親鸞仏教を見直そう。

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「教行信証論」の途中ですが、レスいたします。

親鸞の偉大さは、法然の説いた他力念仏行を、更に他力を徹底させたものと
思われます。
なぜならば、法然は1日7万遍の念仏を唱えていた念仏の行者であり、
しかもそのような行の奨励が法然によって浄土での位としては上位の
「上品」に生まれる事を約束する行と考えられている事、そして
このような行によって、仏をまのあたりに見る、いわゆる見仏の体験を
感激を持って記している事などからも、自力の残りかすのようなものが
感じられます。しかし親鸞は42歳の時に、「三部経」千部読という行が、
称名念仏に「不足」の思いを抱く「自力の信心」であって、それが心の
片隅に残っているのだと気付いた、という事を恵信尼は伝えています。

いわゆる「自力」に対する「他力」の救われとしての「念仏」を説いた法然に対して、
「絶対不二の行」、また、「絶対他力」の救われとして、改めて「念仏」を
とらえなおして、宣布したところに、親鸞の偉大さの一つがあると
思われます。「教行信証」は、その事を立証しようとする親鸞の
力作のように思います。