親鸞仏教を見直そう。

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19渡海 難 p21-dna30yokohamami.kanagawa.ocn.ne.jp
 初めて仏の誓いを聞き始むる人々の、我が身の悪く、心の悪きを思い知りて、この身のようにてはいかが往生せんずると言う人にこそ、煩悩具したる身なれば、わが心の良し悪しをば沙汰せず、迎え給うぞとは申し候え。かく聞きて後、仏を信ぜんと思う心深くなりぬるには、真(まこと)とにこの身をも厭い、流転せんことをも悲しみて、深く誓いをも信じ、阿弥陀仏をも好み申しなんどする人は、基(もと)こそ、心のままにて、悪しきことをも思い、悪しきことをも振る舞いなんどせしかども、今は、左様の心を捨てんと思し召し合わせ給わばこそ、世を厭う記しにても候め。


 仏の誓いを聞き始めた人々は、やがて我が身の愚かさ、心の愚かさが深く思い知らされてくるかも知れません。仏道者の世界には多くの哲人・賢人達が参加しています。仏道者の世界は、歴史的にも多くの哲人・賢人達を輩出してきました。自分のようなこんな愚かな身で、どうしてそのような晴れやかな方々のいらっしゃる世界に、末席であっても加えていただけるでしょうか。同席させていただけるでしょうか。入れていただけるはずがないじゃありませんか。このように思う方が出てきます。そういう方々に対して申し上げているのです。仏道者の世界というのは、様々な思い煩い、悩み苦しみをもった人々のために用意されています。善人か悪人か、そんなことは問題にしません。御参加くだされば大歓迎します。どうぞいらっしゃい。このように仏陀は言っているのです。
 このような話を聞けば、仏陀というものの素晴らしさも見えてくる。仏陀の心に自分も心を任せてみよう。そういう思いにもなってくるものでしょう。我が身のはかなさ、愚かさを真剣に真正面から見据える勇気もでてくるでしょう。「『先生』と念じる者には必ずや真実を明らかにしよう」。こういう真理そのものの普遍的な誓いも見えてくるのではないでしょうか。
 「そうか、それじゃ喜んで南無阿弥陀仏を称えさせていただきましょう」と、そう思って念仏を称える人は、そのまま仏道者の世界に入っていきます。これまでなら、悪い心も起き、悪いこともしてしまっていたかも知れない人も、大きな世界に触れていけば、自ずから古い気持ちも脱皮していくでしょう。仏道者の世界に入ると言うこと。世を厭うとはそういうことを言うのです。