幸福の科学コピペ専用スレ part1

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101借金は紀尾井町ビルから始まった
1988/12(4000)
1989/ 1     
      2
      3
      4      天上界より伝道開始の許可が下りる、誌友会員制度導入
      5
      6      紀尾井町に移転する事を発表
      7
      8      紀尾井町に移転する事を発表(月刊誌にて)
      9
     10      公益法人化発表、関谷さん脱会
     11      仏陀宣言、スタートサンライズ宣言
     12(13300)紀尾井町ビルに入居、原さん脱会
1990/ 1      サンライズ90計画開始
      2
      3      第一回講演会(信仰と愛)
      4(15000)推薦入会制度導入
      5(30000)伝道決起、初めて顔写真を掲載(月刊誌)
      6(60000)
      7(7*000)
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1989年の6月に紀尾井町ビルに移転する事が決定しています。という事は、
それ以前から計画していたという事でしょう。(4月あたりでしょうか ?)
会員数を見てください。1万人もいないときに入居を計画していたことが分かり
ます。会費は2000円でしたから(記憶では)、どんなに多くても会費収入は毎
月2000万円以下。その時に、家賃だけでも2千数百万円かかるビルに入居し
ようとするのですから無理があります。その上、月刊誌は豪華でしたし、職員の
給与は出さなければいけなかったし・・・。
102借金は紀尾井町ビルから始まった:2001/05/29(火) 23:30
そのため大川さん個人が銀行から借金をしたそうです。作家ということで可能に
なったようです。会員が順調に増えれば返済できるはずでした。ところが、会員
数は伸びなかった。
会員数を見ると、入居した12月に13300人、翌年4月に15000人です。
つまり入居後、赤字は拡大するのに会員は一向に増えなかった。そしてとうとう
その年の第一回講演会「信仰と愛」で「大川隆法よ、お前にはまだ見栄があった
のか・・・」というような反省ともとれる言葉が自らの口から飛び出します。
(当然、本とテープからは削除されました)
これが本当の反省であったなら紀尾井町ビルを出たことでしょう。ビルから退去
した上で「法を広めてください」と言えば良かった。しかしそうはしなかった。
紀尾井町ビルに対する執着を断つことができなかったわけです。そしてこの執着
が会を借金体質にしてしまいました。

当時こういう法が説かれました。
「組織の拡大に合わせて施設も大きいものに変えていく。これが普通の考え方で
しょう。しかし発想を転換して、施設の大きさに合わせて組織を拡大していくと
いう考え方もあります。だから皆さん頼みましたよ」というような主旨でした。
(このテープも入手できないのでは ? )このあと拡大路線を進む事になります。