αマリヤ崇敬は間違いであるω

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606許されざる者
>>604
ほほう、何も知らんと見える。
それとも知っていてしらばっくれているのかな?

クックック・・・なんならバチカンの宣言の日本語訳をそのまま引用してきてやろうか?

クックックックックックッ
607許されざる者:2001/07/06(金) 21:16
以下はバチカンの宣言文、原題:DECLARATION "DOMINUS IESUS" on the Unicity and Salvinic Universality of Jesus Christ and the Church.を日本語訳したものだ。
どういう意図で書かれたものか、よく読んでみるがいい。

主イエズスはただ一人の救世主であり、信徒達の単純なコミュニティを確立するのみならずして、救済の奥義として教会をつくられた。
イエズスは、ご自身が教会であり、彼のなかに教会がある(参照、ヨハネ15:1; ガラテア3:28; エフェソス書4:15-16; 使徒行伝9:5)。
従って、キリストの救済の奥義の完全性は、教会の属性であり、教会の主(イエズス)から切り離すことができない。
事実、イエズス・キリストは、教会に存在し、ご自身の体である教会を用いて教会での救済の働きを続けておはしませる。(コロサイ24-27、コリント第一12:12-13; コロサイ書1:18)。
このように、同一でないが、生けるヒトの体の頭部と胴体の関係のように、分離できない関係であるのがキリストと教会なのであって、キリストと教会は混同されてもいけないし、分離されてもならず、従ってキリストの一つの体なのである。
こうした分離不可性は新約聖書ではキリストが婚姻の花婿に例えられている通りである。(コリント第二11:2;Eph 5:25-29;黙示録 1:2,9)
608許されざる者:2001/07/06(金) 21:18
すなわち、イエズス・キリストの救済のとりなしの普遍性と一様性は、教会の一様性としてキリストによって定められたものであり、真正のカトリックの信仰として、断固信仰されなければならない。
一人の花婿なるキリストがいるのとちょうど同じように、キリストの花嫁もまた一人だけであり、それこそが唯一の教会”カトリックと使徒達の教会”に他ならないのだ。
しかも、主の御約束によれば、主は教会を捨てられないと明言しておられるし(参照、マタイ16:18; 28:20)、カトリックの信仰によれば、彼は教会を彼の霊によって導くとも言われている(参照、ヨハネ 16:13)。
だから、教会の一致と一様性は、キリストの教会の欠くべからざる性質で、決して失われ欠け損じたりしないものなのだ。
609許されざる者:2001/07/06(金) 21:19
カトリックの忠実な信者は、教皇の綿々たる使徒職の継承と、キリストとカトリック教会によって建てられた教会の基礎と間にある歴史的連続性を信じる告白をすることを「要求されている」(訳注:原文のこの部分はイタリック体で強調されている)。
これは唯一無二のキリストの教会である。そして、彼の復活の後、我々の救世主は権限を与えペテロに牧師の働きに叙任し、他の使徒たちをもって教会を拡大し、あらゆる時代において『真実の基幹と本流』となさしめ給うた。
この教会というのは、現状では一社会組織に過ぎないようであるが、カトリック教会に存在しているものであり、正当なペテロの後継者とその交わりに与る司祭によって運営されている。
このラテン語の”SUBSISTIT IN”(訳注:英語でSUBSIST INというのは時空を超えて存在するというニュアンスを持っている)という表現をもって、第二バチカンの会議は次のような調和深い教理を(二つ)宣言呈上する。
610許されざる者:2001/07/06(金) 21:20
すなわち、一つは、キリスト教徒の中に如何に分派が存在しようとも、キリストの教会はカトリック教会だけで十分存在を保っているという事実である。
そして、もう一つは、カトリック教会以外の教会で、カトリックとの全き交わりを行っていない教会や信者のグループの中にも、真理や聖なる事がバラバラと散乱して見出されているということである。
彼らの持つこうした功徳は、時代をさかのぼれば、恵みと真理を託されて実に完全に具現したカトリック教会から付与されたものであることを認めなければならない。
611許されざる者:2001/07/06(金) 21:22
したがって、キリストの教会は唯一であり、それはカトリックにあってこそ存在し、ペテロの唯一の後継者とその陪餐に与る司祭または司教達によって動かされているのである。カトリックと未だ連合していない教会であっても、カトリックが(教皇によって)真正な使徒職を継承し唯一有効な聖餐式司式権を持って存在している事を認めるなら、教会と言ってよい。
つまり、たとえカトリックの教理をすべて受け入れないという理由でカトリック教会とは全き交わりがなくても、キリストの体である教会は存在し、働き続ける。カトリックの教理はキリスト教の第一位にあることは、神のみこころにより、それは祭司・司教達によってやがてすべての教会に対して執行敷衍されるであろう。
その一方で、有効な正統聖職者叙任権も、真の聖餐式の秘蹟の経験をも持たない信者の集団は眞の意味のキリストの教会と呼ぶことはできないのである。
しかし、これらの非正統的で不完全なキリスト教のコミュニテイで洗礼を施される人々であっても、洗礼式によって、体なるキリストに取り入れられるのである。
洗礼式(バプテスマ)とは実際それ自体がキリストにある命の全き具現であり、信仰と、叙任と完全な教会の交わりの欠くべからざる告白なのだ。
612まんちょこらー:2001/07/06(金) 21:22
クルー、クククルー

1デナリ!
613許されざる者:2001/07/06(金) 21:23
よって、忠実なキリスト教徒は、キリストの教会が雑多に分割された信者のグループの寄せ集まりであると決して考えてはならない。
まして、キリストの教会はどこにも存在していないなどとも考えてもならない。
キリストの教会とは、すべての教会と信徒と聖職者が全力を挙げて達成すべきゴールであると見なされなければならない。
614名無しさん@1周年:2001/07/06(金) 21:23
>>605
教皇の首位権および不可謬性に関する教理憲章を読んで言ってるに違いないな。
こういう、教理の違うところだけを思い出したかのように論われると困りますね。

この人は聖書関係の学会に対してどう思ってるんだろうか。
プロとカトは仲良くしてるらしいよ。何せ聖書関係の集いだから。
「聖書のみ」という人が実に情けない。
とほほ。。。。。
615許されざる者:2001/07/06(金) 21:23
このように、神に付与された眞の教会の特徴が、カトリック教会の充ち満ちた豊かさに結合されて存在できるのであるが、他の教会につながるならば、何も満たされるものはない。
従って、カトリックとは分離している教会や社会は、我々の信じる所によると欠陥を持っている社会なのであるが、救済の奥義の重要性から切り捨てられてしまっているわけでは決してない。
というのは、キリストの霊は、カトリックではない教会が、豊かな恩寵と真理を委ねられたカトリック教会から由来している功徳を用いて救いの道を教えることを妨げたりなさらないからである。
616許されざる者:2001/07/06(金) 21:24
キリスト教徒の中の統一の欠如は、教会が統一性を持っていないという意味においてではなく、歴史におけるカトリック教会の不偏性の成就が妨げられているという意味において、教会の痛みなのである。