αマリヤ崇敬は確実に間違いであるω

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107ヌマツダ
>104 マリア さんへ。
>多くのカトリックやプロテスタントの方が
>ここに来ない理由はなぜかしら?少し考えてみてね。

人の信心をとやかく言うものでない。と言う大人の気持ちと言うヤツだろう。
今日、聖書協会の聖句に偶然載っていた。
食べ物の事で食べる人と食べない人で裁き有ってはイケナイという事だろう。
崇敬の事で崇敬する人と崇敬しない人で裁きあってはイケナイという比定だろう。
だから来ないのさ。

>言葉では限界がある世界となってしまう。

ヨハネにあるではないか。
初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
多神教でない、ことキリスト教では、言葉に限界があると言うのは違う。
ラテン語や聖像や聖化や聖別のミサを放棄して、
活ける言葉、自国語による説教礼拝に神の世界を見いだしたのがプロテスタント。
礼拝は説教の下手な牧師に掛かったらつまらん礼拝になるかもしれないが、
神秘感を味わえられれば礼拝はよいという異教と同じ感覚なら、
ヨハネの冒頭の句は意味を為さなくなってしまう。