親鸞会はカルトだ!!

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つづき

>「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の廣海に沈沒し、名利の大山に迷惑して、定聚之数に
入ることを喜ばず、眞證之證に近くことを快まず。恥づ可し、傷む可し矣。」
(教行信証・信巻)
これは信後のお言葉ではないのですか?

信後のお味わいだと思いますよ。


>「愛欲の廣海に沈沒し、名利の大山に迷惑して」は煩悩にうずもれているお言葉では
ないでしょうか?
親鸞聖人のご信心は「なくなったと同然」でしょうか?

光明に照らされるゆえに自己が見えるのです。
これは二種深信の機の深信です。
自分は地獄行く、と思えなければ、極楽一定の弥陀の本願は到底味わうことはできません。


>論点をずらさずに議論したいので、蓮如上人の仰る「信心も失せ候べし」の「信心」
とは、自力か他力か、という点でお話いただければと思います。

上記でも言いましたが、ここでいう信心は他力です。
他力信心は失せてしまうかもしれないとビクビクするものではありません。
なくなりません。ただ阿弥陀仏のご恩に報いるためにも信後の聴聞・念仏と大切にせよとのことです。
信後も常に一念に立ち返り、常に今、今、今一念の自己を見つめ続ける。
信後の信仰のあり方をしめした御文章だと思います。