旧約聖書の野蛮な神は去れ@キリスト教

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879Joy
|吐き気を催すような虐殺や拷問、死んだほうがマシと思えるような病にまみれているよ|世界は。 それを人間の罪のせいだとか悪魔の仕業とか言うキリスト教徒に可笑しさを|禁じえないし、深い憤りを感じる。

キリスト教徒がそのような苦しみをまったく体験したことがないかのような決め付けをされています。
江戸時代、島原で煮えたぎるお湯をかけられたキリシタンは、何を思ったのでしょうか?
苦しみの中でなぜこのような目にあうのかというのを問い掛けたでしょう。踏絵を踏めば、助かったものも大勢いたことでしょう。事実、踏絵を踏み、キリシタンであることを隠してむしろ死ぬよりも苦しい隠れを選んだものもいました。そして、それをせずに死んでいったものも大勢います。

皇帝ネロの時代、ローマの放火をキリスト教徒のせいにし、松明代わりに燃やし、また闘技場でショーとしてライオンに襲わせました。なぜ彼らはこんな目にあわないといけなかったのでしょうか?そのような疑問を思わなかったでしょうか?しかしこのような迫害の中で死を選び、そしてそのような光景を目にして、続々とクリスチャンになったものが大勢たわけです。

太平洋戦争中、天皇の名のもとにキリスト教会は迫害を受けなかったでしょうか?
いわれのない罪で投獄され獄死したものも大勢います。何も無心論者だけが獄死したわけではありません。

そして、内戦の続いたブルンジのツチ族とフツ族の対立の中で教会に避難していた人々虐殺されたこともあります。あなたの言葉を返せば、何も無心論者だけが苦しんでいるわけではない。ということです。
今の日本に住むキリスト教徒は何の困難もなく、生ぬるい状況にあるかもしれません。あなたのおっしゃるような部分もあるかもしれません。しかし、民族として共有する歴史観というものと同様、キリスト教徒は迫害の中で、むしろ生き延びてきたという歴史を持っています。
880Joy:2001/04/26(木) 23:17
|時計を造ったのは人間だ。
|その時計が狂ったとき、その時計を非難しても時計に責任はない。
|その程度の性能に造った人間に責任がある。

時計には意思はありません。神が人間を意思を持たないロボットとして作ったのならそのような論法でよいと思います。しかし神は、意思を持ったものとして人間を作りました。
意思を持った完全なものとして作りましたが、その意思を与えるということ自体が、罪を犯すという可能性を否定できなかったとしかいえません。

|不完全な人間を作り過ちを犯した人間をばっさり裁いていく神とは?
|時計が壊れたから捨てると同じ感覚か。
だからこそ、神の御子であるイエスが人類の罪を背負って十字架にかかると信じるのです。