★☆浄土真宗の人いる??☆★ぱぁとU

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853迷い人
よーわからんが、乱暴に言うと。。。
史的釈尊は、インド古来の流行思想である輪廻思想にアンチの立場を取った。
輪廻する主体である<我>があるとすれば、この<我>は、恒常的なのだが、
<我>というものはそもそも<変化>し、非恒常的であるという立場であった。
そもそも仏教は輪廻観の呪縛からの解脱を悟りとしたのではないだろうか。
六道輪廻は、地獄餓鬼畜生修羅人天という場所が実体的にあるのではなく、
そーいう状態があると意味を変え利用した。
(苦しんでいる状態を地獄。本能に支配されている状態を畜生など)

だが、その後仏教に輪廻思想は流入はしている。
特に業報思想との結合は、一種のMCとして機能したのかもしんない。
<まあ、悪いことをしたら地獄落ちだ。信仰しよう。よくいきようってやつだ>

親鸞は機の深信で、<永遠の過去より、常に悟ることなく六道輪廻したからこそ
現に人間をしているのだ。>私の罪悪はあまり深く重いと<自覚>することが、
弥陀を信ずる機縁だと語っているように思う。

ここでは、<輪廻思想>自体が問題なのではなく、あくまで現に生きている私の
<自覚>が問題なのではないかと私などは感ずるが。。

いずれにせよ、輪廻思想を<存在>として実体化して理解するのは、問題がある
と私は思う。利用するにせよ、せめて<状態>として<自覚>の問題としてでは
ないだろうか。。。
カルト諸派は、よく、他者に対して、<堕獄>を実体的に展開しいるように思うが
なんというか。。。。そのカルト性の呪縛はかわいそーにおもう。