現在、
「他人を理解するとはどういうことか?」
「また、どこまで他人を理解できるのか?」
「そもそも他人を理解するなど不可能ではないか……」
という議論をしているのですが、
知人は「理解できる」というんです。
それは、「言葉」で理解し、「体」で理解するんだそうです。
僕にはそれが非常に不可解でした。
どう考えても、
<人間は自分を通してしか他人を理解できない>はずなのです。
僕は(下手糞な)小説を書いている人間なので、それをよく知っています。
例えば、
「少年が一人で座って地面に絵を書いていた」として、
「さて、この少年は楽しんでるのか? 悲しんでるのか?」
と聞かれたら、それはどうしても少年にしか判らない。
(厳密にいえば、少年の精神状態によっては、
少年にすら判らないかもしれないのだ。抑圧などをして、楽しいと思っているかもしれないから)
僕ら小説を書く人間はそれを<自分の心象>を「投影」してその少年の気持ちを描くわけです。
少年がどう思っているかは別にして、
僕なら暗い過去を過ごしてきたので、
少年が一人で座って地面に絵を書いていた、なら悲しいんでいるに違いないと推察して、
それを描くわけです。
これは全てのおける「他者との関わり」でそうだと思います。
他者は理解できますか?
うまい定義を教えてください。
(また、転移・逆転移の解釈が難しくて判りません。
説明できる方していてだけませんでしょうか? お願いします)
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/28 01:04
他者から自分のことを理解されたと思ったことはある?
そしたらそれが投影の産物か、そうでないかで現実に何が変わるかな?
……説明が難しいです。
上はNOです。
下は「投影が不確かだ、一人よがりだ」といってるのでしょうか?
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/28 04:15
「言葉」で理解し、「体」で理解する と、
自分を通して他人を理解する は違うのでしょうか。
前者の意味がよくわかりません。まず言語的な情報を手がかりに
自分の「体」(つまり自分の今までの感情等の体験)から相手の
体験を推察するというのが「自分を通して他人を理解する」という
ことならば、両者はあまり違っていないように思われます。
相手方の固有の体験を、自分の現在までの体験と引き比べて
ああ、今こういう状態にあるのだな、というふうに了解することを
「理解」するというのであれば、理解というのはできるときもあれば
できないこともある、ただしできているときでも「完全に」理解する
ことは不可能といえると思います。というのは、人格が別であれば全く
同じ体験をすることは不可能だからです。このような意味では、人間というのは
とても孤独というか、寄る辺のないものです。
転移・逆転移というのは…
フロイトが自由連想法で治療を行っているとき、発見した現象
(あるいは推論した心のからくり)です。
クライアントが過去の人間関係の中で、ある人間に持ったことの
ある感情(もっと広く言えばイメージ)が、治療のある場面で
再現され、過去の人間とじような感情・イメージを治療者に対して
感じるのです。
例えば、過去に親から見捨てられたと感じ、怒りの感情を抱いている
人が、治療者が面接を事情があって休んだりすると「不合理な怒り」
を感じたりするわけです。
日常でも、もちろん同様の現象はありますが、治療の場は、治療構造
によってより濃密にこのような現象が起きやすい(もしくは起きるよう
にセットすべき)とフロイトは考えたわけです。
だから古典的な精神分析では、よりこの投影(転移)が純粋に起きる
ように「分析の隠れ身」が治療者には必要だとされています。
堅固な治療構造に守られて、治療者は充分に投影を受けるわけです。
そして、治療者の側も当然、純粋な観察者のままでいることは不可能です。
クライアントに対する感情・イメージはそれまでの治療者の全人生の
体験・人間関係から出てくるわけです。これを逆転移というわけです。
そして、古典的な精神分析では治療者はかならず教育分析として自らも
分析を受けていなければなりませんが、ひとつには、治療の場での自ら
の逆転移をある程度消化していなければならないからです。
乱筆乱文恐縮っす。(笑)
>4
脳が違うのだから物理的にも不可能なことですよね。
僕は「認知心理学」の専門書を読んでないので、
どうなのかは判らないのですが、
一般的に「我々が他人を認知する」というのはどういわれてるわけですか?
まず、他人が発した「言語」によって動いたり、推察しているうちは、
(厳密には「言ったこと」と「聞いたこと」がズレてるかもしれないですが)
まぁ、割合当たっているとして、
無言な相手の気持ちを(例えば表情や動作で)察するとしたら、
「経験則」或いは「投影」的に察しているものだという解釈でいいんですよね。
(例えば、「イメージ」とか「物語」の名前が河合先生の本にあがっていて、
そういうものも、「経験則」やその他の「事例」と照らすなりして解釈するわけですよね)
皆さんはクライアント相手にカウンセラーのお仕事をなさっていると思いますが、
どういうルートの「認知」「解釈」をしてますか?
また、「経験則」とか「投影」の他に
どんな「公式」(のようなもの)を使ってお仕事をなさってますか?
人の心理はそんなに簡単なものではないのは知ってるつもりですが、あえてお願いします。
>5
ご説明感謝します。
わかりやすかったです。
これは「過去の体験を再現して起こる」でほぼあってますか?
クライアントが治療者に「恋」をすると、治療者もクライアントに「恋」をしちゃう、
というのもこの解釈に該当させてもよろしいのでしょうか?
それともうひとつ、(何度もすいません)
こっちの方が小説を書く僕にとって重要なのですが、
日常にはもちろん、
多くの「恋愛」にはこの「転移・逆転移」の現象は強く起こっている、でいいんですよね。
……「恋愛」は「生理学的な脳の興奮の変化」とでもしておいたほうが無難だろうか?
この現象(現象といっていいのかな)から抜けだすには余程の鍛練が必要になりますね。
最近、他人が「自分」を見てものをいってない。「他人は他人のなかで勝手に解釈して」ものを
いってるとよく思うんです。悲劇的な気もしてくるのですが……。
昔どおりの「対話」形式のカウンセリングはもう「古典的」なものなんですねぇ〜。
刻々と変化してますね。もうついていけんわ〜。笑
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/28 12:16
クーリーを読んでみては。鏡映的自己ってのがありますね。
だけど、ここは心理学版。スレ違いかな。
@ジェームズの自我論
Aクーリーの鏡映的自己論
Bミードの自己相互作用論
ここらへんっすね。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/28 21:59
他人を理解するには、他人になってみないと解らないよね。
友人は外から眺めて、友人なりに解ったんだろう。
解ったというのは、友人の世界では、解ったということで、
解ったレベルは、
>>1氏にとっては、
>>1氏が感じたレベルなんでしょう。
友人の世界観の中で解ったということだと思います。
人は努力して他人を理解する事によって、自分を理解してゆくと私は考えます。
他人を理解する定義といえば、他人を理解する定義をつくった時点で、
人間を狭い枠に閉じこめてしまいます。何故、定義で閉じこめる必要があるか?
結論を出したいからだと思うんです。白か黒かね。
私に言わせれば、人は素晴らしい存在であり、理解を超えている。
越えているから解らないのではなく、素晴らしいと思います。
但し、人を物体でもなんでもいいですが、ある条件に限定して理解するならどうぞ、適当に定義すればいい。
だから他人を理解することはどういうことか?の問いの私の答えは、
他人を理解する努力をし続ける事は、自分を理解し続ける事だということです。
全てはこれの連鎖ではないでしょうか。
そして他人は何処まで理解できるか?の問いの私の答えは、
理解し続ける事だと考えます。ここで大切な事は、「では出来ないんだね!」
ではないのです。理解というのは果てしがないのです。
他者を理解するということは難しいですよね
私は完璧に理解してもらえなくてもよいから
まぁ、寄り添って困ったときにお互い支えあえればいいのかなと思います。
言葉で理解、身体で理解
多分、彼なりの理解の定義があるのでしょう。
男性が女性の身体を身体で理解なんて無理な話ですし
>9
実に健全ですね。
他者との関係が上手くいってる人は定義づけない。
他者との関係が上手くいってない人は定義づける。
なんて定義もありそうではない?
もともと、自分自身さえ判らないっすからね。他の人は判りにくいです。
でも、ここでは定義できないものを、あえて、定義してほしいと思ってるわけです。
人間を描く上で、新しい視点が必要な時期に入っていて、
「理解し続けること」で結論づけてしまったら、先に進みようがないんです。
何かないでしょうか?
>10
彼は彼なりなんでしょうね。
なんか盲目的になって言ってるような気がしたんです。
一緒に暮らしてれば、何か薄まっていって、落ち着く所に落ち着いて、
やっていけますよね。
……もっと心理学からのアプローチしてください。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/29 20:20
>>11 「定義できないものを、あえて、定義してほしい」ということですが、
ここでは、「人」ですから、まず、「人」とは?
から定義してゆかないといけないよね。
「人」を科学の常識でいう「人」と考えるか?
「人」を例として、神秘主義、宗教的にまでふくらませて考えるか?
でまったく違ってくると思います。
おそらく、
>>1さんは、定義してゆきたいという意向なので、
科学でいう「人」だと思いますが。
共通の認識で、議論するためには、「人」をまず、ここで宣言、定義する必要があります。
いかがなもんでしょう。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/29 20:40
↑馬鹿?
>12
よくわからんっすよ。
人は人じゃないのか?
「他者」を理解しようとしているとき、その「理解」は心理学でいうと
何なのか? が聞きたいんです。
大抵が投影と解釈されるけど、他にもあったら教えていただきたい。
他者の何についての理解なのかを明確にしないとただの言葉遊びだな。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/29 23:47
>>14 >「他者」を理解しようとしているとき、その「理解」は心理学でいうと
あらら、心理学でもやってるの?
社会学や精神分析の領域だと思ったり。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/10/30 07:25
この問題は心理学という狭い枠に無理矢理押し込めて考える事に
無理があるのではないかと思う。
ましては、
>>13のように「馬鹿」なんて言ってる内は無理だと思う。
>>1の
知り合いは自分以外の他者すべてと
完璧に同一化することを望んでる????
同一化を望んでて、で、自分の脳内では同一化できた!と
錯覚した瞬間に「他者を完璧に理解した!」と脳内変換されるのでわ?
液体人間になって「けるる〜しょうわ」。
分かりにくいネタでごめんなさい。
望んでると思う。
恋をしてると人間馬鹿になるのかね?
彼女のことが判るんだって。
そんな気になったこと生まれてから一回もないよ、僕は。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/22 08:03
もっとしりたいのでアゲ
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/17 13:10
だれか解説して!
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/02/07 00:00
精神分析ヲタの解説希望あげ
ん〜。他者の理解というのは、間主観性ということでしょうね。間主観性というのは
フッサールが言い出したことですね。自分があるものを見たり聞いたりしたことを、
他人も同じように見たり聞いたりしているとわかることですね。この間主観性という
のは共感とか投影のベースにあるものでしょうね。この間主観性の成因論、つまり
どこから間主観性が出てきたのかということが、現象学の大きな問題です。
フッサールは最初は、他者の主観を自分を他者の位置に投入することによって、他者の
主観の理解が可能になると考えたんですね。しかし、これはうまくいきませんでしたね。
これは、他者は自己のイミテーションになってしまうわけです。ここでは、他者の未知性・
意外性がなくなってしまう。この他者の未知性・意外性は、他者は私を裏切るという
ところにいちばんよく示されているわけです。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/01 02:12
予想でしかないのか。
柄谷の「探求」で扱ってるなこれ
1> 24,25>
「『言葉』で理解し、『身体』で理解する」とはどういうことやろて言う話ですわなァ。
「言葉」で理解するとは、その都度、相手の言うてることが理解できるいうことでっ
しゃろか。実際、たくさんの人が、「私」の周囲にはおって、いろんな人々がいろんな
ことを言うてはりますわな。「私」は、その都度、その人が何か「言葉」を言うところを
認識し、言葉の意味を理解してますわな。せやけど、それだけでは、「私」はその人
全体を「理解」したことになりまへんわ。
ところが、ある程度、お喋りしていると、「私」は「その人」がわかったと思うわけ
ですわ。その時、「私」にはその人の全体像が、一人の人間全体が理解できたと確信
しよるわけですな。これが「身体」で理解するて言うことでっしゃろか。実際には、
「言葉」で理解するだけやありまへんわ。一目見て相手のことが理解できたて確信する
こともありますやろ。いずれにしても、ある瞬間、相手のことが全部(あるいは大体)
わかったていう確信が(強い場合も弱い場合もあるやろけど)生まれるわけですわな。
これは、「身体」で理解したとしか言いようがないんかもしれまへんな。
後期フッサールは、この辺の問題を扱うてはるんですわ。
29 :
名無しさん@酔っぱらい:02/03/13 10:42
そうそう。対象(ここでは相手)の部分的特徴(ここでは相手の言葉)でもって相手を
イメージすることを、確かラカンは「換喩」言うてましたな。それに対して対象を
全体として把握してイメージすることを「隠喩」て言うてましたな。確かラカンは
「換喩」とフロイトの夢の「置換」に、「隠喩」を「圧縮」に関係づけてました。
どこで、読んだか、思い出せへんけど。間違いがあったら指摘してくだされ。分析に
関してはシロートなんで。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/14 03:30
「他人を理解できますか?」という質問について。
この質問が成立するためには「その人に正解がある」ということが前提になります。
その人の「正体」が、その人の中かどこかに隠れていて、
その正解(正体)にたどり着けるかどうかを考えておられるように見えますがどうでしょうか。
しかし、実際にはそのような「正体」はありません。
ひとりの人の性格が、見る人によってぜんぜん違うように見えていることがあります。
これは、その人の中にその人の「本当の性格」が存在していて、見る人によって、また、
その捉え方の深さなどの違いで、その人の性格の見え方が違うというものではありません。
その人の中に「本当の性格」などありません。
人の性格は、他の人との関係の中にしかありません。
Aさんから見たBさんの性格とは、AさんとBさんの人間関係の中に現れるBさんの性格です。
つまり、Bさんの性格は、
AさんとBさんの人間関係を通して、2人が共有するようになった
Bさんという人間に関するひとつの観念です。
「Bさんはこういう性格の人だ」と言う観念が2人の間で共有されているから、
Bさんは、Aさんの前では、そういう性格の人間として振舞いますし、
Aさんもそれを認めているということになります。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/14 03:32
私も、他者の理解は、すべて投影だと思います。
酔っぱらい先生がよそのスレに出張してる!
フッサールの他者論に触れる前に、ちょっとフッサールのポイントについて考えとかんと
あきまへんねん。わしにわかる範囲で、なるべく噛み砕いてみますわな(わしの頭で理解
しようと思うたら、必然的に噛み砕くどころか、お粥にせんとしゃあないかもしれま
へんな(笑)。
フッサールは、超越論的な経験についていろいろと考えはった人ですわ。この超越論的な
経験て言うのはいったいなんでっしゃろか? それは、自然な意識の確信ていうこと
ですわ。
例えば、わしが目を開けたら、前にパソコンがありますわ。目を閉じたらパソコンが
見えへんようになりますわな。こんなふうに、その都度知覚されたパソコンの経験、
それを「現前(Praesentation)」て言いますねん。そうして、その都度、私の見る
(知覚する)という行為によって、パソコンは見えたり見えんかったりするわけですわ
(現前Praesentation)。ところがでんな、私はそういったその都度の知覚の経験を、
はっきり意識したりしませんわ。つまりこの現前Praesentationは「非主題的」な
ものなんですわな。
ほなら、私は何を「主題的」に経験しよるんでしょうか? これはパソコンという
対象を「主題的」に経験するんですわな。つまり、パソコンがその都度の知覚経験
(現前Praesentation)とは独立して、客観的に存在するということを、わしは確信
しとりますわ。私が目を閉じて、パソコンが見えへんようになっても、私の前には
パソコンがあるていうことを私は「知っとる」わけですわ。これは一種のイメージ
された経験ですわな。これを「間接提示(Appraesentation)」て言いますねん。
こんなふうな一種拡大された対象の把握をApperzeptionて言いますねん。この確信が、
どんなふうにもたらされるのか、それが超越論的意識の問題ですわ。
だいたい「他人を理解できる」←→「理解できない」てどういうことなんやろ。
例えば、ボールを一塁目がけて投げますわ。ボールが一塁に着くやろうて予測でき
ますわな。それが、ありゃ、外れたていうこともありますわ。せやけど、これは
「ボールを理解できた」「理解でけへん」ことにはなりませんわなァ。ボールには
意志はない、主体性はないわけですわ。せやけど、「他人」には意志がある、
主体性がありますわな。「自分」と同じように主体的に考え、意志を持ち、行動
しよるわけですわ。この「他者の主体性」を前提にして、「他人が理解できる←→
理解できない」ということが可能になるわけですわなァ。この「他者の主体性」が
どんな風にして「世界構成」に組み込まれているんか、それが問題ですわ。
不変項があふぉーざんす
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/19 03:16
age
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/19 05:59
自分の実感として理解できなくとも
こういう人はこういう考えを持ってる、とかしばしばこういうことを言うとか
そういう資料の蓄積がないと小説なんかかけないでしょうに。
作中に社会の縮図をみせなきゃならないのだから、
投影以外のこともできないと・・・
登場人物の性格全員同じってことになりかねないじゃないか。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/19 06:02
世間的には
「こういう場面でこう言ったら〜という意味」とか
暗黙のコードが決まっていて
それを読み取れないと
「人の気持ちがわからない」とされてしまう。
大抵、実際にはコードをしているか否かの問題だ。
本当に気持ちがわかる、というのとは大いに違う。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/19 06:09
「他者の理解は、すべて投影だと思います」
っつても「私には全く理解できないがしかじかの人達にとっては
これこれは嬉しいことらしい」とか、そういうこともあるでしょう。
「自分がしてもらいたいことを人にしろ」はけっこう外れるんだよ。
人は価値観のシステム自体が自分とは違うかもしれない、
ということに思い当たらないひとはうっとうしいです。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/19 07:13
>>30 確実に違うと思う。
性格はある程度、遺伝することが認められている。
ある人について、同じ性格類型の人が類推すると「正解」しやすいし、
別の性格類型に人の類推は間違いがちだ。
また30への反論として別の例を一つ。
ホモのAさんの考えは非ホモのBさんには類推しがたいが
同じくホモのCさんのAさんへの類推はBさんのよりあたりやすいだろう。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/19 09:19
こんにちわ、
面白く拝見させていただきました。
自分は必要以上に他人を理解しよう
などとは思わないし、自分のことも
必要以上に理解されたいとも思わない
んです。
別にひねくれていっているのではなく
人間はどの組織に属するかによって
様々に顔を使い分けるし、その時の
気分によっても考えや言動が変わって
くると思うからです。
必要以上に相手を理解しようと
すると錯誤の度合いが大きくなりそうな
気がして…。
筋から逸れましたね、悪しからず。
>>40 >性格はある程度、遺伝することが認められている。
おーい.ソースくれ.読んでみたいんだ.
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/19 16:30
そもそも性格類型って信頼できたっけ。。。
YGとかエコグラムの結果って、状況の変化とか加齢とかで
変らないものなのか?
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/20 06:47
興味あげ
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/20 09:46
ラカンのシューマLで逝ってみましょうか。
去勢されて斜線を引かれた主体Sか大文字の他者Aを理解するにあたり
主体の代弁者、自己sが小他者aと媒介します。
これによって、コミットは成立しますが、主体は、s−a上によって
彼岸である大文字の他者Aを理解することは決してありません。
語る存在のヒトは所詮シニフィアンでしかないのです。
よって他人は理解できません。そして自分も理解できないのです。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/20 23:54
じゃあ、聞くけどさ、
AさんはBさん宅で、Bさんに料理Zをふるまってもらった。Zは多くの人が好む料理だ。
ところがだが、気が弱いので「これ食べられません」とも言えない。
気まずそうにしているAさんを見て、Zアレルギーなど想像もつかないBさんが
今日は食欲ないのかと思い。そうたずねる。 Aさん「・・ハァ…ちょっと体調悪くて…」
この場合Bさんの解釈は間違いであり「AさんはZアレルギー」である、という「正解」が
存在する。
たしかにBさんもしくは何も知らない第三者から見れば、この「正解」は解らないかもしれないが
少なくともAさんはこの「正解」を知っている。
ラカニアンはAさん自身が「Zアレルギー」かどうかはAさんにも実はわからない、
といいたいのか?
少なくともAさんはZ以外のものなら食べたであろう、という「正解」は動かせない。
これぐらいのこと、皆、経験的に知ってるでしょ。
ラカンの論理て、この場面で「まあ、遠慮なさらず食べてくださいよ!」と無理強いする
ウザいひとたちには「だってどうせ本心などわからんにだから、思ったようりにやります」と
醜い開き直りの理論的支柱になりかねん。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 00:58
「これ食べられません」とすら言えない時点で最低限の信頼関係が出来て無いじゃん。
深い理解をお互い欲して努力する前提がないと…
あとさ、戦国時代の大名Aとその部下Bとかいう設定だったりすると
アレルギーと知りながら主命とあらば「食ってみせ」て倒れてみせたりすると後々
「理解と信頼」の美談の関係として語られたりもしそうだべ?
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 01:04
<情動の舌>は
いかんのか?
「正解」のあるなしを問題にしてるので、この例でいいかと。
だって、1が問題としてるのは意志の疎通の問題でしょ。
そこで「正解などない」といったら話にならない。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 01:41
正解の在る無しを問題にしたいのなら
46の例でAは「自分のアレルギーを他人に伝える」という正解を最初から捨てている。
「だってどうせ本心などわからん」という事実と絶望を乗り越えるために
Aが自分で積極的に関係を築こうとするのが「正解」。
醜い開き直りの理論的支柱でヒッキー状態なのはBではなくA。
>50 それはコミニュケーションが成り立つために「正しい」か否かで、
問題がすり返られてしまっている。
46は認識の対象として「本心」なるものが、そもそも存在しているのか、
という問いには、あるレベルで「存在する」ということを示すための例。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 01:53
関係を築く事を破棄すれば「本心」が欲望となって存在するという例か?
欲求を表明できない「理由」のほうが「本心」であろう。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 01:57
パレスチナとイスラエルとアメリカの例えで
存在する本心の正解を誰か教えて
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 02:01
52 たしかにそこにAのBに対する「本心」が作用しているとは言える。
しかし依然として
「Aはアレルギーであるが故食べられない」という「正解」に
にAは食欲がないのだ」という「誤解」が対置されるということは動かせない。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 02:37
アレルギーでも食えるって。
もしかすると最新科学や何等かの理由で食えるようになったZを
驚かせようとして出しているのにAが誤解しているのかもしれない。
相手が自分の全てを知って信頼している関係ならそこまで考えられないか?
AはBとの関係が脆弱で「食えない」のが正解で誤解だと信じたいだけ。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 02:56
なんか「ゲーム」って映画思い出させるな・・・
本心の正解なんて人それぞれなのは自明だから
「誤解」と「個々の正解」の存在を認め合って
自分の欲求を正しく表明するのが関係というものだろう。
46の例だとBの持つ正解の可能性をAは最初から否定しているな。
Bは「食べられる」という正解を持っている。
それを強化するものは無知や誤解なのかもしれないし
特殊な食事の知識や科学知識、医療技術なのかもしれない。
Bの正解が支持される可能性をAが捨てるのは何故だ?
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 03:08
実際に食べて害がある・ないじゃなくて、
Aの「これは食べたくない」という
意志のあるなしが問題なのだけど・・
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 03:15
仮にAが考えている正解(害があるから食べられない。そしてBが誤解している)を
すべてA自身が把握していて間違いないとしても
状況をその正解に導く能力がありながら正解を保留しているという事は
実際の本心は「正解の事実」の「これは食べたくない」にあるのではなく
今の誤解されている状況を維持する「本心なんて理解されないくてもいいや」
がAの本心であろう。
>54の「Aはアレルギーであるが故食べられない」という「正解」
と今まで実際食べれられるかどうかに正解を求めていたのに方針転換?
57のように意志のあるなしは少なくとも「正解」の根拠にはならんのでは。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 04:32
君 を 信 じ よ う そ し て 私 は 君 に 言 お う
他 者 の 彼 岸 に た ど り つ く た め に
毒 を 飲 む の だ
私 は 牢 獄 か ら も 逃 げ な い
今 も 愛 し て い る と 伝 え て く れ
毒 の 神 に 供 え も の を 忘 れ る な
さ よ う な ら
も う い う こ と は な い
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/21 10:14
Aさんの自我が小他者aである限り、Bさんの
主体大文字のSはそれには気づかないでしょう。
このケースの場合「Zアレルギー」はラカンのいう対象aです。
Bさんは自分の背後を決して見ることが出来ない。
決定的に他者とコミット出来ないのはそのためです。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/22 10:13
興味あげ
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/23 18:51
>>45 語る存在のヒトは所詮シニフィアンでしかないのです。
よって他人は理解できません。そして自分も理解できないのです。
んなこといったら、
「あいつ自分自身でも気づいてないけどホントは私が好きなのよ、意地っ張りやさん」
なんて言ってるカンちがいストーカーさんはどうなる?
つけまわされて迷惑してるひとは「ホントは自分も好きなのかもしれない」と思っとけと?
それに所謂「気がきく人」「きかない人」の区別はどうなる?
少なくとも現実的には「勘違い」さんか否か、「気が効くか」否かは常に問われるし、
そういったことについて一定の社会的コンセンサスが存在してるぞ。
>>40 私は、「性格は客観的に存在しているのではない。」と主張しています。
「性格は、二人の間の人間関係の中にしか存在しない。」と主張しています。
もっと言うと、例えば、AにとってのBの性格とは、Aの頭の中にしかない幻想
(観念)です。その幻想がBとの間で共有できた時、2人にとって、「Bの性格
はこれこれこういうものだ。」という、2人の間の現実になるだけです。
性格が遺伝すると言う場合、性格が客観的に存在することが前提になって
います。性格類型も、性格が客観的に存在することを前提にしています。
その前提を疑っています。
ちょっと観念的すぎるかもしれませんが。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/25 10:10
>>63 ストーカーさんはストーキングという行為は対象aになります。
この為、ストーカーさんの自我はいわゆるリビドーによって自己を見失います。
ファルスはむしろ主体の物なので、二重に悪循環に陥ります。
彼は自分の背中が見えません。そして主体の代弁者たるもの自我は、
果てしなくパースペクティブを見失っているのです。
しかしソレは彼の自信の問題なのです。南無南無…。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/25 10:23
>>63 もう一つ、お答えしましょう。
『「気がきく人」「きかない人」の区別』はヒトの愚かさのレヴェルです。
ラカンのいう「四つの語らい」はヒトのファンダメンタルなことです。
これはグレーゾーンがあると思いますが、とどのつまり
ヒトがシニフィアンである限り、逆に言えば、語る存在でしかないということです。
つまり、端的にいえばヒトは愚かと言うことです。
『「気が効くか」否かは常に問われる』環境ってかなり劣悪。
愚かだね。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/26 21:05
>67 日本社会ではあらゆる階層で問われるよ!
>>65 残念ながら答えになってない。65で問題としているのはストーカー側の心理。
63で問題にしているのは、むしろ追われる側の立場で
「私はあの人にまったく気がない(正解)。
しかるにあの人は私があの人を実は望んでいると思い込んで(誤解)
私を追いまわしている」。
この現象内で一定の「正解」と「誤解」を措定しうる。
ところがラカン的理論では、
この「追われている人」の言い分を疑わなければならなくなる、
つまりストーカーの言い分(妄想・誤解)を支持することになりかねない。
確かに理論上は「追われている人」が嘘をついている可能性はあるが、
明らかにストーカーに妄想・誤解を認められることがあることは
誰でも経験的に知っているはず。
この人にとってはとんだ冤罪ではないか?
>67 はいろいろ社会的マナーを完全に身につけていて、
いちいち意識しなくても適切にふるまえる社交上手か
さもなくば自分自身がかなり鈍く、周りの人に鈍感と陰口を叩かれているか、
どちらかどよ。
68も同じ。もしくはオタク的コミュニティーに安住している呑気もの。
>>30 性格類型は全面的に廃棄されてはいないし、
ヒトゲノム計画でもテーマになってるはずだよ。
百歩譲って、すくなくとも意志的に選び形成した行動規範というのは人それぞれあって、
違う規範提携を持ったもの同士の間で、相手の規範に無知な側が
しばしばとんでもないメッセージの解読ミスを犯す、という現象は存在します!
このスレ、タイトルだけで食わず嫌いしてたら、こんな内容だったのか。
気が効く利かないってのは、社会的知能だろ。
評判はよくないがEQみたいな。
現象学を持ち出すと話は厄介になるが、
それとは違う概念水準では「対人認知の信頼性と妥当性」みたいな、
自分が理解している他人がそいつの実情に「近いか遠いか」の尺度化は
少なくとも何らかの基準の上では可能だと思うが。
妄想と推論は形而上レベルでは不可分かもしれないが、
経験的なレベルでは両者の相違は検証不可能ではないと思われ。
>>72 妄想と推論は形而上レベルでは不可分かもしれないが、
経験的なレベルでは両者の相違は検証不可能ではないと思われ。
これを待ってました!
65を見るかぎり、ラカン理論は「形而上レベル」と「経験的なレベル」を
ゴッチャにする理論のなのか、と思ってしまうが…。
相違というか、「度合いの差」な。
それこそ反証可能命題からデムパ100%の妄想まで、
あらゆる推論(仮説)には妥当性の温度差があるかと。
形而上的に突っ込み続けるとこれも論破されてしまうが、
心理学は哲学ではないので、そこんとこご了承願いたく。
つうか『ラカン理論は「形而上レベル」と「経験的なレベル」をゴッチャにする理論』
なのじゃなくて、みるからに形而上的なラカンの命題は
形而上レベルの文脈だけで思想的に語るのがふつーでは?
叩き台がラカンのそんな問いじゃ思想的すぎて無理があるんじゃないかい。
1が言うように「他者が理解」出来ている定義って心理学ではどうなのよ。
社会的規範のコードを読みとって「気が利く」ように現実に沿う事が正解なのか?
それって例えばヒトラーや毛沢東みたいな独裁社会でも「気が利く人」になれば
他者との理解が進んでいるって風にもならないかな……
だったらまずアイヒマン実験あたりで他者を語りませぬか?
「他者の理解が出来る」と言われてもなあ。対人認知の研究では、
「人間が認知している他人と、実際の他人は大分違う」
というのがある種の定説になっているわけだが。
ここでの「大分違う」というのは、認知的バイアスが混じってることが多い、
ということね。ハロー効果やら暗黙裡の性格観やら帰属の誤りやら。
ふむふむ。
続けよ。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/27 12:16
>>69 別にストーカー擁護なんてしてませんよ。
あえて批判すれば、彼には父の名によっての抑圧が出来ていません。
オイディプスが不全です。去勢が象徴化されなかったのです。
ようするに「排除」がうまく逝かなかったわけです。
一方、被害者にはストーカーさんのメタレヴェルの心理を投影し計りにかければいいのですから、
被害者≠被害者になるわけです。よって、「被害者」が成立します。
あと、ラカンには象徴界、現象界、現実界、とトポロジックな論理があるので形而上なんかでは
ありません。あくまで形而下なものです。
経験的かどうかといわれると、矮小的な言い方をるれば「ラカン的な経験」といってまとめてみるのもいいですが、
まあ、ラカンはラカンなので、個々で判断してください。
誰が誰に向かって何を主張したくて語ってるのか分からんスレだな。
自己弁護ばっかで前進なし。
他者を理解できるかどうかはともかく、
ラカンを理解できる人間が少ないことは確かだ。
カール・ロジャースによれば、
うまくいっているセラピーの過程ではクライアントとセラピストが
「心から分かり合えた」と感じられる瞬間というのがあるらしい。
俺トしては肝心なのは「現に分かり合えてるという理解の内容の正しさ」よりも
「現に分かり合えたという感情的・認知的体験」を双方が持ったことにあると思うが。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 00:06
「語る存在のヒトは所詮シニフィアンでしかないのです。
よって他人は理解できません。そして自分も理解できない」
アレルギーさんの例えもストーカー被害の例えもこれへの反駁なんだけど。
前者では「私は実はアレルギーだ」、後者では「私はあの人には気がない」という「正解」が
食べ物をすすめるBさん、追いまわすストーカーさんの、「誤解」もしくは「妄想」に対置される。
Bさん、ストカーさん、さらには第三者には、あるいは「正解」は見えないかもしれない。
しかし少なくともアレルギーさん、被害者さんは「正解(理解されるべき内容)」を知っている。
よって、Bさん、ストカーさん、さらには第三者には、あるいは見えにくくとも
正解がないとは言えない。
この「正解」「不正解」の区別がないと、特にストーカーやそれに類する件について裁判すらままならない。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 00:11
「気が効く・効かない」の例にしても、
そのような事に関しては厳然と社会的コードが存在しているのであって、
社会の成員として社会の中で生活するかぎり、
コードを守れている・逸脱しているという「正解」「不正解」は現象として観測される。
よって、理解もなにも存在しないとは言えない。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 00:40
「一方、被害者にはストーカーさんのメタレヴェルの心理を投影し計りにかければいいのですから、
被害者≠被害者になるわけです。よって、「被害者」が成立」
ここのところ詳しくお願いします。
「語る存在のヒトは所詮シニフィアンでしかない」と言う限り
被害者さんを「あなたは本当はあの人が好きなんだろう」と疑え
という帰結すら生じかねないからです。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 00:43
意志が正しく相手に伝えられる・伝えられないという差異は生活現象としては
存在するのであり、その差異はラカン理論ではいかに説明されるかと。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 01:26
82からの理論で言うと
たとえば独裁政権下では密告するのが
『社会の成員として社会の中で生活するかぎり、
コードを守れている』「正解」となるのですね。ハイ。
社会から最低限の理解が保証されて良かったですね。
戦争になったら「他国の人を理解して」徴兵拒否する人を社会コードで不正解にしましょう。
不正解な人の意見は誤解で思いこみですから理解しあえませんね。ハイ。
間違った社会コードでも他人との関わりのおいては正解として尊ぶのですね。
それで他人とうまく関わり理解している確信がもてるんですね。
正解・不正解という考え方はコワイですね〜コワイですね〜。ではまた来週。サヨナラサヨナラサヨナラッ!!
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 01:30
86 あのさー、意志疎通を問題としてるんだけど。
解ってないねー。ウザイ。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 01:32
つうか
ストーカーも食べ物の好き嫌いも
喩えとしては全然機能していないから諦めたほうがいいように思われ。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 01:34
それをラカニアンがいかに解釈するか、という問題としては有効では?
「意志疎通の問題」の正解を「社会コード」に求めているんじゃないのか…
そうじゃなかったら正解なんてもの振りまわしてどうしたいのやら。
ラカニアンとだけ話がしたいならスレ違いでは?
86 いちおう説明しておくと属する社会の「侵攻しましょ」という意図が
メッセージとしていかにつたわるかを問題としている。
まあ過去レスの流れ上のことです。
「正解」というのは
「ある人が伝えたいところの内容・意志」として、その人についてのいわゆる誤解・妄想と対置しているのです。
スレタイトル「理解できるか」はそもそも理解されるべき対象を想定しているわけでしょう。
そこへ「そもそも他人にも本人にすらわからない」というラカニアンの意見が出たので、
反論しているのですが?
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 09:39
「正解」なんて存在しませんよ。ヒトの主観というのはその程度のものです。
なにせラカンは一応、構造主義に属していますからね。解釈のみが成立するわけです。
>>88さんは正しいと思います。精神分析とは分析することによってその答えを
明示するのではなく、明示を解釈するのです。
これは前記と矛盾するわけですが、主観≠主観です。そのことを理解してください。
>>84 それはストーカーさんにとって被害者さんのストーカー行為は対象aにあたります。
被害者さんは基本的にパッシヴなのであまり問題ではありません。
実際、有名な症例「エメ」についてもZ夫人にはあまり言及していませんから。
ラカンの理論なら大抵のアレゴリーなんて論破できます。(嘘)
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/28 21:57
「正解」という言い方がいけなかったか…。
意志疎通・伝達がうまくいくかいかないかの問題なんだけどね。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/29 10:15
>>95 「正解」はあります。ただし主観のみによって。
意志疎通・伝達が巧くいくかどうかはシューマLによって提示されるでしょう。
それは象徴界によって明らかになります。
#つーかなんで心理板のくせにラカニアンが少ないの?私なんて房ですよ。
何でもかんでも自分の土俵にぶち込む馬鹿、久々にハケーンヽ(´ー`)ノ
この板ではラカンの話が出たのは、漏れの知る限り、
精神分析スレのフロイディアンがラカンを叩いていた時だけさーヽ(´ー`)ノ
,,/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│ ぼくたちラカニアン、他者にだ〜けつい〜ていく〜♪
│ 今日も〜象徴界、現実界、そして想像界〜♪
| いろんな学派が〜争ってる精神分析で〜♪
| 今日も〜鏡像段階、幻想、そして〜対象a♪
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| 分析うけて〜 怒られて 涙して〜♪
| でも 私たち金かえせとは〜言わないよ〜♪
| 分析うけて〜 話をそらされて〜♪
| でも 私たち分析家に転移し続ける〜♪
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♪ ∧ ∧ ♪
(-@∀@) ♪
|つ[|lllll])
〜| |
U U
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/04/30 00:47
ラカンネタで終わりなのか?
対人認知の研究は、われわれが他者のことをどれくらい性格に認知している
かを検証することから始まった。しかし、これまで積み重ねられてきた研究の
ほとんどは、情報処理アプローチに基づく研究も含め、他者を正確に認知する
ことがいかに困難であるかを示すものばかりである。われわれの対人認知機構
は、本来的に正確な認知を行うよう設計されてないのかもしれない。では、
われわれの対人認知機構を律している根本原理は何であるのか、その答えを得
るためには、今一度、人間にとって何が適応的なのかを問い直す必要があ
るであろう。
「社会的認知の心理学」第一章 対人認知の心理機構結末部より。
ラカン最強伝説
否定神学と不可知論と相対主義と独我論。
最強はどれ?
103 :
ラカニラン:02/05/01 10:21
あなたの心の隙間、被えします。
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/05/19 22:33
>102
誤配のデリダの郵便局。
105 :
没個性化されたレス↓:02/07/08 09:11
東浩紀はええっちゅうの。
age
107 :
◆wxzaMYVU :
正解を求めようとしちゃいかんのよ。人間の心理構造を覗くって言うのはどう考えても(今テレパスについて論文を書いた後なのだが【笑】)
「推測」で、たくさんの推測を集めて、状況証拠などで、正解と思われる答えを「断定」するわけだ。この
「断定」って言葉もニュアンス的には「決め付け」かもな。小説で書く場合はその人間が本当にそう思ったかなんて二の次じゃないの・・・。
ある意味(これ書くと、どんどん利権がなくなっていくのだが・・・)キャラクターっていうのは筆者の想像の枠の中での存在。
リアリティを追求するのなら、インタビューをするべき。
でだ、ここから恐ろしいのだが、自分でも確信を持っていない事(意識していない事)を指摘されると、人間ていうのは「そうだ!」って思ってしまうんだ。
若い世代が特に危険なのは、そういうこと。また影響を与える側も考えなきゃいけない問題なんだ。
で、他者との相互理解のコツとしては。
段階を踏んでいく。今回は異性との接触についてだ。
step 1 会話によるコミュニケーション。
step 2 体の接触(いわゆるA/B/ってやつ)だな。
step 3 性的交渉
step 4 精神のやりとり
詳しくは拡散性意識体スレを見てくれ。俺は拡散性意識について語ったのだが、テレパスの説明になってしまった。(泣)