親鸞仏教を見直そう。

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534渡海無理
pe-qさんへ
訳本というものは、原典を参照しつつ読まなければあまり意味がないです。
それにただ訳しただけ、なんておっしゃいますが翻訳という作業は非常に大変なことです。ましてやただ訳すだけ、ということはとてつもない努力が必要です。大抵は自分の「こうでなければならない」とか、余計なはからいが入ってしまって間違った読み方をしてしまうのです。
そして『教行信証』によって親鸞の思想を分析するにはまず『教行信証』そのものに自分で当たるべきなのです。学問仏教だと言われるでしょうが『教行信証』を論じるというのならそれは必要なことなのです。
渡海は残念ながらその翻訳という作業が全く出来ていません。その証拠に、このスレを読めば分かると思いますが渡海の解釈には漢文の常識、あるいは仏教語の常識から逸脱しているものが多いです。逸脱しているから悪いのではありません。新しい発見のためには多少の逸脱も必要だと思います。
そしてそういった場合、普通の人なら何故そのような解釈をするのか、従来の解釈にはどのような間違いがあるのか、ということを可能な限り示そうとします。逆に話される方も「何故そうなるのか」ということを問いかけなければなりません。そうやって対話というものが成り立つのです。
過去に渡海は常識とは異なった発言を連発しています。そしてそれに対して何の説明もしていません。逆にそれはおかしいと思った大勢の人が何故そのように解釈するのだろうかと渡海に問うています。しかし渡海はそれに対し理屈にならないレスを返します。
私はそのような渡海が、親鸞の文献をまともに読めているとは思えません。そしてそうならば、そのような人がどうして『教行信証』を論じなければならないのでしょうか。私はその理由がよく分かりません。
これはpe-qさんに対する質問です。
pe-qさん、返答お願いします。