マリヤ崇敬は・・(2)

このエントリーをはてなブックマークに追加
211信仰虚弱
> > 何度も何度も書いていますが、それだったら、キリスト教は「聖書のみ」で
> >なくては成立しない、と証明してほしい。
> 聖書のみ「でなくては成立しない。」のではなく、
> なるべく聖書のみ「で成立させようとした。」プロテスタントが本来的だ。と考えています。

 いい機会ですから、このスレをROMしている方に私見を述べておきます。
 新約聖書のそれぞれが書かれた目的の重要なひとつに、キリストが使徒たちに伝えた
普遍の教えを、異なる教えから守るということがありました。
 それぞれの書物が書かれた当時は、「信徒は全員、律法の戒めを守るべきかどうか」
とか、「信徒同士の関係と血縁の関係はどちらが大事か」とか、
「キリストは復活したか、人は復活するのか」とか、そういう議論で信徒は揉めていた
ようです。だから、普遍の教えを守るために、パウロ書簡でも福音書でも、
そういうことを非常にくどくどと繰り返し書いた。
 しかし、三位一体(イエスと聖霊はヤーウェと一体だという認識)や聖母への深い尊敬、
イエスは一人っ子だったとか、こういった問題に異議を唱える馬鹿な人はいなかったし、
議論にもならなかったのでしょう。だから、聖書にわざわざ、くどくどと書く必要も
なかったと思われます。でも十分に書いてありますけどね。
 何百年もたって、反対する人が出てきたため、三位一体にしても、聖母が神の母であると
いうことも、公会議を開き、聖霊に導かれて再確認したというわけです。
 あなたが、誰か大切な人に手紙を出す時のことを考えて下さい。書く必要のない
当たり前のことは、わざわざ、くどく書かないでしょ。私は聖書をそういう感覚で読みます。