世界真光文明教団(真光関係者集合!)

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325名無しさん
>>323

俺が言ってるのは、信仰を持つ前の段階のことだ。
信仰を持ったら最後、突っ走るしるしかないんだ。
しかし、全ての宗教が同等をもってその信仰の方角が正しい、
と言いがたいのはきみにだって理解できるだろ。

きみ自身、その坊さんの話を引き合いに出すなら、
これにならって話そう。。
人生に対しプラスアルファを宗教に期待するという
考え方がある。生活の為の補強材や調味料としての信仰。
生活の中に信仰を持つという捉え方だ。。
これは人間を樹木にたとえるなら、外見の枝を立派にし、
なんとかきれいな花を咲かせよう、という考え方だ。
悪いとは言わないが、しかし、本当の宗教というのはそんなもんじゃない。
枝葉や果実の以前に、人間という存在の根幹もしくは樹木そのものを問うの
が宗教なんだよ。
つまり、信仰は生活の中にあるものではなく、信仰の中に生活があるんだ。
だから信仰というのはあった方がいいというなまやさしいものではなく、
きみがAという宗教を選び信仰(没我)したら最後、それを体現しなければ
ならない原則や義務が同時に伴うわけだよ。((これは出家主義-在家主義の話とは違う))
それだけむちゃくちゃな前提を要求される「宗教」、一歩間違えたら
社会から糾弾制裁されるやもしれない社会行動を隆起させる「宗教」というもの
を選ぶ局面で、個人の能力差は別においてその信仰の方向が間違っているかいない
かの判断に最大限の努力を払うべきだと言ってるんだよ。。
俺が指した「信仰の真偽を問え」というのはそういう意味だ。
その上で正しいと判断すれば没我し信仰するしかない。