生長の家について語り合いましょう

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361ココナッツ
悟りの瞬間(1)    「生命の實相」20巻P・134より

 わたしは思索を重ね、静思をかさねたけれども安住の境地には達しなかった。
 ある日、わたしは正座合掌瞑目して真理の啓示をうけるべく念じていた。
わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空」
という言葉を思い浮かべた。と、どこからかともなく声が、大波のような低いが
幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。
「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「色即是空」という言葉をつ
づいて思い浮かべた。
 と、突然その大波のような声が答えた。「無より一切を生ず。一切現象は念の
所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無より一切を生ず。有より一切を生ず
と迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、
五つのパンを5千人に分かちてなお余り、『無』より百千億万を引き出してなお
余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。かしこに転現する
と見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、
一切現象無し。なんじの肉体も無し」
 では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、「心もない!」とその声は言
うのだった。今まで、わたしは「心」という得体の知れないかん馬があって、
それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」と
いう宣言によって、わたしは、その「心」のかん馬から實相の大地に降りたのだ
った。
362ココナッツ:2001/03/31(土) 14:37
「心もなければ何も無いのか」とわたしは再びその声の主にたずねた。
 「實相がある!」とその声はハッキリ答えた。
 「無のスガタが實相であるのか。皆空が實相であるのか」とわたしは
尋ねた。
 「無のスガタが實相ではない。皆空が實相ではない。皆空なのは現象
である。五蘊が皆空であるのだ。色受想行識ことごとく空である!」
「空と無とは異なるのではないか」とわたしはたずねた。
 「空と無とは異なると思うな。五蘊皆空であるのに空とは無でないと
思うから躓く。空を無と異なると思い『無ではない』と思うからまた
『五蘊は無いのではないと引っかかるのだ『五蘊は無い』とハッキリ
断ち切ったところに、実相が出て来るのだ。
無いものを無いとしたところに、本当にアルモノが出て来るのだ」
「では、実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。
 「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、
神の心の顕現のみである。これが実相でだ」ここに神というのはむろ
ん「仏」という意味も含んでいた。

「心も無いのが本当ではないか。」
「無い心は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生も
ない、心、仏、衆生三無差別と説く場合には、心もない、仏もない、
衆生もない。衆生を抹殺し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いと
いっさいを抹殺したときに、実相の神、久遠実成の仏が出て来るのだ。


「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのです
か。」
「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの
生まれぬ前から生き通しのい久遠のキリストが生きているのだ。イエ
スの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!今、
ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ!久遠の今だ!
今が復活だ!今を活きよ。」
363ココナッツ:2001/03/31(土) 14:40
私の眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛と満ち漲った。
何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキ
リ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。
わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに
見出したのであった。
 それ以来、心、仏、衆生の三無差別の心というものが本来無いもので
あるということがわたしにハッキリわかった。迷う心も無いから、悟っ
て仏になる心もない。迷う心が進化して悟って仏になると思っていたの
がまちがいであったのである。ただ初めから仏であり、神である「実相
の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだ
けである。浄飯王の王宮を出て、伽耶城を去ること遠からず、菩提樹下
に六年静思して初めて悟りをひらいて仏となったという現象の釈迦牟尼
仏は本来無かったのである。『法華経』の中で、釈迦自身が、
「我実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由他却である」と
言ったその久遠の仏のみが実在であったのである。その久遠の仏が今こ
こに生きているのだ!十字架上に磔けられて、「神よ、神よ、なんぞ我
れを捨て給うや」と哀号したイエスは本来無かったのだ。永遠の神性−
「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストの
みが実在であったのだ。自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母
の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟った
のでもなかったのである。ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、
はじめなき始から仏であった自分であったのだ。