浄土系(南無阿弥陀仏)がなぜ流行らない?

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223名無しさん@1周年
仏教の教えを2種類に分けると、一つには、一生懸命勉強をしてこつこつと修行にはげん
でこの世でさとりを開くことを目ざす聖者の道を聖道門といいます。
2つめは、自分の能力ではとても覚りを開くことができない落ちこぼれ(浪人生)が、阿
弥陀さんという先生を信じて念仏して浄土という覚りを開くための予備校に行き、そこで
朝から晩まで仏法漬けの生活を送って、来世にさとりを得ようとする愚かな凡人が悟るた
めの道を浄土門といいます。
この聖道門・浄土門は、唐の道綽(ドウシヤク)が安楽集で説いたもので、聖道門は自力教で難
行道(ナンギヨウドウ)、浄土門は他力教で易行道(イギヨウドウ)とされています。
道綽は,末法の今の時は、聖道門ではさとり難く、浄土門によれば容易であるとしました。
法然も選択(センチヤク)本願念仏集の中で、道綽の教えをうけて、すみやかに生死をはなれん
とおもはば二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をさしをきて、えらんで浄土門にいれと
強く呼びかけています。
これは念仏して浄土に生れる道が易行であるという原理のほかに、人びとの教えを受容す
る能力(機根)が衰えると信じられている末法という時代を考え合わせて、念仏往生こそ時
(時代)機(教えの受容者)相応の教えという確信に基づいています。