真如苑から、脱会させたい。

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654615
645さん
仰ることがやや判然としないんですが・・・。
>「これこれが利他である」ということの発言の主体が、利他なる行為の
>主体であるか、客体であるかという点をあえて無視しているように感じら
>れてなりません。
私は「敢えて無視している」などというつもりは毛頭ありません。
こういう表現は、明確な根拠なしにはやや無礼な表現に感じられますね。
整理すると、「利他行為を行う主体にとってはそれが純粋に利他行為という
認識であっても、それは事実の一側面を見ているにすぎない」ということを
言いたいのです。
主体と客体という視点の違いでなく、自分にとって経済的なメリットでなく
とも少なくとも無形の価値を得るという点で、利他=利己だと私は考えます。
噛み砕いて言えば、全く自分のことに頓着しないで他人に尽くすことを考える
というのが信者さんのいうところの「利他」の究極でしょうが、それは自分に
とって「大事なもの」の価値が変化したことだとも言えます。
つまり「自分が喜ぶのは、自分がメリットを享受したとき」という心理から
「自分が喜ぶのは、他人がメリットを享受したとき」という心理に変わって
いるということです。いずれも、行為の主体は「そのことで快感を得る自分」
であることに変わりはない。それは貪欲に自らの金銭的欲望などを追求する
姿勢より優れたものであり、そういう境地は貴重かもしれませんが、実は自己
の欲求を満たすと言う点では同じなのです。
私は人間が頭脳と肉体に拘束されている限り、このことからは逃れられない
と思っています。
また、苑でいうところの「利他」については、それが教義からきているだけに
第一に来るべき「相手が本当は何を欲しているか?」という視点から逸脱し
やすいと思います。つまり「利他行」の具体的内容がある程度事前に与えら
れているがゆえに、言葉は悪いながら「掃除や勧誘を利他行と考える」ように
なってしまう。仰るように、行為が本当に他人の役に立っているかは、他人が
判断することであるにもかかわらず。