◇◆◇真如苑について教えて3◇◆◇

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452名無しさん@1周年
>>450 じゃじゃ丸さん
 「教えを客観的に吟味する」って事は案外難しいような気がするんですよ。
 一般的な話として、何かものの考え方が吟味の対象になると、「客観的」って
自分が思っているそれそのものが実は独自の考え方に根ざしていたりしますから。
 だから、何か考え方をめぐって議論をするときは、その人がその上に立って
考えてる”立場”が了解できるようになれば十分だと思ってます。
 それが、対話を通して互いの世界が豊かになるっていうことだと思いますから。
 「客観的」に議論できる領域としたら、世の中の道徳に照らしてどうとか、
そういうことだろうと思うし、それなら掲示板でなんとかできる範囲かなと思
いますけど。まあ、たまにはじゃじゃ丸さんみたいなキャラでやれたら疲れな
くていいかな(笑
453名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 06:03
>>448 >>451 >>445
 「迷惑信者」って言われるような人は、そう思われてることを自分では
分かってないんだと思うから、自分もひょっとして?、って思ってます。
 「因縁」を強調するとか、迷惑な勧誘をする信者さんの事は、指導者的な
立場の人にはずいぶん前から厳しく言われているようです。
 病気や事故にあった人や、不遇な境遇にある人には、まずねぎらってあげて、
その人に頼りにされるようになってはじめて文字通りの「お救け」といえる
のであって、そうした方面は歴史のある宗教団体の方のほうがよほど取り組
まれてますね。残念ながら、人の弱みにつけこんで勧誘するような人がいる
うちは、「だから新興宗教は」ってネットで書かれても仕方がないと思うし、
『「お救け」っていうのは相手からそう思ってもらってはじめて「お救け」
です』って教えられている基本をかみしめなきゃって思いますね…
 自分が周りの信者さんに言う、っていうのは、自分が言ってどこまで説得力
を持つか疑問だけど、そうなるべくやってみます。
454名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 06:03
>>432
 432さんの伊藤真乗教主のイメージはその写真に集約されちゃうんですよね…
あの写真のイメージから僕が思い浮かべるものっていうのは教主の信徒に向
ける姿勢なんです。
 昭和30年代まで教主はヘビースモーカーで、『煙突管長』とも呼ばれていた
らしい。お寺の守衛室にしょっちゅう顔を出しては、信徒と教えの話をして
おられた。教主夫人も、苑主の立場にいながら、そういう場に出てきてお茶
を振舞い、信徒をねぎらい、「お勝手説法」をしておられた。その頃の教
主夫妻というのは、信徒にとっては近所のおやじさん、おばちゃんみたいな
親しみやすい存在だったようです。教主は、僧侶として高い位にありながら、
ご自分のことを「(心の垢を流す)風呂屋の三助」ですから、って言われて、
信徒の中に分け入りながら、利他大乗を身をもって実践しておられた方なん
です。
 天台の今東光師も、立派な衣を着て高い所から仏の教えを説くことを必ずし
も良しとされていなかった方で、「ふんどし一つで涅槃経を語りたい」と戸
津説法の中で語っておられますが、教主のそういう姿勢に傾倒されたところ
もあったのではないかと思います。
 432さんは宗教に「荘厳端正」をもっぱら求めておられて、そういう
「大衆的」なところに、けれん味を感じられたのかなとも想像するんですが、
求めて行けば荘厳端正は随所にあるし、僕なんかは、そこが真如苑の懐の深
いところだなあと思います。
 だから、あの歌も抵抗なく歌えたな、って思います(^^;

 長くなってすみませんでした。
455名無しさん@1周年:2001/06/28(木) 07:35
真如苑信者になにいっても無駄。
時間の無駄だよ、みなさん。