無量寿会

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906名無しさん@1周年
布施
布施とは、自分の身を削ってまでも、他人の為に奉仕
したいという菩薩の心であり、一切衆生を救わずにはおかぬという
仏の慈悲の心である。
つまり、信仰というものが、形をとって現れたものが「布施」である。
故に、信仰から布施の心を取り除けば、後は、抜けがらである。
何も残らない。
この布施の心があってこそ、全ての人々は救われるのである。
では、布施とは、どのようにすべきであろうか。
本当の真心から、仏様にお供えさせて頂くものであり、
人の目を気にして、見栄や体裁でするものではない。
又、布施する事による功徳を期待して、布施するものではない。
そのような心では、布施にはならない。・
唯、「人の役に立てれば…」という清浄な気持ちでせねば、
何もならない。
「この布施は、どのように使われるのだろうか」とか
「誰かが得をし、自分は損をするのではなかろうか」
などという不純な気持ちで、唯、見栄や体裁の為だけならば
最初から、しない方がましである。
布施ぱ強要するものでも、されるものでもない。自ら進んでする
ものである。
自分のできる範囲で、精いっぱいさせて頂けぱ、それでよいのである。
布施とは、それをする人の心が肝心なのである。
いくら「出せ」と強要ざれても、無いものは出せぬ。
それを逃げ出すというのは、あるのに出すのが嫌だからである。
布施ざせて頂こうという心がないからである。つまりは、信仰しようと
いう心が稀薄である、否、真の信仰心がないからである。
 しかし、1千万円でも、大した金額ではないと思う人もあれば、1万円
でも大金だと思う人もあろう。それは、その人によって金の価値基準が
違うからである。
 故に、布施は、自分の心に対して偽りなく、自分の心に恥じぬよう、
心をこめさせて頂けばよいのである。
 布施には、一律にはいかぬものである。