●●●タバコ吸ってる宗教者(・△・)y-~~~●●●

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232名無しdeath
みなさんの議論とはズレてしまうのかもしれないけど、一意見として。
リチャード・クライン氏の『煙草は崇高である』はやっぱみんな読んでるのかな…。
彼は「喫煙者が煙草の害に無知であるなどとは、かつはいざ知らず、今日では到底信じ難いことである」と述べた上で、そういうことを承知の上で喫煙者が喫煙を繰り返すのには、煙草にはやはり何らかのそれなりの「意味」が隠されているのではないのか、と言っています。
そしてその「意味」はプロテスタントの伝統的なヒステリックな道徳判断の押し付け・抑圧(たとえば禁酒運動)などによって、さらには世の中に蔓延する健康至上主義のおかげで、問答無用に隠蔽されてきてしまっているとも。
その「意味」とはたとえばカントが言うところの「崇高」という言葉とかに収斂されているのだと思うのだけど、それは目に見えないし非科学的だし抽象的で掴み所のないものだ。
で、ぼくはなんか不自然に感じるのだけど、いやしくも宗教を行う者が「健康」やら「科学」やら目に見えるものばかりに目を奪われて、そういう「意味(確かに宗教的というより芸術・哲学的な概念だけど)」の前で思考停止してしまうのはどんなもんだろうと首を傾げてしまうのです。
確かに「健康」には害があるし、他人に迷惑をかけるようなことは絶対にいけないと思うけど、あまりに「死」から潔癖症的に身を遠ざけるのも……。
「心を揺さぶるような様々な芸術的・宗教的経験に属する美的満足や反省意識を、煙草は幅広く提供してくれる」のですから。