>>492 いわゆる行動文法action grammarと言語の文法の平行性は言語の進化を考える上では
重要だと思うにゃ。人間言語のシンタクスだけに可能な操作と同じことを、人間だけが
手で物体を操作する際にも行えるという観察があるにゃ。しかし今問題なのは、手で
行えても言語では行えない、ということなのにゃ。
>陳列されたメロンパンの中から一番手元に近いやつを選び取ったり
俺は一番手前のは他の客が触ったり唾がかかったりしてるかもしれんと思って
わざわざ奧のやつを選ぶタチにゃ。駅の売店で雑誌買うときも一番上のは避けるしにゃ。
つまりある目的のためには、余計な手間を自由にかけられるのが人間の行動の特性
であり、それは言語「行為」についても同じにゃ。できるだけ簡潔に要点のみを伝える、
という原則を意図的に破り、わざわざ回りくどい表現をしたり、何度も同じことを
繰り返すことで別の目的を果たすことができるにゃ。
さて、たとえば「太郎が花子を殴った」ではなく「花子が殴られた」を用いる理由は、
花子に話し手の視点を置くためであるとか、行為者の太郎を背景化する(誰が殴った
かは不問にする)ためであるとかいったことがよく言われるにゃ。機能主義的な分析
にゃが、使用の理由付け、この表現形式がどういう機能を果たすのか、といった部分
についてはこれでいいと思うにゃ。問題は、このような機能的動機付けがあっても
「太郎が花子に次郎を殴らせた」→
*「次郎が花子に殴らされた」vs ok「花子が次郎を殴らされた」
の差はある、それを使うどんな正当な理由をもってしても「次郎が花子に殴らされた」
はよくならない、ということなのにゃ。