マリヤ崇敬は・・(2)

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156ブルネルス
ペテロの手紙はペテロが書いたわけではない、と言うと、
「じゃあ、捏造だってえのか?」と問い返すのは、
現代の著作の作法を2000年前に当て嵌める時代錯誤です。

ペテロの権威を奉じる人々が、ペテロだったらこの状況でこう言ったであろうことを
ペテロに擬して書くということには、何の倫理的抵抗もなかったし、べつに「捏造」
したわけでもありません。
同様にして、歴史を書くという時にも、例えばパウロがアテネで哲学者を相手にして
語るとしたら、どのような内容が一番相応しいかと考えて、それを書くということも、
当時の歴史の書き方としてはなんでもないことです。それをもって、嘘を書いたとみ
なしたり、いや、そんなはずはない、書いてあるとおりにパウロは演説したのだと
言ったりするのも時代錯誤です。

ペテロの手紙にはパウロ書簡についての言及があり、それを擁護するような言及であ
ることから、これが書かれた当時、パウロ評価をめぐって意見の対立があり、ペテロ
の権威を奉じつつ、パウロの思想を取り込もうという立場で書かれた書物として位置
づけることが可能でしょう。――いや、これは特に事典とか研究書とか見なくても、
こうした書物の情報の見方を身につければ、すぐに推定できる事柄です。
使徒行伝もまた、ペテロとパウロを二大ヒーローとして扱っており、ある意味で似た
ところのある傾向を現しているといえるのではないでしょうか。

ヨハネ福音書が、ヨハネ(愛する弟子をこうとってのことですが >>111さん、ご指
摘はそのとおり)とマリアの特別な関係を強調するのも、それが歴史的事実であるか
どうかは関係なく、書いた人ないしグループの当時の状況における都合を反映してい
るわけです。事実かどうかの問題ではないのだから、決して彼らは「嘘をついた」わ
けではありません。