親鸞会はカルトだ!!

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670659
>>654
でのご質問に答えたいと思います。

>煩悩でうずもれた信心は、なくなったと同然なのでしょうか?

ここでいう煩悩にうずもれるとは、煩悩を煩悩とも知らず煩悩にまかせ流されて生活することをいいます。
悪を悪と知り、煩悩を煩悩を見せられれば、泣かずにおれんのが我々の実体です。
五逆・謗法の悪凡夫と自己を省みることによって、あらためて自分一人にかかった弥陀の本願の有り難さが身にしみいるのです。
蓮如上人は信心決定をゴールと仰せではありません。
信心決定した人には、ご恩に報いるために念仏称えなさいよ、と常に仰せです。
御文章にも
「このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。
これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。」と何回も出ていますよね。
親鸞聖人も「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」と仰せです。
他力の信心獲たらそれでおしまいではなく、念仏称えて阿弥陀仏のご恩に報いなさいよ、と仰せなんです。
せっかく頂いた他力信心も、ほっておいたらもったいないです。
なぜならば阿弥陀様が泣いているんですよ。
聖人さまのように偉大な方はともかく、煩悩まみれのこの私達には念仏相続は非常に困難なことなのです。
ですから信後も油断することなく、聴聞し念仏して、溝さらえをしなさい、と蓮如上人は仰せなのです。


>信後の聴聞は、煩悩が減るのですか?

当然減りません。むしろ智慧の光明に照らされて増えて見えるぐらいです。
光明に照らされれば地獄一定が見せられます。
ゆえに獲信者といって自慢できるものではありません。