親鸞仏教を問う(V)

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 七十歳、八十歳になっても、喜々として竹刀を握る剣士がいる。竹刀を握って相手と対面することが楽しくてたまらない。竹刀を握ると必ず何かを発見する。七十,八十にもなり、何十年間も竹刀を握ってきていたのに、ああそうだったのかとやはり発見がある。
 発見があると子供のように喜々とする。だからこそ、初心者にも深く頭を下げる。初心者以上に頭を下げる。こういう人は、行動から発見があり、発見から確信を貰う。
 どっちが大事か。人生の中では信を固めて行動することも大事だ。でも、これは長続きしない。
 期限を切った目標がハッキリしているときは、長続きしなくてもいい。期限まで続けばいい。そう言うときは信を固めて行動するのもいい。でも、喜々としながら竹刀を握る人にこそ、僕らは学ぶものが多そうだ。

 信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし

 予め疑い迷いの心があることは恐れるに足りない。確信が得られるかどうかは、やってみて発見があるかどうかに関わる。発見があるかどうかは、やってみないと分からない。でも、やってみれば必ず何かの発見があるだろう。発見はやってみないと分からない。
 信心は仏さんからの貰い物。下さる仏さんの胸三寸。いまはちょっと分かんないままにしておいてやろうと向こうさんが思えば、信心は貰えない。行者の方でやきもきしても始まらない。疑心自力の行者であれば、疑心自力の心そのままで称えたらいい。
 焦ることはない。称えていれば早晩信心などは届けられてくる。届けられてこなければ、それは向こうさんの都合と思えばいい。心配する必要はない。