真如苑から、脱会させたい。

このエントリーをはてなブックマークに追加
615名無しさん@1周年
>お互い同じ言葉を使いながら、指しているものが明らかに食い違って
>るというのがあるから、議論が成り立ってないって感じですね。
そうじゃないんだけどな。まだ完全に整理が出来ていないね。
あなたが今回説明されたようなことは、ほぼ理解している。
それは、あなたも「行為者としての自分と、観察者としての自分」と書かれ
たように、立場の切換えによる意識の変化が必要だということだね。
つまり利他行為を行おうと思ったら「自分」、「他人」という区分自体を
なくさねばならないということだ。言い換えれば「観察者としての自分」と
いう立場を意識せず、行為者としてのみ自分を意識するということでないと、
利他は成立たないということをあなたご自身が述べている。
そういうことだと仮定してみて、このことに反論できますか?
・「観察者としての自分という立場」を自ら否定、棄却することは、まさに
 自分の行為に対する客観性を自ら放棄することではないか?
 「自分を見切る」というが、そうなったときでもまず他人からあなたは
 「別の存在」として認知されている。つまり、あなた自身は「自分は存在
 しない」と意識することに成功したとしても、他人からみてあなたは厳然
 と存在しているだろう。そこで、「観察者」の立場を放棄するということは
 社会において自分の立場に責任を取らないということになりかねないの
 では?
・利他は自ら「意識の切換え」をしなければ「利己」ということになってし
 まう。つまり自らある一定の考え方をとらなくては、利他という思想は
 成立しない。(それは、あなた自身が書いてるね)
 そのような「思考の切換え」の結果有効になるようなものは、真理である
 はずがない。言い換えれば「利他」という考えは、「時には自分を観察者
 の立場において見ているような人(殆どの人がこれには入るだろう。意識
 はせずとも)」には矛盾を持ったもの、欺瞞に映るかもしれない。
 つまり、真理といってもある意識操作のもとにはじめて有効になるものだ。
 あなた自身が、「立場のすりかえ」を行って、自らを無理やりに納得させて
 いるのではないの?