生長の家について語り合いましょう

このエントリーをはてなブックマークに追加
271名無しさん@1周年
明窓浄机 昭和17年 P149
「大東亜戦争が民族戦や国家的利己主義の産物ではなく、眞に世界を救ふところの
益々意義深きもの」   P186 献納軍用機の大功を祈る
○七月二十日のことでした。愈々全国の皆様の御後援御協力を篤うしました陸海軍用
機各一機づつ献納の手続を了したのであります。献納機の名号は陸軍機は建御雷号、
海軍機は潮津霊号と仮に命名して献納されました。恐らくこの通りの名で命名される
だろうとの係の中佐の方の話でした。きっと偉大なる戦功を樹ててくれることだらう
と存じてをります。この軍用機献納に御協力して下さいました全国の誌友に爰より篤く
御礼申上げます。    昭和18年 P217
吾が教を受けたる人達南方にて功績を挙ぐるなり。見よ、シンガポール陥落の直前、
髑髏隊として勇名をとどろかし必死必勝の旗をかかげて突進し、つひに二名を残す
ほか全滅しながら敵陣地を奪取したる勇猛果敢な戦車隊員中、ただ二人生き残つた
其の一人こそは誰あらう家庭光明寮々母宮信子さんのお嬢さんの婿君であつたのだ。
その他無数の奇跡的事実ある由なれども、ここ爰には誌面が許さない。
272名無しさん@1周年:2001/02/20(火) 05:02
明窓浄机  昭和37年 P295
○私が昭和十九年十二月、南京において岡村軍司令官にお目にかゝつたときに、岡村大将
は、副官までも退けて、私と唯二人きりで対談して下さつたが、その時、軍の実情を内密
に私にお話しになつて、「今の日本軍は皇軍じゃないんですよ」と言はれた。そのとき私は
自分の耳を疑ふやうな気持で、「それでは一体“何軍”ですか?」と訊くと、岡村大将は
「日清日露の戦争のときには、日本軍はまことに皇軍と称するにふさはしいやうな軍紀厳粛
な軍隊でございましたが、(後略)」かう言つて岡村軍司令官は憮然として言はれた。
しばらく二人の間に沈黙がつづいた。感慨無量であつた。この話をきいてから、私は現地
の日本軍を「皇軍」として「必勝」づける勇気がなくなつたのである。その翌年正月、
山口市で生長の家講習会があつたとき、私の随行者は吉田国太郎講師であつた。私たちは
泉水に温泉をひいて鰐を飼つてゐる或る旅館に泊つたが、その時、吉田講師をひそかに呼
んで、岡村寧次大将のあの時の述懐を話した。「そしてこれでは日本は敗ける。徳をほろ
ぼしつつあるから」と言つた。淋しい限りであつた。宿舎の二階から見ると冷い氷雨まじ
りの雪が降つて庭も道路もはだらに白くなつてゐた。それを見ながら二人の深い沈黙が続いた。
273名無しさん@1周年:2001/02/20(火) 05:07
(続き)
日本軍の腐敗、天皇の大御心でない軍の当時の実状などは、よほど「聖戦の理想」とかけ
はなれてゐたけれども、それだからと言つて「聖戦の理想」や「天皇陛下」の大御心が
“悪い”と言ふ譯ではない。現象が理想に伴はなかつたのである。“悪い”のは「聖戦
の理想」を貪欲や乱行や暴行で汚した軍の末端の一部である。
大和の国日本 P136
日本国民の増加と、領土面積の狭さと、将来必要な食糧とを睨み合わせて、食糧経済の
観点から支那大陸や南洋へ侵入して行くが如きは、「食わねど高楊枝」と云う「日本的な」
理念とは大凡著しくかけ隔ったものなのである。
P69
一視同仁の神のみ心から御覧になったら、アメリカ兵と雖も神の子である。その神の子で
あるアメリカ兵を出来るだけ沢山殺す方が好いと云うようなそう云う戦争は神の御心では
ない。随って無論、陛下の大御心ではない。随ってそう云う戦争をする日本軍は皇軍では
ない。