人は何故気配・視線を感じるのでしょうか?

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自分が後ろから見つめらたかどうかを言い当てることは可能だろうか。
この問いについてはイエスと思わせる逸話風の証拠が実にたくさんある。

見られているような感じがして後ろを振り向くと、確かに人が自分を見て
いたということは多くの人が経験している。逆に、講演会場などで前に
座った人の背中を見つめていたら、その人が落ち着かなくなって振り
返った、ということも稀ではない。

見つめられている感覚は非常によく知られている。ヨーロッパとアメリカで
やった個人的な調査では、尋ねた人のうち8割がその感覚を体験した
ことがあると答えている。小説の世界では日常茶飯事だ。「彼女は彼の
瞳が自分のうなじを穴のあくほど見つめているのを感じていた」という
文章のように。

それは、トルストイ、ドストエフスキー、アナトール・フランス、ヴィク
トール・ユーゴー、オルダス・ハクスレー、D・H・ロレンス、J・クーパー
・ポウイス、トーマス・マン、J・B・プリーストリーといった錚々たる
作家たちの描く文章世界のなかではっきりと表現されてきた。以下に
掲げるのはシャーロック・ホームズの生みの親、アーサー・コナン・
ドイルの短編からの一節である。

 その男には心理学の研究対象として惹かれるものがある。今朝、
 食事をとっているとき、私はじっと見つめられたときに伝わってくる
 あの漠とした不安感に突然襲われた。それで、すぐに顔を上げると、
 そこには残忍なほどに激しく私を見つめている彼の眼差しがあった
 のだ。しかし、天気のことで当たり障りのない感想を述べた彼の表情
 はすぐになごんでいた。実に奇妙なことだが、友人のハートンも、
 昨日甲板でまったく同じような体験をしたらしい。

英国の心霊研究家として名高いレネ・ヘインズはこの主題に関する
彼女の個人的な観察事実をいくつか残している。

 振り向かせる力は万人に等しく作用するわけではない。例えば
 給仕が相手だと、弱められるか、無視されるか、あからさまに拒絶
 されるだろう。しかし、退屈な講義の最中とか混雑した大食堂で
 ちょっと試してみればわかるが、誰かの後頭部をじっと見つめると、
 見つめられたほうは、多くの場合そわそわしだして不安そうに振り
 向くものだ。これは、眠っている犬や猫、庭にいる鳥にも有効で、
 慈愛にみちた子供たちの起し方にもなる。

1980年代、この現象のもつ理論上の意義深さを悟った私は、これに
関連してどんな実験研究がなされてきたかを調べてみた。するとどう
だろう、ほとんど皆無だったのである。

私はロンドンの英国心霊研究協会でこのテーマについて講演した―
―凝視の効果に関する実験研究のことを詳しく知っている会員が
いないものか確かめたかったからだ。しかし、またしても空振りに
終わったが、博覧強記のレネ・ヘインズはやはりこのテーマに関する
逸話の豊富なストックをもっていた。

私はまた、アメリカのさまざまな超心理学者たちともこの件について
議論を交わした。

そして、わかったことは、この主題について研究した人は一人もなく、
関心を払っている研究者もいない、ということだった。昔の学術文献を
渉猟しても、この100年間で6報しかなかった(そのうち2報は未発表)。

正統派の心理学者たちがこの現象を無視してきたのは、その「超常」
性に照らせばさして驚くべきことではない。もっと驚かされるのは
超心理学者までもがこれを無視してきたことである。超心理学に
関する書物のほとんどがそれについて一言も 触れていないのだ。

超心理学者でさえこの現象を見過ごしてきたという事実はそれ自体
興味深いものだが、そこには、無意識下のタブーとも呼ぶべき、
きわめて異常な「盲点」があったのではなかろうか。

なぜタブー視されるべきなのか?これは恐らく、見つめられている
感覚なるものが、現代の人々が葬り去っておきたい俗信、特に
「邪視」ときわめて密接に関連しているからだろう。

以上述べてきたように、何かしら力をもったものが眼から出る、という
考えはきわめて普遍的なのである。心が拡がり、見ているものに対し
何らかの影響を及ぼしうるということは暗黙知として信じられている
わけだ。

これまでの科学がこの可能性を無視ないし否定してきたのは、実験
証拠をよく検討したうえのことではない。なぜなら、この研究主題は
議論の俎上にも載ってこなかったからだ。

むしろ、心は脳の内側にあるというおきまりの仮説に立脚している
だけなのである。見つめる力にはひょっとして何か神秘的な効果が
あるのかもしれない、という可能性はいわば大義名分で黙殺されて
きたのにすぎない。

明らかなのは、これまでの科学の偏見によっても、俗信を論拠として
も、逸話風の証拠をいくら並べ立てても、心の本質について理論的
に反駁しても、この疑問に決着がつかないということである。

前へ進めるには実験をしてみるしかないのだ。

「見つめられている感覚」が科学文献ではじめて論じられたのは、
1898年の「サイエンス」に載った、E・B・ティチェナーの論文である。
彼は、ニューヨーク州、コーネル大学で心理科学の草分け的存在で
あった。

 毎年調べてみると、自分が後ろから見つめれていることを「感じる」
 ことができると得心している学生は、低学年クラスのなかに結構
 いるものだ。そのなかには自分の前に座っている人のうなじの
 あたりをじっと見続けることによってその人を振り向かせ自分を
 見つめさせる能力をもっていると信じて疑わないものもいる。

このことについては神秘的な力を引き合いにださなくても合理的な
解釈が可能であるとティチェナーは断言している。

彼の説明にはじっくり耳を傾けるだけの価値がある。なぜなら、
今日の懐疑主義者たちも同じような解釈を繰り返しているからだ。

この問題は心理学的にこう解釈される。

1――われわれは皆多かれ少なかれ自分の背後に敏感である。
    音楽会や講演会が始まる前に、そこに集まってすわっている
    聴衆を観察して見給え。実に多くの女たちがせわしなく手を
    後ろにやって髪をなでつけているのがわかるだろう。時折、
    肩をながめたり、肩越しに背中を見たりしている。男たちは
    どうかというと、やはり肩や背中を見ているし、手で折り襟や
    上着のカラーをなでたり、ブラシをかける真似をしたりしている。

2――このような動きを誘発しているのは聴衆、つまり自分の後ろに
    いる人の存在なのだから、これがさらに後ろを向いたり、部屋
    や講堂の後ろを見わたす動きにつながるのはごく自然なこと
    である……しかし、肝要なのは、こういったことはすべて後ろ
    からじっと見つめられることとはまったく関係がない、ということだ。

3――さて、視覚、聴覚、触覚、その他の感覚が何も刺激されない
    環境に置かれた場合、動くということこそ、この受動的な関心
    しかない環境に対する、最も強い刺激反応となる……私、Aが
    部屋の後ろに座っていて、私の注視している範囲でBが頭や
    手を動かしたとしよう。私の視線は否応なくBへ注がれてしまう。
    Bがまわりを見る動きを続ければ、Aが彼を凝視してしまうのは
    必定である。十中八九同じ理由とやり方でBを見つめている
    人は他にも何人か部屋のあちこちにいるはずだから、Bは私か
    別の人の眼を偶然とらえるだろう。誰かと眼がかち合うのは
    必定なのだ。個人の吸引力とかテレパシー能力といった学説が
    巧みに利用しているのは、明らかに、こういった偶然なのだ。

4――これで片がついたと思われるが、解決されていないのはBが
    うなじのあたりにうける感覚のことである。この感覚は単に緊張
    感や圧迫感から生まれる、幾分生理的なものであり、その部位
    (皮膚、筋肉、腱、関節)に存在していておかしくないものなの
    だが、そのあたりに関心を寄せることで特に強まったり、その
    ものへ直接関心をもつことで喚起されたりするものだ……。この
    "衝動感覚"がそれほど神秘的でないのは、腰に加わる圧力の
    分布が不快に感じられたときに、椅子に座り直すように仕向け
    たり、ある音を一所懸命聴こうとして耳を近づけたりさせるときの
    "衝動感覚"がさして神秘的でないのと同じなのだ。

5――結論として、私はこれまでにさまざまな機会を利用して、見つめ
    られていることに特に敏感だという人たちや「人を振り向かせる」
    能力があると豪語する人たちをつかった数多くの実験で「見つ
    められている感覚」とやらを試してきたが、そのような能力や
    感受性に関しては、否定的な結果しか得られなかったと言って
    よい。つまり、これまでの解釈が確認されたわけだ。当初から
    そういった結果を得るつもりだったのだから、この実験は時間
    の浪費だったなどと、うがったものの見方をする方々に対しては、
    それは大衆の意識に深く浸透している迷信を打破する点で、
    正当化される実験だったとしか答えようがない。科学的な精神を
    もった心理学者のなかでテレパシーの存在を信じているものは
    一人もいない。だが、いかなる場合でもそれを反証してはじめて
    学生は科学の王道に立つことができるのだ。そのことに費やした
    時間はやがて百倍になって科学の発展へ貢献することだろう。

この文章に「なるほど」と肯く「科学の王道に立った」人もいれば、
ティチェナーは証明しようとしていることを当然真実であると思い込ん
でいることに気づかれる人もいるだろう。

彼は見つめることに起因する謎めいた影響力について触れてもよか
ったはずだし、また、この現象についての実験的反証――その方法
については詳しく述べられていないが――には他の解釈もありうる
からだ。

例えば、彼のつかった被験者たちは、彼の懐疑的な態度に嫌気が
さしたのかもしれないし、実験室という人工的な条件下で彼に試され
たとき、人目が気になってその能力が十分発揮されなかったのかも
しれない。

この現象を実験的に研究することの最大の問題はここにある。
「見つめられている感覚」は、非人工的な条件下で無意識のうちに
発揮されるのかもしれないからだ。

実験という人工的な条件下で見つめられているかどうかを意識的に
決定しようとするのは、十分訓練を積まないと難しいのかもしれない。

また、実生活では、怒り、嫉妬、秋波など、見つめる行為につながる
さまざまな感情が交錯しているが、実験では科学的好奇心を除くと
すべての動機づけが失われてしまう。このような場合には、見つめる
力の効果はずっと弱くなってしまうのかもしれない。

この現象を研究した二番手はJ・E・クーバーという人物で、1913年
のことだ。

ティチェナーの研究を追試した彼は、スタンフォード大学の低学年
クラス生のうち75パーセントが見つめられている感覚の実在を信じ
ていることを知る。そこで、被験者10名をつかって実験をしてみた。

被験者一人あたり100回の試行をする。実験者(クーパーか助手)は
足音で試行開始を示したあと、無作為順に被験者のほうを見たり、
見なかったりする。被験者には自分が見られたか見られなかった
とか、そしてその推断にどのくらい自信があるかを言ってもらう。

全体の結果でみると、被験者の的中率は50.2パーセントで、偶然
当たる確率の50パーセントと統計的な有意差はなかった。それでも、
被験者が「自信あり」と答えた試行だけをとれば、その的中率は67
パーセントだったのだ。「自信なし」の場合の的中率は偶然の確率
よりやや低目となっている。

クーパーは彼自身の発見のこの部分を大して気に留めなかった。
それで、「見つめられている感覚は広く信じられているが、実験の
示すところによれば根も葉もないものである」と結論を下してしまった。

それから半世紀もの間、この問題はほとんど終わったも同然になって
いた。

再びとりあげたのは1959年、J・J・ポーツマンなる人物が「心霊研究
協会誌」に載せた論文である。

このオランダで行われた実験では彼の女友達――ハーグの市会議
員で、「人のたくさんいるところでお気に入りをみつけたら、じっと見つ
めることにしているの」と彼に宣った――が被験者となった。

彼はクーバーの方法を踏襲し、何日かに分けて89回の試行をした。
女市会議員は無作為順に彼を見つめたり見なかったりし、クーバーの
イエス/ノーを記録してゆく。

彼の的中率は59.6パーセントであり、偶然の的中率である50パー
セントと比較して統計的に有意な結果を得た。

さらに約20年が経過した1978年、エジンバラ大学の学部学生、
ドナルド・ピーターソンが同じような研究をしている。

さまざまな被験者18名をつかった一連の実験でわかったことは、
彼らが偶然よりは有意に高い確率で見つめられたかどうかを判別
しうる、ということであった。

1983年、オーストラリア・アデレード大学の学部学生、リンダ・ウィリ
アムスは見つめる人と見つめられる人(被験者)とを約2メートル離れ
た別の部屋へ入れて実験をした。

被験者は有線テレビを介して見つめられるようにする。1回12秒の
試行において、見つめる側はTVスクリーンに映った被験者か、白く
なったスクリーンのどちらかを見る(ビデオカメラはずっと作動している
が、TVスクリーンは無作為順に点いたり消えたりするようにプログラム
されている。被験者にはピッという電子信号音によって試行の開始を
知らせる)。

28名の被験者から得られた結果は、わずかとはいえ統計的に有意
な効果を示していた。

自分がTV画面で見つめられたかどうかを偶然以上の確率で当てた
わけである。

技能的に最も巧みなやり方でこの能力を検証したのはテキサス州、
サン・アントニオ市の認知科学財団に所属するウィリアム・フロイトと
スペリー・アンドリュースらが1980年代後期に行った実験である。

ここでも有線テレビが使われた。被験者にはビデオカメラが終始作動
している20分間、好きなことを考えながら部屋のなかでじっと座って
いてもらう。見つめる側は、実験施設の別棟にある視聴覚室のTV
画面に映った被験者を見る。

それまでの実験と対照的なのは、自分がいつ見つめられたかどうか
被験者は推量しなくてよいということである。その代わり、左手に
電極をもたせ、皮膚の電気抵抗を測定することで、その自発的な身体
反応を監視したのだ。この抵抗が変化すれば、嘘発見器のように、
交感神経系が自発的に活動しているということになる。

休憩時間をはさんだ、各30秒間の試行のなかで、被験者は無作為
順に見つめられたり、見つめられなかったりする。

実験結果は、被験者が見つめられていたときの皮膚電気抵抗には、
彼らがそのことを意識していなかったにもかかわらず、著しい変化が
認められることを示していた。

まとめて言うと、この主題については驚くほど研究がなされてこなかっ
たが、これまでの実験証拠は、人工的な条件下ではさして鮮やかに
現れないものの、見つめられている感覚が実在していることを示唆
しているのである。