親鸞仏教を問う(V)

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136名無しさん@1周年
 『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした希有の書である。それはその根底に深く抒情を湛えた芸術作品でさへある。
実に親鸞のどの著述に接してもわれわれを先ず打つものはその抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない。
 しかしながら、親鸞の宗教を単に「体験の宗教」と考えることは誤である。宗教を単に体験のことと考えることは、宗教を主観化してしまうことである。宗教は単なる体験の問題ではなく、真理の問題である。
 親鸞の文章には到る処懺悔がある。同時にそこには到る処讃歎がある。懺悔と讃歎と、讃歎と懺悔と、つねに相応じてゐる。自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。
しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。内面性とは何であるか。内面性とは空虚な主観性ではく、却って最も客観的な肉体的ともいひ得る充実である。
超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的であるところに、真の内面性は存するのである。
137名無しさん@1周年:01/09/17 20:31
こちらの寺院に聞法歴ウン十年のおばあちゃんたちが、お参りに、お話を聞きにおいでます。
その時、口々におっしゃいますことは「(我が身を)しらせてもらう」「(仏の恩を)よろこばせてもらう」の二つに集約されるようです。
私は、「二種深信」とはこの二つの言葉に込められている事柄だと思っています。
138名無しさん@1周年:01/09/17 20:32
 ちなみに、私は基本的に「人はだれもがほとけさま」だと思っています。
特別の修行も経験もいらない。ならば、宗教になにか役割がありうるのかといえば、それは、それぞれの心に言葉を与えてくれることだと思います。
心の内を言葉を使って様々に話し合う。他者との違いを認め、己を再び見つめる。それを真宗では「談合」ともうしてまいりました。
今は、あまりいい意味で使われませんがね(笑) ですから宗教用語の使い方の間違いを指摘されることがよくありますが、それはホントは本末転倒だと思うことが、度々あります。
その方がなにを課題として発言していらっしゃるのかを、考えなくてはいけないんでしょうね。私も、人のことは全く言えませんがネ(笑)
139名無しさん@1周年:01/09/17 20:32
 私も、「二種深信(機の深信と法の深信)」がなんなのか、まだ見えていません。
三木清さんの「懺悔と讃歎」なのか。あるいは「絶望と歓喜」とおっしゃっている方もいらしゃいます。
ひよっとして不安定に分裂させられた自己なのか。
 ただ、おばあちゃんたちには追いつきたいなあと、常々思っています。
 親鸞には無常の思想がない。その限りにおいても彼の思想を厭世主義と考へることはできない。
140名無しさん@1周年:01/09/17 20:34
 親鸞においては無常感は罪悪感に変わっている。
自己は単に無常であるのではない。煩悩の具はざることのない凡夫、あらゆる罪を作りつつある悪人である。
親鸞は自己を愚禿と号した。「すでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす」といつてゐる。承元元年、彼の三十五歳のとき、法然ならびにその門下は流罪の難にあつた。
親鸞もその一人として僧侶の資格を奪はれて越後の国府に流された。
かくして、すでに僧にあらず、しかしまた世の生業につかぬゆゑ俗にあらず、かくして禿の字をもつて姓とする親鸞である。
しかも彼はこれに愚の字を加えて自己の号としたのである。愚は愚痴である。すでに禿の字はもと破戒を意味してゐる。
かくして彼が非僧非俗破戒の親鸞と称したことは、彼の信仰の深い体験に基づくのであつて、単に謙遜のごときものではない。それは人間性の深い自覚を打ち割って示したものである。
外には悟りすましたやうに見えても、内には煩悩の絶えることがない。それが人間なのである。
すべては無常と感じつつも、これに執着して尽きることがない。
それが人間なのである。弥陀の本願はかかる罪深き人間の救済であることを聞信してゐる。
141名無しさん@1周年:01/09/17 20:35
 罪悪の意識は如何なる意味を有するか。機の自覚を意味するのである。機とは何であるか。
機とは自覚された人間存在である。かかる自覚的存在を実存と呼ぶならば、機とは人間の実存にほかならない。
自覚とは単に我れが我れを知るということではない。我れはいかにして我れを知ることができるか。
我が我れを知るという場合、知る我れと知られる我れとの分裂がなければならず、かやうに分裂した我れは、その知られる我れとして全体的でなく却って部分的でなければならぬ。
従ってその場合、自覚的な我れよりもむしろ主客未分の、従って無意識的な、無自覚的な我れが、従って知的な、人間的な我れよりも、実践的な、動物的な我れが却って全体的な我れでもあるとも云い得るであらう。
142名無しさん@1周年:01/09/17 20:35
 『大無量寿経』は「時機純熟の真教」なり。末代に生まれた機根の衰えた衆生にとつてまことにふさはしい教えである。
時機相応。聖道自力の教えは機に合わずして教果を収めることができぬ。浄土他力の一法のみ時節と機根に適している。
143名無しさん@一周年:01/09/17 20:36
それでは、少し議論を進めます。
144名無しさん@1周年:01/09/17 20:38
ちょっと、待ってください。
ここで、いったんコマーシャル逝きます。