真如苑から、脱会させたい。

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正直なところ、信者さんのあまりの無理解に呆れたので、少し
説明します。
そもそも
>「すべての行為を自らの快感を満たすために行っている」のは
>赤ん坊だけ
この主張自体、考えが非常に浅いと私には思えます。何故か?
表面の行為だけをとっても、赤ん坊は良く泣きます。泣くのは
赤ん坊にとって快感か?いや、泣くという行為そのものは、決し
て快感ではないでしょう。むせたり、沢山汗をかいたりする行為
ですから、単に「快感」を追求するためなら泣く必要はない。
にこにこ笑っている方が良いに違いありません。では何故か?
非常に多くの場合、赤ん坊が泣くのは何かを求めているからです。つまり、泣くことによって大人がそれに注意を喚起され、赤ん坊に
何かをしてやるか、何かを与えたりする。
仮に欲しいものが手に入ったり、自分を不快にしているものが
除去されれば、赤ん坊はいずれ泣き止むでしょう。
つまり、泣くこと自体が快感ではなくて、「将来の快感」を得る
ためにしばしば赤ん坊は泣くわけです。
大人の行動も、泣くことは少ないでしょうが基本的には同じ構造を
持っています。一時の「不快感」を選択することはあっても、そ
れは「時間が経てば、そのことで相対的に良い結果が得られる」と
判断するから、そのときに一見不利益で不快感の伴う行動を選択
しているのです。つまり、これも「将来の自己の欲求充足=快感
を得るための行動」という面では、赤ん坊と同じです。
大人の場合、更に物質的、刹那的な快感でなく、精神的な充足や
自己の価値観の充足ということも「快感」の一つになります。
更に、自己にとっては精神的、物質的な負担が増すだけであっても
それが自分にとって至上の価値ならば、その行為を選択することが
あります。それに従い、価値観(宗教の場合は教義かな)に従っ
た行為を行うことが快感につながるからです。
これが主体の行動という側面から見た「利他行為」の本質です。
客体がどう感じるかという「関係性」はこの後の問題です。