932 :
プリウス:
議論を続けてきましたが、そろそろ私の結論をまとめたいと思います。
まずこれは何度も言っていますが、その宗教が正しい宗教なのか間違った
宗教なのかを考える時には、「その宗教の教えが正しいとしたら世の中が
どのように説明されるか」「世の中がどのように見えるか」「世の中が
どのように進んで行くか」を考えて見る事が重要だと思います。
ニュートン力学が常識の時代に、相対性理論という新たな学説が出てきた
とき、どのような態度で臨むべきか。相対性理論が正しいとしたら、世界
はどのように説明できるかを考えるでしょう。それと同じだと言う事です。
私の考えでは、そういう視点ですべての宗教を見る事ができたならば、
幸福の科学は群を抜いて正しい宗教だということが、誰の目にも明らかに
なるだろうと考えています。もし、そういうふうに見えないとすると、
「正しいと信じる立場に仮に立って見る」のに失敗していることが原因と
考えられます。要するに「正しいとしたら」と仮定したつもりになっている
だけで、実は疑いの目で見ているということです。色眼鏡で見ているという
ことです。これは、イエスキリストの時代にも全く当てはまることです。
「疑」というのは誠に恐ろしいものだと実感しております。仏陀が六大煩悩
の一つに掲げたのは、まさしくこういうことなのだなぁと痛感いたしました。
科学や哲学に対しては「疑」は必要でしょう。しかし、宗教に対してこの
「疑」の使い方を誤ると大変なことになります。私が使えば、どんなに
正しい宗教でも「おかしい」と言い切る自信がありますよ。あらゆる批判を
ぶつける自信がありますよ。宗教というのはそういうものなのです。
ですから「疑」の立場に立っておかしな宗教に見えたからと言って、間違っ
た宗教とは言えないんです。そこは本当に皆さん気を付けていただきたいと
思います。
ご自身の議論の立脚点を再度見なおされ、公正な立場に立って幸福の科学
を眺め、自らの間違いに気付かれる方が多数出ますことを祈っております。
それでは、またいつかお会いしましょう!