マリヤ崇敬は・・(2)

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173ヌマツダ
仲介者は仲保者とも言い、互いに対立する二者の間に立ち、
敵意の原因を除くことによって和解と一致を得させる者を言う。
宗教的な意味では、神と人の間を「とりなす者」である。

>>172
>その「仲介者」とは、「新しい契約の仲介者」の意です。

「新しい契約の仲介者」(ヘブ9:15)のそれは、
イエスは祭司であると同時に犠牲であるからでしょ。
大祭司イエスは旧約の祭司と異なって、
みずから罪なく、ただ一度御自身を捧げて。
「永遠のあがないを全うされた」(ヘブ9:12)わけだから、
他の仲保者の「とりなし」を必要としなくなったわけだ。

他にマリヤや聖人のようにキリストへの仲保者がいるのは、
直接、神と人との「仲保」が出来ないから、
キリストの仲保の意味が無くなり、贖いが不十分と言う事になります。

仲保の神であるキリストに対して「あがない」も無しに、
他の「とりなし」があるのは可笑しくありませんか?

可笑しいと知っててカトリックは、マリヤを仲保者にしたいものだから、
マリヤには「罪がない」事にして、共同贖罪者に仕立て上げたい訳だ。
そうすれば論理的にはマリヤ崇敬による「とりなし」は正統化できるから。

カトリックが共同贖罪者にこだわる理由は、イエス様が、
みずから罪なく、ただ一度御自身を捧げて。
「永遠のあがないを全うされた」(ヘブ9:12)聖句を、
マリヤ信心のために無力化する為だとしか考えられない。