1 :
名無しさん:
2 :
part1の最後:01/09/03 01:39 ID:HhAT5zWo
975 名前:基主義。 投稿日:01/09/02 15:12 ID:glinjlKY
まぁ結局の所、基教はパリサイなどの立法主義者を本質的には嫌っているし、
仏教は法を作り出し戒律で縛るのを基本とする宗教という事なんだよね。
3 :
part1の最後:01/09/03 01:39 ID:HhAT5zWo
976 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/02 15:52 ID:TRQCQRa.
>>975
>仏教は法を作り出し戒律で縛るのを基本とする宗教という事なんだよね。
仏教は、釈迦が実現した、正覚/涅槃と呼ばれる状況を、
自分自身の上に、自力で実現する為に生まれたものです。
くしくも、上のカキコであるように、
「それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。」
ので、そういう役立たない事はするべきではない、として釈迦が事有るごとに皆に諭していった。
それを集めたものが、「戒律」としてまとまったのです。
ですから、「戒律で縛るのを基本とする宗教」と見えますが、
「涅槃、という目標に到達する為に障害となる、様々な心の動きを、うまく制御する為の助言集」
と考えていただくと良いかと思います。
4 :
part1の最後:01/09/03 01:39 ID:HhAT5zWo
977 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/02 17:29 ID:DYxAz6iY
死んだら終わりのはずがない、そんな事があってはならない。輪廻は有る。なぜなら自己が永遠である為には死んだら終わりでは困るから。
神通は有る。なぜなら前世を思い出したりできないと前世の俺が困るから。不滅のアートマンは有る。なぜなら自己が永遠であるためには何か永遠不滅のものがないといけないから。
解脱することで自己とアートマンは一体となる。なぜなら自己が永遠でないと困るから。
5 :
part1の最後:01/09/03 01:40 ID:HhAT5zWo
978 名前:むもん 投稿日:01/09/02 19:13 ID:ui5q3Hw6
>>976 その通りだと思いますね。
鼻の頭に心を置いて鼻の頭のことしか考えないでおこうとする時、それは3分と
持ちませんね。次々と色々な想念が起きる。これが欲望。
だから、離欲して、欲望から厭離して、欲望を滅尽して、心が寂静にならなけれ
ばならない。そうすることによって神通力が現れる。そして、正覚を得、涅槃に
至るというわけ。
6 :
名無しさん@1周年:01/09/03 02:47 ID:VrVjxZp6
>>972-973 >黒海老さん
> 八斎戒は仏教の戒律です。
> 『ブッダのことば』中村元註釈より
>
> …前掲の五戒にさらに三つの戒を加えて、八斎戒とし、ウポーサタ(布薩)の儀礼の際に
> まもるべきであるという規定が古くから成立していた(スッタニパータ401)。
> ところで最初期の仏教はバラモンの行なうウポーサタは不必要であると考えていた。
これを読む限り、八斎戒は古くから成立していたバラモンの規定である、
と読めるが。
7 :
名無しさん@1周年:01/09/03 03:11 ID:evrKINks
>>974 >黒海老さん
> 形而上学的問題とは以下の[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、
> 人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]の事でしょう。
> これらの問いに対して「有る」と言っても「無い」と言ってもどちらの見解も
> 「独断に陥っているものであり」「涅槃に役立たない」のであるから、
> それよりも「修行によって現実の苦を滅することが大切である」と言うのでしょう。
> これを指して「形而上学的問題を排した」と言うのなら間違いではないと思います。
この『世界は常住か?』などは、釈迦の最も重要な教説ではないか?
『諸々のつくられた事物は、すべて無常である。』と。
また、『人の死後』なども、原始仏典郡にはたくさん出てくる。
> 「マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があ
> ってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また
> 人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活
> が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は
> 死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないと
> いう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はあ
> る。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。」
> (中部経典:毒箭経)
> 「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるか
> どうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]
> に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、
> 見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩み
> をともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、
> 涅槃に役立たない。」
> (中部経典72)
この経典は原始仏典郡を正確に反映していない。
三明を得ていない者が書いたのであろう。
8 :
むもん:01/09/03 09:12 ID:i2EHY6iE
『常見』と『断見』と『中道』については非常に誤解されやすいと思うのです。
『断見』これは死後の世界が無いという意味でこれは否定されます。
『常見』これは死後の世界が有るという意味でこれも否定されます。
では死後の世界は有るのか無いのかどっちだ。と言うことになりますが、
今世は空であって五官に感じるが実在はしないのです。したがって死後
の世界といえども空であって実在しないというわけです。
この世もあの世も空であって実在しないと云っているのです。
そこで仏は『中道』を説く。
この世も十二因縁によって造られており、あの世も十二因縁によって造
られているのでどちらも五官には感じ、有るように見えるが実在はしない。
私はこのように考えています。
9 :
名無しさん@1周年:01/09/03 13:46 ID:MwiN2aNU
>>6 ウポーサタ自体はバラモン教において仏教以前からあり、
仏教ではウポーサタの際「八斎戒を行なうべき」と言う規定を付け加えたと言う事です。
10 :
名無しさん@1周年:01/09/03 14:15 ID:Noi3NIUc
>>9は私でした
>>7 「世界は常住か?」という問いは「世界には終わりがあるのか永遠なのか?」という問いでしょう。
11 :
黒海老:01/09/03 14:25 ID:TNFcJO1g
>>10で、私でしたと言いつつ名無しでは何の事やら分かりませんね
すいませんでした。
12 :
part1:01/09/03 15:43 ID:bCCucdwY
346 名前:BM 投稿日:2001/08/09(木) 00:55
>>338 >常住不変のアートマン(真我)が存在しなければ困る人がいる
>のかな?そうしたものへの執着からの解脱をブッダは説いたの
>だと思うのですが。
本当にその通りなのでしょうね。
13 :
名無しさん@1周年:01/09/03 16:53 ID:OZMf.TsI
キリスト教とは少し違いますが
『神との友情』より
『わたしが必要なものは何もないから、あなたの何も求めないし、欲しないし、要求しない。あなたへのわたしの愛は、無条件、無制限だ。
正しい方法で愛してもそうでなくても、あなた方は天国に戻る。天国に戻らない道などない。他に行くところはないからだ。
だからあなた方の永遠の生命は確実だし、永遠の報酬も保証されている。』
ベストセラーになった『神との対話』の続編なのですが、
『条件付きで愛し、間違った事をしたら裁く神』を解体し、
そもそも人間は神のもとから自由意志でこの世に来て
(絶対的世界では何もかもありのままで完璧だから、不完全性を体験する事もできないし、不完全なこの世がないと愛や善などを具体的に体験する事もできない。泥の中で花をつける蓮のように)
様々な事を体験し、創造し、自分の最良の部分=愛を表現したあと、再び神のもとへと帰るという思想です。
なかなか面白いので、良かったら読んで見て下さい
14 :
班長:01/09/03 17:28 ID:croP3fOM
ククク……
バカ丸出しですね
バカだからね…
あんなもんよ…今の若い者なんて皆…!
欲を満たし終わったら…奴はとりあえず満足して…
こう考えるだろう…来世からがんばろうと…
来世から修行だ…と…!
が……
その考えがまるでダメ……「来世からがんばろう」という発想からは…
どんな芽も吹きはしない……!そのことに二十歳を越えてまだ…わからんのか…!?
来世からがんばるんじゃない…今世…今世だけがんばるんだっ……!
今世をがんばった者……今世をがんばり始めた者にのみ…来世が来るんだよ……!
そういう意味では奴はもうダメ…!終わったよ…!
15 :
黒海老:01/09/03 20:39 ID:Zs8QSu6Y
>まぁ結局の所、基教はパリサイなどの立法主義者を本質的には嫌っているし、
>仏教は法を作り出し戒律で縛るのを基本とする宗教という事なんだよね。
仏教では執着が『苦』の元であるといいます。
人間は執着する。
例えばそれが自分であったり子供であったり財産であったり地位であったりするわけですが、
いずれにしろ無常の真理の前では全て消えゆく。
であるから、執着から離れろと言います。
そして執着を起こす元から離れる事を説く。
それを戒律としたわけです。
16 :
名無しさん@1周年:01/09/04 01:11 ID:vCqr91zs
>>9-10 黒海老さん
> ウポーサタ自体はバラモン教において仏教以前からあり、
> 仏教ではウポーサタの際「八斎戒を行なうべき」と言う規定を付け加えたと言う事です。
しかし、同書のP.288に仏教興起時代のジャイナ教徒のウポーサタが
書いてあるが、斎戒を守る事自体はすでに存在しているようなのだが。
具体的に八戒なのかは書いてないが。
とはいえ、古代ヒンドゥー教を学んだ中で、ウポーサタに出会った事が無いので、
詳しくはよく分からないのが実状である。
> 「世界は常住か?」という問いは「世界には終わりがあるのか永遠なのか?」という問いでしょう。
その解答こそ有名な、『生じたものは滅する!』というのだが。
そして、造られざるものこそ永遠の常住である、と言われる。
17 :
名無しさん@1周年:01/09/05 04:08 ID:Vcpe26ks
>>13 > 『神との友情』より
>
> 『わたしが必要なものは何もないから、あなたの何も求めないし、欲しないし、要求しない。あなたへのわたしの愛は、無条件、無制限だ。
> 正しい方法で愛してもそうでなくても、あなた方は天国に戻る。天国に戻らない道などない。他に行くところはないからだ。
> だからあなた方の永遠の生命は確実だし、永遠の報酬も保証されている。』
魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を、ご存知か?
キリスト教もイスラム教も神の認識を誤っている、と言うのだろうか?
18 :
名無しさん@1周年:01/09/05 04:38 ID:aj7IlORg
天国に行くか行かないかは、神様が判断すること。
的外れなことをしないで生きていけるなら、それがよい。
何に対しても。
剣を取るものは剣を持つものに向かって一方は滅びる。
愛を取るものは愛を持つ者に向かって両方生きる。
そういう単純で深い原則が人を活かすようだから、
救いよりも、愛を考えたほうがいいんじゃない?
キリスト教の愛は、アガペー、フィリア、フィラデルフィア
とか、色々あるようだし。
そうしないと、死んだときに驚くのかもしれない。
参考:ルカ福音書13章26−28節
そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、
また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、
皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが
神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで
泣きわめいて歯ぎしりする。
19 :
むもん:01/09/05 05:36 ID:SVxMuZ2Y
人はその性質のまま天国へ入ることは出来ないのです。そこで、その性質を懺悔
して悔い改めるのです。しかし、そのままそれを悪い性質だと気づかない人がい
ます。その人には懺悔や悔い改めることは出来ません。そこで、その人は地獄へ
行き、苦しみによってその性質を焼き尽くすのです。
だからしきりにイエスキリストは「悔い改めなさい」「悔い改めなさい」と云って
いるのです。
20 :
名無しさん@1周年:01/09/06 11:04 ID:qVtOpDAY
ザンゲって戒と照らし合わせて行なわれるものだと思うのですが、
クリスチャンにとって戒とは何ですか?
---各所からの引用---
「じゃあ全く自由に酒を飲んでいいかというと、そういうわけでもありません。
酒の常習や深酒や酒乱は常識的にも好ましくないのですから、クリスチャン
としてふさわしくないのも当然でしょう。常識的な社会生活を乱すようなこと
は信仰生活の妨げにもなります。」
「映画でも有名なモーセの「十戒」。キリストもそれを聖なる教えとして尊ばれ、
その内容を、「唯一まことの神のみを神とし、愛し、仕えよ」、また「自分だけ
ではなく、隣人を愛せよ」、の二つに集約なさいました。」
「私はある牧師が礼拝のメッセージで、次のように言うのを聞いたことがある。
『姦淫してもいい、殺人してもいい。しかし、これらが益となることはない』
さて、キリストは、「姦淫してもいい。殺人してもいい。」と言われただろうか。
むしろ、「これらの小さな戒めの一つでも破るように教える者は、天の御国に
おいて最も小さな者とされる。」と言われなかっただろうか。」
21 :
名無しさん@1周年:01/09/06 11:33 ID:qVtOpDAY
R・J・ラッシュドゥニー
http://www.kobe-catv.ne.jp/~jesus777/capitalism.html 子どもにも大人に対しても報酬と刑罰という手段を使うことは不健全であるという
のが最近の一般的な意見である。報酬を与えることは勝利者には不健康な動機を与え、
敗北者には心の傷を産み出してしまうと言われる。さらに、刑罰とは復讐以外の何物
でもないと言う。このような前提に立って、ある教育者たちはその他のすべての形の
報酬と刑罰と共に成績をつけるということをも排除しようとしてきた。
報酬と刑罰に対する嫌悪は競争と訓練(discipline)という相互関係を持った概念に
対する攻撃のひとつの形でもある。天国に関する霊的な世界であろうと、良い成績を
得るという学問の世界であろうと、また利益をあげるというビジネスの世界であろう
と報酬と刑罰(罰則)は人々の動機となるのである(詩篇19:11、58:11、
91:8、マタイ5:11他)。これが動機付けとなって競争をし、競争するために
自己訓練、民事法の下での訓練、神の下での訓練という訓練(discipline)が必要と
なる(ヘブル12:1〜11)。そして正しい競争は人格を形成するのだ。(以下略)
新約聖書には次のようにあります。
イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。
偽証してはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。」
仏教の五戒に似ていますね。「酒を飲んではならない」がないけど。