>331 >>観念は集合しません。特定の考えを持っているのは集団の構成員各自です。
観念は集団構成員各自の中にしかありません。
だから何度も言うように、観念だけが一人歩きするとはいってませんが
っていうか、なんで集合すると外にでることになるんですか?
オウム真理教を信じてる人と、そうでない人、というのを分けるだけなのに
なんで観念が外に出る必要があるんですか?
だんだん本筋からそれていってるんで、戻しますが。 それで、「社会の秩序」と「個人の秩序」というのは区別するべきだし 人間は普通、それらを区別して生活している という主張は、了解されたのでしょうか?
別に本筋からそれてはいないと思いますが。 「社会の秩序」が個人の中にある観念なのか 個人の外にある観念ではない何かなのかを議論している所だったと思いますが。 私は「社会の秩序」は個人の中の観念だと考えていますが、 あなたはそうではないとおっしゃる。 だから、「それではどうやって個人の観念が個人の外に出るのか、 それがどうやって集まるのか。そして、個人の外にできた「社会の秩序」は 観念ではないとすれば何なのか。」 それを説明して欲しいと言っているのです。 しかし、明確にはお答えくださらない。ここのところをはっきりしないで 了解も何もないと思うのですけれど。
>>335 >>私は「社会の秩序」は個人の中の観念だと考えていますが、
あなたはそうではないとおっしゃる。
なんか観念と言うものが良く分からなくなってきたので
「社会の秩序」も個人の中の観念と言うことで、了解しまつ。
で、観念として「社会の秩序」と「個人の秩序」というのは区別するべきだ
というのは、良いですか?
>>336 そう簡単に区別できるものではないと考えています。
個人の観念としての「社会の秩序」とはどういうものでしょうか。
「社会の秩序」とは、その人が「社会はこうあるべきだ。」
「社会の秩序とはこうなっているはずだ。」と考えているその内容のことです。
つまり、その人の「社会の秩序」に対する見解のことで、言い方を変えれば
その人の持つ世界観のことです。
そして、個人は各自の世界観に従って行動します。
個人はその世界観によって善悪を判断します。とってよい行動と悪い行動を判断します。
個人はその世界観によって秩序のある行動をとることができます。
つまり、「個人の秩序」はその世界観によって支えられています。
このように「社会の秩序」と「個人の秩序」は一体不可分の関係にあると考えられます。
>>337 339に書いているのですが
とってはいけない行動(例えば、信号を赤でわたること)でも
他の人が皆その行動をとると、自分もとりますよね?
赤信号、皆でわたれば、怖くない
といういいまわしにもそれが現れています
つまり、してはいけない行動でも、みんながすれば、していいことになるんですよ。
このことから推測するに、「社会の秩序」は周りの状況によって変化します
他の大勢の人間に左右される秩序、それが「社会の秩序」といえます。
しかし、周りの皆が行っていることでも、自分だけはしない行為と言うものもあります
皆は赤信号を平気で渡るが、自分は絶対に渡らない、と思う人もいるでしょう
個人がそれぞれに抱く、周りとは違う秩序、それが「個人の秩序」です。
339ではなくて、329でつ
>>337 そういえば、もうひとつあなたに聞いておきたいことがありました。
例えば、「イラクの秩序」というのは、実際のイラクの治安情勢を指すのですか
それとも、ある人が「イラクの秩序とはこうなっているはずだ。」と考えている内容を指すのでしょうか?
>>338 >とってはいけない行動(例えば、信号を赤でわたること)でも
>他の人が皆その行動をとると、自分もとりますよね?
とる場合もとらない場合もあります。
とる場合も、他の人が皆その行動をとっているという事実が
自分が皆と同じ行動をとるという事と直結している訳ではありません。
個人には個人の世界観があります。判断力もあります。
(これは行動規範あるいは道徳規範を持っていると言っても同じだと思いますが。)
自分の行動は自分の世界観に基づいて自分で判断して選択します。
あくまでも本人の世界観の問題です。
他の人が皆ある同じ行動をとっているという事実は、自分の行動を決定する際の
判断材料になることもならないこともあるでしょう。
>>338 >つまり、してはいけない行動でも、みんながすれば、していいことになるんですよ。
ならないでしょう。当人の世界観によるのです。
当人の世界観に照らし合わせてしてはいけない行動、していい行動を判断しています。
「してはいけない行動でも、みんながすれば、していいことになる。」という世界観を
持っている人ならば、他人の行動を真似して悪事を働くことはあるでしょう。
「してはいけない行動は、たとえみんながしていても、あくまでしてはいけない行動だ。」
という世界観を持つ人は、他人の悪事を真似したりはしないでしょう。
>>341 >>他の人が皆ある同じ行動をとっているという事実は、自分の行動を決定する際の
判断材料になることもならないこともあるでしょう。
なんで、判断材料になることもならないこともあるのですか
その条件は何ですか?
>>343 自分の行動は、自分の世界観に照らして決めるからです。
あなたも書いているように、他人の行動に左右されない事もたくさんあるでしょう。
>周りの皆が行っていることでも、自分だけはしない行為と言うものもあります
>皆は赤信号を平気で渡るが、自分は絶対に渡らない、と思う人もいるでしょう
また、他人の行動に左右されることもあります。
自分の世界観に照らしてもはっきりとは決まらなくて、他人の行動を参考にしたり、
周りの状況から浮くのを恐れて、周りに迎合した行動をとったりする場合です。
周りに迎合する場合も、
「目立って周りと違う行動をとるのは好ましくない。」という世界観が私の中にあるから
そういう判断になるのです。本人の世界観の問題です。
>>344 同じような意味ですが、一応、文脈に沿って
>「目立って周りと違う行動をとるのは好ましくない。」という世界観が私の中にあるから
を
>「目立って周りと違う行動をとるのは好ましくない。」という世界観が自分の中にあるから
と
訂正。
>>344 >>周りに迎合する場合も、
「目立って周りと違う行動をとるのは好ましくない。」という世界観が私の中にあるから
そういう判断になるのです。本人の世界観の問題です。
「目立って周りと違う行動をとるのは好ましくない、だから自分の世界観ではなく
他人の世界観を参考にしよう」とその人は思ったわけですよね?
すると、その人は「ある行動に対する自分の考え」と「ある行動に対する他人の考え」
という風に、自分とは違う他人の世界観があることを認めていることになります。
それはいいですか?
それから、「イラクの秩序」の問題はどうなのですか?
>>346 自分とは違う世界観を持つ人がいる事は確かに誰もが認める事でしょうね。
>>347 質問に答える前に少しばかり確認を。
>>340 >例えば、「イラクの秩序」というのは、実際のイラクの治安情勢を指すのですか
>それとも、ある人が「イラクの秩序とはこうなっているはずだ。」と考えている内容を指すのでしょうか?
この書き方から察するに、「実際のイラクの治安情勢」は何か誰の目からも同じように見える
客観的普遍的な「治安情勢」が存在するとお考えではありませんか。
私の考えでは「実際のイラクの治安情勢」も「誰かある人から見た治安情勢」しか存在しません。
誰から見ても同じように見えるはずの客観的な「治安情勢」は存在しません。
つまり、「実際のイラクの治安情勢」は、ある人が「実際のイラクの治安情勢はこうなっている。」
と考えている内容そのものです。
>>347 私は「社会の秩序」という言葉で「その人の住んでいる社会の秩序」を指してきました。
「その人の住んでいる世界の秩序」と言っても同じような事だと思います。
(この「世界」という言葉は「私と君とでは住む世界が違う。」というときの
「世界」と同じような抽象的な意味です。)
「その人個人の世界観」と言っても同じような意味でしょう。
だから、「イラクの秩序」という言い方は、私の言い方にはたぶんないですねえ。
ただ「社会の秩序」にならって「イラクの秩序」と言うとするならば、
それは「実際のイラクの治安情勢」と「イラクの秩序はこうあるべきだ」と私が考えている内容と
の両方を指しているでしょうね。
実は「実際のイラクの治安情勢」も、私から見た「実際の治安情勢」です。
ですから、その情勢判断は、私が「イラクの秩序はこうあるべきだ。」考えている内容
(「イラクの秩序」観とでもいいますか。)に大きく左右されます。
ですから、これらは一体となっていると考えられます。
「実際の治安情勢」が現実で、
私の「イラクの秩序かくあるべし。」の考えが観念だという訳ではありません。
どちらも私の抱いている観念なのです。
>>349 >>この書き方から察するに、「実際のイラクの治安情勢」は何か誰の目からも同じように見える
客観的普遍的な「治安情勢」が存在するとお考えではありませんか。
テレビなどで連日流される、イラク情勢に関するニュースは
誰の目から見ても同じにみえる客観的な「治安情勢」かと。
>>348 だとしたら、個人の中にある観念でも
社会の成員である他人の世界観に従った「社会の秩序」と
自分のみの、他人の世界観を考慮しない「個人の秩序」というように
双方を区別するべきでしょう。
>>352 >社会の成員である他人の世界観に従った「社会の秩序」と
「他人の世界観に従った」という意味が分からないのですが。
どういう世界観を言うのでしょうか。
ここにはどういったルールや秩序が含まれるんでしょうか。
>自分のみの、他人の世界観を考慮しない「個人の秩序」というように
「他人の世界観を考慮しない」というのはどういう意味でしょうか。
他人の真似をしないというような意味でしょうか。
他人のまったく関与しないというような意味でしょうか。
ここにはどんなルールが含まれるんでしょうか。
私の中のすべての幻想(観念)の内、 集団の他の構成員と共同化している部分(=共同幻想)と 他者とは共有できないで自分だけが抱いている部分(=私的幻想)とは 区別できます。 前者は自我に含まれる幻想で、後者はエスに含まれる幻想です。 そして、前者を「社会の秩序」と呼び、後者を「個人の秩序」と呼んで区別することは できるかもしれませんが、その場合、後者は個人が意識できないモノばかりで、 集団の他者とは共有できないような危ないモノばかりですから、 とても「秩序」と呼べるようなものではないでしょう。 「個人の混沌」となら呼んでもいいと思いますが。 私は前者の自我に含まれる部分を「社会の秩序=個人の秩序」と考えています。 あなたはこの部分を二つの部分に分けようとなさっていますが、 どのような基準で分けようとなさっているのでしょうか。
355 :
没個性化されたレス↓ :04/04/15 19:44
浮気をしてはいけないという道徳心はいつからつくられたものなんですか? 平安時代は違ったわけですよね?
確か、天皇で一夫一婦になったのは昭和天皇からですよね。 明治天皇、大正天皇には側室がいたと聞いた事があります。 それ以前はどうだったのかは知りませんが。
357 :
没個性化されたレス↓ :04/05/22 00:12
>357 第4段階の途中。
359 :
没個性化されたレス↓ :04/08/08 14:12
age
道徳は万人にあてはまる普遍的なものでなければなりません。 しかし、実際に皆が自分の中に持っている道徳は、千差万別です。 個人個人が自分なりの道徳を持っているのです。 つまり道徳は実際には個人的なものなのです。 その個人的な道徳を普遍的だと思い込まないと、精神の安定が得られないのです。 この思い込みはしばしばはた迷惑な事態を引き起こします。 宗教戦争なども原因はこういう所にあると言えるでしょう。
361 :
没個性化されたレス↓ :04/09/19 10:05:55
本能に従うことがそのまま自己保存の方法でもあるような動物と違って、 人間は「現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立」あるいは分裂状態にあるところに その根本的原因があります。 人間は、自己の快感原則にそのまま従っていては、まわりとの絶え間ない衝突を生み出して、 自己や種族の破滅に陥るため、自然的には無秩序なのです。 この自我が人間の「確かに持っている普遍的な壊れた本能(快感原則に従うエス)」に対して 環境との折り合いをつけ自己や種族を保存をするため共同体内のコミュニケーションを通じて 形成される「内輪だけが持っている確かな物では無い共同幻想」とされる。 諸個人が人間として生存するための条件は、それ自体が社会的なものであり 個人の目的の達成は、それが長期的なものであればあるほど、他から干渉を受けない自由と、 さらには他者の協力を多くの場合に必要とする。 他者から肯定され、承認されて尊厳を獲得してきたひとは、自分が自分であることにとって 他者や社会は必要不可欠だからそれらから疎外される事を恐れ責任感や罪悪感が産まれる。 個人が責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がない自由(リベラル)な状況でこそが 環境や所属する共同体が変わったり失敗した場合でも万人の万人に対する戦い(抑圧)を通じて お互いが妥協点を見つけたり反省したりして社会的秩序を形成する事ができる。 又、不自由は(従って自由は)三類型に分けられる。 第一は、選択肢が端的 に不在だという不自由。 第二は、選択肢は存在するが特定の選択が抑圧されるという不自由。 第三は、選択肢があり、選択抑圧もないが、選択能力が不在で選べないという不自由。 この三種類の不自由の内どれかが極限に達し折り合いが付けられなくなった時アノミー(無規範)が生じ秩序が崩壊する。 要は社会的秩序が信頼可能である程、人々は自由に振る舞え 人々が自由である程結果的に得られた社会的秩序は信頼可能になると言う事です。
>>361 >他者から肯定され、承認されて尊厳を獲得してきたひとは、自分が自分であることにとって
>他者や社会は必要不可欠だからそれらから疎外される事を恐れ責任感や罪悪感が産まれる。
アイデンティティの確立のために他者や社会は必要不可欠→責任感や罪悪感が生まれる
は分かった。
だが、何故人は他者から肯定され、承認されて尊厳を獲得し、アイデンティティを得ようとするのか?
その問いへの答えは?
363 :
没個性化されたレス↓ :04/11/20 11:04:27
むづかしく考えるな
sage
私は
>>361 ではありませんが・・・。
>>362 >何故人は他者から肯定され、承認されて尊厳を獲得し、アイデンティティを得ようとするのか?
>その問いへの答えは?
その答えは、何故欧米人は神を信仰し、神から承認を得てアイデンティティーを確保しようとするのか?
と同じ問い。答えるのは難しい。
人間の自我は外部の何かに支えられないと自我の形を保つ事が出来ない。
外部の何かに支えられないとアイデンティティーが得られない。
これは全ての人間に共通。
欧米人は、自我の支えとして神を発明した。だから神に支えられなくなれば自我は崩壊する。
日本人の場合は、神などという抽象的なものではなく、自分の周囲の人々に肯定され認められる事
(という具体的な事)を自我の支えにした。
日本人の自我は、自分の周囲の見知った人々から肯定され承認されてはじめて安定をする。
>>361 >他者から肯定され、承認されて尊厳を獲得してきたひとは、自分が自分であることにとって
>他者や社会は必要不可欠だからそれらから疎外される事を恐れ責任感や罪悪感が産まれる。
欧米では「責任感」「罪悪感」は神に対するものではないでしょうか?
367 :
没個性化されたレス↓ :2005/05/17(火) 20:54:15
嵐 煽り 自演 する人の心理って、どんなものなんでしょうか?
攻撃的、相手を言い負かしたい 不満を持っている、訴えたいことがある 暇、刺激が欲しい などでは?あまり好かれる性格ではないだろう。
369 :
没個性化されたレス↓ :2005/05/17(火) 21:38:42
↑マトモに返事するんですか?
370 :
探検隊 :2005/06/07(火) 21:46:04
道徳心があったら、臨床心狸などやらない
371 :
没個性化されたレス↓ :2005/06/23(木) 22:51:01
道徳心があったら、カウンセラーなどやらない
372 :
没個性化されたレス↓ :2005/06/24(金) 00:16:28
>>366 罪悪感は、「悪いことしてしまったなぁ」と気にする心理のことで、
神に対するとも限らないし、
>>361 も違う。
373 :
没個性化されたレス↓ :2005/06/24(金) 09:01:31
age
374 :
没個性化されたレス↓ :2005/06/24(金) 11:55:15
>だが、何故人は他者から肯定され、承認されて尊厳を獲得し、アイデンティティを得ようとするのか? その問いへの答えは? 自我は他者のコピーでしかないから。 自分で行動できないから。 自分の行動は他人の認めた行動であるから 他人の認めない行動は常に不安が付きまとう。
375 :
没個性化されたレス↓ :2005/06/24(金) 21:00:50
迎合せずに他人の認める行動をとる。
376 :
没個性化されたレス↓ :2005/06/25(土) 01:57:29
少なくとも学校で強要されることではない。
377 :
368ではないが :2005/06/25(土) 09:28:32
>>372 欧米人の主な罪悪感は、やはり神の戒律に違反する事への罪悪感では
ないのでしょうか?
379 :
没個性化されたレス↓ :2005/07/05(火) 01:29:36
平和を愛しなさいと言われても、この平和ボケ国家で実感沸くわけないでしょ。 お馬鹿さん。。。
380 :
没個性化されたレス↓ :2005/07/05(火) 10:14:34
学校や企業で行われている(生存)競争自体がもはや道徳心に 欠けているんじゃねえか。 平和や道徳はもっと横並び一直線の仲良しこよしでなきゃ ならんイメージ。
そのツケはNPOみたいなのが担ってるのかね現代では。
382 :
没個性化されたレス↓ :2005/07/07(木) 21:25:09
383 :
没個性化されたレス↓ :2005/07/10(日) 17:58:18
>>378 そういえば、外国では天に誓ってという言い回しがありますね。
やはり欧米における罪悪感は絶対的な存在を裏切るという視点によるものなんでしょうか?
「病める時も健やかなる時も・・・。」ていう結婚の誓いも相手に対してではなく 神に対しての誓いですからねえ。
欧米のGuilty feelingは意外と小さな問題。 自分の存在ではなく、1つの間違った行動だけを否定するので、 自尊感情は傷つきにくい。
一つ間違った行動をしたとしても、それぐらいでは神に見捨てられることはないって感じかな。
そうそう。 で、対極にあるのがShame feeling こっちは失敗した人の人格全否定。
388 :
没個性化されたレス↓ :2005/09/14(水) 23:02:43
人は、できることなら自分のやりたい事をやりたいように好き勝手にしたいという欲望 を持っています。しかし、そんな事をすれば社会でうまくやっていけませんから、自分 の欲望を我慢したり抑圧したりしなければなりません。 「これはやりたい事だけど、やってはいけないのだ。」などと自分に言い聞かせて自分 の欲望を断念しなければなりません。 自分の欲望を自分で断念する訳ですから、これは自己禁止あるいは自己抑圧です。 でも、自分で自分に禁止をかけるのは非常にしんどいので、人は、この禁止を、「外部 からの禁止なのだ。」「外部から禁止されているのだ。」と錯覚しようとします。 この「外部からの禁止(=実は自己抑圧)」が「道徳」の正体です。 つまり、道徳とは 自己抑圧が外在化(投影)されたものなのです。 道徳は自分の外部にあって自分の行動を規制しているのだと思いたいんですね。 また、道徳は、自分がある衝動を我慢していることが良い事なんだと自分に納得させる 為に必要なんですね。 だから、そういう道徳が世の中に客観的に存在するんだと思いたいんですね。 道徳が普遍的・客観的でなければ、自分の衝動を断念する理由がなくなってしまいます からね。 でも実際には、道徳の正体は自己抑圧ですから、道徳は個人的なモノなのです。 道徳は実は個人が必要としている個人的なモノであるのにも関わらず、その性格上、普 遍的でなければ困るという所が、道徳が抱える根本的なジレンマですね。
389 :
風俗嬢 :2005/09/15(木) 00:31:16
↑長いのは痛いだけ
390 :
没個性化されたレス↓ :2005/09/18(日) 13:48:58
つまり道徳心が強い人というのは実はかなりのエゴイストということか。
391 :
没個性化されたレス↓ :2005/09/18(日) 13:54:10
私は「○(´`)○アヤピ ◆QiF/LVKkgg」と申します。
個人的に「●〜(-∀-)〜●ウンコバニラのHP ●〜(-∀-)〜●」というHPを作っております。
日記、コラム、小説などあります。
良かったら遊びに来て足跡をつけていって下さい。
3年近く更新が途絶えていますが、ぼちぼち元気でやっています。
これまでも更新は夜がほとんどでしたが、夜は両親の家で母と二人で過ごしています。
それではよろしくお願いします。
●〜(-∀-)〜●ウンコバニラのHP ●〜(-∀-)〜●
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/2932/
>>390 道徳心が強い人は、自己抑圧を強く支えるモノが必要な人でしょう。
という事は、煩悩の強い人かな。
自分の中に無理に押さえ込んでいる欲望がいっぱいある人かな。
393 :
没個性化されたレス↓ :2005/10/16(日) 14:44:47
道徳性診断HEARTをもとに、質問紙を作成してみたいのですが、 それの採点方法や質問紙についての解説した著書ってあります?
394 :
没個性化されたレス↓ :2005/10/19(水) 20:35:04
宗教は勝ち抜くための大きな武器になるね
395 :
没個性化されたレス↓ :2005/10/22(土) 15:09:28
・・・あるわけないか。
>>392 >自己抑圧を強く支えるモノが必要な人でしょう
支えるモノが必要な人が存在するのは認めるんだね
それはいいとして、その支えが必要な人に、支えである道徳心を
与えなかったら、どうなるの?
犯罪者になるの?
>>396 >それはいいとして、その支えが必要な人に、支えである道徳心を
>与えなかったら、どうなるの? 犯罪者になるの?
道徳心を与えないって、どのようにして「与えない」ようにするの?
どう考えればいいのかなあ?
「道徳心のない人間」というのがイメージできないのですが。
398 :
没個性化されたレス↓ :2005/11/10(木) 23:01:57
扶助う
399 :
没個性化されたレス↓ :2005/11/11(金) 01:41:34
似たようなことを頭の中で延々と考えたことがある。 俺はけっこう道徳人間(ゴミはゴミ箱に死んでも捨てる)なんだけど・・・ 結論としては、道徳なんぞくそ食らえって感じ。 我慢して自分がムカツクのはあまりにも馬鹿らしい。 迷惑する人間がいるのは事実なんだけど、人の迷惑いちいち考えてたら 俺はいきていけないって気がする。
400 :
没個性化されたレス↓ :2005/11/11(金) 01:45:19
399は心理学板にいるにしてはかなり賢いです。
401 :
没個性化されたレス↓ :2005/11/11(金) 07:16:04
そうかな?
人生は己のアイデンティティ探し。
何をもって幸せと思えるか。何に価値観を見出すか。
道徳心は基準になる良心みたいなものかな。
むずかしいです。
>>365 >何故欧米人は神を信仰し、
神から承認を得てアイデンティティーを確保しようとするのか?
言い古されてるけど人は神によって創られたからに尽きる。
人が神を発明した・・・おもしろいとは思うのですけど
突き詰めると無理があります。
どーも宗教板に逝った方がいいみたいで…。
403 :
苦悩するドナ :2005/11/16(水) 13:27:39
理屈っぽく考えるより、自分の心に問うてみろ。 自分なりの良心に従え。 そうすれば見えるはず。
404 :
没個性化されたレス↓ :2005/11/16(水) 15:08:21
リベラル派は道徳心の強い人に完全主義者のレッテルを貼るわけだ
>>402 >言い古されてるけど人は神によって創られたからに尽きる。
>人が神を発明した・・・おもしろいとは思うのですけど
>突き詰めると無理があります。
どんな無理があるのでしょうか?
人が神を発明した事は明らかだと思うのですが。
>>406 あなたから見ると理由にはならないと思うのですが
人間の存在が、何も無く自然に生え出てきたと考える方が
無理があると思うもので。
>人が神を発明した事は明らか‥
多分平行線でしょう。
age
age
>>411 精神(エネルギー)というものは摩訶不思議なものだと思いますよ。
413 :
没個性化されたレス↓ :2006/02/10(金) 20:20:37
414 :
没個性化されたレス↓ :
2006/02/10(金) 20:30:07 >>399 不愉快なことを無理して我慢するのが道徳心なのではなくて、
不愉快なことに感情を害さないでいることが道徳心。