◆◇Philosophy of Psychology◇◆

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話に食いつこうととりあえず、
正月の間「ソフィーの世界」を読破したが、
知らない間に行動療法話になっていた。
sage
69一精神科医:02/01/04 21:43
>67
とにかく、こういう患者は診ないだの、こう言う悩みは相手にする必要ない、
などといっているのは、
臨床ではないです。

あなたの議論は66までの流れとずれている。
66までの流れは、14の大学のような考え方で
臨床ができるか、という話だった。

偏差値の話だとどうでもいい。
偏差値なら医学部のほうがどっちみちいいんだが、
そんなことは関係ない。
70名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/05 10:35
>>69
偏差値という言葉には必ず過剰反応するやつがいるね(藁
あなたも別に医師という職業に特に夢もなく単に
偏差値だけで医学部に進んでどうにもならなくて精神科医に
なったくちでしょ。
71名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/05 11:03
なんかこのスレ結構面白い。
もっと色々話して。
72名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/05 11:15
スマソ、ふと思ったんだけど

>「いままで私は言葉を言葉としていきいきと体験したのだろうか」とか、
>「ほんとうは私は同性愛なんじゃないでしょうか」とか。

この辺は問題を具体化する事が出来ていないだけで、
問題の具体化さえすれば、行動療法とかでも大丈夫なんじゃないかな?
良くわからんけど。
73名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/05 15:03
なんだかどんどん心理学を行う前提となる「哲学」の話から、遠ざかっていっているねえ…。
>>72 そりゃできるじゃろ。
行動療法だからといって「じゃあ具体的にどう?」とひたすら聞くものでもないし、
何回も面接を繰り返していくうちに、clの態度、言葉、生活史などが記録される。
そのエピソードを随伴性の観点から分析し直せば、「いきいきとした体験」や
「本当は…」といった主題が「行動」として取り扱うことができよう。

このスレではそんな話を聞きたいわけではない。
「この症状はロジャースで、この症状は行動療法で」などということではなく、
「何を根拠にあんたは療法を使い分けているのか?」
「何を根拠にあんたは行動療法一筋なのか?」
といった、技法を使うに当たっての信念を知りたい。
まあ、強引に哲学=信念と考えてもいいか。

果たして臨床屋は自分の信念を考えて「治療」しているのか、俺にはそうは思えない。
治ったらそれでよしなのか?どうして治ったか?それを説明するモデルに疑問を持ったことはないのか。
7417:02/01/05 15:13
今、73さんがいいこと言った。
75一精神科医:02/01/06 01:24
>70
私は偏差値に過剰反応するな、そんなことどうでもいいだろ、という趣旨で書いたのに、
かならずこのような感じで煽る人がある。
そして他人の人生を決め付ける。

私は1972年に大学を受験したが、そのときすでに精神科医になるか、心理の臨床家になるか、
迷っていた。食えないと困ると思って精神科医にしたが。

こういうことはどうでもいいのだが、人には個人の歴史がある。
それをそういうふうに決め付けるのは、あまりにも冷酷な気がする。
こうしたスレッドが建設的に進むためには、
そうした煽りはもっとも危険なのだ。
76遅刻非常勤経験者:02/01/06 02:35
偏差値というターム一つで,スレの話題が大きくズレテしまったような.
要するに,もともと,心理学という学問分野と哲学との関わりのスレであり
流れは,実験心理偏重古典大学では,やっぱり,古典的自然科学観で
今も(そして将来も)やっていくだろう,という話でしょ.
それがよいかどうかは別にして,たしかに地方国立とか旧帝など
で,そいいう所あるね.未だに,ゲシュタルトのような新しい
流れは受け入れがたいとか講義が当たり前になされてたりするよ.
この21世紀に信じがたい話だが.(卒論は計算尺でやってるのか
と疑ったがさすがにちがって,みんな電卓でやっていた.,,,
パッケージは存在すら知られていない)
77名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/06 11:33
ゲシュタルトが新しい?????????????
>>76
そりゃ、20年前の話かい...。
当時でもゲシュタルトは古典。
ところで今でもSPSSとか使ってるの?
79名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/06 11:39
つまり地方国立や旧帝はゲシュタルト以前の状態であると。
計算尺とそろばんで検定をやっていると。
>>76
ある意味、心理学の基礎は古典的自然科学観ででいいと思います。心理学というのは
、人間の心という本来つかみ所のない鵺みたいなものを、無理矢理古典的な自然科学観で
切ろうというものなんじゃないかと。この敢えて切る、という部分をわかってやってるかどうかが
DQNかそうでないかの分かれ目になるんじゃないですかね。
82名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/06 12:54
>>81

>鵺
フーコーの受け売り?
鵺....、こんな感じあるんだね。
歴史的に見れば,
日本の心理学界ではゲシュタルトの方が古典で
行動主義なんてのは戦後流入した新参者だわな。
85名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/06 14:52
フーコーは高等師範学校だかなんだかの心理を受けるとき、面接官の
教授に「君はビネーの心理学がやりたいのか、それともメルロ=ポン
ティの心理学がやりたいのか」と皮肉混じりに質問されたとか。
たとえ皮肉混じりに扱われるとしても、哲学的心理学の存在が認めら
れているのだな、さすがおフランス、とそれを知って思った。
86名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/06 14:58
フランスは伝統的に哲学と心理学と精神医学の間の敷居が低いからね。
メルロ=ポンティはパリ大学で児童心理学の講座を担当していたこともあり,
その後任になったのがピアジェだし。
8776:02/01/06 19:22
>>78
20年前かと疑うのはよく分かる.自分もそう思ってしまったが,
未だにそんな大学って,田舎にいくとあるんだよ.
SPSSとかは必要ないらしい.(10ケース程度の分散分析なら
電卓手計算で十分だし.今でも分散分析が最先端の統計だと教わってるらしい)
じゃあ得意気に分散分析表が別表で載せてある論文を見たらこの出所がくさいというわけですか!?
89名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/07 09:16
>>88
分散分析は分散分析表が載ってなかったらほんとは意味がない。
分散分析表が載っていないこと自体,分散分析を「論文執筆上の
レトリックとして」しか使っていないことの現れ。「得意気に」
ではなくて,その人は分散分析を本来の意味で用いているだけ。
因子分析の負荷量の表を何ページも載せているようなこととは
ぜんぜん意味が違うの。もう少し勉強せいや。
90臨床系学部生:02/01/08 11:55
心理学に哲学が必要かどうかはさておいて、結局のところ>15とその周囲の人々は
哲学は無価値

心理学は有意義

俺たち=心理学>>>哲学=外野のアフォ共

(゚д゚) ウマー
というような認知によって自分の行動をマンセーしておられるようですね。
まあ、ほぼ同じような流れで「哲学>>>数学」ってやってる哲学の人もいますし、どこにでも転がってる話なんですけどね。
そんなことを言っている私にしても、それなりに臨床心理学の存在を肯定する認知を自分の中に持つことで「安心」を得てるわけですし。

で、なんていうようなことは「認知はアイマイな概念であり不要」とする人々にはどうでもいいわけですね。はい。
私は人間はみんなあるようにしてあるもんだと思ってますから、
91切れた。:02/01/08 12:01
>90続き
人が何を思おうと別にいいんですが、とりあえずこういう人々とはなるべくお近づきになりたくないなあ、というのが正直な感想です。
92名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/08 13:30
>>90
そういう排他的な態度はどうかと思うし、誤解をしていると思われる。
哲学が無価値、臨床心理学が無価値と述べているわけではない。

要、不要で物事を考えると、本当に見方が狭い人間になってしまうよ。
それでは臨床も出来ないと思われるのだが。
それぞれの立場から、自分の立場と相手の立場を明確に把握しているからこそ、
「そんな概念別にいらない、俺の立場では〜〜ということができるから」
ということができる。

90よ。臨床心理学が好きならばこういう話はよく聞くだろう。
熟練の心理臨床家は、たとえ流派が違っているとしても、クライエントに
対する見方、治療の流れ、予後の見通しなどがかなり似てくるという事実を。

行き着く先は同じ、ただその方法に対する解釈が人によって違うだけ。
93臨床系学部生:02/01/08 14:11
>92
こりゃどうも。15さんですか?すいません、間違えました。
>90で言いたかったのは、>14とその周囲の人々でした。14と15は別人でしたね。

哲学に対する解釈はお互い違いますが、おっしゃることはなかなかにもっともだと思います。
9417:02/01/08 17:07
若いうちは怒っててもよいと思うよ。
いや、私もまだ(臨床系)学生なんですが・・・(w
それから、92さんは15さんじゃないと思うよ。
9592:02/01/08 18:13
>>93
15や14とは全く別人だ。ちなみに俺も実験系のしがない学生だから、
あまり大きなことは言えないが。
93です。最初から何度か読み直してきました。
要するに、「思想の違い」ということで話はまとまっている、と。
ところで、
脳にはつまるところ、自分で自分を説明する能力はないだろう。(ギュンター・スタント)
つー命題はどうですか?
自分は
シャーウィン・ヌランド「私は大宇宙よりも小宇宙の方にもっと関心がある。
どのように星が死ぬのかよりも一人の男がいかに生きるかに、どのように彗星が天空をきらめいて横切るかよりも、一人の女性がいかに世の中を渡って行くかに、もっと興味がある。
私を魅惑の境地に誘い込むのは人間の神秘。宇宙の有様ではない。」
な立場ですが。
唯脳論関連はここかなぁ・・・。
ttp://yasai.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1003489930/
9897:02/01/09 00:25
13までのレスと120くらいからを読みなされ。
どうも。読んできました。ついでにいろいろと勉強も。
で、唯脳論というのは要するに「人間の意識、行動は脳の機能である」という
考え方で、「行動主義と唯脳論」スレでまとまった意見は「行動主義心理学と
認知心理学と大脳生理学はそれぞれ相補的なもの」というものですよね。
しかし、脳というものをどう解釈しようとも、またどのようなアプローチによ
って脳の構造と機能を分析しようとも、それを解釈したり分析している脳自身
と対象の脳が常に同等なのですから、「脳が脳に理解できるほど単純だったら
、そんな単純な脳では脳のことは分からない」というジレンマは崩れないと思
うんですが。「人間は脳で考えている」という前提そのものを否定するなら別
ですが、観察する主体と観察される客体が同じスケールの存在である限り心理
学は決して人間の全貌を解き明かせないのではないか、と。
宇宙の法則の全てを解き明かすものは宇宙の中には存在し得ないとか、一つの
論理体系は自身の無矛盾性を証明できない、とかいう話とも通じます。
まあ、こんなことを言っても始まりませんが、心理学と哲学の関係を考えると
きには外せないテーマじゃあないかなーと。
100get!
10192:02/01/10 01:48
>>99
おや?命題について考えていることがずれるなあ…。
>脳にはつまるところ、自分で自分を説明する能力はないだろう
この命題は、「脳によって人間の行動、思考、感情などをすべて決める」
という唯脳論のことだと思っていたが、あなたは
「自分のことは自分ですべて知ることはできない」というように
解釈したようですねえ。それはわかるけど、

>観察する主体と観察される客体が同じスケールの存在である限り心理
>学は決して人間の全貌を解き明かせないのではないか、と。
の文から、
>一つの論理体系は自身の無矛盾性を証明できない
という、論理実証主義の欠点には結びつかないぞ。

観察する主体、される客体の2つに分けて考えているようだけど、
なぜそうやって分けて考えるのかわからん。
もしやあなたは心身2元論を信じているのでしょうか?
102名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/10 13:21
>論理実証主義の欠点には結びつかないぞ
結び付くとは私も思いません。ただ、「自分で自分のことは説明しきれない」という点で「通じるもの
がある」というだけです。
私もごく常識的な意味での「意識を生むものは脳である」という立場です。唯脳論による「器官として
の脳」と「機能としての意識」を同軸に見る視点は、身体合一論ともいえるものでしょう。
で、主体と客体を捉える視点ですが、普通ものごとを考える場合は主体(つまり、観察している自分=
自分の脳)のことなどいちいち考慮せず、客体だけについて考えているわけです。
ですが、意識が脳の機能であるならば、「自分の意識の思考論理展開能力の限界は、すなわち脳の機能
の限界という現実的制約に縛られる」はずです。それを無視すれば「論理的に物事を考えていけば、い
つか全ての真理にたどり着ける」という能天気な考え方もできますが、あえてそこに疑問をはさんでみ
る、それが「主体という視点」です。こんな風に考えてみることそれ自体が哲学なんではないかと。
10317:02/01/10 13:31
言いたいことは大体伝わるんだけど、なんとなく文章が詩的というか、散文的というか・・・。

あと、"全貌"と言うなら、スケールは問題にはならないと思う・・・。

論理的でなくて、スマソ。
104名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/10 14:35
意識は脳の機能である,という立場自体がすでに唯脳論だと思うぞ。
意識は脳がなければ成立しない(脳は意識の存在を支える重要な
機構である)が,かといって脳だけあれば意識が成立するわけでは
ない,というのが非唯脳論の立場。非唯脳論には身体論者,
社会環境論者など色々がいるにしても基本は同じ。

意識が(脳も含めた)身体的社会的複合体の機能であるとすれば,
全体が部分を理解することは可能では?
105名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/10 14:36
そもそも言語がなければ意識は存在しないのだ,という主張すらある。
>>102に理解できるかな?
106名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/10 20:05
定期age
>17
散文的なのはテクニカルタームを使いこなしてまともに文章を構成するだけの
力がないからです。何しろ三日前には唯脳論という単語すら知らなかった都合
、そっち方面のシナプスに電流が流れやすくなっていないので。
しかし、スケールはおかしいですか?主体と客体の「規模」が等しいという意
味で使ったんですが。
>104
そうですね。脳に脳のことは分からない、だから人間がいくら考えても脳の全
ては分からないという命題は「人間=脳」という唯脳論を前提としています。
非唯脳論の立場に立てば、そのような見方もあるでしょう。ただ、一部として
の脳のことなら分かるとしても、「意識というものが意識で考えて分かるほど
単純なら、そんな意識では意識のことなど分からない」という、要するに「自
分のことはわからない」という問題は消えることがないのではないでしょうか。
>105
言語は人間の意識活動に本質的に寄与している、思考と言語は不可分一体とし
て機能する、という考え方ですよね。私自身は、概念は言葉より先にあるが、
それを他者に伝達するために言葉が生じた、という風に考えています。言語は
脳が情報を処理する能力を飛躍的に高めましたが、どこまでいっても本質的に
は概念そのものには完全対応できないのであって、その意味では不完全なもの
でしょう。もっとも、情報量が増え複雑化した概念はもはや言葉によってしか
扱いきれませんから、「言語が失われたら今のような思考はできない」のは当
然ですが。
10817:02/01/10 23:29
>>90
「規模」っていうことは、何らかの形態を持つものって言うことだよねぇ・・・。
"主体"って何らかの実体って考えて良かったのかなぁ・・・。
スマソ。哲学をちゃんとしたわけではないので、これ以上はよくわからない・・・。

しかし、三日で勉強してきたのか・・・。そりゃ、凄い。
見習わないと。(w
109名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/14 00:45
>>101
論理実証主義と公理主義が混同されてるような気がするが...
110名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/16 16:42
ずいぶん下がっちまったので,あげとく。
111名無しさん@お腹いっぱい。:02/01/23 17:16
ほしゅあげ
でももうネタないかな
112名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/16 10:25
忘れた頃にあげてみる。
113名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/11 22:51
あがれあがれ。
114名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/06 23:16
久々に読み返してみたら、なんだかまだスレてないPPPが上の方に居た。
115PPP:02/04/06 23:53
>>114
俺は今も昔も変わらねぇぞ。
何ほざいてやがる。
116名無しさん@お腹いっぱい。:02/05/17 18:20
なつかしあげ。
117名無しさん@お腹いっぱい。
歩首。