カトリック大司教が統一協会で合同結婚式

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カトリックの結婚までの(結婚以外の)性交渉の禁止自体は全く悪くない。
悪いのは、男女の交際やあり方としての、結婚までのお互いの
適切な表現を教えないこと。無理のない自己表現の実践的な教えが
欠けていることにあるんだ。であるから、教義に反せず、自分の
性に対する衝動や欲望をコントロールすることが出来る人は良いが、
そうでない人は、世俗の的外れな知識や、インターネット上に蔓延る
不適切な性表現に感化されて罪の機会を避けることが出来ない。
悪くすると教会から離れたり、罪に対して鈍感になり、自分と教会を
汚すことになる。
これは、個人が愚か者であるというよりも、教会の怠慢や欺瞞に満ちた
権威主義、教義主義の負の側面ではないかと思う。罪を犯す浅はかで
意思の弱いものを呼び集め、告解をさせる。彼はそれでもまた同じ罪を
犯して告解する。これの繰り返し・・・・。箴言9章だかに浅はかな
女が高い所の戸口に立って道をまっすぐ歩く者に呼びかける様が描かれて
いるが、カトリック教会がそのようであってはならない。

話がずれたが、とにかく結婚を禁止する掟はいらない。
神のために独身を決意する者もいれば、結婚して監督の任務を全うする
者もいたのだ、初期のキリスト教の共同体には。
歴史上大きな影響を与えた人物は結婚をしている。少なくとも「女」を
知っている場合が幾例も挙げられる。釈迦がそうであるし、カトリックの基盤
を作ったアウグスチヌスもその一人だ。彼は、母モニカに結婚を反対されて
アフリカの娘とその間に出来た子供とをあきらめざるを得なかったといわれる。
後に、修道院に入り、カトリックの神学の基礎を築く大きな役割をすることになる
のだ。