親鸞仏教を見直そう。

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391渡海 難 p02-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp
教行信証論を続けます。

 何をもってか、出世の大事なりと知ることを得るとならば、『大無量寿経』に言わく、今日世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とましますこと、明らかなる鏡、浄き影表裏に暢るがごとし。

 親鸞は、大無量寿経を、真実の教の候補として挙げる。真実の教の候補として挙げることができる理由は何か。大無量寿経には、釈迦が教育事業に乗り出した動機を述べている部分がある。大無量寿経には、その動機に符号する説法が展開している。この二つがあるからである。動機を述べ、しかも動機の実現が展開している経が一時的な仮の教えであれば、釈迦は嘘をついていることになる。大乗経典に嘘が書いてあると考えることは背理である。だから大無量寿経は真実の教である。親鸞はそんな議論を述べている。
 親鸞は僧ではない。無位無冠無名無戒在俗の前科者である。親鸞には独自の仏教を語る資格がない。独自の仏教を語る資格の無い者が、時代の先端を切って新たな主張をするには、釈迦の真意を特定して釈迦の真意を明らかにするという形式を採らざるを得ない。独自の仏教を語る資格があった善導あるいは法然の語り口との基本的な相違である。善導や法然には、独自の仏教を自分から発信する資格があった。独自の仏教を発信する資格がある以上、真実教という概念を持ちだして釈迦の真意を擬制しなければならないという必要性は大きくない。
 大無量寿経に登場する釈迦が、自らの動機を直接述べている部分の記述は長くない。「世に出興する所以は、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」という部分である。しかし親鸞はそこを含めて前後も長々と引用している。動機の記述の前後は、釈迦が説法をするときの雰囲気を描写している。親鸞は、釈迦が説法をするときの雰囲気を描写する大無量寿経の記述に着目してそこを引用し、いささか強引な論法で真実教の補強証拠に援用している。
 親鸞が引用している部分は、古来から五徳現瑞と言われている。五徳とは次のとおりである。住奇徳法、住仏所住、住導師行、住最勝道、行如来徳。順次、検証していこう。
392渡海 難 p48-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/06(火) 10:24
 教行信証論を進めます。

『大無量寿経』に言わく、今日世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とましますこと、明らかなる鏡、浄き影表裏に暢(とお)るがごとし。威容顕曜にして、超絶したまえること無量なり。未だかつて瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。

大無量寿経は、光輝く釈尊を記述している。諸根とは六根を言う。目(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・肌(触覚)・意(感情)、これを六根という。意とは、心臓や胃腸などを言っているのだろう。情動を感じると心臓は鼓動が変化する。ストレスで胃腸などは痛みを感じる。諸根悦予、姿色清浄というのは、六感がシャープに研ぎ澄まされ、全身に清らかさがみなぎっていることを言う。
 魏とは高大という意味だ。魏魏とは、極めて高大ということだ。舞台の上で名優が演技すると、小柄な俳優でも非常に大きく見える。観無量寿経は、阿弥陀仏の大きさを身の丈八十万億那由他由旬であると記述する。那由他由旬というのは、インド的発想スケールの単位だ。とてつもなく巨大ということだ。光顔は光輝く顔という意味だ。顔はその人の意思を表出する。光顔魏魏とは、非常に堂々とした顔立ちが感じられたということだろう。
 浄き影表裏に暢るとは、水鏡を連想すれば話が分かる。昔は金属やガラスの鏡はない。人々は水に顔を映して自分の姿を見た。優れた水鏡は、水を通して水底に自分の姿がくっきりと映る。「影表裏に暢るとは」、影が水底までハッキリと透き通るという意味だろう。我々の言葉で言えば、このとき釈尊先生は裏表無く自らの全てを人々にさらけ出していらっしゃったということだ。
 威容顕曜とは堂々としたご様子だっと言う意味だろう。威容とは姿形という意味だ。顕は現れるという意味、曜は、輝くという意味だ。「超絶したまえること無量なり」とは、最高位という意味だろう。未だかつて瞻覩せずとは、今まで見たことも無いという意味だ。
393渡海 難 p48-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/06(火) 10:26
 大無量寿経の著者の意思と、それを読んでいる親鸞の視点との違いに注目する必要がある。
 親鸞にとってこの記述は、大無量寿経の真実性を証明する傍証的意味がある。釈尊先生は大無量寿経説法の場に、並々ならない最高位の決意を持って臨んでおられる。相手の器を見極めながら、一時的遠回りの教えを便宜的に説くような場合に、そのような決意で臨まれるはずはない。一時的遠回りの教えを便宜的に説くような場合にも関わらず、並々ならない最高位の決意を持って臨んでおられると経典に書けば、経典は嘘を書いていることになる。経典に嘘があると考えることは背理である。だから、この記述も大無量寿経の真実性を証明する傍証的意味がある。親鸞はそう考えているのだろう。
 大無量寿経の著者の意思は別のところにあると考える。著者の意思は、阿難尊者の扱いをどうするかという問題の処理にあると考える。親鸞はこの問題に触れていないが、浄土教ではどうやら阿難尊者の扱いが大きな問題になっていた時代があったうようだ。この問題を抑えておかないと、親鸞の主張と大無量寿経の視点とのズレがはっきりしてこない。ズレがはっきりしなければ、親鸞の主張も分かりにくい。