マリヤ崇敬は・・(2)

このエントリーをはてなブックマークに追加
206ヌマツダ
(つづき)
今日また書店で立ち読みしまくってきたのですが、
以下のようにマリヤ崇拝のネタには事欠かなかったのはわかりました。
431年のエフェソ会議で神の母を宣言することで、
アルテミス崇拝に取って代わった。
キリスト教が国教になってから、キリスト者の女性像として処女性が重視されて、
マリヤが持ち上げられた。
626年に聖母は勝利の女神に取って代わった。
天上と地上の仲介者としての教令は840年頃にあった。
9、10世紀に教会権力が強い時代に聖母子像が盛んになった。
11世紀頃には1000年期の終末思想の不安な時代に、
臨終のとりなしでマリヤの奇跡が起こる例が多かった事などです。

ですが、「十字架のイエス」を述べ伝えたパウロの説を読むと、
十字架のイエス像の前で、ミサで聖化したパンと葡萄酒を食べても、
「聖母に抱かれる幼子イエス」を述べ伝えるカトリックは、やはり違うなと思います。
聖母子像をみたら、パッと見、母が主で子が従に見えてしかたありません。
子どものおもちゃ売り場の店員のように「かわいいお子さんですね。」とか子どもが主人のようだが、
実は財布は御カーチャンが握っているので、店員の心は御カー様の方を向いていませんでしょうか?
心の中はのぞけませんが、形で表している部分で、聖像や聖画からして、
崇敬(ドゥリア)と特別崇敬(フィレドゥリア)と崇拝(ラトリア)を、
外目で見て区別出来るでしょうか?

人の信心にケチ付けるのはいかがなモノかと問われるので恐縮ですが、
人から新教と旧教のどちらがよりよいですか?と問われたら、
今までのスレからいって私の場合は新教の方を採ります。
異教の奇跡談やお陰話のように旧教は俗信的にすぎる気がします。